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司馬貞の蹉跌


昨年、中華書局の『史記』が新しい標点本として出版されましたので、最近それを入手して楽しく読んでおります。

その『史記』卷七十四、孟子荀卿列傳に騶衍(鄒衍とも)の伝が附されています。そこでは、騶衍が奇抜な言を繰り出して諸侯に受け入れられた、といい、それが、諸侯にうとまれ続けた孔子や孟子の生き方とは異なっていたことを指摘します。

その上で、司馬遷は次のように言います。まず原文を示しますので、お目通しください。

或曰,伊尹負而勉湯以王,百里奚飯車下而繆公用霸,作先合,然後引之大道。騶衍其言雖不軌,儻亦有牛鼎之意乎?

第一文の大意を述べましょう。かつて伊尹は、料理人となって調理用の鼎を背負って湯(トウ)に取り立ててもらい、その後、湯を王にすることに成功した。百里奚は、秦の穆公(繆公とも表記)の牛車の前に餌をまいて車を止めて穆公に接近し、その後、彼のおかげで穆公は覇者となった。伊尹や百里奚は、まず方便を使って君主たちと知り合い、その後で君主たちを正しい道に引き入れた。騶衍にも、あるいはそういう深謀遠慮があって、諸侯に好かれようとしたのではないか。そういう説がある、と、司馬遷は言います。

では、その後に続く原文「騶衍其言雖不軌,儻亦有牛鼎之意乎」はどういうことでしょうか。「牛鼎」とは何を指すのでしょうか?

答えは簡単です。騶衍の話は、確かにまともなものではなかったが、伊尹・百里奚の意図と同じであったのかも知れない、ということです。「牛鼎」が指す内容は、百里奚が引き止めた「牛」と、伊尹が持っていた「鼎」。これは、十分に漢文を習った日本の高校生ならば、読み取りえましょう。誤読の余地の少ない部分です。

ところが、『史記』の代表的な注釈者の一人、唐の司馬貞(司馬遷の後人として、大いなる自負を持って『史記』の注釈を書いた人)は、この部分について大きな誤りを犯しているのです。

按『呂氏春秋』云:「函牛之鼎不可以烹雞」,是牛鼎言衍之術迂大,儻若大用之,是有牛鼎之意。

思うに『呂氏春秋』に「牛を入れて煮る鼎では鶏を煮られない」と。つまり「牛鼎(牛を入れて煮る鼎)」というのは騶衍のやり方が迂遠で、もし(諸侯が)その説を大いに用いたならば(牛刀割鶏になってしまう)ということ、これが「牛鼎」の意味である。

司馬貞のこの解釈は、全くの深読みであり、誤解です。たまたま「函牛之鼎」ということばを知っていたがために、それにこじつけてしまったのです。

なぜ、司馬貞はこの簡単な文章を読み取れなかったのでしょうか。不勉強だったのでしょうか。決してそうではないはずでしょう。彼は知識あふれる学者であり、そのせいでかえって『史記』の文脈を軽視してしまったが故に、この誤りを犯したのです。

『文中子』に見える劉炫像


王通(584-617)は隋の時代に生きた儒者で、有名な詩人、王勃(650-676)の祖父に当たる人物。その著書、『続六経』は残念ながら亡びましたが、彼の言行録である『文中子中説』(『文中子』『中説』)十巻は、今も伝えられています。四部叢刊本・続古逸叢書本など。

『中説』は、『論語』に似せた構成をとっており、同書の中で王通は「子」「文中子」などと称せられ、弟子たちと問答を展開しています。その内容には明らかな虚偽が含まれており、すべてを実録とみなすことはできません。

しかし、とにもかくにも唐代の初めには、王通の子(王福郊・王福畤の兄弟)の手によって定稿が作られており、『四庫全書総目提要』巻九十一(子部一、儒家類一)に「いわゆる『中説』は、その子の福郊・福畤らが王通の遺した言葉を編纂したものであり、事実でないことを大げさに言ってはいるが、それでも確かにその書物は存在した(所謂『中說』者,其子福郊、福畤等纂述遺言,虛相夸飾,亦實有其書)」というのが正解に近そうです。

この書物には、隋代の名人がしばしば登場していますが、その中に大儒、劉炫(549-617)と「子」(すなわち王通)との問答が、二度見えています。一条は、六経をめぐって。

劉炫見子,談六經。唱其端,終日不竭。子曰:「何其多也」。炫曰:「先儒異同,不可不述也」。子曰:「一以貫之可矣。爾以尼父為多學而識之耶?」炫退,子謂門人曰:「榮華其言,小成其道,難矣哉!」(『中説』巻四,周公篇)

劉炫が子を訪ねてきて、六経を語った。その糸口を語りだして、終日話し続けた。子はおっしゃった、「なんと多弁なことよ」。劉炫はいった、「先儒たちの説の異同については、述べぬわけにはゆかない」。子はおっしゃった、「『一以て之を貫く』(『論語』里仁篇の語)、ということでよいのだ。お主は仲尼がたくさん学んでそれを理解したとでも思うのか?」劉炫が退くと、子は門人に言った、「言葉を華やかにして、小さく自分の道を作り上げるようでは、(大成は)難しいな」。

もう一条は、『易』をめぐって。

劉炫問『易』。子曰:「聖人於『易』,沒身而已,況吾儕乎?」炫曰:「吾談之於朝,無我敵者」。子不答。退謂門人曰:「默而成之,不言而信,存乎德行」。(『中説』巻五,問易篇)

劉炫が『易』について質問した。子はおっしゃった、「聖人の『易』に対する態度は、それに没頭するだけであった。ましてや我々はなおさらだ(実践に没頭するのみ。論じている暇などない)」。劉炫はいった、「私が朝廷で(経書を)語れば、私に匹敵する者などないのだが」。子は答えなかった。(劉炫が)退くと、(子は)門人に言った、「黙って道を完成させ、言わずして信を成し、徳行に示す、だ(それだけだ。語る必要はない。『易』繋辞伝上の語)」。 

王通の生年は、杜淹(?-628)の「文中子世家」(『中説』に附せられた一文)によって、開皇四年(584)とされています。これが正しいとすると、王通は劉炫より、三十五歳も年少であったことになります。

三十五歳も年下の若者と、すでに名声を築きあげていた大儒。二人の間に、このような会話が本当にあったのでしょうか?かなり疑わしいと言わざるをえませんが、しばらく疑問として遺しておきます。

しかし少なくとも、滔々と経を説き続け、ロゴスの力によって聖人の道を明らかにしようとする、劉炫の姿をここにうかがうことができます(「文中子」は、劉炫の弁舌を無意味化する作戦をとっているのですが)。

全面的には信じられないとしても、隋から初唐にかけての一時期、劉炫がどのように見られていたのかを示す一資料には違いありません。

疏議か疏義か?


滂熹齋本『唐律疏議』
滂熹齋本『唐律疏議』

銭大群「『唐律疏議』結構及書名辨析」(『歴史研究』2000年4期)を読みました。

注釈書としての『唐律疏議』の性質を述べ、さらに書名に含まれる「疏議」という文字の当否を考証した論文です。

この『唐律疏議』と呼び習わされる書物は、『旧唐書』刑法志に「於是太尉趙國公無忌……等,參撰『律疏』,成三十卷,(永徽)四年十月奏之」とあり、また同書の経籍志に「『律疏』三十卷,長孫无忌撰」と見えるように、唐代においては『律疏』と呼ばれていました。

また、敦煌から見出された同書の残巻にも、「律疏」の題を有する本(『敦煌石室砕金』に収める徳化李氏旧蔵本)があります。この残巻は現在、杏雨書屋に蔵され、「羽020R」の番号を振られています。『敦煌秘芨』影片冊一(杏雨書屋、2009)pp.172-177を参照。

ところが宋代以降、書名が変化したようで、現在、『唐律疏議』『唐律疏義』『故唐律疏議』などの名称で知られています。中でも、『唐律疏議』の名が最も一般的と言えましょう。

銭氏が紹介するとおり、「疏議」という二文字については、すでに王重民(1903-1975)による1942年の考証があり、『敦煌古籍叙録』(中華書局、1979年、145頁)に収められています。

それによると、『唐律疏議』の多くの本は律・注・疏をあわせたものだが、「疏議曰」と標示して疏の文を示している。ところが、善本である滂熹齋本(「四部叢刊三編」に収める。宋版とも言われるが、実は元版とのこと)では、「疏議曰」の「疏」字だけを陰刻で刻み、反転させている。そこから、「疏」というのは標記にすぎず、「疏議」という熟語ではないことが分かる。また敦煌本の『律疏』は、「疏」を標示せず、直接に「議曰」と書いている。元版で、「疏議」の二字を陰刻で刻むものがあるのは誤り、とのこと。

この王氏の議論は正しいと思います。つまり、「疏議曰」の「疏議」を、二字つなげて読むのはいけません。

銭氏は王氏の議論を踏まえてさらに議論を進め、元代の柳贇が同書を『唐律疏義』と呼んだのは許容範囲内だが、後人が本文中に見えた「疏議」を書名に持ち込み、『唐律疏議』と命名したのは誤りだ、と言っています(「後代所以有《唐律疏議》名,原因只是一個:把“疏”與其下的“議曰”簡單地合成為“疏議曰”,又從而把它理解為“疏議”之書“曰”,於是就把這部書名之為“疏議”」,117頁)。

ただ、「書名として、疏義が正しく疏議は誤り」というポイントに、過度にこだわる必要はないように思います。

本文に見える「疏議曰」の「疏」が、単なる標記に過ぎないことを知っておりさえすれば、『唐律疏議』という通名を使っても特に問題ないように考えます。

また四庫全書本は、書名を『唐律疏義』とし、他の本が「疏議曰」「議曰」としている部分を、すべて「疏義曰」としています。銭氏は四庫全書本をよい本だとおっしゃっていますが、「義曰」は不適当な用字であると感ぜられます。

しかしながら、「『唐律疏議』の疏は、「議」と「問答」、二つの部分から成り立っており、両者の関係は平行並立」とする指摘などは、深く肯かれるところです。

注釈書として『唐律疏議』を見る場合、参照すべき論文であると考え、ご紹介しました。

『唐律疏議』名例律の篇題疏


『唐律疏議』(元来の書名は『律疏』)は、唐代の永徽律につけられた注釈で、三十巻、長孫無忌(?-659)らの撰、永徽四年(653)の成書。この注釈の一番はじめの部分は少し変わっています。

唐律は、名例第一、衛禁第二、職制第三、戸婚第四、厩庫第五、擅興第六、賊盗第七、闘訟第八、詐偽第九、雑律第十、捕亡第十一、断獄第十二、以上、十二の律から成り立っていますが、その第一、「名例」の篇題につけられた疏のことです。

劉俊文校『唐律疏議』(中華書局、1983年)によって、その全文をお示しします。

  • 夫三,萬;稟,人。莫不憑黎元而樹司宰,因政教而施刑法。其有情,識,大則亂其區宇,小則睽其品式,不,則未。故曰「以刑止刑,以殺止殺。」刑不可,笞不得。時,用。於是結,盈;輕,大。『易』曰「天垂象,聖人則之。」觀雷而制威,睹秋而有肅,懲,而防;平,而存,蓋聖王不獲已而用之。古者大刑,其次;中刑用刀鋸,其次用鑽笮;薄刑用鞭扑。其所由來,亦已尚矣。昔白、白,則伏、軒;西、西,則炎、共。鷞於少,金於顓。咸,典。大,撃。逮,化,議,畫媿,所有條貫,良多簡略,年代浸遠,不可得而詳焉。堯舜時,理官則謂,而皋,其,而往,則『風俗通』所云「皋陶謨,虞造律」是也。
  • 者,訓銓,訓法也。『易』曰「理財正辭,禁人為非曰義。」故銓量輕重,依義制律。『尚書大傳』曰「丕天之大律。」注云「奉天之大法。」法亦律也,故謂之為律。昔者,聖人制作謂之為經,傳師所説則謂之為傳,此則丘明、子夏於『春秋』、『禮經』作傳是也。近代以來,兼經注而明之則謂之為義疏。疏之為字,本以疏闊、疏遠立名。又『廣雅』云「疏者,識也。」案疏訓識,則書疏記識之道存焉。『史記』云「前主所是著為律,後主所是疏為令。」『漢書』云「削牘為疏。」故云疏也。昔者,三王始用肉刑。赭衣難嗣,皇風更遠,樸散淳離,傷肌犯骨。『尚書大傳』曰「夏刑三千條。」『周禮』「司刑掌五刑」,其屬二千五百。穆王度時制法,五刑之屬三千。周衰刑重,戰國異制,魏文侯師於里悝,集諸國刑典,造『法經』六篇,一、盜法;二、賊法;三、囚法;四、捕法;五、雜法;六、具法。商鞅傳授,改法為律。漢相蕭何,更加悝所造戸、興、廏三篇,謂九章之律。魏因漢律為一十八篇,改漢具律為刑名第一。晉命賈充等,增損漢、魏律為二十篇,於魏刑名律中分為法例律。宋齊梁及後魏,因而不改。爰至北齊,併刑名、法例為名例。後周復為刑名。隋因北齊,更為名例。唐因於隋,相承不改。者,五刑之罪名。者,五刑之體例。名訓為命,例訓為比,命諸篇之刑名,比諸篇之法例。但名因罪立,事由犯生,命名即刑應,比例即事表,故以名例為首篇。者,訓居,訓次,則次第之義,可得言矣。者,太極之氣,函三為一,黄鍾之一,數所生焉。名例冠十二篇之首,故云「名例第一」。
  • 以上,英,潤春於品,緩秋於黎。今,前,章,鴻,而刑,執,大,刑。一,一。不,觸。皇帝彝,納。德禮為政教之本,刑罰為政教之用,猶昏曉陽秋相須而成者也。是以降綸於台,揮折於髦,爰,大。遠則皇,近則蕭、,沿,自,甄,裁。譬權,若規。邁,同者矣。

お示しした文章は、原文では段を分けていませんが、考えがあって三段に分けました。その理由は、私の分けた第一段と第三段が駢文によって書かれているのに対し、両者の間に位置する第二段が駢文ではない、ということです。その第二段は、典型的な注釈の文章、義疏の文章になっています。

駢文の部分、平仄を合わせたらしいところにつき、平声を赤、仄声を青で表示しました。これを見ると、たとえば王勃(650-676)以後のような完全な平仄ではありませんが、基本的には平仄を意識していることが看取できます。

また句末の文字に着目すると、仄/仄と重なっている場合(つまり「平仄が合っている」とは言えない場合)でも、互いに上・去・入をたがえ、声調による区別をしており、音響を意識して書いています。

  • 「憑黎元而樹司(上),因政教而施刑(入)」
  • 「大則亂其區(上),小則睽其品(入)」
  • 「咸有天(入),典司刑(去)」
  • 「所有條(去),良多簡(入)」
  • 「潤春雲於品(入),緩秋官於黎(去)」
  • 「不有解(入),觸塗睽(去)」
  • 「降綸言於台(上),揮折簡於髦(去)」
  • 「甄表寬(去),裁成簡(上)」

それに対して第二段は、「律名例第一」の書名と篇題とを解釈したもの、一字一字に対し、その訓詁と内容を説き、なぜ「律」「名」「例」「第」「一」の語が使われているのかを、いちいち解釈しています。典型的な義疏のスタイルで、平仄への意識は欠如しています。

このような二種の文体が、ひとつの文章にまとめられている点に、たいへん興味をひかれました。小さな発見かもしれません。

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天地の讎敵


劉禹錫(772-842)「天論」は、韓愈・柳宗元の議論を踏まえて執筆されたものです。先日、次のように書きました。

「天論」自体に見える説明によると、この論は、天が人に下す罰を論じた韓愈(768-824)の一文を発端とし、それに答えた柳宗元(773-819)「天説」をさらに展開させるべく、劉禹錫によって書かれました。『劉禹錫集』(卞孝萱校訂,劉禹錫集整理組點校,中華書局,1990年。中國古典文學基本叢書)巻5、所収。

これら一連の議論の発端となったのは、韓愈の一文であったらしく、これは、柳宗元「天説」に引用された文章から内容が知られます(『柳河東集』)。

しかし、この韓愈の議論には、題名もついておらず、また韓愈の文集にも収められていません。柳宗元の引用による以外、何も手がかりがないのです。謎を含んだ一文と言えましょうか。

そこで韓愈は、激しいことを言っています。物が腐敗すると、そこに虫がわく。元気・陰陽の均衡が崩れると、そこに人間が生ずる。人間は、元気・陰陽を損ない、破壊する存在である。自分たちの都合のよいように自然を破壊して、人工物を作り、とどまるところを知らない。天地万物は、こうしてありのままの姿を失う。人間は「天地之讎」である。虫よりもひどいと言えはしまいか。こんなことを行う人間という存在は、天から罰を与えられて当然ではないか。人間による害を取り除く存在を天は称えるであろうし、害を与える人間を天は罰するであろう、と。そのように論じたのでした。

まるで現代の環境主義者の言葉のようにも聞こえます。人間の存在をこのように邪悪なもの、自然の摂理に反するものとしてとらえ、「天」と「人」とを対置する考え方。この考え方の起源を探ると、『荘子』に帰着するように思われます。

孔子曰「丘,天之戮民也。雖然,吾與汝共之。」……。子貢曰「敢問畸人。」曰「畸人者,畸於人而侔於天。故曰:天之小人,人之君子;人之君子,天之小人也。」(『莊子』大宗師)
孔子がいう、「私は天に罰を与えられた人間だ。そうではあるが、私とお前と、その境遇をともに生きよう」。……。子貢がいう、「畸人―人間の仲間でない人、というのは、どのようなものでしょうか」。孔子がいう、「畸人は、人間の仲間ではなく、天にひとしい。だから、「天にとっての小人は、人にとっての君子である。人にとっての君子は、天にとっての小人である」という言葉があるのだ」、と。

子桑戸・孟子反・子琴張という三人の仲間がいました。道を楽しむ莫逆の友です。子桑戸が亡くなり、孔子は子貢を使いに立てて弔わせますが、子貢が赴いてみると、孟子反・子琴張の二人は、楽器を奏で、歌を歌っていたというのです。驚いて帰ってきた子貢は、「いったい彼らは何者なのですか」、と孔子に問います。それに対し、孔子は「彼らは方外、すなわちこの世界の外側に生きる人々だ。我々は方内、すなわちこの世界の内側に生きる者だ」と言います。上記の引用文は、それに続く問答です。「畸人」は子桑戸・孟子反・子琴張らを指しています。

人為が自然を破壊する、というのは、『荘子』においてしばしば表明される見方で、馬蹄篇などにも見えます。しかし、そうして生きて行かざるをえない人間を「天之戮民」と呼び、そして「人にとっての君子は、天にとっての小人である」と、『荘子』は孔子の口を借りていいます。天がよしとするものと、人がよしとするもの、互いに正反対であることを明言したこの問答は、印象的です。これが韓愈の発想のもとになったのでしょう。

もちろん、『荘子』に見える議論と韓愈の議論とは、同内容ではありません。しかし、人間の存在を「天地之讎」とまでいう韓愈は、人間に対する不信の側面を『荘子』から受け継いでいるように思えるのです。

なお柳宗元はこの韓愈の言を評して、「子誠有激而為是耶」、あなたは激することがあってこの言をなしたのか、といっています。韓愈の平常の心から出されたことばではないのかもしれません。この韓愈の言が彼自身の思想全体とどのように整合性を持ちうるのか、それは別の問題として考える必要がありそうです。

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「九世紀初頭における天の議論」


先日、当ブログにてその名を挙げた、ラモント氏「九世紀初頭における天の議論―柳宗元「天説」と劉禹錫「天論」」。上編・下編(Part I, II)に分けられ、『アジア・メジャー』誌に載ったものです。今から40年近くも前に書かれたものながら、なお輝きを失っていないように思われます。

上編においては、殷・周から唐代に及ぶ「天」観の変遷と進展が概観され、さらに、「天説」へと至る柳宗元の「天」観の展開が詳述されています。

下編においては、韓愈・柳宗元・劉禹錫により一連の「天」の議論がなされた背景、そして劉禹錫の「天」観の展開と「天論」の分析。さらには、「天説」「天論」と柳宗元「答劉禹錫天論書」(『柳河東集』巻31)の英訳が附されています。

柳宗元に関する議論で注目されるのは、中唐春秋学と柳宗元との関係を述べた部分です。両者の関係については、太田次男氏「長安時代の柳宗元について」(『斯道文庫論集』2輯,1963年)を踏まえ、更に一歩進めて、呂温の「天」観が柳宗元に与えた影響を詳しく追っているところです(Part I, pp.196-199)。それら先行する議論を踏まえつつ、柳宗元は「天」についての議論をさらに大きく進めた、と評しています。

It would seem that Lü was still largely within the bounds of the more conservative type of scepticism, and it is obvious that Liu unlimately went beyond this to a more direct and critical attack not only on Han ideas about the relationship between man and Heaven but on the “spiritual” and purposeful nature of Heaven itself. (Part I, p.200)

また、柳宗元は800年前後、妻や母など、身近な人々を次々に失い、ことごとにつけて「天」に訴えかける文を作っていることも、松村真治「柳宗元の文学作品に見る合理主義的側面と非合理的側面の交錯」(『中国文学報』22輯,1968年)を参照しつつ、分析を加えています(pp.202-203)。

下編においては、林紓(1852-1924)の議論を紹介しつつ(林紓『韓柳文研究法』からか)、韓・柳・劉氏の「天」の議論がなされた背景を探っています(Part II, pp.37-)。林氏は、韓愈が「天」を説いた直接の動機は、失脚した柳宗元を慰めるためであった、と推測します。これを受け、呉文治『古典文學研究資料彙編 柳宗元卷』(中華書局,1964年)及び侯外廬『中国思想通史』(人民出版社,1962,63年)は、814年という年に「天」の議論が行われた、と推測します。一方、ラモント氏は、「805年における、柳・劉両氏の失脚を発端としているのではないか」という別の推測をしています(p.39)。これには、説得力があるように思われます。

また、「天論」に見える劉禹錫の思想について、杜佑の法治主義(Legalism)から影響を受けているのではないか、という推測が、なされています(p.45,59)。これにも注目すべきでしょう。また、劉禹錫が、柳宗元とは違い、一行(683-727)という僧侶が先鞭を付けた『易』の「数」の世界に没入し、それが「天論」に反映しているというのも重要な指摘です(pp.50-54)。

柳宗元「天説」と劉禹錫「天論」とは、もちろん比較の対象となりますが、内容的には「天論」の方がはるかにしっかりとまとまっているので、この一連の議論は、「「天論」に至る道」ととらえることが可能でしょう。ラモント氏のこの論文も、常に柳・劉の両氏が比較しつつ、やはり主眼を「天論」の解明に置いています。「天論」を読む際、今なお参照すべき業績であると思えます。

附録とされている、「天説」「天論」の英訳も、まだ十分に検討していませんが、あらためて精読してみたいものです。

「劉禹錫の「天論」とその周辺」


このところ劉禹錫(772-842)の「天論」に関心をもっており、島一氏「劉禹錫の「天論」とその周辺」(『学林』第20号,1994年)を読みました。

「天論」自体に見える説明によると、この論は、天が人に下す罰を論じた韓愈(768-824)の一文を発端とし、それに答えた柳宗元(773-819)「天説」をさらに展開させるべく、劉禹錫によって書かれました。『劉禹錫集』(卞孝萱校訂,劉禹錫集整理組點校,中華書局,1990年。中國古典文學基本叢書)巻5、所収。同書には、韓愈の文章をも引く柳宗元「天説」が、附されています。

「天論」が論じているのは、「天と人とはどのような関係にあるのか」という、非常に古くからの問いです。司馬遷の「天道是か非か」の語にも、通じます。唐代において、これはすでに古い問いとなっていたものの、劉禹錫は「天と人とは、代わる代わる相手をしのぐのだ(天與人交相勝耳)」といい、「人が天に勝つものとは、法である(人能勝乎天者,法也)」といって、人間が作り上げた「法」の優位を強調します。これは、たいへんに面白い思想であり、それ以前には聞かれなかったものです。

この「天論」については、我が国の学界においても、ある程度の研究蓄積があります。島氏の論文のほかにも、たとえば次のようなものが挙げられます(なお、これにつきましては、ほかにもご存知の論文を補足していただければ幸いです。よろしくお願いいたします)。

  • 重澤俊郎「劉禹錫の哲学―三つの問題点」(『東方学会創立15周年記念 東方学論集』1962年,所収)。
  • 金谷治「劉禹錫の「天論」」(『日本中国学会報』第21号,1969年)
  • 西脇常記「劉禹錫の思想」(『唐代の思想と文化』,創文社,2000年,所収)
  • 馬場英雄「劉禹錫の「天論」と「時」の問題について」(『國學院雜誌』105巻 12号,2004年)。

これらの論考により、「天論」の姿は明らかになっていますが、なかでも、島氏の論文は紙幅も大きく、論述は周到で、その内容はもとより、なぜ劉禹錫がこれを執筆するに至ったかまで、明らかにされています。

ここで、論文の内容を詳しく紹介することはしませんが、興味をひかれた点を列記します。

  • 彼らの間で「天」が問われるようになったのは、柳宗元の個人的な不幸を契機としている。韓愈も柳宗元を力づけるために「天」を論じた。
  • 韓愈・柳宗元・劉禹錫の「天」に対する考え方は、互いに異なるが、いずれも中唐の春秋学の影響を受けている。
  • 劉禹錫の「法」重視の考え方は、杜佑(735-812)の影響を受けている。

いずれもたいへんに面白い論点です。しかし今回気がついたのですが、残念なことに、これらの諸点は、すでにラモント氏による先行研究、「九世紀初頭における天の議論―柳宗元「天説」と劉禹錫「天論」」において論じられていたことがらでした。

日本の諸氏の論文においては、ラモント氏のこの雄篇が参照されていません。先行研究の見落としはありがちなことで、いちいち大げさに騒ぐようなことではありませんが、ラモント氏の論文は、見落とすにはあまりに惜しいものです。

ラモント氏と島氏との説は、関心が互いに重なり合い、共通点も多いのですが、違いもあります。島氏の独自の思考はもちろん重んじられるべきです。しかし、もしも島氏がこの論文にお気づきであれば、さらに議論を深めることができたことでしょう。それが惜しまれてなりません。