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絵にかいた餅


漢語に「畫餅充饑」という成語があります。『三国志』に基づくものということ。

時舉中書郎,詔曰:「得其人與否,在盧生耳。選舉莫取有名,名如畫地作餅,不可啖也。」(『三國志』魏書二十二,盧毓傳) 

名声などというものは、地面に「餅」の絵をかいたのと同じで、食えるものではない、空虚なものだ、と。

この「畫餅」、日本語のことわざにもなり、「絵に描いた餅」「画餅」などといいます。しかしながら問題は「餅」で、日本人が思い浮かべる「モチ」と、『三国志』でいう「餅」とは、どうも異なるものらしいのです。

ここで私が日本人の思い浮かべるモチ、というのは、餅米を蒸してついて粘りを出した食品です(現代漢語では「黏糕」といいます)。一方、『三国志』にいう「餅」は、どうも穀物(小麦やうるち米など)を挽いて粉にし、それを水と合わせてこね、それをさらに加熱して食品にしたもののようです。

盧毓が生きていた二世紀から三世紀にかけて、どのような「餅」が食されていたかは考証し難いのですが、六世紀に書かれた『斉民要術』巻九「餅法」(繆啓愉校釋『齊民要術校釋』中國農業出版社,1998年,pp.632-640)を見ると、実にさまざまな種類の「餅」が並べられています。田中静一・小島麗逸・太田泰弘訳『斉民要術—現存する最古の料理書』(雄山閣出版社、1997年。pp.197-205)にも説明があります。

『斉民要術』を見ると、小麦粉を練って焼いた「燒餅」という食品や、「水引、餺飩」と呼ばれる麺料理まで、いろいろなものが紹介されています。当時の「餅」は多様であり、現代中国の「餅bǐng」とも異なります。繆啓愉氏が「現代で言うところの餅とはまったく異なる」(p.633)という通り、概念の範囲に違いがあります。

そういうわけですから、『三国志』にいう「畫地作餅」をどう訳すのか、これはなかなか厄介な問題だといえましょう。「地面に餅を描く」と訳して大過はないはずですが、少し厳密に訳そうとすると、日本語でいうモチでもなく、さりとて現代漢語でいう「餅bǐng」でもなく、何とも訳しづらいのです。「練り餅」という日本語もありそれでもよさそうですが、さすがにそこに麺類は含まれないと思います。

なお余談ながら、田中慶太郎『支那文を讀む爲の漢字典』は、「餅」を次のように説明しています。「食品。麪を溲(ひた)して平圓形に製し、火を用て之を焙りて食ふなり」。(p.621)主に、現代中国の「餅」の説明ですが、「モチ」であるとは決していわないのが、この字典の面白いところでもあります。

 

「隆」を避けないこと


『説文解字』では、後漢時代の皇帝、五人について、その名を書中に載せず、「上諱」と記します。

  • 「秀」(第一代皇帝、世祖光武帝の名)
  • 「莊」(第二代皇帝、明帝顕宗の名)
  • 「炟」(第三代皇帝、章帝肅宗の名)
  • 「肈」(第四代皇帝、和帝穆宗の名)
  • 「祜」(第六代皇帝、安帝恭宗の名)

その一方で、第五代皇帝、殤帝の名である「隆」の字を避けていません。これについて、段玉裁は次のように言います。

隆者,漢殤帝之名。不云「上諱」,而直書其字者,『五經異義』云:「漢幼小諸帝,皆不廟祭而祭於陵」。旣不廟祭,似可不諱。然『漢志』河內郡隆慮,應劭曰:「隆慮山在北。避殤帝名,改曰林慮也」。又『郡國志』:「林慮,故隆慮。殤帝改」。漢制,生而諱,故孝宣更名。此葢殤帝在位時所改。而書成於和帝永元十二年以前,未及諱。至安帝建光元年,許沖上書時不追改,故不云「上諱」。(『説文解字注』第六篇下、「生」部「隆」。経韵楼本、第六下、第四葉左。鳳凰出版社本、p.483。「永元十二年以前」の句読を含め、藤田吉秋氏のご教示による)

つまり『五経異義』にあるように、漢代では夭逝した皇帝は宗廟にまつられない。だから崩御した後は、諱も避けられなかったようだ、と段玉裁は言います。殤帝も幼少で崩御したので、その例に当たるというわけです。その上で、隆慮という地名が殤帝の名を避けて林慮と改められたことを指摘しています。

わたくしは、段玉裁が示唆したように、後漢時代においては、宗廟の制度と皇帝の諱の避諱とは連動していたと考えています。つまり、今上皇帝と洛陽の宗廟にまつられた皇帝とについては避諱する必要があったが、それ以外の歴代の皇帝(廟祀されていない諸帝)については避諱しなかったと考えます(これについては、より詳しい考察が必要ですし、すでにどなたか考証していらっしゃるかも知れませんが、今はこれ以上、論じません)。

『続漢書』祭祀志下に宗廟の制度を載せ、次の文章があります。

殤帝生三百餘日而崩, 鄧太后攝政,以尚嬰孩,故不列于廟,就陵寢祭之而已。(中華書局本、p.3197)

殤帝についての避諱が『説文解字』においてなされていないことは、偶然でも伝写の誤りでもなく、許慎がそのように書いたとおりに伝わっている、と考えています。

これについては『説文解字』の執筆時期と完成時期とが何時であったのか、という問題も関連しますが、今のところ、考えがまとまらず、書くことができずにおります。

「上」とは誰なのか?


『漢書』藝文志の「詩賦略」に、『上所自造賦』二篇と称する書物を載せますが、同書について唐の顔師古は「武帝所作」と言っています。「上」とは君主をいう語ですが、ここでは漢の武帝を指しており、同書は武帝が作った賦である、というわけです。

この「上」について、章学誠『校讐通義』漢志詩賦(十五之五)は、おおむね、次のようなことを言います。

『漢書』藝文志のもとになる目録を作った劉向(前77-6)は、成帝(在位、前33-7)の頃の人であって、武帝時代(在位、前141-87)の人ではない。『上所自造賦』は武帝の著作なのだから「孝武皇帝」と諡で記せば後世の人にも分かりやすい。ここで劉向が「上所自造」などというのは、いかにもまぎらわしい。そもそも臣下たちが自分の時代の君主を「上」と呼ぶのだ。それ以外にも、記事などを書いて、「某宗」「某帝」などと記したうえで、それに続く文に「上」と書くのはかまわぬが。この「上所自造」について言えば、武帝当時の人が「上」と書いたのを、劉向がそのまま従って採用したものではないか。そういうわけで読者には、「劉向の時代の「上」なのだから、成帝が作った賦なのだろうか」と疑いが生じる。班固が劉向の記述にそのまま従ったものだから、「班固の時代の「上」なのだから、後漢の肅宗の賦なのだろうか」という疑いも生じかねない。顔師古が言ってくれたおかげで、武帝の作だと分かりはするが、と。

章学誠の説は面白く、しかも正しいと思うのですが、ただ、「漢代の人は、本当に今上皇帝だけを「上」と読んだのだろうか?」という疑問が生じました。自分の時代以前の皇帝を「上」と呼ぶことはなかったのか、と。

すぐに思い出すのは許慎『説文解字』です。一篇上「示」部の「祜」を説いて「上諱」と言っています。この字は後漢の第六代皇帝である安帝恭宗の名なので、避諱してあるのです。段玉裁によれば、『説文解字』で「上諱」と記される字はあわせて五字、すなわち「祜」のほかには、「秀」(第一代皇帝、世祖光武帝の名)、「莊」(第二代皇帝、明帝顕宗の名)、「」(第三代皇帝、章帝肅宗の名)、「肈」(第四代皇帝、和帝穆宗の名)です。

『説文解字』が成書したのは、和帝時代の永元十二年(100)とのこと。「上」と言えば和帝を指しそうなものですが、それだけでなく第一代の光武帝の名から第六代の安帝の名まで、すべて「上諱」と記されているのです(第五代の殤帝の名である「隆」は避けません。安帝の名を避けるのは、その頃に献上されたため)。

なぜ「上」という言葉が、今上皇帝以外にも用いられたのか。これに関してはいろいろと説を立てることができましょう。が、少なくとも後漢時代に「上諱」と言えば、必ずしも今上皇帝の名を指すものでなかったこと、これは動かぬ事実です。

話を『漢書』藝文志の『上所自造賦』二篇にもどしますと、この書に「上」の字が用いられているのは、武帝の時代の人が記録した書名をそのまま劉向が用い、それを班固が踏襲したものであろうこと、これは章学誠のいう通りであると思います。

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『三礼名物通釈』


銭玄(1910-1999)氏の『三礼名物通釈』を読みました。

錢玄『三禮名物通釋』
江蘇古籍出版社,1987年
南京師範大学古典文献研究所専刊 2

書名にある「名物」とは、物の名称のこと。今と昔とでは、物も言葉も変化していますから、古代の名物を知ることは、今となってはかなり困難なのです。古代において行われていた「礼」は、学びにくいものの代表で、まずは物の名称を知らねば、礼書を読んでも理解できない、だからこそ、まずは名物を知るべきだ、というのが、著者の主張です(本書、自序)。

目次は以下の通り。

第一 衣服篇

  1. 布帛
  2. 色采
  3. 冠冕
  4. 衣裳
  5. 韍舃
  6. 服制

第二 飲食篇

  1. 飯食
  2. 酒漿
  3. 膳牲
  4. 薦羞
  5. 器皿
  6. 飲食之禮

第三 宮室篇

  1. 都城中城
  2. 房屋結構
  3. 堂序房室
  4. 門塾廳階
  5. 寢廟深廣
  6. 璧廱明堂

第四 車馬篇

  1. 車輿稱謂
  2. 車輿形制
  3. 馬名與馬飾
  4. 乘車之法
  5. 駕馬之法

たとえば、「衣服篇」の「布帛」の項目の冒頭には、大きな文字で「麻織之總名曰,絲織之總名曰」とあります。このように簡潔に内容を述べた上で、小さな文字で、経典やその注釈を根拠として明示し、そして必要に応じて清代以降の学者の説などを紹介しています。

本書の内容は簡にして要を得たもので、大字の部分は、すべて覚えてしまいたいくらいです。まずは大字の部分に目を通し、その上で気になる部分の説明をじっくり読むとよいようです。

もちろん、本書の説明は三礼の名物の全体に及んでいるわけでなく、限られたものではありますが、この150ページばかりの薄い本を通読したところ、視界がずいぶんと明るくなりました。常識的なものではありますが、常識の確認も時には大切だと感じます。

本書以外にも、銭玄氏は礼に関する次の二書を書かれています。

  • 錢玄『三禮通論』南京師範大學出版社 1996年
  • 錢玄、錢興奇編『三禮辭典』江蘇古籍出版社 1993年 (本書のことは、過去の記事に書きました)

この二書を通読したことはありませんが、疑問がある場合にはいつも参照しています。

それにしてもこの『三礼名物通釈』、1987年発売当時の価格が1.60元。当時としては普通だったのかもしれませんが、新刊書の価格が高騰した今となっては安価です。手に取ると、感慨深く思われました。

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権威ある注釈


今春から担当しているある授業のために、中国古典に対して作られた権威ある注釈のうち、唐以前に著されたものを列挙してみました。現存している注釈のみ挙げてあります。配列はおおむね『四庫提要』の分類順に従いました。

常識的な内容であり、またあくまでも便宜的なものですが、資料等にご活用いただければ幸いです。漢学専攻の学生諸君には、一通り覚えておいてもらいたい事項です。ご要望があれば、代表的な版本を書き加えるかも知れません。

經部

  • 《周易》(魏)王弼注/(唐)孔穎達正義
  • 《尚書》(傳前漢)孔安國傳/(唐)孔穎達正義
  • 《詩》(前漢)毛亨傳/(後漢)鄭玄箋/(唐)孔穎達正義
  • 《周禮》(後漢)鄭玄注/(唐)賈公彦疏
  • 《儀禮》(後漢)鄭玄注/(唐)賈公彦疏
  • 《禮記》(後漢)鄭玄注/(唐)孔穎達正義
  • 《大戴禮》(北周)盧辯注〔闕〕
  • 《春秋左傳》(西晉)杜預注/(唐)孔穎達正義
  • 《春秋公羊傳》(後漢)何休注/(北朝?)徐彦疏
  • 《春秋穀梁傳》(東晉)范寧集解/(唐)楊子勛疏
  • 《孝經》(唐)玄宗注
  • 《論語》(魏)何晏集解
  • 《孟子》(後漢)趙岐注
  • 《爾雅》(東晉)郭璞注
  • 《方言》(東晉)郭璞注

史部

  • 《史記》(劉宋)裴駰集解/(唐)司馬貞索隱/(唐)張守節正義
  • 《漢書》(唐)顔師古注
  • 《後漢書》(唐)李賢注/(梁)劉昭注
  • 《三國志》(劉宋)裴松之注
  • 《國語》(呉)韋昭注
  • 《戰國策》(後漢)高誘注
  • 《水經》(北魏)酈道元注(即《水經注》)

子部

  • 《孔子家語》(魏)王肅注
  • 《荀子》(唐)楊倞注
  • 《孫子》(魏)武帝注
  • 《管子》(唐)尹知章注
  • 《呂氏春秋》(後漢)高誘注
  • 《淮南子》(後漢)許慎注/(後漢)高誘注
  • 《世説新語》(梁)劉孝標注
  • 《山海經》(東晉)郭璞注
  • 《老子》(傳前漢)河上公注/(魏)王弼注
  • 《列子》(東晉)張湛注
  • 《莊子》(西晉)郭象注/(唐)成玄英疏

集部

  • 《楚辭》(後漢)王逸注
  • 《文選》(唐)李善注/(唐)五臣〔呂延濟、劉良、張銑、呂向、李周翰〕注

漢数字の表記


四部叢刊本玉篇 この8月はかなり無理をして論文を書いたので、ブログの更新が止まってしまいました。申し訳ございません。久々の更新となりましたが、これからもよろしくお願いいたします。

さて今日は、漢数字の書き方のお話です。たとえば56という数字を漢字で表記する場合、文言文ならば「五十六」と書き、138なら「一百三十八」と書くのが正しいはずです。事実、基本的にそのように表記されています。

近代以後、56を「五六」と書き、138を「一三八」と書く習慣が普及しました。民国以後の学者たちも、文言の中にそのような表記法を混入させています。

これについて、私はてっきりwestern impact の現れの一つなのだと思っていました。ところが今日、これが誤解であることに気がつきました。「四部叢刊」に影印を収める、元刊本の『大広益会玉篇』の「総目」を見てください。1は「一」、2は「二」、…、10は「十」、11は「十一」、…、20は「廿」、21は「廿二」、…、30は「卅」、31は「卅一」、…、40は「四十」。ここまでは、違和感がないのです。ところが何と、41を「四一」、42を「四二」と表記しているではありませんか!これには驚きました。以下、99までは、そんな調子です(10の倍数は「五十」「六十」「七十」「八十」「九十」で、正しいのですが)。100は「一百」。101が「百一」というのは愛嬌でしょう(正式には「一百一」)。141になると、また「百四一」です。こんな感じで、最後の部首「五百四二、亥」まで続くのです。

これは、「総目」に1行5つの部首を整然と並べるため、スペースをケチった結果かも知れません。その証拠に、本文の見出しには、正しく「四十一、面」「一百二十六、走」と、変な省略をせずに書いてあります。

しかし私が西洋風だと思っていた書き方も、スペースの省略のために近代の文言文に導入された、と言えなくもありません。そう考えると、もっと重要な問題は、「零」「〇」の字を数字として文言文に持ち込んだのは、誰であったか、ということではないでしょうか。古代ローマや古代中国にゼロに当たる文字がなかったことは有名な話ですが、「零」「〇」を「漢数字として」文言文に持ち込んだのは、如何なる人物であったのか?

『辞源』で「零」字を調べると、「數的零頭或空位」の義として、次の資料が挙げられています。

宋・包拯『孝肅包公奏議』「擇官再舉范祥」:「勘會范祥新法,…二年計増錢五十一萬六千貫有零」。

明『兵科鈔出題本』「戸部題為襄餉告罄目前難支等事」:「通共三百零三萬餘兩」。

しかし上記の例では、「五一六零零零」「三零三萬」などとは表記されていません。おそらく、「零」「〇」についての詳しい考証も、すでになされていることでしょう。答えを知りたいものです。

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