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呉人たちのソウルフード


昨年12月に南京を訪問したおり、南京大学歴史系の張学鋒教授にご当地の考古を説明していただいたことは、南朝文化に関心を寄せるわたくしにとっては、たいへんよい経験となりました。南朝文化は、まさに建康、すなわち現在の南京に花開いたものであり、その南京の歴史的変遷に最もお詳しい張先生に案内していただいたのですから。

張先生は、京都大学大学院文学研究科の博士課程を修了された京都大学の博士でいらっしゃいますから、以前にもお目にかかっていたのですが、今回、こうして親しく案内していただき、教えを受けることができたのは幸いでした。さらに最近、ご著書『漢唐考古與歴史研究』を送っていただきました。

《汉唐考古与历史研究》
张学锋著
生活・讀書・新知三联书店,2013年1月,北京第1版,南京大学史学丛书

25篇ほど収録された論文のうち、数篇を読ませていただきました。博士論文『魏晋租調制研究』の内容を含む、重厚な研究です。この研究書の紹介は他の機会に譲りますが、その第一篇「菰菜、莼羹、鲈鱼膾与吴人的乡思」が深く印象にのこりましたので少しメモしておきます。

呉が晋に併呑されたのは280年のこと。その後、呉人の張翰は晋の洛陽に出向いて斉王、司馬冏に仕えていたのですが、秋風が立つ頃、「菰菜、蓴羹、鱸魚膾」といった江南の味を思い出し、北地を去って故郷に戻って行った。そういう話が『晋書』巻92、文苑伝に伝えられています。

翰因見秋風起,乃思吳中菰菜、蓴羹、鱸魚膾,曰:「人生貴得適志,何能羈宦數千里以要名爵乎!」遂命駕而歸。

「菰菜」は、マコモダケ。「菰」、すなわちマコモは『礼記』にも見える古代人の食した穀物ですが、江南地域では栽培もしていたらしい、と本論文に見えます。張翰のいう「菰菜」は、中文でいう「菰黑粉菌」(Ustilago esculenta)なる菌が、マコモの新芽に寄生して肥大化した、いわゆるマコモダケ。天ぷらや炒め物として食する、秋の味覚です。これが呉人のソウルフードの第一。

「蓴羹(蒓羹)」は、ジュンサイのスープであり、かの陸機も「千里蒓羹」を懐かしんだそうで(『晋書』陸機伝)、特に千里湖(江蘇省溧陽にあった湖)のものが有名であった、とのこと。ジュンサイの汁といえば、日本人にもなじみのある味ですが、鰹出汁ではなく雷魚(カムルチー)のスープで食するのが呉の食し方。本論文によると、今でもこの地方の名菜であるそうです。これが第二。

「鱸魚膾」とは、スズキの細作りかと思いきや、この「鱸魚」は張氏によると、スズキ(スズキ目スズキ科)とは別種の「塘鱧魚」(Eleotridae)とのこと、すると和名はカワアナゴ(スズキ目カワアナゴ科)に当たります。写真を見るとハゼに似て扁平で、20-25cmほどとスズキよりも小型です。この魚、中国では宋代以降、生食しなくなったと、この論文に書いてあります。これが第三の味です。

なお川那部浩哉氏によると、この「鱸魚」は「カジカの仲間のヤマノカミなのだ。この種は日本列島では、有明海とその支湾の諫早湾に注ぐ川にだけ分布し、春に川に溯り、秋に海に下って産卵する」(『魚々食紀』平凡社、2000年、平凡社新書、p.27)とのこと。カワアナゴかヤマノカミ(スズキ目カジカ科)か、さてどちらが正解なのか、ただちには答えが出ませんが、じっくり考えてみます。

これらの食はただ単に江南の郷土料理であるというにとどまらず、南人が北人に対して抱く複雑な感情とともに語られているのだと、張氏はいいます。ちょうど、張翰が北地にあって秋風に感じ思い出したのが、まさにこれらの食事であったように。江南の人の抱いていた細やかな感情が、丁寧に読み取られています。

本書「後記」では、この論文は若い頃の習作にすぎない、と謙遜なさっていますが、わたくしはたいへん楽しく読ませてもらいました。

『捜神記』か『霊鬼志』か


先駆的な蠱の研究として、オランダのシノロジスト、デ・ホロート(1854-1921)のものがあります。

Jan Jakob Maria de Groot,

The Religious System of China: its ancient forms, evolution, history and present aspect, manners, customs and social institutions connected therewith,

Volume V, Book II, Part III, Chapter II, “Sorcery by Means of Small Reptiles and Insects”, pp. 826-869,

Leiden, E. J. Brill, 1907

同書には、経書や『漢書』の巫蠱関連資料など、いくつかの重要な史料が英訳の上、紹介されていますが、その一つに『捜神記』の「滎陽郡有一家」からはじまる一条があります。いま、汪紹楹校注『搜神記』巻十二(中華書局、1979年)から、それを引きます。

滎陽郡有一家,姓廖,其家累世為蠱,以此致富。後取新婦,不以此語之。遇家人咸出,唯此婦守舍。忽見屋中大缸,婦試發之,見有大蛇,婦乃作湯,灌殺之。及家人歸,婦具白其事,舉家驚惋。未幾,其家疾病,死亡略盡。(汪紹楹校注『搜神記』p. 158)

デ・ホロートはこれに次のような訳を与えています。

In the Yung-yang principality (in the present province of Honan) there lived a family of the Liao tribe, breeding of ku. Afterwards one of its members married a bride, whom they did not tell about those practices. Once when they had all gone out, leaving her alone to take care of the house, her eyes fell upon a large vase in one of the rooms. She raised the cover, and seeing a big snake in the vase, boiled some water, which she poured into it to kill the beast. On the return of the family she told them what she had done, thereby throwing them into fright and sorrow. Not long after this they all died to a man of contagious disease. (p. 846)

この史料の内容がなかなか興味深いため、後の研究でも、『捜神記』の蠱に関する一節として必ず参照されるものです。

ところで近年、『捜神記』の新たな校本が出版されました。

『新輯搜神記 新輯搜神後記』

干寶撰『搜神記』、李劍國輯校/陶潛撰搜神、李劍國輯校

中華書局、2007年、古體小説叢刊

李氏の新輯本は、津逮秘書本などの二十巻本『捜神記』を編輯し直し、三十巻に再編成してあります。李氏は、二十巻本は干宝の著作そのものでなく、後世の編輯物と見るらしく、二十巻本の内容の少なくない部分が削除されています(『新輯搜神記 新輯搜神後記』下冊、pp. 723-764が、新本と旧本の対照表になっています。さらに削除したものも集めて考証してあります)。

先に挙げた「滎陽郡有一家」からはじまる一条も、削除されたものの一つです。『太平御覧』巻七百四十二、疾病部五、「蠱」にこの一条を引くのですが、『捜神記』としてではなく、『霊鬼志』として引用されていることがその主たる根拠です(『新輯搜神記 新輯搜神後記』下冊、p. 669)。

『霊鬼志』なる書物は、現存しませんが、『隋書』経籍志(史部、雜伝類)には見えています。

  • 『搜神記』三十卷〔干寶撰〕
  • 『搜神後記』十卷〔陶潛撰〕
  • 『靈鬼志』三卷〔荀氏撰〕
  • 『志怪』二卷〔祖台之撰〕

『隋書』経籍志は、おおむね成書年代順に並べてあると考えられ、荀氏『霊鬼志』は、陶潜と祖台之(いずれも東晋末頃の人)の間に置かれているので、東晋の終わり頃の著作と考えてよさそうです(ややこしいことに、唐代の常沂という人が書いた同名の書物がありますが、『太平御覧』に引く『霊鬼志』は、『太平御覧経史図書綱目』に載せる「荀氏靈鬼志」の方であると考えます)。

余嘉錫は『捜神記』について、「此書似出後人綴緝,但十之八九,出於干寶原書」(『四庫提要弁証』第三冊、巻十八、子部九、中華書局、1980年、p. 1142)と言っています。「出後人綴緝」という点を重視すれば、李氏の判断は正しいと言えましょう。

この一条、干宝『捜神記』にもともと存在したものか、それとも『霊鬼志』にあったのが後に輯本『捜神記』に取り込まれたものか。現段階で確たる答えがあるわけではないのですが、私はどちらかというと、『霊鬼志』とする説に傾いています。

蠱毒


小學堂甲骨「蠱」

最近、『隋書』地理志に見える蠱というものに関心をもって調べています。

甲骨文にすでにこの字があり、『周易』にも蠱卦があり、『左伝』や『周礼』にも見える古いものですが、古代におけるその実態はあまりよく分かりません。南北朝以後になると詳細が伝えられており、また民間習俗としては現代にも一部のこっているそうです。

その伝承はかなり複雑かつ多様ですが、『隋書』地理志に見える基本的なかたちは以下のようなものです。毒虫を培養し、それを他人の飲食に忍び込ませてその人の健康をむしばんで殺す。すると、毒虫が被害者の財産を加害者側へともたらす、と、そのように信じられた邪悪な術です。

東晋の干寶『捜神記』(巻十二)に、その蠱に関する次の逸話が見えています。

余外婦姊夫蔣士,有傭客,得疾下血。醫以中蠱,乃密以蘘荷根布席下,不使知。乃狂言曰:「食我蠱者,乃張小小也。」乃呼小,小亡云〔當作去〕。今世攻蠱,多用蘘荷根,往往驗。蘘荷或謂嘉草。(『搜神記』中華書局、汪紹楹校注、1979年、p.157)

川野明正氏「蠱毒伝承論ー憑きもの的存在の言説にみる民俗的観念」(『人文学報』(東京都立大学人文学部)331号、2002年)では、この話を次のように訳しています。

私の妻の姉の夫である蔣士に雇われた者があり、病気となって下血した。医者はこれを蠱に中ったと見立てた。そこでひそかにミョウガの根を敷物の下に敷き、それと悟られないようにした。すると、病人は狂ったように口走った。「私を喰って蠱病にしたのは、張小小だ。そこで張小小を呼ぶと、張小小は死んだという。今の世では蠱を退治するのに、多くはミョウガの根を用い、しばしば効き目がある。ミョウガはまた、嘉草(よき草)とも呼ばれる。

川野氏はさらに次のようにコメントしています。

この一段は難解である。竹田晃氏の訳[竹田 1964 : 246]では「俺の虫を食ったのは張小小だぞ」とあるが、筆者は蠱は虫を指すのではなく、蠱に中毒して病気になったと解釈し、上記の訳とした。

ミョウガをこっそりと被害者の敷物の下に置くと、被害者がどういうわけか、加害者の名を叫び、その加害者を呼び出したところ、正体が露呈した、という話です(汪氏の校注に従って「小亡去」と読めば、「小は逃げ出した」ということになります)。

「食我蠱者,乃張小小也」という発話は、「私に蠱を食わせたのは、張小小だ」、ということではないかと、私は考えます。「食」はこの場合、去声で読み(『集韻』祥吏切)、「くらわす」と訓ずる用法でしょう。その「食」が二重目的語(雙賓語)をとっているのではないかと思います。

蠱は飲食に忍び込ませて相手を害するものですから、くらわすと言って違和感ありません。

なお、川野氏の論文、蠱について多く調べてあり、大いに参考になりました。

位は徐広に非ず、情は楊彪に類る


北周から隋代にかけて生きた栄建緒は、まがったことの嫌いな人物で、学問も立派であったとのこと。

彼はもともと楊堅(のちに隋の文帝となる人、541-604)と親しく、楊堅が北周を倒す野望をいだき、栄氏にそのことをほのめかしたところ、「明公の此の旨、僕の聞く所に非ず」と栄氏が色をなした、と『隋書』は伝えます。それに対して、楊堅は不機嫌になったものの、栄氏はそのまま立ち去りました。

(榮)毗兄建緒,性甚亮直,兼有學業。仕周為載師下大夫、儀同三司。及平齊之始,留鎮鄴城,因著『齊紀』三十卷。建緒與高祖有舊,及為丞相,加位開府,拜息州刺史,將之官,時高祖陰有禪代之計,因謂建緒曰:「且躊躇,當共取富貴。」建緒自以周之大夫,因義形於色曰:「明公此旨,非僕所聞。」高祖不悅。建緒遂行。(『隋書』卷六十六、榮建緒傳)

隋が天下を取ると、いまや隋の文帝となった楊堅の前に、栄氏が再び現れました。文帝は「お主も後悔しておるか?」と昔の話を蒸し返します。すると栄氏は、頭を下げて「臣、位は徐広に非ず、情は楊彪に類(に)る」と答えました。これには文帝も苦笑し、「朕は書物の文言は知らぬが、それでもお主のこのことばが不遜であるのは分かるぞ」と言った、とのこと。

開皇初來朝,上謂之曰:「卿亦悔不?」建緒稽首曰:「臣位非徐廣,情類楊彪。」上笑曰:「朕雖不解書語,亦知卿此言不遜也。」(同上)

「位は徐広に非ず、情は楊彪に類る」。徐広(352-425)は東晋末から劉宋初にかけて生きた人、東晋に忠誠心を持ちつつも、宋では高祖に重用され秘書監にまで至りました。一方の楊彪(142-225)は後漢末から魏初にかけて生きた人で、後漢に仕え、曹操には屈しない態度を示しました。

この対句から、栄氏の気骨がうかがわれます。

文帝が「不遜」と評した栄氏のことば、内容が露骨であることはもちろんですが、その「言いぶり」もなかなか嫌味です。「位非徐廣,情類楊彪」、駢文の中に見出されてもおかしくない綺麗な対句で、平仄まで整っています。そう思って見返してみると、もう一つの発言、「明公此旨,非僕所聞」の方も、平仄が合っているのです。

こういう、いかにも文人らしい美しい「言いぶり」が、文帝をますますいらだたせたのかも知れません。

「顔之推小論」


吉川忠夫先生の「顔之推小論」(『東洋史研究』第20巻第4号、昭和37年)を読みました。昭和37年は西暦でいえば1962年に当たりますから、今からちょうど50年前に書かれた論文です。論文の附記に「本稿は修士論文を書きあらためたもの」とあります。吉川先生のご研究の出発点に当たる論文といえましょう。

先日、2012年9月3日から5日にかけて、ミュンスター大学にて、シンポジウム「東アジアにおける法と罪の社会通念」が開催されました。今回ちょうど、顔之推をとりあげたラインハルト・エンメリッヒ教授の発表に対し、コメントを担当することになりましたので、吉川先生のこの論文を読み返してみた次第です。

その「はしがき」に、本稿のねらいを述べて次のようにいいます。

家訓は南北朝時代の南北両社会の文化や風俗や学術について多くのことを教えてくれる材料としてもたしかに貴重である。しかし、それが一つのまとまったかたちをとって示すものは、一亡命貴族の精神の記録であり、そして彼の生活が政治的、社会的諸条件と密接にからみあっていたがゆえに、それら諸条件の検討を背景にすえなければ家訓の理解は困難である。かかる歴史環境の中での之推の行動と内面の変貌過程の追求とが本論の課題である。

現在でも、『顔氏家訓』を当時の社会を知るための「材料」としてのみあつかう学者は、少なくありません。歴史的条件を解きほぐしつつ、『顔氏家訓』と、その著者、顔之推の核心にせまる手法は、手堅いものです。

そして、以下の構成のもと、顔之推の生きた時代とその生活が論じられています。

  1. 江南貴族社会の破局
  2. 顔之推の南朝社会批判
  3. 顔之推と北朝社会
  4. 顔之推における学問
  5. 政治的人間としての顔之推

節ごとの内容を紹介することは避けますが、洞察に富む指摘をいくつか、かいつまんでおきます。

  • 顔之推が南朝貴族に対して「きわめて批判的」であったこと(p.359)。
  • 顔家が建康にあった時も「民庶雑居」の地に暮らしていたこと(p.362)。
  • 北朝に遷って以降、「北人の生活様式に十分なじめないものを感じながらも、また南人の虚飾にみちた生活を嫌悪している」こと(p.363)。
  • 北斉の頃、顔之推は「南朝文化人であるとの理由で北斉の漢人貴族社会からの歓迎をうけたとしても、その中に進んで飛びこむことに躊躇し」たこと(p.376)。
  • また当時、宦官の鄧長顒という人物と後ろ暗い関係を持っていたこと(p.375)。

以上、いずれも鋭い指摘であろうと思います。

また、顔氏の生きた時代を論じては、梁と陳の間には「うめることのできない断層」があること(p.355)、北朝貴族の生活が、南朝貴族に比して「土地により密着したものであった」こと(p.365)、など、時代を知るヒントがさりげなく提示されています。

『顔氏家訓』という書物を前にして、我々は顔之推という人物をどのように理解することができるのか。吉川先生は、顔之推の政治的行動の「ゆがんだ面」(p.377)を指摘しつつも、その思想には次のような新しさが含まれていた、と論じます。

個人の能力よりは家格の高下が一切を決定する貴族社会への批判と同時に、理念としてはもっぱら学問によって官職を獲得しうる科挙官僚社会への展望が開けていたというべきであろう。(p.378)

ひとまずこれを傾聴すべきでしょう。しかしながら、たとえば中唐の知識人である劉禹錫などと比較してみると、顔之推という人物は、実に「南北朝的」な「貴族」であって、中唐の知識人との間には、考えられないほどの懸隔があるように思われます。『顔氏家訓』の教えは、あくまで「貴族の家を如何に継続するのか」に主眼があります。顔之推が、科挙制度導入以降の中国のありかたを見通せていた、とは、にわかに信じられないのです。

顔之推は、実に複雑な時代を生き、かなりねじれた一生を送りました。その彼を南北朝時代の末に生きた「代表的貴族」「代表的知識人」と位置づけることには、一定の留保が必要に違いありません。それでもなお、唐代の側からふりかえって観察すると、顔之推の「南北朝的」かつ「貴族的」な性質が、かえって鮮烈に印象づけられるように思うのです。

私はこれまで、『顔氏家訓』という書物を二度ほど通読しましたが、正直に申して、整然とした顔之推の像は、いまだ私の脳裏に結ばれていません。その一つの理由は、吉川先生が注意をうながされた、「材料」として『顔氏家訓』を見るというような弊に、私自身も陥っていたことであるのかもしれません。遠くない将来、あらためて同書を通読し、自分なりの顔之推像を得たいと考えております。