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『文中子』に見える劉炫像


王通(584-617)は隋の時代に生きた儒者で、有名な詩人、王勃(650-676)の祖父に当たる人物。その著書、『続六経』は残念ながら亡びましたが、彼の言行録である『文中子中説』(『文中子』『中説』)十巻は、今も伝えられています。四部叢刊本・続古逸叢書本など。

『中説』は、『論語』に似せた構成をとっており、同書の中で王通は「子」「文中子」などと称せられ、弟子たちと問答を展開しています。その内容には明らかな虚偽が含まれており、すべてを実録とみなすことはできません。

しかし、とにもかくにも唐代の初めには、王通の子(王福郊・王福畤の兄弟)の手によって定稿が作られており、『四庫全書総目提要』巻九十一(子部一、儒家類一)に「いわゆる『中説』は、その子の福郊・福畤らが王通の遺した言葉を編纂したものであり、事実でないことを大げさに言ってはいるが、それでも確かにその書物は存在した(所謂『中說』者,其子福郊、福畤等纂述遺言,虛相夸飾,亦實有其書)」というのが正解に近そうです。

この書物には、隋代の名人がしばしば登場していますが、その中に大儒、劉炫(549-617)と「子」(すなわち王通)との問答が、二度見えています。一条は、六経をめぐって。

劉炫見子,談六經。唱其端,終日不竭。子曰:「何其多也」。炫曰:「先儒異同,不可不述也」。子曰:「一以貫之可矣。爾以尼父為多學而識之耶?」炫退,子謂門人曰:「榮華其言,小成其道,難矣哉!」(『中説』巻四,周公篇)

劉炫が子を訪ねてきて、六経を語った。その糸口を語りだして、終日話し続けた。子はおっしゃった、「なんと多弁なことよ」。劉炫はいった、「先儒たちの説の異同については、述べぬわけにはゆかない」。子はおっしゃった、「『一以て之を貫く』(『論語』里仁篇の語)、ということでよいのだ。お主は仲尼がたくさん学んでそれを理解したとでも思うのか?」劉炫が退くと、子は門人に言った、「言葉を華やかにして、小さく自分の道を作り上げるようでは、(大成は)難しいな」。

もう一条は、『易』をめぐって。

劉炫問『易』。子曰:「聖人於『易』,沒身而已,況吾儕乎?」炫曰:「吾談之於朝,無我敵者」。子不答。退謂門人曰:「默而成之,不言而信,存乎德行」。(『中説』巻五,問易篇)

劉炫が『易』について質問した。子はおっしゃった、「聖人の『易』に対する態度は、それに没頭するだけであった。ましてや我々はなおさらだ(実践に没頭するのみ。論じている暇などない)」。劉炫はいった、「私が朝廷で(経書を)語れば、私に匹敵する者などないのだが」。子は答えなかった。(劉炫が)退くと、(子は)門人に言った、「黙って道を完成させ、言わずして信を成し、徳行に示す、だ(それだけだ。語る必要はない。『易』繋辞伝上の語)」。 

王通の生年は、杜淹(?-628)の「文中子世家」(『中説』に附せられた一文)によって、開皇四年(584)とされています。これが正しいとすると、王通は劉炫より、三十五歳も年少であったことになります。

三十五歳も年下の若者と、すでに名声を築きあげていた大儒。二人の間に、このような会話が本当にあったのでしょうか?かなり疑わしいと言わざるをえませんが、しばらく疑問として遺しておきます。

しかし少なくとも、滔々と経を説き続け、ロゴスの力によって聖人の道を明らかにしようとする、劉炫の姿をここにうかがうことができます(「文中子」は、劉炫の弁舌を無意味化する作戦をとっているのですが)。

全面的には信じられないとしても、隋から初唐にかけての一時期、劉炫がどのように見られていたのかを示す一資料には違いありません。

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『経典釈文』の新標点本


『経典釈文』は南朝の経学(『老子』『荘子』を含む)を知る上で不可欠の文献であり、その意義は今さら言うまでもありません。

『経典釈文』の流布本には、徐乾学(1631-1694)の「通志堂経解」本と、盧文弨(1717-1796)の「抱経堂」本の二種があります。両者とも、宋本を影写した、明末の葉林宗の本に基づくそうです。このうち、前者の「通志堂経解」本がより広く読まれています。

中華書局ではその「通志堂経解」本を影印して、さらに黄焯(1902-1984、字は耀先、黄侃の甥)という学者の校勘記をあわせて出版しています。現状では、黄焯の校勘記を参照しつつ「通志堂経解」本を利用するのが最も便利だと思います。

  • 『經典釋文』中華書局、1983年。
  • 黄焯彙校『經典釋文彙校』中華書局、1980年。
  • 黄焯、鄭仁甲編『經典釋文索引』中華書局、1997年。

なお『経典釈文』の体例を示し先行の注釈を総括した「序録」部分については、次の文献を参照することが必須です。

  • 呉承仕『經典釋文序録疏證』中華書局、1984年。

そのほかに、清朝の学者たちが見ることのできなかった宋元逓修本『経典釈文』が清朝の内府に秘蔵されていたのですが、この本は現在、北京の国家図書館に収められており、一九八〇年代に上海古籍出版社から影印されています。できればこれも手もとに備えたいところです。

  • 『經典釋文』上海古籍出版社、1985年。

そのような認識でいたところ、昨年末、『経典釈文』の点校本が出版されました。

  • 張一弓點校『經典釋文』上海古籍出版社、2012年。

よい標点本があれば役に立つはずだと思い、一本、買い求めたのですが、この本はただ国家図書館本を底本とし、「通志堂経解」本を対校本として整理しただけのもので、がっかりしました。『経典釈文』には誤りが多く、黄焯の校勘記なしではほとんど読むに耐えません。黄焯の校勘記を反映していないこの標点本、利用の価値は低いように思います。

一例を挙げましょう。『経典釈文』毛詩音義上(通志堂本の三十四葉裏、点校本の109頁)に「枏也」を釈して「沈云:孫炎稱:荊州曰,揚州曰。重實揚州人,不聞名枏」とありますが、これは「荊州曰,揚州曰」としなければ(黄焯の引く段玉裁の説)、とうてい意味が通りません。梁の博士、沈重が「わたくしは実に揚州の者だが、揚州で(ユズリハを)枏と呼ぶなんて聞いたことがない」と言っているのです。

宰我はなぜ昼寝をしていたのか?


『論語』公冶長篇に、次の一段があります。

宰予晝寢。子曰:「朽木不可雕也,糞土之牆不可杇也。於予與何誅」。
宰予が昼寝をしていた。子はいわれた、「朽ちた木材に雕刻を施すことはできないし、汚い土でできた土壁は塗ることができない。宰予については、責めてもしかたないほどだ」、と。

宰我(宰予)は、孔子の高弟。『論語』先進篇に「德行: 顏淵、閔子騫、冉伯牛、仲弓。言語:宰我、子貢。政事:冉有、季路。文學:子游、子夏」と、「言語」に長けた弟子としてその名が見える、「孔門十哲」の一人なのですが、『論語』の中では数度にわたり孔子の厳しい叱責を受けています。

昼寝をしていた宰我が、孔子から厳しく叱られたという、ただそれだけの話でしょう。しかし、「言語は宰我、子貢」と称せられた宰我がそんな間の抜けたことで叱られるとは思えない、きっとそれにはわけがあったに違いない、という解釈が存在したらしいのです。ずいぶんと、うがった解釈ですが、その説が梁の皇侃『論語義疏』に、一説として見えています。

一家云:與孔子為教,故託迹受責也。故珊琳公曰:「宰予見時后學之徒將有懈廢之心生,故假晝寢以發夫子切磋之教,所謂互為影響者也」。范寧曰:「夫宰我者,升堂四科之流也。豈不免乎晝寢之咎以貽朽糞之譏乎?時無師徒共明勸誘之教,故託夫弊迹以為發起也」。
ある立場によると、こうだ。(宰我は)孔子とともに教えを施そうとして、叱責を受けるという表面上の行いに仮託したのだ、と。だから珊琳公は、「宰予は、後学の者たちに怠慢の心が生じそうなのを見て取り、だから昼寝に仮託して孔子の勉励の教えを喚起したわけであり、いわゆるお互いに響き合う、ということ」、という。また范寧は「宰我といえば孔子の堂に昇り、(徳行、言語、政事、文学の)四科のうちに入る人物。昼寝をして叱られ、朽ちた木材だの汚い土だのと言われて譏りを後世に伝えられるようなことがあろうか。当時、師弟が一緒になって後学を勧誘する教えがなかったので、そこでそういうだめな行いに託して、孔子の教えを引き出したのだ」、という。

宰我は、居眠りをしたかったわけでもないのに、孔子の教えを引き出して後輩たちを戒める目的のために、わざと昼寝をして、孔子に叱られてみせた、というわけです。珊琳公(釋慧琳のことか?)・范寧(4世紀の人)、二人ともその説を唱えています。当時にあっては、受け入れやすい説であったのかもしれません。

実にうがった解釈なのですが、それにはわけがあります。魏晋南北朝時代の学者たちは、「迹」(表面上の事実)の裏には、より深遠な「所以迹」(表面上の事実を引き起こす仕組み)と呼ばれる世界があると考えていました。『荘子』郭象注に基づく考え方です。

同じように、偉人の行いにも、その裏に奥深い理由があると考えたのでしょう。それゆえ、宰我がわざとだめな「迹」を示すことによって孔子の教えを引き出した、という発想も、彼らにとってはそれほど荒唐無稽なものでもなかったように思われます。

『論語疏』の性格(2)


昨日、『論語』八佾篇の「告朔の餼羊」について、邢昺『論語疏』の解釈の一部が、『毛詩正義』の流用であることを述べました。

そこに取り上げた「生け贄のうち、生きているものを餼という(牲生曰餼)」の後、鄭玄注はさらに「礼では、君主は毎月の朔日に廟において告朔を行い、祭りを行い、それを朝享という(禮,人君每月告朔於廟,有祭,謂之朝享)」と続きます。『論語疏』は、その鄭注を解釈しています。

昨日指摘した『論語疏』の一部は『毛詩正義』の襲用でしたが、以下に示す「禮,人君每月告朔於廟,有祭,謂之朝享」の解釈は、『春秋正義』からの襲用です。『春秋正義』巻十九上,文公六年「閏月,不告月,猶朝于廟」注「諸侯每月必告朔、聽政,因朝宗廟。文公以閏非常月,故闕不告朔,怠慢政事。雖朝于廟,則如勿朝,故曰猶。猶者,可止之辭」正義。

両者を比較すると、前者が後者をそのまま襲ったものであることがお分かりいただけると思います。意味の説明はしません。一致していることを確認していただきさえすれば、それで十分だと思います。なお、一致しない部分は青色で強調してあります。

【論語疏】『周禮』大史「頒告朔于邦國」,鄭玄云:「天子頒朔于諸侯,諸侯藏之祖廟。至朔,朝于廟,告而受行之」。云「子貢欲去告朔之餼羊」,是用生羊告於廟,謂之告朔。人君即以此日聽視此朔之政,謂之視朔。十六年:「公四不視朔」。僖五年傳曰:「公既視朔」,是也。視朔者,聽治此月之政,亦謂之聽朔。「玉藻」云:「天子聽朔于南門之外」,是也。其日,又以禮祭於宗廟,謂之朝廟。『周禮』謂之朝享。「司尊彝」云:「追享朝享」,是也。其歲首為之,則謂之朝正。襄二十九年「正月,公在楚」,傳曰:「釋不朝正於廟」,是也。告朔、視朔、聽朔、朝廟、享、朝正,二禮各有三名,同日而為之也。
【春秋正義】『周禮』大史:「頒告朔于邦國」,鄭玄云:「天子頒朔于諸侯,諸侯藏之祖廟。至朔,朝于廟,告而受行之」。『論語』云「子貢欲去告朔之餼羊」,是用特羊告于廟,謂之告朔。人君即以此日聽視此朔之政,謂之視朔。十六年,「公四不視朔」。僖五年傳曰:「公既視朔」,是也。視朔者,聽治此月之政,亦謂之聽朔。「玉藻」云:「天子聽朔於南門之外」,是也。其日,又以禮祭於宗廟,謂之朝廟。『周禮』謂之朝享。「司尊彝」云:「追享朝享」,是也。其歲首為之,則謂之朝正。襄二十九年「正月,公在楚」,傳曰:「釋不朝正于廟」,是也。告朔、視朔、聽朔;朝廟、朝享、朝正,二禮各有三名,同日而為之也。文公以閏非常月,故闕不告朔。告朔之禮大,朝廟之禮小,文公怠慢政事,既不告朔,雖朝于廟,則如勿朝。故書「猶朝于廟」,言「猶」以譏之。

【論語疏】必於月朔為此朔、聽朔之禮者,杜預春秋釋例』曰:「人君者,設官分職,以為民極,遠細事,以全委任之責;縱諸下,以盡知力之用,揔成敗以效能否,執八柄以明誅賞。故自非機事,皆委焉。誠信足以相感,事實盡而不擁,故受位居職者,思效忠善,日夜自進,而無所顧忌也。天下之細事無數,一日二日萬端,人君之明,有所不照;人君之力,有所不堪,則不得不借問近習,有時而用之。如此則六鄉六遂之長,雖躬履此事,躬造此官,當皆移聽於內官,心於左右。政之粃亂,必由此。聖人知其不可,故簡其節,敬其事,因月朔朝廟遷坐正位,會羣吏而聽大政,考其所行而決其煩疑,非徒議將然也,乃所以考已然,又惡其審聽之亂公也。故顯眾以斷之,是以上下交泰,官人以理,萬民以察,天下以治也」。
【春秋正義】必於月朔為此朔、聽朔之禮者,『釋例』曰:「人君者,設官分職,以為民極,遠細事,以全委任之責;縱諸下,以盡知力之用,揔成敗以效能否,執八柄以明誅賞。故自非機事,皆委焉。誠信足以相感事實盡而不擁,故受位居職者,思効忠善,日夜自進,而無所顧忌也。天下之細事無數,一日二日萬端,人君之明,有所不照;人君之力,有所不堪,則不得不借問近習,有時而用之。如此則六鄉六遂之長,雖躬履此事,躬造此官,當皆移聽於內官,心於左右。政之粃亂,必由此。聖人知其不可,故簡其節,敬其事,因月朔朝遷坐正位,會羣吏而聽大政,考其所行而決其煩疑,非徒議將然也,乃所以考已然,又惡其密聽之亂公也。故顯眾以斷之,是以上下交泰,官人以理,萬民以察,天下以治也。文公謂閏非常月,緣以闕禮。傳因所闕而明言典制,雖朝于廟,則如勿朝,故經稱「猶朝于廟也」。經稱「告月」,傳言「告朔」,明告月必以朔也」。

【論語疏】每月之朔,必朝於廟,因聽政事,事敬而禮成,以故告特羊。然則朝廟、朝正、告朔、視朔,皆同日之事,所從言異耳。是言聽朔、朝廟之義也。
【春秋正義】每月之朔,必朝于廟,因聽政事,事敬而禮成,故告以特羊。然則朝廟、朝正、告朔、視朔,皆同日之事,所從言異耳。是言聽朔、朝廟之義也。

【論語疏】「玉藻」說天子朝廟之禮云「聽朔於南門之外」,諸侯「皮弁聽朔於太廟」。鄭玄以為明堂在國之陽,南門之外,謂明堂也。諸侯告朔以特羊,則天子以特牛與。天子用特牛告其帝及其神,配以文王、武王。諸侯用特羊,告太祖而已。杜以明堂與祖廟為一,但明堂是祭天之處,天子告朔,雖杜之義,亦應告人帝。朝享即月祭,是也。「祭法」云:「王立七廟:祖廟曰考廟、王考廟、皇考廟、顯考廟。皆月祭之。二祧享嘗乃止。諸侯立五廟:曰考廟、王考廟、皇考廟。皆月祭之。顯考廟、祖考廟,享嘗乃止」。然則天子告朔於明堂,朝享於五廟;諸侯告朔於大廟,朝享自皇考以下三廟耳。皆先告朔,後朝廟。朝廟小於告朔,文公廢其大而行其小,故『春秋』文公六年經云「閏月不告朔,猶朝于廟」。『公羊傳』曰:「猶者,可止之辭也」。
【春秋正義】「玉藻」說天子之禮云「聽朔於南門之外」,諸侯「皮弁聽朔於大廟」。鄭玄以為明堂在國之陽,南門之外,謂明堂也。諸侯告朔以特羊,則天子以特牛與。天子用特牛告其帝及其神,配以文王、武王。諸侯用特羊,告大祖而已。杜以明堂與祖廟為一,但明堂是祭天之處,天子告朔,雖杜之義,亦應告人帝。朝享即月祭,是也。「祭法」云:「王立七廟:曰考廟、王考廟、皇考廟、顯考廟、祖考廟。皆月祭之。二祧享嘗乃止。諸侯立五廟:曰考廟、王考廟、皇考廟。皆月祭之。顯考廟、祖考廟,享嘗乃止」。然則天子告朔於明堂,朝享於五廟;諸侯告朔於大廟,朝享自皇考以下三廟耳。皆先告朔,後朝廟。朝廟小於告朔,文公廢其大而行其小,故云「猶朝于廟」。『公羊傳』曰:「猶者,可止之辭也」。

【論語疏】天子玄冕以視朔,皮弁以日視朝。諸侯皮弁以聽朔,朝服以日視朝。其閏月則聽朔於明堂闔門左扉,立於其中。聽政於路寢門終月,故於文王在門為閏。
【春秋正義】天子玄冕以視朔,皮弁以日視朝。諸侯皮弁以聽朔,朝服以日視朝。其閏有則聽朔於明堂闔門左扉,立於其中。聽政於路寢門終月,故於文王在門為閏。

この内容は、明らかに『春秋左氏伝』を解釈したものです。『論語疏』では文公についての言及を二箇所、省略していますが、そのせいで文脈が不自然になってしまっています。この文章が劉炫『論語述議』に存在したとは、とても考えられません。

かりに現代の感覚で律するならば、剽窃というべき程度まで、『論語疏』は『春秋正義』を襲っており、そのノリとハサミの跡さえうかがうことができるのです。

『論語疏』の性格(1)


十三経注疏の一つに『論語疏』があります。書物の巻頭には「翰林侍講學士朝請大夫守國子祭酒上柱國賜紫金魚袋臣邢昺等奉勅校定」と題されており、北宋の邢昺(932-1010)が勅を奉じて「校定」したことが知られます。

この『論語疏』には、内容上、『五経正義』と共通する解釈が多く見られます。その一例を紹介しましょう。

魯の朝廷に出仕していた子貢が、月々の朔日に供える羊を省略しようとしたところ、孔子がそれに反対したという有名な話が『論語』八佾篇にあります。「告朔の餼羊」というエピソードです。

子貢が、告朔の礼に用いる供物の羊を廃止しようとした。先生はおっしゃった、「賜(子貢の名)よ、お前は羊をおしむのだな。私は礼の方をおしむよ」と。
子貢欲去告朔之餼羊。子曰:「賜也,爾愛其羊。我愛其禮」。

何晏等が編輯した『論語集解』では、「子貢欲去告朔之餼羊」の部分、鄭玄の注を引いて解釈しています。

生け贄のうち、生きているものを「餼」という。礼では、君主は毎月の朔日に廟において告朔(朔日の報告)を行い、祭りを行い、それを朝享という。魯では文公(在位、前626-609)の時以来、朔日の礼を行わなかった。子貢は告朔の礼が廃止されたのを見たので、供物の羊をやめようと考えたのである。
牲生曰餼。禮,人君每月告朔於廟,有祭,謂之朝享。魯自文公始,不視朔。子貢見其禮廢,故欲去其羊。

邢昺校定の『論語疏』は、注の「牲生曰餼」を次のように疏釈しています。

僖三十三年『左傳』曰:「餼牽竭矣」,餼與牽相對,是牲可牽行,則餼是已殺。殺又非熟,故解者以為「腥曰餼」,謂生肉未煮者也。其實餼亦是生。哀二十四年『左傳』云:「晉師乃還,餼臧石牛」,是以生牛賜之也。及「聘禮」注云:「牲生曰餼」。不與牽相對,故為生也。

大意を説明すると、鄭玄は八佾篇の注では「生きている生け贄を「餼」という」といっているが、それ以外に、加熱していない生け贄の肉を「餼」という説もある。つまり犠牲は殺されて肉になっている。だが『春秋左氏伝』哀公二十四年の記事や『儀礼』聘礼篇の鄭注などを見ると、肉になったものばかりでなく、生きている犠牲もやはり「餼」というのだ、ということです。

この部分、実は『論語疏』独自の説ではありません。そっくり同じ段落が『毛詩正義』に見えるのです。異なる部分だけ、青色で強調しました。

僖三十三年『左傳』曰:「餼牽竭矣」,餼與牽相對,是牲可牽行,則餼是已殺。殺又非熟,故「腥曰餼」,謂生肉未煮者也。既有饔、餼,遂因解牽,使肉之別名,皆盡於此。此與牽、饔相對,故餼為腥。其實餼亦生。哀二十四年『左傳』云:「晉師乃還,餼臧石牛」,是以生牛賜之也。『論語』及「聘礼」注云「牲生曰餼」,不與牽、相對,故為生也。
(『毛詩正義』巻十五、小雅「瓠葉」序「雖有牲牢饔餼」箋「牛羊豕為牲,繫養者曰牢。熟曰饔,腥曰餼,生曰牽」疏)

明らかに『毛詩』小雅「瓠葉」の鄭箋を説明するために必要なことが述べられています。『毛詩正義』の「故知腥曰餼」を、『論語疏』は「故解者以為腥曰餼」と言いかえていますが、これでは「腥曰餼」と言ったのが誰なのかさえ分かりません。

『五経正義』の内容をつまんで『論語』の解釈として仕立て直したものが『論語疏』である、というのがその実態であると思っております。もちろん『疏』独自の解説もあるのですが、あまりうまい説明ではないように思います。

「『論語疏』は、『五経正義』の内容とよく一致し、『五経正義』の内容は多く隋の劉炫に基づく。ゆえに『論語疏』は劉炫の『論語述議』を直接に参照した可能性がある」という先行研究を読んだことがあります。しかし私には信じられません。『毛詩』を説くのと『論語』を説くのとで、劉炫がまったく同じ解釈を付けたとは、とても思えないからです。『毛詩正義』の内容を『論語疏』が襲用したと考えるのが妥当です。

劉炫『論語述議』(佚書)にこの内容は存在しなかったのではないでしょうか。

スタンダート「イエズス会士はコンフューシャニズムを創作しなかった」


ニコラス・スタンダート氏(ルーヴェン・カトリック大学教授)による、ライオネル・ジェンセン氏(ノートルダム大学教授)著『コンフューシャニズムの創作』(デューク大学出版会、1997年)の書評。若い研究者に勧められて読んでみました。原著を読んでいない上に、宣教師関連の資料も言語も皆目分からぬ門外漢ながら、なかなか楽しんで読めました。

「コンフューシャニズム Confucianism」は、しばしば漢語の「儒」「儒教」に対応する英訳語として用いられる語彙ですが、原著は、この語彙がイエズス会士による創作であり、訳語として問題有り、と主張しているようです。「儒」という漢語自体、時代や文脈によってさまざまが意味を持っているのだから、コンフューシャニズムという色づけされた言葉を用いるのはよくない、と。

スタンダート氏は、ジェンセン氏の主張を認めつつも、「コンフューシャニズムという訳語は、17世紀のイエズス会士の創作だ」という彼の説を反駁しています。

スタンダート氏は、17世紀のイエズス会士のテクストに、その語が用いられていないことを指摘します。徐光啓(1562-1633)の「絶佛補儒(キリスト教は仏教を追い払うが、儒教を補う)」という有名な言葉を、宣教師のモンテーロは、どう訳したか。それは、“Idola resecat, Literatorum legem supplet”であって、ここには「儒」に当たる語として“Literatorum legem”、英語で言うなら“law of the literati”(知識人たちの法)が用いられており、ジェンセン氏のいうような“Confucianism”の語は用いられていないではないか。これがスタンダート氏の批判です。またスタンダート氏は、“Confucianism”の語は、19世紀になって用いられるようになった、とも言い添えています。

イエズス会士たちは、「儒」をイタリア語の“la legge de’ letterati”(知識人たちの教え)と呼んだり、ラテン語の“secta”(流派)と呼んだりしていて、固定化した呼び名はなく、「コンフューシャニズムという凝り固まった訳語をイエズス会士が当てた」という事実はまったくなかった、とスタンダート氏はいっています。

また、孔子の英訳はConfuciusで、これはイエズス会士たちのテクストに見え、「孔夫子」の音訳語と考えられていますが、ジェンセン氏は、「当時の中国側の資料では、孔夫子という言い方は一般的でなく、これもイエズス会士の造語」とします。これに対して、スタンダート氏は、イエズス会士たちが当時の中国社会に深く関与して活動を行っていたことを考えると、書面語としてではなく、口語として「孔夫子」の語があったと考えるのが自然、と論じています。

スタンダート氏の議論は、さらに「宣教師たちがどのように儒教をとらえたか」という点に向かいます。当時、イエズス会士は、宗教を「正しい宗教」と「誤った宗教」とに分けたが、儒教については、その二分法の埒外に位置する、文明的、政治的、哲学的なものとしてとらえていた、そのようにいっています。

イエズス会士たちは、コンフューシャニズムという固定観念を創作したのではない。そうではなく、興味深い儒教観を資料にのこしているのだ。この書評を通じて、そのようなことを知りました。
いずれ、ジェンセン氏の原著も、機会を見つけて読んでみたいものです。

  • 書評は、Nicolas Standaert, “The Jesuits Did NOT Manufacture “Confucianism””, East Asian Science, Technology, and Medicine (EASTM), 16, 1999, pp.115-132。
  • 原著は、Lionel Jensen, Manufacturing Confucianism, Durham, NC: Duke Univ. Press, 1997。