カテゴリー別アーカイブ: 写本版本

ごく小さな発見


『詩経』邶風「谷風」の詩に、次の一章があります。海音寺潮五郎の訳(『詩経』中公文庫、1989年)とともに示しましょう。

涇以渭濁  涇は渭を以て濁る

湜湜其沚  湜湜たる其の沚

宴爾新昏  爾の新昏に宴(やす)んじて

不我屑以  我を屑(いさぎよ)しとし以(もち)ゐず

毋逝我梁  我が梁に逝く毋れ

毋發我笱  我が笱を發する毋れ

我躬不閱  我が躬すら閱(い)れられず

遑恤我後  我が後を恤(うれふ)るに遑(いとま)あらんや

世間の人はみんな言ふ

涇は濁つて渭は澄んでゐると

流れが合うたところで見れば

それはさうかも知れないけれど

離してみればそれほどでもない

後妻(うはなり)と二人ならべて見ればこそ

あたしの器量の衰へが

はつきり見えてくるのです

器量は悪うなつたけど

操正しい心があるに

くやしや、それは見てくれず

惜しげもなく捨てられた。

後妻よ、

あたしが苦心して定めたことを かき乱さないで頂戴

苦労して貯へたものを 勝手に費(つか)はないで頂戴

とはいふものの

あたしは捨てられた妻

言つたとて

どうならう!

さて、その第一句「涇以渭濁」に見える「涇」「渭」とは、濁った涇水と清らかな渭水という二つの河川です。涇水と渭水とを比べると、前者がどうしても濁って見える。それが「涇は渭を以て濁る」ということです。

この一句につけられた鄭箋は、通行本(嘉慶二十年江西府学刊本)によると「涇水以有渭,故見渭濁」。しかし、その二句目には、古くから異文があったようです。

  • 「故見渭濁」(『經典釋文』に引く旧本、そして、通行の注疏本を含む多くの版本)
  • 「故見謂濁」(『經典釋文』に引く一本)
  • 「故見其濁」(『毛詩正義』に引く「定本」)
  • 「見其清濁」(『七經孟子考文』に引く一本)

段玉裁の意見(『經韵樓集』卷十二「與諸同志論校書之難」に見えます)によると、「謂濁」と作るものが正しく、他は誤り、との判定です。なお、この考え方は、阮元の『十三經注疏校勘記』にも、ほぼそのまま受け継がれています。

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4行目の下方に「故見其濁」と見える

ところで確認のために、足利学校遺蹟図書館に蔵する南宋刊十行本『毛詩註疏』(汲古書院、1973年、影印本)を見たところ、とても妙なことに気がつきました。影印本なので、確実なことは言いにくいのですが、問題の部分について、擦って文字を消した上で、「其」と手写しているようです。いつか原本を拝見したいものです。

日本の伝えられた写本の『毛詩鄭箋』には、「其」に作るものがあったのも確かで、そういったものによって改めたのか、あるいは『毛詩正義』に引く「定本」によって改めたものか。私は後者ではないか、という気がします。そして、もとの版の字は、おそらく「渭」ではないかと推測します。

最後に、この足利学校本を実見して『七經孟子考文』を書いた、山井鼎のメモ(京都大学人文科学研究所蔵、嘉靖版『十三經注疏』)をお示しします。「足利「渭」作「其」。又一本作「見其清濁」」という書き入れが、そこに見えます。

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天明年間の京都


久しぶりに街に出て古書店をのぞいてみたところ、木版画が目にとまりました。gion1

天明六年(1786)版の『都名所図会』という本から切り離したもののよう。三十枚ほどのうちから、さっそく数枚を選び取り、購入しました。

gionまず第一枚は「祇園會(ぎをんゑ)」。

京都の夏の風物詩である祇園祭の様子を描写したもので、其角の句、「鉾に乗る人のきほひも都哉」が添えられています。

山鉾は、「長刀鉾」のようです。祇園祭山鉾連合会のウェブサイトに詳しい説明があります。

前懸はペルシャ花文様絨毯、ペルシャ絹絨毯(古)、胴懸には中国玉取獅子図絨毯、十華図絨毯、梅樹図絨毯、中東連花葉文様インド絨毯など16世紀~18世紀の稀少な絨毯が用いられていたが、現在はその復元品を使用。

そう言われて版画を眺めてみると、前懸・胴懸とも、確かに立派なものに見えますね。

hyakuman次に第二枚は「長德山知恩寺(ちやうとくさんちをんじ)百萬遍(ひやくまんべん)」。

わたくしの勤務する京都大学の対面に位置する浄土宗の古刹です。

現在では毎年、「秋の古本まつり」が開催されるのは、このお寺の境内です。版画の右端には「北白川通」の表記も見えます。

daigo最後の第三枚は、「上醍醐(かみのだいご)」。

わたくしは醍醐寺(下醍醐)が好きで、このお寺の近隣に住まいしているので、とりわけ親しみがあります。上醍醐には、下醍醐からは山道をたどりつつ小一時間で到着することができますので、子どもを連れて年に数回は登っています。この辺りは変化が少ないので、たいへんに馴染み深い景色です。

なお、平成二十年八月二十四日未明、上醍醐准胝観音堂が落雷により全焼するという、痛ましい出来事がありました。就寝中でしたが、ものすごい音がして目を覚ましたことが、今でも忘れられません。この版画を見ると、その場所は「観音堂地」と書かれているようで、当時も現状と同様、伽藍はなかった模様ですが、醍醐に住む者としては、一日も早い准胝観音堂の再建を願っております。

さて、かくして三枚の版画を購入したわけですが、店主と少し言葉をかわしたところ、「端本で入ってきた『都名所図会』をこうして切り離して売っているんです。揃いのものは本として売ります」とのこと。日頃から典籍に触れている者として、切り離すことにやや抵抗があるのですが、きちんとした考えをお持ちであることを知り、清々しい思いで買うことができました。

なお、この天明六年版の『都名所図会』、国会図書館のウェブサイトから閲覧することができます。デジタルはデジタルとして、本物の木版を飾って眺めることができるのは、ささやかな幸せです。

 

空格ひとつ


光緒二十一年本『墨子閒詁』
光緒二十一年本『墨子閒詁』

名著として知られる、孫詒讓(1848-1908)の『墨子閒詁』。

孫氏は光緒二十一年(1895)、木活字本として本書を出版しました。この版は三百部しか印刷されず(後述する光緒三十三年の孫氏識語に「以聚珍版印成三百部」と見えます)、流布は少ない本です。

墨子閒詁十五卷 目錄一卷 附錄一卷 後語二卷
淸 孫詒讓 撰 光緒二十一年 瑞安孫氏 活字印本

ただ孫氏自身、誤りが多いことを気にしたらしく、後にあらためて木板本を作り、光緒三十三年(1907)の四月にそのための識語を書いています(宣統二年本の總目の後ろに見える)。その木板本は孫氏の亡くなった後、宣統二年(1910)になって出版されたもののようです。

ある研究会で、この光緒二十一年活字本と宣統二年整版本とを比較しました。光緒二十一年本には、たくさんの訂正があります。その多くは誤字をホワイトで消したうえで、毛筆で訂正するか、スタンプを押して訂正するか、あるいは紙を貼り付けて訂正してあります。おそらくこれらは、孫詒讓自身の指示で行われた訂正であろうと想像します。

見たところ、その訂正の結果は宣統二年本によく反映されているようでした。しかし、訂正が反映されていない部分をひとつ見つけました。それは、黄紹箕(1854-1908)の跋文中の次の一節にあります。

備城門以下二十□篇,今亡九篇。(宣統二年本による)

光緒二十一年本黄跋
光緒二十一年本黄跋

光緒二十一年本では、「二十二篇」と誤り、そのうえで下の「二」字に縦の線二本を書き加え、□の形に書き直しています。これは空格であり、光緒二十一年本の訂正のしかたを見ると、衍字を削除する記号(現在の校正でいうトルツメ)であると判断できます。

そうであるならば、改めて版を作る場合には「備城門以下二十篇」とするのが正しい道理です。宣統二年本が、「備城門以下二十□篇」と空格を残したのは小さな瑕疵でありました。

この誤りは、現在もっとも流布している新編諸子集成所収の点校本にも引き継がれています。お手もとの本を一度、ご確認ください。

『説文解字注』影印本、謎の改悪


段注経均楼本03b-28a
早稲田大学蔵、段注経均楼本

段玉裁(1735-1815)の『説文解字注』、嘉慶二十年(1815)の原刻本を手元に置くわけにもゆきませんので、皆さん、普段は影印本をお使いのことと思います。私も台湾芸文印書館版・上海古籍出版社版など、いくつかの影印本を愛用しています。

ここに困ったことがあります。影印本ごとに、内容が違う場合があるのです。影印本は、底本の写真によっているので、原則的に内容は違わないはずですが、修正を加えられた時にはそのかぎりではありません。

今日、仲間と段注の読書会をしたところ、第三篇下「殺」字(その第四の「古文」)の段注の内容に問題があることに気がつきました。ここに写真をお示ししたのは、早稲田大学が公開している原刻本の写真ですが、その第三篇下、二十八葉表の第八行目に「當云從殳從杀」とあります。ところが、影印本によっては、なぜかこの「云」が「去」になっているものがあるのです。

同じ『説文解字注』の影印本を見て議論しているつもりでも、話がかみ合わないので、そのことが発覚しました。

瑣細な事ではありますが、これはちょっとしたミステリーといえましょうか。一概に、台湾版はもとのままで、上海版が改悪してあるというわけでもありません。皆さんもぜひ、ご愛用の『説文解字注』にあたって確かめてみてください。

光緒刊本『東塾讀書記』


広州版『東塾読書記』
広州版『東塾読書記』

近ごろ、陳澧(ちんれい,Chen Li,1810-1882)の『東塾読書記』を読みました。有名な書物ですが、これまで通読してみたことはなかったのです。

著者の陳澧は広東番禺の人。字は蘭甫、号は東塾。道光十二年(1832)の挙人。『東塾読書記』のほか、『声律通考』『切韻考』『漢儒通義』などの著作があります。

数年前、京都大学人文科学研究所に蔵する同書、すなわち光緒年間広州刊『東塾読書記』を調べたことがあります。それを思い出しましたので、その版本の概要を載せておきます。

子部 儒家類 考訂之屬
東塾讀書記二十五卷 佚稿一卷
清 陳澧 撰   光緒中 廣州 刊本  7册
(『東塾讀書記』)原闕卷第十三第十四第十七至第二十第二十二至第二十五
京大人文研 東方 子-II-3-64

本書の巻数は25巻となっていますが、これは陳澧が目録だけ作ったものの、未完に終わった部分を含んだ巻数です。以下の巻については、本書の目録に「未成」とされています。

卷十三「西漢」/卷十四「東漢」/卷十七「晉」/卷十八「南北朝隋」/卷十九「唐五代」/卷二十「宋」/卷二十二「遼金元」/卷二十三「明」/卷二十四「國朝」/卷二十五「通論」

それを除く巻、すなわち完成された巻を以下に示します(「西漢」巻は未完ではありますが、一応、最終冊(第七冊)に収められるという、便宜的な処置になっています)。

  • 卷一「孝經」
  • 卷二「論語」
  • 卷三「孟子」(以上,第一冊)
  • 卷四「易」
  • 卷五「書」
  • 卷六「詩」(以上,第二冊)
  • 卷七「周禮」
  • 卷八「儀禮」
  • 卷九「禮記」(以上,第三冊)
  • 卷十「春秋三傳」
  • 卷十一「小學」(以上,第四冊)
  • 卷十二「諸子書」
  • 卷十五「鄭學」(以上,第五冊)
  • 卷十六「三國」
  • 卷二十一「朱子書」(以上,第六冊)
  • 卷十三「西漢」(未成,第七冊)

この光緒年間刊の広州版は、『東塾読書記』の版本としては最も古いもの。巻首には、同治十年(1871)二月の陳澧の「自述」と、それに対する門人、廖廷相(1842-1897)の案語があります。その廖氏の案語に「(光緒)八年正月二十二日、先生卒、年七十有三。所著『東塾讀書記』、得十二卷、又三卷、已刻成」と見えますので、この本は光緒八年(1882)に陳澧が逝去した後、門人の手によって出版されたものと知られます。

この書物は、考証でもメモでもなく、まるで学生に語りかけるように書かれており、実に活き活きとしています。特に礼と小学の部分の記述に感動しましたが、それはいずれ紹介することといたしましょう。
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『周易集解』宋刊本


田中慶太郎(1880-1951)『羽陵餘蟫』(文求堂書店、1938年)に、唐の李鼎祚『周易集解』の条があり、次にようにいいます。

支那では是書の影宋寫本は稀に傳はつてゐるが宋刊本は無い。ところが昨年神田教授が歐州旅行中、獨逸國で宋刊本を發見せられた。『書誌學』昭和十二年二月號に詳細なる同教授の論文が載せられてある。(p.10)

この宋刊『周易集解』、神田喜一郎(1897‐1984)が1936年、ドイツのベルリンにあった、プロイセン州立図書館(Preußische Staatsbibliothek)で見出したものです。

同館は現在、ベルリン州立図書館(Staatsbibliothek zu Berlin)と名を変えていますが、実はこの図書館に、その『周易集解』は存在していません。戦争に巻き込まれ、長らく行方知れずになっていたそうです。

それが近年、京都大学の高田時雄教授により再発見されました。2009年11月に中国国家図書館が開催した古文献学国際学術研討会にて、「宋刊本『周易集解』的再發現」として発表された内容です。

私はその間の事情を知らずにいたのですが、高田氏の発表を聞いた中国国家図書館の李致忠氏が「唐李鼎祚『周易集解』略考」(『文献』2010年第4期)という論文を書かれ、かえってそれによって状況を理解しました。

それによると、高田氏は2007年2月、その本の巻八・九(一冊)と巻十(一冊)、合わせて二冊を、ポーランドのクラクフにあるヤギェウォ大学のヤギェウォ図書館(Biblioteka Jagiellońska)において再発見なさったとのことです(神田氏が見た時には十巻とも揃っていたとのこと)。第二次世界大戦中の1941年以降、プロイセン州立図書館からは多くの図書が疎開させられたとのことで、この本も転変を経てクラクフに行き着いたものらしく、その経緯は高田氏が詳しく発表なさったはずです。

李氏によると、この本は南宋の嘉定五年(1212)に鮮于申が刻したもの。毛晋(1599‐1659)の旧蔵品で、後に清朝の皇帝の有に帰し円明園にあったものとのこと。ひと目、拝みたいものと思い、ミュンスター大学のミヒャエル・ヘッケルマン氏に頼んで、ヤギェウォ図書館に問い合わせてもらったところ、何とすでに電子化されて公開されてることが分かりました。

まったく驚くべき時代になったものです。ポーランドに蔵されている、毛晋の蔵書印が麗々しく捺された紛うことなき宋刊本を、じっくりとオンラインで鑑賞できるのです。

理想の本


人間がものを書きます。それを集めて編輯すると、ひとつの「書物」になります。こうして世の中にはたくさんの書物が生まれ、そして読まれます。

電子化以前には、その書物は具体的な物体としての姿をとって存在しました。それを「本」と呼びます。手写された「写本」なり、活字印刷された「活版本」なり、何らかの形状をもって書物の内容を載せています。同じ書物について、本がいくつもあるのが普通で、その本ごとに、形ばかりでなく内容が違ったりします。一筋縄ではゆきません。

これが書物と本との区別です。

せっかく何か読むなら、なるべくよいものが読みたい。それが人情でしょう。そこで「よい書物とは何か?」となると、簡単に答えは出ません。「必読書」「おすすめの書物」を紹介するブックガイド、いわば「書物の書物」がたくさん出版されていますが、そこにも答えはなさそうです。読む人間が一様でない以上、よい書物とそうでない書物の区別も難しいことです。推理小説ファンとビジネス書の読者とが、よい書物を議論しても仕方ありません。

一方、「よい本とは?」という疑問には、一応私なりにも答えられそうです。「よい本」に求められるいくつかの条件を考えてみます。中国古典に関心があるので、それを念頭に置いていますが、どんな「本」についても同じことが言えるよう、努力します。

  • 1-1 作者がはっきりしている場合には、作者の考えを忠実に反映していること。
  • 1-2 作者はすでに不明だが、編輯した人物が分かる場合には、編輯した人の考えを忠実に反映していること。
  • 1-3 作者も編輯した人も不明な場合には、歴史上、高評や正統性を得た本であるか、それに近いこと。
  • 2 後世に生じた誤りや改変がないか、もしくは少ないこと。
  • 3 内容が完備していること。
  • 4 読者にとって有益な注釈や参考資料が附録されていること。
  • 5 美しく読みやすいこと。

私が考える「よい本」とは、以上の条件を満たす本です。そういう本ならば、多少高価であっても買って手もとに置きたいと思うのです。「理想の本」といえましょうか。

古典をめぐる現実としては、歴史的なさまざまな経緯があるため、「理想の本」を得ることはまず不可能でしょう。『詩経』には六篇の欠落があるとされ、また『周礼』は「冬官」一篇を欠いており、いずれも完備した本は存在しません。誤りを含まない古典など、想像すらできません。

せいぜい、整理の行き届いた、目に優しい本を選ぶ程度で満足しています。

興味をひく虚言


宮内庁書陵部に北宋版『通典』一部を収蔵しますが、島田翰(1879-1915)は同書を北宋版ではなく、「高麗にて北宋版を覆刻した版」と考えました。もともとこの考え方は、『経籍訪古志』に小島学古(名は尚質、号は宝素。学古はあざな。1797-1849)の説として見え、島田氏がこれをふくらませて「高麗覆北宋版」説を強化したものです。

この「高麗覆北宋版」説に関する再検証が、尾崎康氏「通典の諸版本について」(『斯道文庫論集』14号、1977年)に見えます。

そもそも小島学古の説というのは、お茶の水図書館現蔵『説文正字』、(おそらく宮内庁現蔵の)『御注孝経』、宮内庁現蔵『文中子』(『中説』)、国会図書館現蔵『姓解』、そして宮内庁現蔵『通典』の五書を挙げ、これらにいずれも「高麗國十四葉辛巳歲/藏書大宋建中靖國/元年大遼乾統元年」(双郭長方印、6.6 x 3.6 cm)という印がある事実を根拠として、「紙質、墨色など北宋版とやや異り、朝鮮国で開雕したものか」と推定したものです(尾崎氏論文、p.274)。

この印の存在は、上記の五書が高麗王の旧蔵品であり、韓半島を経由して我が国に入ったことを示すものです。しかし島田翰は、これだけでは「高麗版」の根拠としては、弱いと思ったのではないでしょうか。そこで島田氏は、自分の見た『荀子』と『列子』にも同じ印があると言って証拠の数を増やし、それらの書物がすべて「高麗覆北宋版」である、と主張したのです。

とりわけ面白いのは、自分の見た『列子』の版心には、高麗の府名を含む「南原府摹印」なる文字があったと、島田氏が書いたことです。以下、尾崎氏の論文を引用します。

『列子』も、『古文旧書考』に八巻二冊、川越新井君より収得した高麗覆北宋本として著録され、張湛注の八行二十一字本、宋諱を避けず、両印(引用者注:上記の高麗国十四葉印および「経筵」印)を捺し、巻一第一葉の版心に高麗府名の「南原府摹印」と、また刻工に徐開、趙政の名があるという。

島田翰の指摘のように趙政は『通典』の刻工にもおり、紙質、字様、刀法、体式ともに高麗の覆宋本の様式で、前掲の『孝経』、『姓解』、『通典』、『説文正字』、『中説』、それに次の『傷寒論』もみな高麗覆宋本であるとするが、この本(引用者注:高麗本『列子』)の存在を伝えるものは他にない。

「南原府摹印」の五字は、事実であれば「確是宋建中靖国以前、高麗依宋初刻本而所繙雕」ということにもなろうが、それにしても興味をひく虚言ではある。(p.276)

それ以外にも、島田翰は『播芳続集』にも「経筵」印があると主張しますが、その印自体、確認できません。尾崎氏はねばり強く考証を重ね、内閣文庫蔵本の同書に、印の切りとりらしい跡を見いだされ、島田氏が「切りとって経筵印のものとみせかけたのではないか」と推測されています(p.304)。島田翰の主張の根拠は、かなり複雑に構成されており、検証も容易でないことが知られます。

北宋版『通典』の本文価値が高いという事実の指摘をはじめとし、尾崎氏の論文には実に多様な知見が盛り込まれていますが、ここで詳しく紹介することはできません。その後、尾崎氏のご尽力により、宮内庁蔵の北宋版『通典』が影印され(汲古書院、1980年)、学界を大いに裨益した佳話だけは、ここに書き留めておきたいと思います。

市橋氏献本『儀礼経伝通解』のゆくえ


市橋本『儀礼経伝通解』
市橋本『儀礼経伝通解』

田中慶太郎(1880-1951)の『羽陵餘蟫』(文求堂書店、1938年)に、朱子『儀礼経伝通解』を説明して、次のようにいいます。

東方文化学院東京研究所所蔵に宋刊七行本の完本がある。

これと同版の零本第十七中庸一冊が近時市上に出で某富豪の手に歸した。昌平學校の舊藏で市橋獻本の一である。

市橋長昭獻本三十種は圖書寮尊藏の外、内閣文庫・帝國圖書館に分藏せられてゐるが、この中庸だけは、幕末昌平學校舊藏時代に、民間へ逸出したものであるかと思はれる。珠聯璧合の時節もあらう。 (『羽陵餘蟫』甲部、「儀禮經傳通解」pp.42-43)

文中に見える、市橋氏とは、近江仁正寺藩の藩主、市橋長昭(1773-1814)。昌平坂学問所(昌平黌・昌平学校とも。現在の湯島聖堂)に、三十種の宋版元版を献上したそうです。

そして「某富豪」というのは、安田財閥の祖、安田善次郎(1838-1921)。多く漢籍善本を集めた人物でした。先年、その安田氏の曾孫にあたる安田弘氏が、蔵書11種を東京大学東洋文化研究所に寄贈されましたが、その中に、まさにこの『儀礼経伝通解』巻第十七が見えたのです。なお、文中の東方文化学院東京研究所の蔵書は、現在、東京大学東洋文化研究所に引き継がれております。

安田弘氏の寄贈本について、橋本秀美氏が「安田弘先生捐贈正平本『論語』等十一種」と題して、ウェブ上に記事を書いておられます。そこから、市橋長昭献本の『儀礼経伝通解』巻第十七について引用しておきます。

南宋刊本。東洋文化研究所は全巻揃いの宋本を所蔵しているが、行格はそれと全く一致するものの、同版ではない。江戸時代に市橋氏が孔廟に献上した宋元本三十種の一つで、昌平坂学問所の印がある、由緒あるもの。他の二十九種は、内閣文庫等に現存している。

市橋氏献本のうち、唯一の流出分、『儀礼経伝通解』が、ようやく広く世に知られるようになったわけです。

『儀礼経伝通解』の完本を以前から有してきた東洋文化研究所が、さらに同書の市橋献本、巻17を蔵するにいたったのは、まったく歴史の偶然でしょう。

そして同じく版式を一にする『儀礼経伝通解』の南宋版でありながら、同版ではないことが分かりました。こうして田中氏の時よりも、認識が一歩、進んだのです。彼の言った「珠聯璧合の時節」とは、実は、このことを予言したものであったのかも知れません。

「帯」があったという証拠


「帯」は無用である」と題して、先日、このブログに一文を書きました。現行の『礼記』喪服小記に「惡筓以終喪(女性は粗末な髪飾りを着け、そのまま喪を終える)」とありますが、段玉裁は「惡筓以終喪」というのが正しく、現行本は「筓」字の下に「帶」字を脱している、と主張します。

しかし『礼記子本疏義』によると、同書の著者である皇侃(488-545)、鄭灼(514-581)らが見た『礼記』の経文には、もともと「帶」がなかったらしい、というのが、上記の文章の論点です。

読者の藤田吉秋様が、コメントをお寄せくださり、『經義述聞』巻15「齊衰惡笄」によると、王念孫は「惡筓以終喪」とするのが正しいと考えていた、とご教示くださいました(藤田様ご本人は字を足さぬのが適切とお考えである旨、申し添えます)。王氏は、賈公彦『儀礼疏』の引く「喪服小記」二条と、山井鼎『七経孟子考文』の引く「古本」「足利本」を根拠とし、そのように考えました。

そこでは、「古本」「足利本」が重要な根拠とされているのですが、この両者は、古くから日本に伝わっていた系統の本です。少し一般化して言うなら、この部分、日本の伝本は「惡筓以終喪」と作った、というわけです。気になりましたので、これを確認しておきます。

日本に伝わる『礼記』の古写本として、いくつかの本が知られていますが、いま、簡便にそれらの写真を見られないので、古写本に基づいて本文が作られたと考えられる、古活字本に当たりました。

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谷村文庫本『礼記』

京都大学図書館機構では、一部、善本の写真を公開しており、その中に、『礼記』の古活字本(17世紀初か)二種がありますので、それらを見ました。まず第一は、谷村文庫の本です。

  • 書名       礼記 20巻
  • 文庫名等       谷村文庫
  • 画像の有無   画像あり
  • 冊数       10
  • 年   刊(古活字版)
  • 形態事項       26.7×19.5 (cm)*帙入
  • 写刊の別       刊
  • 請求記号       1-64/ラ/2貴
  • 登録番号       RGTN:763738

そしてもう一種は、清家文庫の本です。

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清家文庫本『礼記』
  • 書名       礼記
  • 文庫名等       清家文庫
  • 画像の有無   画像あり
  • 冊数       10
  • 形態事項       刊
  • 写刊の別       刊
  • 請求記号       1-64/ラ/3貴
  • 登録番号       RGTN:87675

写真版をもとに比較してみたところ、少なくとも、「喪服小記」の該当部分を含む葉は、両者、同版の関係にあるようです。確かに王念孫の主張どおり、両者とも、「惡筓以終喪」と作っています。

『礼記』古活字版の本文を系統的に調べてみたわけではありませんが、わが国に古く伝えられた本の中に(おそらくは遣唐使がもたらした本の中に)、王念孫の考えたような「惡筓以終喪」と作る本があり、古活字版はその本文を受け継いでいる、とはいえそうです。

しかしその事実は、現行本同様に「惡筓以終喪」と作る本がもともとなかった、ということを意味せず、かえって南朝に伝えられた本は、現行本と同然であった、となお推測できます。これは「「帯」は無用である」に書いた通りです。

言い換えると、『礼記正義』の編者、孔穎達の見た『礼記』と、その同時代人たる『儀礼疏』の著者、賈公彦の見た『礼記』とでは、おそらく文字が異なっていたであろう、と考えられるのです。