カテゴリー別アーカイブ: 勉強法

出典と用例の間


中国語の文言で書かれたテクストを精読する場合、私が日常的に行っている注釈について、いささか紹介いたします。

テクストに注釈をつけるという行為は、その注釈によって、テクストについての読者の理解が深まることを目指すべきだというのが私の信条です。そのためには、(1)「言葉に関する注釈」、そして(2)「内容に関する注釈」、この両者が必要でしょう。

(1)「言葉に関する注釈」というのは、注釈の対象となるテクストの言葉を解釈するもので、(a)「典故」、(b)「テクストの作者が踏まえたらしい例」、そして(c)「用例」に分けて考えています。

(a)「典故」(「出典」)というのは、テクストの作者が、読者にも通じせる意図をもって古典の断片を引用することで、たとえば読んでいるテクストに「知命」という語があれば、おそらく『論語』為政篇の「知天命」が出典であろうと一応、想像できます。

(b)「テクストの作者が踏まえたらしい例」というのは、そのテクストに先行する著作をテクストの作者が読んで、その先行著作の語を取って自分のテクストに利用したとみなせるものです。作者が典故とまでは意識していないものを想定しています(典故の場合は、作者のはっきりした意識が存在します)。典故と紛らわしいことがありますが、作者の意図として、わざわざそれを踏まえて、そのことを読者に分からせようとしているとは感じられない場合、出典とは考えず、「踏まえたらしい」程度にとどめた方がよいようです。

これはどうしても作者の意図や想定する読者層を慮る必要がありますので、厳密には(a)(b)の区別がつかないことはたしかにありますし、これについて研究者間で意見が異なることがしばしばあります。その際、(b)と判定するのが良心的だと私は考えます。

(c)「用例」というのは、作者が読んだかどうかを問わず、(i)テクスト撰述よりも前に書かれた著作に見える語、(ii)テクスト撰述と同時代に書かれたと推定される著作に見える語、補助的には(iii)テクスト撰述の後に書かれた著作に見える語です。それらを拾い集め、対象とするテクストの意味に近いものを注釈にしています。(i)は必要なものすべて、(ii)は必要に応じて、という感じで挙げます。虚詞の用法なども、用例を検討することで明らかにできましょう。ただし付け加えると、これについても(b)と(c)の区別がつきづらい場合もあります(作者が読んでしかも踏まえている可能性がある場合は、単なる用例でなく、(b)ということになります)。

(2)「内容に関する注釈」は、制度、地理、背景となる観念など、言葉の表面に直接には現れないことがらについての注釈ですが、ここでは詳しくは述べません。

大体、以上のような区別を念頭に置きつつ注釈をつける時、辞書が力を発揮するのは、(1)の(a)で、部分的には(b)(c)もそうです。おそらく中国語著作と日本語著作とでは違いがあるのですが、中国語の文言文の場合、典故となる語は有限であり、基本的に『漢語大詞典』を見れば分かりますし、『大漢和』でも『辞源』でも分かります。こういった辞書で、(b)が拾えること(あるいは、拾うヒントを得ること)もしばしばです。うるさいことを言えば、かなり変則的な用典(典故を用いる方法のことです)の場合、辞書のみでは解決しないことも附言しておきます。

(b)と(c)とについては、網羅的に例を蒐集する必要がある場合も多く、その時は、以前は索引類、近年では電子的なデータベースが利用されているようです。もちろん後者の方が網羅的に例を拾うことができます。

そもそも、(a)の典故については、辞書を見ずに、あらかじめ知っていることが理想でしょう。そういう意味において、辞書を使うのは便法と言えますが、基本的な古典を語単位ですべて記憶していて、その場で言える人は現在では少ないので(私の知る中では、台湾の陳鴻森先生は稀有なお一人です)、辞書を利用するしかありません。

以上、述べたのは、私が文言文テクストに注釈をつける時の心得ですが、これはある程度、私の読書一般にも通じるものです。どこを自分の頭で考え、どこで辞書を引き、どこでデータベースを使うか。私はこのようにしているのですが、これが他の方に通用するものであるかどうか、これは分かりません。

あえて言いますが、「単なる用例調べ」(つまり(c)のみを調べること)では、言葉を調べる意味は乏しいと個人的に考えています。最近は、データベースを検索して、例を並べて注釈に代えるというような悪習もはびこっているようですが、これは「出典調べ」(つまり(a)のみを調べること)以下です。作者の教養やその背景、そしてその意図を常に意識しつつ読まなければ、書物を読む意味も乏しいと思うのです。

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辞書、引くか引かぬか


吉川幸次郎が狩野直喜から教わったという興味深い辞書の引き方があります。

京都大学の一回生として中国語を学びかけたばかりのころ、私は先生に向かって、中国語の辞書の不備をうったえた。先生は、そのうったえに対しては、ただ、そうだろうね、と簡単に答えられるだけで、別の話をされた。先生が第一高等学校の生徒であったころ、ある外国人の教師—先生はその名をいわれたが、私は忘れた—がいった、はじめての英語の単語に出くわしても、すぐ字引を引くんじゃない。前後の関係からこういう意味だろうと、自分で考えてみる。そのうち別のところで、その単語がまた出て来たら、前に考えた意味を代入してみる。まだ字引は引かない。三度目に出て来たとき、そこにもうまくアプライすれば、もう大丈夫だ。そこでオックスフォードを引くんだと教えてくれた。僕もそうして勉強したよ。(吉川幸次郎「私の信条」、『吉川幸次郎全集』20、筑摩書房、1970。p.60)

辞書を使わずに語義を考えるというのは、一種の自己内対話であろうと思います。「こういう意味だろうか?いや、どうだろうか?」と。それを三度まで繰り返すというのは、面白い勉強法ではありませんか。

たしかに、私もこれまで、そのようにして読んできたような気もします。手もとに辞書がない時などは、いつも意味を想像してきました。その推測がたまたま当たっていれば、これは、実に気分のよいものです。

一方で、辞書を引くのも手堅い方法でしょう。しかし手堅いものであると同時に、先人の智慧を拝借した手軽な便法だという面もあります。また、辞書に依存すると、その言葉にとらわれてしまうこともありましょう。

辞書を引くのか引かないのか。少し立ち止まる習慣をつけたいものです。

古典の本文を比べること


大学院生のころ、研究室の宴会で「『荘子』郭象注を二十回は読んだ」と発言したところ、先生が「それは法螺話に違いない」とおっしゃいます。

修士論文を書いていた時のこと、活字本や版本の影印本を5種類ほど机上に並べて、一字ずつ比較しながら郭象注を読みました。違いがある部分についてはメモを取り、どちらがより妥当なのか、どういう種類の異文なのか、眼球を激しく動かしながら、真剣に考えて『荘子』郭注を読みました。集中的に読むので、一月で一通り読めたと思います。これで5回は読んだと勘定します。

こうして何度も複数の異本を比較しながら読むことで、私は二十回読んだと言ったわけです。実際に目を通しているのですから、嘘とは言えぬものでしょう。

その話を聞いた先生は、「それでは二十回とは言えない」とおっしゃいましたが、私も譲りません。今でも間違ってはいなかったと思っています。

この校書という方法—対校・校勘・校合など、言い方は何でもよいのですが—私は古典をお読みになる皆さんにこれをすすめたいと思っています。自己内対話にうってつけです。「これは甲本が正しいのだろうか?いや、乙本の方が正しいという可能性もあるぞ」という具合に、自問自答しながら読むのです。ただ漫然と読むよりもずっと張り合いがありますし、アイディアも次々湧いてきます。

新しい標点本を買った時など、それを他の伝本と比べたりするのは、今でも楽しいひとときです。

『漢文研究法』


狩野直喜(1868-1947)『漢文研究法』(みすず書房, 1979)は、漢籍の入門書として恰好のもので、わたくしの周りにも多くの愛読者がいます。

構成は以下の通り。

  • 漢文研究法
  • 經史子概要
  • 漢文釋例
  • 解說・索引

白眉は何といっても本書の書名にもなっている「漢文研究法」でしょう。大正三年(1914)8月1日から6日にかけて、「京都帝国大学第五回夏季講演会」において講演されたもので、「中等教育に従事し、漢文の授業を担当さるる方が少なくなかった」らしい、とのこと(本書、狩野直禎氏「解説」に拠ります)。

今から100年前の講演、というわけです。

この講演については、狩野直禎氏「解説」が最も簡にして要を得ています。

『漢文研究法』の大きな部分が目録書と類書の叙述にさかれていること、読者の直ちに気づかれる所であろう。それは汗牛充棟ただならぬ典籍をいかに有効に利用するか、そのためには目録書を見る事が必要であり、又その典籍に書かれた内容を正確に理解するには、中国の詩文作成の特徴をなす典拠を明にせねばならず、そのための手段として類書が要求されるからである。(本書、p.172)

たまに読み返してみるのですが、いつも説明の流暢さに感嘆してしまいます。こういう具合に講義ができれば、どんなによいことか。

浩瀚な典籍につき己の知らんとする事を求む、又其の典籍の価値を知るに尤も必要なるは、典籍の目録に通ずる事なり。……結局目録は吾人に或る書に対する種々の注意を与ふるものにて、縦令ば吾人は其の内容を読まずとも、其の書の大体に就いて智識を得ることが出来る。(本書、p.12)

「目録学は重要」という能書きは、漢学者ならば誰でも知っており、しばしば口にさえする言葉です。しかし、目録を見さえすれば「縦令ば吾人は其の内容を読まずとも、其の書の大体に就いて智識を得ることが出来る」とは、なかなか言えない言葉です。読書に際して実に役立つアドバイスだと感じます。

類書や叢書、訓詁についての説明も同様で、読書に役立つことばかりが書いてあります。

吾輩が書を読みて普通に其字を調べ、又訓詁を知るには『康煕字典』でもよろし。併しあれは極めて出来の悪いものとなつて居るので、少し古典でも読みて、真正に其訓詁を知らんとするには使用すべからず。別によきものあり。即ち阮元の作りし『経籍籑詁』といふものあり。(本書、p.92)

といった様子。このような概説が100年後の今も通用することに驚いてしまいます。もちろん、100年の間にさまざまな歴史的展開があり、認識が変わった部分も多いのでしょうが、わたくしはむしろ変わらぬ部分に驚嘆するのです。

『孝経』朗誦


昨年の秋から、学生と一緒に『孝経』の朗誦をしてきました。中国語で暗誦するのです。日本人にとってたやすいこととは言えませんが、『孝経』を覚えておくと自信も持てますし、何より暗誦の習慣を身につけておけば、さまざまな中国古典も断然親しみやすいものとなるという考えです。

また奇しくも、友人であるまっつんさんが『孝経』の暗誦を目指して努力なさっていることを、彼のブログ「積読日記」で知りました。愉快な一致です。

近年は、インターネットの上にさまざまな教材が満ちあふれています。中国古典の朗誦も少なくありません。『孝経』(今文『孝経』)についても、以下のようなものを見つけましたので、ご紹介します。

http://player.youku.com/embed/XMTM3MzkyMzI0

発音にやや南方のなまりがあるようですが、手本にするには十分だと思います。利用する上でのポイントをいくつかメモしておきます。

・中国の「普通话」と台湾の「國語」とでは漢字の発音が完全には一致せず、特に、声調が異なるものがあります。たとえば、以下のような例があります。

「開宗明義章第一」の「身體髮膚」の「髮」字、もともと中古音では入声ですが、中国では第4声、台湾では第3声で読みます。この朗誦では第3声で読んでいます。

「諸侯章第三」の「高而不危」の「危」字、中国では第1声、台湾では第2声です。この朗誦では第2声で読んでいます。

・「諸侯章第三」の「富貴不離其身」の「離」字、この朗誦では第2声で読んでいますが、第4声で読んでもかまいません(中古の去声です)。

・「卿大夫章第四」の「身無擇行」の「行」字、この朗誦では第2声で読んでいますが、第4声で読むべき字です(「行い」の意味では去声、つまり第4声、で読みます。この朗誦でも第2声と第4声を意識的に区別しています)。「三才章第七」の「民之行也」、「孝治章第八」の「有覺德行」、「聖治章第九」の「行思可樂」、「廣揚名章第十四」の「行成於內」なども同様です。

・「三才章第七」の「示之以好惡」の「好惡」、hàowùと読んでいますが、これでは好き嫌いという意味になってしまいます。善悪の意味なので、hǎoèと読むのが正しいと思います。

・「廣要道章第十二」の「則弟悅」の「弟」字、tìと読んでいるように聞こえますが、dìが適当です。

・「諫爭章第十五」の「爭」字、第1声で読んでいますが、第4声で読むべきところです。本章の「爭」字はすべて同様です。

・「喪親章第十八」の「為之宗廟」の「為」字、第4声で読んでいますが、第2声で読むべきでしょう。

以上、細々と書きましたが、関心をお持ちの方はまずこの朗誦を聞いてみて下さい(ただし、広告がでるので煩わしいかもしれません、ご承知を)。なかなか学のある方の朗誦であるように感じました。

上古音を覚えたい


このところ、中国語史の概説として名高い王力『漢語史稿』(重排本、中華書局、1996年)を読み返しています。その第11章は上古音(漢代以前の漢語の音)の解説で、王氏自身の研究成果にもとづき、合計29部に韻部を分けています。

それぞれの部に、例として二字の熟語、いわゆる「畳韻語」が主として並んでおり、次のように注記されています。

これらの例は二字で連なったもので、記憶の方便のために過ぎない。すべてが連綿字というわけでもない。これらの例によって、諧声符を手がかりに多くの字の韻部を類推できよう。(pp. 74-77)

以前読んだときには目にとまらなかったのですが、つまりこれらの例は、記憶すべきもののようです。たとえば、「流求*lǐɘu gǐɘu」「憂愁*ǐɘu dʒǐɘu」はともに幽部第四、などと覚えてゆけばよいのでしょう。

例には推定音価がついていなかったので、郭錫良『漢字古音手冊』(北京大学出版社、1986年)をもとに、音を書き入れてみました(この手冊は王力氏の学説に依拠しています)。ただし、声調は省略してあります。

自分の学習用のメモであり、本来、人様にお示しするものでもないのですが、備忘のためにここに掲載しておきます。

  • 之部第一 *-ɘ

胚胎*p‘uɘ t‘ɘ 始基*ɕǐɘ kǐɘ 母子*mɘ tsǐɘ 事理*dʒǐɘ lǐɘ 鄙倍*pǐɘ bɘ 紀載*kǐɘ tsɘ 史記*ʃǐɘ kǐɘ

  • 職部第二 *-ɘk

戒備*keɘk bǐɘk 服食*bǐwɘk ȡǐɘk 惑慝*ɣuɘk t‘ɘk 崱屴*dʒɘk lǐɘk

  • 蒸部第三 *-ɘŋ

崩薨*pɘŋ xɘŋ 升登*ɕǐɘŋ tɘŋ  稱懲*ȶ‘ǐɘŋ dǐɘŋ  能勝*nɘŋ ɕǐɘŋ  冰凝*pǐɘŋ ŋǐɘŋ  鄧馮*dɘŋ bǐwɘŋ  蹭蹬*ts‘ɘŋ dɘŋ

  • 幽部第四 *-ɘu

皋陶*kɘu ʎǐɘu 綢繆*dǐɘu mǐɘu 周遭*ȶǐɘu tsɘu 蕭條*siɘu diɘu 流求*lǐɘu gǐɘu 老幼*lɘu iɘu 壽考*ʑǐɘu k‘ɘu 優游*ǐɘu ʎǐɘu 憂愁*ǐɘu dʒǐɘu 椒聊*tsǐɘu liɘu

  • 覺部第五 *-ɘuk

鞠育*kǐɘuk ʎǐɘuk 覆育*p‘ǐɘuk ʎǐɘuk 苜蓿*mǐɘuk sǐɘuk 肅穆*sǐɘuk mǐɘuk

  • 宵部第六 *-au

逍遙*sǐau ʎǐau 招搖*ȶǐau ʎǐau 號咷*ɣau dau 窈窕*iau diau 渺小*mǐau sǐau 夭矯*ǐau kǐau 嫖姚*p‘ǐau ʎǐau 驕傲*kǐau ŋau 高超*kau t‘ǐau

  • 藥部第七 *-auk

確鑿*k‘eauk dzauk 卓犖*teauk leauk 綽約* ȶǐauk ǐauk 芍藥*ʑǐauk ʎǐauk

  • 侯部第八 *-o

傴僂*ǐwo lǐwo 句漏*ko lo 侏儒*ȶǐwo ȵǐwo 須臾*sǐwo ʎǐwo

  • 屋部第九 *-ok

沐浴*mok ʎǐwok 瀆辱*dok ȵǐwok 觳觫*ɣok sok 岳麓*ŋeok lok 剝啄*peok teok

  • 東部第十 *-oŋ

童蒙*doŋ moŋ 朦朧*moŋ loŋ 崆峒*k‘oŋ doŋ 共工*gǐwoŋ koŋ 蔥蘢*ts‘oŋ loŋ 從容*ts‘ǐwoŋ ʎǐwoŋ 洶湧*xǐwoŋ ʎǐwoŋ 邦封*peoŋ pǐwoŋ

  • 魚部第十一 *-ɑ

祖父*tsɑ bǐwɑ 吾予*ŋɑ ʎǐɑ 狐兔*ɣɑ t‘ɑ 吳楚*ŋɑ tʃ‘ǐɑ 葫蘆*ɣɑ lɑ 孤寡*kɑ koɑ 租賦*tsɑ pǐwɑ 補苴*puɑ tsǐɑ 古雅*kɑ ŋeɑ 舒徐* ɕɑ zɑ 居處*kǐɑ ȶ‘ǐɑ 除去*dǐɑ k‘ǐɑ 嗚呼*ɑ xɑ

  • 鐸部第十二 *-ɑk

落魄*lɑk p‘eɑk 廓落*k‘uɑk lɑk 絡繹*lɑk ʎiɑk 赫奕*xeɑk ʎiɑk

  • 陽部第十三 *-ɑŋ

倉庚*ts‘ɑŋ keɑŋ 滄浪* ts‘ɑŋ lɑŋ 螳螂*dɑŋ lɑŋ 兄長*xiwɑŋ tǐɑŋ 卿相*k‘iɑŋ sǐɑŋ 光明*kuɑŋ miɑŋ 剛強*kɑŋ gǐɑŋ 倘佯*t‘ɑŋ ʎǐɑŋ 汪洋*uɑŋ ʎǐɑŋ 蒼茫*ts‘ɑŋ mɑŋ 彷徨*bɑŋ ɣuɑŋ 商量*ɕǐɑŋ lǐɑŋ 景象*kiɑŋ zǐɑŋ

  • 支部第十四 *-e

睥睨*p‘ie ŋie 支解*ȶǐe ke 斯此*sǐe ts‘ie 佳麗*ke lǐe

  • 錫部第十五 *-ek

蜥蜴*siek ʎǐek 辟易* bǐek ʎǐek 滴瀝*tiek liek 策畫*tʃ‘ek ɣwek

  • 耕部第十六 *-eŋ

蜻蜓*tsieŋ dieŋ 精靈*tsǐeŋ lǐeŋ 聲名*ɕǐeŋ mǐeŋ 崢嶸*dʒeŋ ɣoeŋ 丁寧*tieŋ nieŋ 娉婷*p‘ǐeŋ dieŋ 輕盈*k‘ǐeŋ ʎǐeŋ

  • 脂部第十七 *-ei

階陛*kei biei 麂麋*kǐei mǐei 次第*ts‘ǐei diei 指示*ȶǐei ȡǐei

  • 質部第十八 *-et

垤穴*diet ɣiwet 一七*ǐet ts‘ǐet 實質*ȡǐet ȶǐet 吉日*kǐet ȵǐet

  • 真部第十九 *-en

秦晉*dzǐen tsǐen 天淵*t‘ien iwen 神人*ȡǐen ȵǐen 年旬*nien zǐwen 新陳*sǐen dǐen 親信*ts‘ǐen sǐen

  • 微部第廿 *-ɘi

依稀*ǐɘi xǐɘi 徘徊*buɘi ɣuɘi 崔嵬*ts‘uɘi ŋuɘi 虺隤*xǐwɘi duɘi 悲哀*pǐɘi ɘi 瑰瑋*kuɘi ɣǐwɘi 玫瑰*muɘi kuɘi 水火*ɕǐwɘi xuɘi

  • 物部第廿一 *-ɘt

鶻突*ɣuɘt duɘt 密勿*mǐɘt mǐwɘt 鬱律*ǐwɘt lǐwɘt 畏愛*ǐwɘt ɘt

  • 文部第廿二 *-ɘn

晨昏*ʑǐɘn xuɘn 根本*kɘn puɘn 渾沌*ɣuɘn duɘn 悶損*muɘn suɘn 困頓*k‘uɘn tuɘn 逡巡*ts‘ǐwɘn zǐwɘn 紛紜*p‘ǐwɘn ɣǐwɘn 存問*dzuɘn mǐwɘn

  • 歌部第廿三 *-a

羲媧*xǐa koa 綺羅*k‘ǐa la 嵯峨*dza ŋa 蹉跎*ts‘a da 阿那*a na 羈縻*kǐa mǐa

  • 月部第廿四 *-at

豁達*xuat dat 契闊* k‘iat k‘uat 蔽芾*pǐat pǐwat 滅裂*mǐat lǐat 決絕*kiwat dzǐwat 折閱*ȶǐat ʎǐwat 雪月*sǐwat ŋǐwat

  • 寒部第廿五 *-an

丹晚*tan mǐwan 顏面*ŋean mǐan 燕雁*ian ŋean 關鍵*koan gǐan 餐飯*ts‘an bǐwan 寒暄*ɣan xǐwan 完全*ɣuan dzǐwan 片段*p‘ian duan 判斷*puan duan 簡慢*kean mean 閒散*ɣean san 團欒*duan luan 輾轉*tǐan tǐwan 攀援*p‘ean ɣǐwan 贊歎*tsan t‘an 汗漫*ɣan muan 泮喚*p‘uan xuan 燦爛*ts‘an lan 叛亂*buan luan

  • 緝部第廿六 *-ɘp

集合*dzǐɘp ɣɘp 雜沓*dzɘp dɘp 什襲*ʑǐɘp zǐɘp 執拾*ȶǐɘp ʑǐɘp

  • 侵部第廿七 *-ɘm

陰暗*ǐɘm ɘm 深沉*ɕǐɘm dǐɘm 侵尋*ts‘ǐɘm zǐɘm 浸淫*ts‘ǐɘm ʎǐɘm 衾枕*k‘ǐɘm ȶǐɘm 吟諷*ŋǐɘm pǐwɘm 降減*koɘm keɘm 隆冬*lǐɘm tuɘm

  • 葉部第廿八 *-ap

蛺蜨*kiap siap 唼喋*ts‘iap diap 躞蹀*siap diap 涉獵* ʑǐap lǐap

  • 談部第廿九 *-am

沾染*tǐam ȵǐam 瀲灩*lǐam ʎǐam 巉岩*dʒam ŋeam 纔暫*ʃeam dzam

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書物を写す


張舜徽氏『中国文献学』(中州書画社,1982年)の中に、書物を写すことを述べた一章があります。第6編「前人整理文献的具体工作」第1章「鈔写」。写本文化の簡単な紹介、といってよいかもしれません。

その章では、昔の人々が書物を写した故事が紹介されています。たとえば、南斉の沈驎士。八十歳を過ぎて火事にあい蔵書を失った後、燈火のもと、反故紙に小さな字で書物を書き写し、ついに二三千巻の蔵書を築いたそうです(『南斉書』巻54、高逸伝)。

版本が主流になった宋代以降も、書物を写す行為は衰えませんでした。蘇軾が紹介するある老人は、『史記』『漢書』をみずから写し取り、大切に読んでいたといいいます(「李氏山房蔵書記」)。

張氏はさらに、手控えとしての抜粋が、新たな意味を生んだ例をも挙げています。宋の袁枢(1131- 1205)は、『資治通鑑』を読みにくいと感じたため、事柄ごとに同書の内容を分類しなおし、『通鑑紀事本末』という著作をまとめました。本来の動機は、自分が読みやすいノートを作ることでしたが、これが新たな史書のジャンル、「紀事本末体」を創出する結果となり、創造性あふれる大著作となった、と評しています。

ただただ書物を写す「死鈔」から、創造的な鈔写である「活鈔」へと展開した、というのです。

さらに張氏は、「死鈔」の方でさえも大いに有意義である、と付け加えることを忘れてはいません。銭澧(1740-1795)という人の「一を手写することは、十を唱えることに匹敵する」(「通鑑輯略序」)との語を紹介しています。

たまたま最近、孫徳謙『古書讀法略例』(商務印書館,1936年)を読み、その巻4にも「書用鈔読例」という章があり、そこで、古書を書き写すことの効用が述べられていました。孫先生・張先生という二人の文献学者が口をそろえるからには、必ずや功徳があるのでしょう。

そういえば、近頃は手書きのノートすらとっていません。便利さに流されて、いろいろなことを試してみる気持ちを忘れかけていたのかもしれません。『容斎随筆』を書いた宋の洪邁(1123-1202)も、さまざまな書籍から抜粋したノートを作っていたそうですし、清の凌廷堪(17571809)も群経を手写したといいますから、古人にならい、すこし写してみようかとたくらんでおります。

逆説の書


三島由紀夫(1925-1970)は『葉隠』という書物に、傾倒、依存しました。その理由を率直に語った、『葉隠入門』を久々に読みました。以前、これを読んだのは高校生のころであり、当時、その情熱にこそ圧倒されはしたものの、十分には理解できなかったように思います。近頃読み返してみると、彼の知性に驚きました。書物の読み方など、並の学者以上だと思います。

「葉隠」は前にもいったように、あくまでも逆説的な本である。「葉隠」が黒といっているときには、かならずそのうしろに白があるのだ。「葉隠」が「花が赤い。」というときには、「花は白い。」という世論があるのだ。「葉隠」が「こうしてはならない。」というときには、あえてそうしている世相があるのだ。(『葉隠入門』一「現代に生きる「葉隠」」)

世の読者は、あらゆる書物を「額面通り」に受け取りがちです。もちろん、そのように素直に読むべき書物が多いのですが、しかし、素直に読んでは理解できない書物もまた存在します。たとえば『荘子』がそれです。敬首和尚が「『莊子』の書は、諸事をさかさまに云なり。…。文のままには其義通ぜず」というとおりでしょう。

『荘子』の場合、まず世相や人間そのものに対する強烈な違和感があり、そして世相や人間に対する批判が形成されています。しかし、その批判をそのままぶつけるのではなく、「寓言十九、重言十七、巵言日出、和以天倪」(寓言篇)というように、一見、親しみやすいような文章として表現するのです。

読者は、その親しみやすい文章を親しみつつ読むわけです。そうすると、あるとき、「おや?」と疑問を持つ瞬間が訪れる。その疑問は、すなわち「逆説」「さかさま」が引き起こすものでしょう。それをかみ砕いていくと、まず、どうやら「文のまま」に受け取ってはならないのだな、と気づき、さらに進んで、「『荘子』による批判」の正体、そして「『荘子』の抱いていた違和感」へと行き着く、という算段です。

『荘子』がすべてそのように書かれているわけではありませんが、『荘子』という書物を貫く基本的なトーンはそのようなものであろうと思います。

それを応用したのが、私の敬愛する韓愈であり、これまた敬首和尚が「韓文は源(みなも)と『莊子』を祖として悟入す」と言ったのは、炯眼を具備した人ならでは、というところです。多くの人がこのような韓愈の読み方を知らないようなので、以前、「韓愈の排仏論と師道論」(麥谷邦夫編『三教交渉論叢』京都大学人文科学研究所、二〇〇五年)という論文を書いたこともあります。

三島が紹介した『葉隠』は、対談の記録という性質もあり、もちろん、『荘子』や韓文のように練りに練られた表現とは異質です。しかし、同様に世相や人間に対する強い批判の眼が存在しており、「常識やそれに基づく推論と、『葉隠』が説くことが矛盾する」「それに対する気づきを読者に促している」という点において、確かに『葉隠』は逆説の書と言えそうです。

これ以外にも、三島の読書力、すなわち書物を通じた洞察力には驚くことが多々ありました。いずれ、ご紹介したいものです。

日本の若い漢学徒は何をなすべきか


若い日本人が中国古典を研究し、これから職業的な「漢学家 hanxuejia」として立ってゆくには、どのような道が考えられるのか?

「行き着く先は同じであっても、道は一つではない」、『周易』繋辞伝下に「天下同帰而殊途、一致而百慮」と言うのは、確かに学問についても当てはまる至言ではありますが、それにしても、一つの標準的な学び方が提示されていない現状は、混乱しているように思えます。

本来、学習法などという重いものは、軽々に示すべきではありませんが、国際漢学の世界の中で、日本の若い学者が重視されていない現状を鑑みると、早い段階から目標を設定し、それを次々に達成してゆく必要がある、と、焦燥を感じております。 私なりにその方途を考えてみましたので、同道の皆様からのご批判をいただければ幸いです。

なお、漢学を吉川幸次郎にならって「ことば」の学問と「こと」の学問に分けるとすると(詳しくは吉川幸次郎『読書の学』をお読みください)、私の示したモデルは前者に偏っています。それゆえ、「こと」の学問に近い、たとえば歴史学などの場合、それほどまでに漢語を重視し、その修得に時間を割く必要はないのかも知れません。

それでも、「中国語くらいできないと、これからは誰にも相手にされない時代が来る、いや、すでに来ている」ということは、歴史学を学ぶ若い人にも知っておいてもらいたいと思います。

基礎段階(大学学部相当)

  1. 現代漢語を学ぶ/初めは言語教育の専門家に習うこと。それ以降も、外国人である以上、生涯にわたる研鑽が必要です。
  2. 現代漢語を用いて、基礎的な古典を暗誦する/私の方法は、「文言基礎」に示しました。

出発段階(卒業論文相当)

  1. 自分が研究対象とする古典を決める/自分自身で納得のゆく対象を選ぶ必要があります。「古典」については、適宜、ご自身の対象に即して「翻訳」してお考えください。
  2. 古典に接する方向性を決める/周りの人のやり方を批判的に見ながら、自分に合う方向を大づかみに見つけてください。
  3. 研究の必要に応じて、他の言語(漢語の方言を含め)を習得しておく/必要なものは、早い段階で習得した方がよいでしょう。英語の学習を中断するのも、危険です。

習熟段階(修士課程・修士論文相当)

  1. 日本近現代の漢学が蓄積した成果を学ぶ/日本人であることの利点を最大限に活かし、日本漢学の成果を十分に吸収すべきです。国際的に認められるために、日本の学説史を的確に把握することは不可欠です。定期的に、研究史を自分なりにまとめて文章化する練習をしておきましょう。
  2. 中国近現代の学界が蓄積した成果を学ぶ/中国の学者はもちろん、欧米の学者たちと議論するにも、中国の近現代学術を十分に理解することが必要です。定期的に、研究史を自分なりにまとめて文章化する練習をしておきましょう。できれば、中国語で。
  3. 中国の前近代の研究成果を学ぶ/特に古典学に関して言えば、前近代の成果の習得に十分に意を配るべきです。
  4. 欧米の研究成果を学ぶ/分野によりますが、概して、欧米の研究を無視・軽視するのは愚かな選択です。定期的に、研究史を自分なりにまとめて文章化する練習をしておきましょう。できれば、英語で。

研究段階(博士課程以降相当)

  1. 自分の方法論を練り直す/自分が絶対に負けないという土俵を設定して勝負するのが理想ですから、世界中にいる競合しうる相手に対して有利に振る舞えるよう、戦略的に考える必要があります。
  2. 中国か台湾に留学する/講義を受ける、というだけでなく、お互いに信頼関係を築き、生涯にわたる人間関係を形成します。「中国語を学びに」という目的を言う人がいますが、それではスタート時点で出遅れていますので、漢語はいちおう習得してから留学した方がよいです(学部時の語学の不勉強は、かなり響いてきますよ)。
  3. 自分の研究を遂行するために必要な古典の領域を明確にし、資料を周到に蒐集・整理する/領域はなるべく広く(核心が曖昧にならぬ程度に)、資料は周到に。日本人の資料操作のうまさは、世界の漢学者の認めるところですから、資料の蒐集と整理に関して手を抜くことは許されません。
  4. 自分の研究を遂行するために必要なそれらの古典を読む/ここが最も重要です。読みが浅ければ、何をやっても意味がありません。
  5. 論文・口頭発表などの形式を通じて研究を表現、他者からの批評を受ける/アウトプットです。以上のことがクリアできていれば、難しいことではありませんが、文章を書く練習は、常々しておくべきです。また、中国語でも論文を書き、研究発表できるように、訓練を積んでおく必要があります。批評はフィードバックのために。

これくらいこなすのが当たり前になれば、「日本の漢学はもう終わった」と言われなくなるのではないでしょうか。

なお、現在すでに功成り名遂げていらっしゃる多くの日本人学者は、たとえ中国語が流暢でなくとも許容されていますが、その許容も若い世代に対しては、もう適用されないことを覚悟すべきです。時代はすでに変わりました。

個人的な学習の目標


一年の初めに抱負を述べるようなことを、これまで一度もしたことがありません。しかし、思い立った時に、達成したいと願う目標を明らかにしておくのは、まんざら無意味ではないかも知れない。そこで、この半年から一年くらいの間に達成したいと考えていることを箇条書きにしてみます。

  1. 『老子』を暗誦する。ずっと前から朗読を続けていますが、憶えては忘れ、憶えては忘れ、という具合ですから、温め直す、ということで。
  2. 『論語』を暗誦する。これも同様に、繰り返しです。
  3. 『詩経』を通読する。以前に志していた全篇暗誦はあきらめましたが、数回は通読したいと思います。
  4. 『易』を通読する。なるべく理解が深まるように。王弼でも見ながら。
  5. 『説文解字』を通読する。「学退筆談」でも取り上げてゆきます。
  6. 『荘子』を通読する。何度も通読していますが、おりにふれて読み直すつもりです。
  7. 「十三経」に一通り目を通す。自分の無知と向き合う意味で。
  8. 『新華字典』を読み終わる。今、Mあたりです、あとふた月くらいで何とか。

仕事とは別に、以上の学習を達成したいものです。私の人生設計によると、これくらいは三十代のうちにすべて終えて、次の段階に進んでいたはずなのですが、なぜか遅れています。

人生、思うようにいかないものです。このあたりで辻褄を合わせておく必要がありますね。

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