カテゴリー別アーカイブ: 思想史

孟子の時代の環境破壊


山東省淄博市の臨淄区は、かつて春秋・戦国時代の大国、斉の都、「臨淄」があったところ。

その臨淄の南には牛山という山があり、もともと樹木の生い茂る美しい山であったのが、孟子の時代にはすでに伐採され、また家畜の放牧のせいで、禿山になっていたそうです。

孟子曰:「牛山之木,嘗美矣。以其郊於大國也,斧斤伐之,可以為美乎?是其日夜之所息,雨露之所潤,非無萌蘖之生焉,牛羊又從而牧之,是以若彼濯濯也。人見其濯濯也,以為未嘗有材焉,此豈山之性也哉?雖存乎人者,豈無仁義之心哉?其所以放其良心者,亦猶斧斤之於木也。旦旦而伐之,可以為美乎?」

孟子がいわれた。「牛山は以前は樹木が鬱蒼と生い茂った美しい山であった。だが、斉の都、臨淄という大都会の郊外にあるために、大勢の人が斧や斤(まさかり)でつぎつぎと伐りたおしてしまったので、今ではもはや美しい山とはいえなくなってしまった。

しかし、夜昼となく生長する生命力と雨露のうるおす恵みとによって、芽生えや蘖(ひこばえ)が生えないわけではないが、それが生えかかると人々は牛や羊を放牧するので、片はしから食われたり踏みにじられたりしてしまい、遂にあのようにすっかりツルツルの禿山となってしまったのである。今の人はあのツルツルの禿山を見れば、昔から木材となるような樹木はなかったのだと思うだろうが、木のないのがどうして山の本性であろうか。いやいや、決して山の本性ではないのだ。

〔ただ山ばかりではない、〕人間とてもそれと同じこと。生来持って生まれた本性の中に、どうして仁義の心(良心)がないはずがあろうか。ただ、人がそういう本来の良心を放失(なく)してしまうわけは、やはりまた、斧や斤(まさかり)で木を伐るのと同じなのだ。毎日毎日、牛山の木を伐るように物慾という斧斤(おのやまさかり)が良心という木を伐り去ったなら、どうして心が美しい〔良心のある人だ〕ということができようか。 (小林勝人訳注『孟子』下冊、岩波文庫、1972年。p.244-245)

『孟子』告子篇上に見える、有名な一節です。人間の良心を山の草木になぞらえているわけですが、ただの喩え話ではなく、孟子の時代、斉の環境破壊がかなり深刻であった事実がここから分かります。材木を採るために山の木を斬り、食肉用の家畜を放牧して山を荒らすことは、孟子にとって、邪悪な、いまわしい行いであったに違いありません。

ジャレド・ダイアモンド『文明崩壊』(楡井浩一訳、草思社、2005年)には、木を斬ることから文明が滅んだ例が数多く載せられています。『孟子』のこの一節、環境史の面から読むことも可能でしょう(おそらくその試みは、すでになされていることと思います)。

孟子と同じ戦国時代の思想を反映するらしい『荘子』にも、木を斬る話が少なからず見えており、そこでも樹木を材料とのみ見なすことへの強烈な批判が見られます。たとえば人間世篇の匠石の話など。

人類が環境破壊に対して抱いた違和感。その原初のかたちが、『孟子』や『荘子』に見えるように思います。

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天地の讎敵


劉禹錫(772-842)「天論」は、韓愈・柳宗元の議論を踏まえて執筆されたものです。先日、次のように書きました。

「天論」自体に見える説明によると、この論は、天が人に下す罰を論じた韓愈(768-824)の一文を発端とし、それに答えた柳宗元(773-819)「天説」をさらに展開させるべく、劉禹錫によって書かれました。『劉禹錫集』(卞孝萱校訂,劉禹錫集整理組點校,中華書局,1990年。中國古典文學基本叢書)巻5、所収。

これら一連の議論の発端となったのは、韓愈の一文であったらしく、これは、柳宗元「天説」に引用された文章から内容が知られます(『柳河東集』)。

しかし、この韓愈の議論には、題名もついておらず、また韓愈の文集にも収められていません。柳宗元の引用による以外、何も手がかりがないのです。謎を含んだ一文と言えましょうか。

そこで韓愈は、激しいことを言っています。物が腐敗すると、そこに虫がわく。元気・陰陽の均衡が崩れると、そこに人間が生ずる。人間は、元気・陰陽を損ない、破壊する存在である。自分たちの都合のよいように自然を破壊して、人工物を作り、とどまるところを知らない。天地万物は、こうしてありのままの姿を失う。人間は「天地之讎」である。虫よりもひどいと言えはしまいか。こんなことを行う人間という存在は、天から罰を与えられて当然ではないか。人間による害を取り除く存在を天は称えるであろうし、害を与える人間を天は罰するであろう、と。そのように論じたのでした。

まるで現代の環境主義者の言葉のようにも聞こえます。人間の存在をこのように邪悪なもの、自然の摂理に反するものとしてとらえ、「天」と「人」とを対置する考え方。この考え方の起源を探ると、『荘子』に帰着するように思われます。

孔子曰「丘,天之戮民也。雖然,吾與汝共之。」……。子貢曰「敢問畸人。」曰「畸人者,畸於人而侔於天。故曰:天之小人,人之君子;人之君子,天之小人也。」(『莊子』大宗師)
孔子がいう、「私は天に罰を与えられた人間だ。そうではあるが、私とお前と、その境遇をともに生きよう」。……。子貢がいう、「畸人―人間の仲間でない人、というのは、どのようなものでしょうか」。孔子がいう、「畸人は、人間の仲間ではなく、天にひとしい。だから、「天にとっての小人は、人にとっての君子である。人にとっての君子は、天にとっての小人である」という言葉があるのだ」、と。

子桑戸・孟子反・子琴張という三人の仲間がいました。道を楽しむ莫逆の友です。子桑戸が亡くなり、孔子は子貢を使いに立てて弔わせますが、子貢が赴いてみると、孟子反・子琴張の二人は、楽器を奏で、歌を歌っていたというのです。驚いて帰ってきた子貢は、「いったい彼らは何者なのですか」、と孔子に問います。それに対し、孔子は「彼らは方外、すなわちこの世界の外側に生きる人々だ。我々は方内、すなわちこの世界の内側に生きる者だ」と言います。上記の引用文は、それに続く問答です。「畸人」は子桑戸・孟子反・子琴張らを指しています。

人為が自然を破壊する、というのは、『荘子』においてしばしば表明される見方で、馬蹄篇などにも見えます。しかし、そうして生きて行かざるをえない人間を「天之戮民」と呼び、そして「人にとっての君子は、天にとっての小人である」と、『荘子』は孔子の口を借りていいます。天がよしとするものと、人がよしとするもの、互いに正反対であることを明言したこの問答は、印象的です。これが韓愈の発想のもとになったのでしょう。

もちろん、『荘子』に見える議論と韓愈の議論とは、同内容ではありません。しかし、人間の存在を「天地之讎」とまでいう韓愈は、人間に対する不信の側面を『荘子』から受け継いでいるように思えるのです。

なお柳宗元はこの韓愈の言を評して、「子誠有激而為是耶」、あなたは激することがあってこの言をなしたのか、といっています。韓愈の平常の心から出されたことばではないのかもしれません。この韓愈の言が彼自身の思想全体とどのように整合性を持ちうるのか、それは別の問題として考える必要がありそうです。

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「九世紀初頭における天の議論」


先日、当ブログにてその名を挙げた、ラモント氏「九世紀初頭における天の議論―柳宗元「天説」と劉禹錫「天論」」。上編・下編(Part I, II)に分けられ、『アジア・メジャー』誌に載ったものです。今から40年近くも前に書かれたものながら、なお輝きを失っていないように思われます。

上編においては、殷・周から唐代に及ぶ「天」観の変遷と進展が概観され、さらに、「天説」へと至る柳宗元の「天」観の展開が詳述されています。

下編においては、韓愈・柳宗元・劉禹錫により一連の「天」の議論がなされた背景、そして劉禹錫の「天」観の展開と「天論」の分析。さらには、「天説」「天論」と柳宗元「答劉禹錫天論書」(『柳河東集』巻31)の英訳が附されています。

柳宗元に関する議論で注目されるのは、中唐春秋学と柳宗元との関係を述べた部分です。両者の関係については、太田次男氏「長安時代の柳宗元について」(『斯道文庫論集』2輯,1963年)を踏まえ、更に一歩進めて、呂温の「天」観が柳宗元に与えた影響を詳しく追っているところです(Part I, pp.196-199)。それら先行する議論を踏まえつつ、柳宗元は「天」についての議論をさらに大きく進めた、と評しています。

It would seem that Lü was still largely within the bounds of the more conservative type of scepticism, and it is obvious that Liu unlimately went beyond this to a more direct and critical attack not only on Han ideas about the relationship between man and Heaven but on the “spiritual” and purposeful nature of Heaven itself. (Part I, p.200)

また、柳宗元は800年前後、妻や母など、身近な人々を次々に失い、ことごとにつけて「天」に訴えかける文を作っていることも、松村真治「柳宗元の文学作品に見る合理主義的側面と非合理的側面の交錯」(『中国文学報』22輯,1968年)を参照しつつ、分析を加えています(pp.202-203)。

下編においては、林紓(1852-1924)の議論を紹介しつつ(林紓『韓柳文研究法』からか)、韓・柳・劉氏の「天」の議論がなされた背景を探っています(Part II, pp.37-)。林氏は、韓愈が「天」を説いた直接の動機は、失脚した柳宗元を慰めるためであった、と推測します。これを受け、呉文治『古典文學研究資料彙編 柳宗元卷』(中華書局,1964年)及び侯外廬『中国思想通史』(人民出版社,1962,63年)は、814年という年に「天」の議論が行われた、と推測します。一方、ラモント氏は、「805年における、柳・劉両氏の失脚を発端としているのではないか」という別の推測をしています(p.39)。これには、説得力があるように思われます。

また、「天論」に見える劉禹錫の思想について、杜佑の法治主義(Legalism)から影響を受けているのではないか、という推測が、なされています(p.45,59)。これにも注目すべきでしょう。また、劉禹錫が、柳宗元とは違い、一行(683-727)という僧侶が先鞭を付けた『易』の「数」の世界に没入し、それが「天論」に反映しているというのも重要な指摘です(pp.50-54)。

柳宗元「天説」と劉禹錫「天論」とは、もちろん比較の対象となりますが、内容的には「天論」の方がはるかにしっかりとまとまっているので、この一連の議論は、「「天論」に至る道」ととらえることが可能でしょう。ラモント氏のこの論文も、常に柳・劉の両氏が比較しつつ、やはり主眼を「天論」の解明に置いています。「天論」を読む際、今なお参照すべき業績であると思えます。

附録とされている、「天説」「天論」の英訳も、まだ十分に検討していませんが、あらためて精読してみたいものです。

「劉禹錫の「天論」とその周辺」


このところ劉禹錫(772-842)の「天論」に関心をもっており、島一氏「劉禹錫の「天論」とその周辺」(『学林』第20号,1994年)を読みました。

「天論」自体に見える説明によると、この論は、天が人に下す罰を論じた韓愈(768-824)の一文を発端とし、それに答えた柳宗元(773-819)「天説」をさらに展開させるべく、劉禹錫によって書かれました。『劉禹錫集』(卞孝萱校訂,劉禹錫集整理組點校,中華書局,1990年。中國古典文學基本叢書)巻5、所収。同書には、韓愈の文章をも引く柳宗元「天説」が、附されています。

「天論」が論じているのは、「天と人とはどのような関係にあるのか」という、非常に古くからの問いです。司馬遷の「天道是か非か」の語にも、通じます。唐代において、これはすでに古い問いとなっていたものの、劉禹錫は「天と人とは、代わる代わる相手をしのぐのだ(天與人交相勝耳)」といい、「人が天に勝つものとは、法である(人能勝乎天者,法也)」といって、人間が作り上げた「法」の優位を強調します。これは、たいへんに面白い思想であり、それ以前には聞かれなかったものです。

この「天論」については、我が国の学界においても、ある程度の研究蓄積があります。島氏の論文のほかにも、たとえば次のようなものが挙げられます(なお、これにつきましては、ほかにもご存知の論文を補足していただければ幸いです。よろしくお願いいたします)。

  • 重澤俊郎「劉禹錫の哲学―三つの問題点」(『東方学会創立15周年記念 東方学論集』1962年,所収)。
  • 金谷治「劉禹錫の「天論」」(『日本中国学会報』第21号,1969年)
  • 西脇常記「劉禹錫の思想」(『唐代の思想と文化』,創文社,2000年,所収)
  • 馬場英雄「劉禹錫の「天論」と「時」の問題について」(『國學院雜誌』105巻 12号,2004年)。

これらの論考により、「天論」の姿は明らかになっていますが、なかでも、島氏の論文は紙幅も大きく、論述は周到で、その内容はもとより、なぜ劉禹錫がこれを執筆するに至ったかまで、明らかにされています。

ここで、論文の内容を詳しく紹介することはしませんが、興味をひかれた点を列記します。

  • 彼らの間で「天」が問われるようになったのは、柳宗元の個人的な不幸を契機としている。韓愈も柳宗元を力づけるために「天」を論じた。
  • 韓愈・柳宗元・劉禹錫の「天」に対する考え方は、互いに異なるが、いずれも中唐の春秋学の影響を受けている。
  • 劉禹錫の「法」重視の考え方は、杜佑(735-812)の影響を受けている。

いずれもたいへんに面白い論点です。しかし今回気がついたのですが、残念なことに、これらの諸点は、すでにラモント氏による先行研究、「九世紀初頭における天の議論―柳宗元「天説」と劉禹錫「天論」」において論じられていたことがらでした。

日本の諸氏の論文においては、ラモント氏のこの雄篇が参照されていません。先行研究の見落としはありがちなことで、いちいち大げさに騒ぐようなことではありませんが、ラモント氏の論文は、見落とすにはあまりに惜しいものです。

ラモント氏と島氏との説は、関心が互いに重なり合い、共通点も多いのですが、違いもあります。島氏の独自の思考はもちろん重んじられるべきです。しかし、もしも島氏がこの論文にお気づきであれば、さらに議論を深めることができたことでしょう。それが惜しまれてなりません。

「北朝礼学系統」


 昨日、李書吉『北朝礼制法系研究』(人民出版社、2002年)という書物を取りあげて紹介しましたが、その中に、少し気になる章がありました。それは本書の第3章「北朝礼学系統」という章です。

〈 北朝礼学系统〉

  • 第一节 佛教心性的缘起及其流传 一、佛教心性说的缘起 二、佛教心性说在北朝的流传
  • 第二节 心性说的佛道、佛儒南北二系
  • 第三节 南北义疏之学与礼学
  • 第四节 南北二系三教在礼制轨道上的归宗及三礼的著述 一、南北二系三教在礼制轨道上的归宗 二、北朝三礼著述情况 三、北朝周隋时对诸学的熔铸 小结

 この一文、どこかで見たことがあると思い出し、蔵書を繰ったところ、果たして『北朝史研究』(商務印書館、2004年)という論文集の一章でした。

〈北朝礼学与佛教心性学〉

  • 一 佛教心性的缘起及其在北朝的流传
  • 二 心性说的佛道、佛儒南北二系
  • 三 南北义疏之学与礼学
  • 四 南北二系三教在礼制轨道上的归宗趋势
  • 五 北魏周隋对礼学的熔铸及其对礼制建设的匡扶

 タイトルも異なり、後半部分に、やや変更がありますが、両者ともほぼ同一の論文です。ここでは『北朝礼制法系研究』に収められたものについて、以下、感想を述べます。

 この一文の論旨は、「『涅槃経』に見える「一切衆生悉有仏性」の説が、南北朝時代における人間観に大きな影響を及ぼした」「南朝においては主に仏教と道教とが融合し、北朝においては仏教と儒教とが融合した」「南朝でも北朝でも、礼が重んじられた」「南朝でも北朝でも、礼というプラットフォームの上で儒仏道三教が融合する方向に進んだ」というものです。

 著者も言うように、南北朝時代において儒仏道三教が「会通」した経緯については、これまで定説というべきものは出されていません。李氏はこの難問に答えようとして、本章を執筆したのでしょうが、残念ながら、少なくとも私は十分に納得することができませんでした。疑問点を挙げてみます。

  1. 『涅槃経』に見えるような性説が、その時代の思想に決定的な影響を与えたと言えるのか?
  2. 著者の用いる「礼」という語の意味が曖昧すぎないか?
  3. 中国思想における性説の展開を十分に踏まえずに論じているのではないか?

 そのような点が気になります。ここでは、第3点目について反論します。李氏は皇侃『論語義疏』陽貨篇に見える次の文を引用します。

(人)稟天地陰陽氛氳之氣、氣有清濁、若稟得淳清者則爲聖人、〔若得淳濁者則爲愚人、愚人淳濁、雖澄亦不清、聖人〕淳清、攪之不濁、故上聖遇昏亂之世、不能撓其眞、下愚値重堯疊舜、不能變其惡、故云「唯上智與下愚不移也」、而上智以下、下愚以上、二者中間、顏閔以下、一善以上、其中亦多清少濁、或多濁少清、或半清半濁、澄之則清、攪之則濁、如此之徒以隨世變改、若遇善則清升、逢惡則滓淪。(〔〕内は私が補いました)

 皇侃のこの説を、李氏は「『大乗起信論』で「一心二門」の「衆生心」が「真如門」「心滅門」であるというのや、「真心本覚」の「心性本淨」や「性寂滅」「性寂静」とあい通ずる。だから、仏教が心性説に対して改変を加えたのは明らかだ」と評します。

 しかし、これは的をはずした議論ではないでしょうか。『論衡』率性篇に「稟氣有厚泊(泊與薄同)、故性有善惡也」とあり、同書の命義篇に「人稟氣而生、含氣而長、得貴則貴、得賤則賤」とあるように、人間には生まれつき、受けた「気」の質による差があることを言うのは、漢代以来の伝統であり、決して仏教の影響ではありません。

 同様に、『論語義疏』が「志於學」を解して「志者、在心之謂也」と言ったのをも、「心」に引きつけた南北朝的な解釈だと、李氏は言いますが、『尚書』孔伝に「在心為志」とあるように、これは普通の訓詁であり、仏教の影響などまったくありません。

 このように、本章の議論を駁することは難しくないのですが、はたと考えさせられました。南北朝時代における「礼」「心」「性」、これはなかなか新鮮なテーマなのではないか、と。新鮮すぎてついてゆけなかったのかも知れませんが、今後は私なりにも考えてみたいと思います。ただし、「礼」の問題をあつかう時、国家制度レベルの話と、個人倫理レベルの話をあえて混同する論じ方をするなら、著者と同じ陥穽にはまることは間違いなさそうです。

*殷憲主編『北朝史研究:中国魏晋南北朝史国際学術研討会論文集』(商務印書館、2004年)、Webcat所蔵館は21館(本日付け)。