カテゴリー別アーカイブ: 寸評

青木保『異文化理解』


青木保氏(1938-)の『異文化理解』(岩波書店、2001年7月、岩波新書)を読みました。 10年前に書かれたものでありながら、新刊のように読んでも違和感がありません。2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件に言及しないのを不思議に感じたくらいです。

著者はアジア文化研究の大家で文化庁長官も務められた方、紹介するまでもありません。青木氏が書かれたほかの書物もいくつか読みましたが、常に豊富な経験と確かな視座にもとづいて書かれており、本書もまた実に信頼のおける一冊であると感じられました。しかも、一般になじみのないアジア研究を分かりやすく紹介される執筆態度は、我々後進のアジア学者をも鼓舞してくれるようです。

興味深く思われた一節を紹介しましょう。

日本人はどうも自己完結的というのか、外来文化を日本文化の中で消化しようとしてしまう。外から伝わった文化の要素でもいつのまにか日本文化になってしまっているということが多く、それで、逆に異文化をあまり意識しないのではないでしょうか。異文化に対する憧れも軽蔑もあるのですが、日常生活の中で異文化に対する無関心というものが、いかに大きな誤解とか差別とか、逆に外国での日本に対する悪感情を生むかということを意識しないで行動している場合が多いと思います。(p.105)

私自身の研究する中国学についていうと、我が国は古代以来、大陸文化の影響を受けてきたために、相当に深く、我が国の文化の中に大陸文化の一部が根付いているのは、周知のことです。では、「漢字」「漢文」は日本文化なのか、否か?ここで意見が分かれるのです。私自身は、「漢字、漢文はそもそも外国文化であり、日本に来た後も、せいぜい外来文化である」という一点を堅持しており、「訓点を振られた中国文は、中国語でなく日本語である」と主張する日本文学の研究者と議論したこともあります。また、日本の中国学研究者にも、中国古典研究を外国文化研究として明確に認識しない人がいることも事実です。「外来文化を日本文化の中で消化しようとしてしまう」傾向は、研究の世界にいても、常日頃、実感するところです。

青木氏の透徹した「異文化理解」ならびに日本理解には、至るところで肯かせられます。異文化を研究してみようという人や、留学に出ようという若者は一読すべき書物でありましょうし、「異文化」に関心を持つ者ならば、大いなる感慨をもって本書に接し得ることでしょう。

しかし、一般向けの書物としてはどうでしょうか。異文化、ひるがえっては我が国の文化を体当たりで知ろうとする者でないかぎり、読み通したとしてもその小さな断面を見るに過ぎないようにも思われます。語り口が柔らかで、分かりやすいが故に、さらにそう心配になりました。人それぞれに「自分なりの異文化理解」があるからこそ、問題を矮小化してしまうものなのかも知れません。

せめて、「ステレオタイプ」を痛烈に批判する著者の次のことばだけでも、より多くの人の胸に響くとよいのですが。

 ステレオタイプ的理解というのは、異文化や他者に対する極端な理解の仕方ですから、常にそこには人間を人間としてみる視点が欠けています。相手が何々教徒、何民族、何人と聞いただけでまともに相手を見、現実を捉えようとする耳目は完全にふさがれてしまう。何ともやり切れない浅はかな行ないだと思うのですが、いまだに私たちはそこからのがれられないでいるのです。(p.119)

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「山田永年の書学」


 西嶋慎一「山田永年の書学-明治初期、京都における書学鑑識の一側面」(『大東書道研究』16号、2008年)を読む。

 明治という新しい時代は、書画の世界にもインパクトを与えた。楊守敬(1839-1915)が明治13年(1880)に来日し、日本に新しい書学が伝えられたからである。そのような時代にあり、山田永年(1844-1913)は、独自の審美眼をもって、京都の地で古写本・碑帖を愛玩した。その山田永年の書学を丁寧に説いた論文である。

 山田鈍、字は子静、号は永年、京都の豪商。家業は生糸問屋と酒造で、店は御池通東洞院にあった。建築自体はいまも存しており、国の登録有形文化財に指定されている、という。

 山田永年は、第一級の書画を目睹し、鑑賞した。彼が備えていた鑑定眼について、西嶋氏はいう。

 明治以前に渡来したこれ等の拓は、粗刻粗拓として、資料的価値が低いと論ぜられることが多い。……。粗刻であっても、訓練を経た眼力は容易に原書の真を見抜く。永年がその代表的な一人なのである。

 このような、示唆にあふれる指摘、あるいは、唐写本『世説新書』が切断されて五つに分割された経緯をはじめとするエピソードなど、さまざま興味深い。

 『千字文』に興味をもつ者としては、『真草千字文』(『二体千字文』)の記述が特に目にとまった。この写本を、永年は智永の筆と明示しない。当時は、智永筆と喧伝されていなかったのであろう。西嶋氏は、次のように推測する。

 この千字文が智永と称され始めるのは、日下部鳴鶴や楊守敬が鑑じた、この時期(引用者:明治14年ごろ)から以降なのではあるまいか。

 一考に備え、機会があれば探ってみたい。

戸川芳郎「〈礼統〉と東漢の霊台」


 たまたま借り出した安居香山氏編『讖緯思想の綜合的研究』(国書刊行会, 1984)。科研の報告書であるが、楠山春樹氏・吉川忠夫氏の論文など、非常にレベルが高い。性質上、「これで讖緯思想が網羅される」といったものではないが。

 特に私の目を引いたのが、戸川芳郎氏「〈礼統〉と東漢の霊台」。タイトルのとおり、『礼統』というあまり知られていない礼学文献と、後漢時代の「霊台」と呼ばれる施設を考証した論文。「論文の体をなしていないのではないか」という批判もあるかも知れないが、文献考証が冴えわたり、さすがに考察が緻密。

 類書の用い方に妙味があり、勝村哲也氏の『修文殿御覧』研究(「修文殿御覧天部の復元」、『中国の科学と科学者』京都大学人文科学研究所, 1978)を引用して、類書編纂者たちの心理にせまっている。勝村氏の論文をかつて読んだ時の感動も再現された。

*『讖緯思想の綜合的研究』 Webcat所蔵図書館 62館(本日付)。
*『中国の科学と科学者』 Webcat所蔵図書館 78館(本日付)。