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島田翰への同情


明治大正期の漢学者、島田翰(あざなは彦楨、1879-1915)は、大才を抱きながらも虚言を弄する、一風変わった学者です。その著『古文旧書攷』(民友社、1905年)には卓見と虚言が混在しており、なかなかあつかいに悩ませられます。

宮内庁蔵の北宋版『通典』についても、同書を高麗における覆刻と見る、妙な説を唱えています。田中慶太郎(1880-1951)は島田翰の友人であったのですが、これについて、「好んで異を立てたもの」とその非を指摘しつつも、島田氏には同情すべき点があるとして、次のように言います。

當時は明治初中年間の好事者は已に凋落し、新しき版本學者の擡頭しなかつた過渡時代であつた。……。彥楨がその學問文章鑑識を以てして、斯界を空うする態度を取つたのも、寧ろ恕すべきであると思ふ。 (『羽陵餘蟫』文求堂書店、1938年、乙部、「通典二百卷」pp.167-168)

これが「恕すべき」理由なのかどうか、首をかしげたくなりますが、ともかく、島田氏に対する田中氏の同情を読み取ることはできます。さらに続けて『通典』に関する仁井田陞(1904-1966)の論文を紹介する中で、あらためて島田氏およびその師である竹添進一郎(1842-1917、号は井井)に説き及んでいます。

仁井田陞氏の「通典刻本私考」〔『東洋學報』二十二ノ四〕は的確有用なる考證である。最も快心事は仁井田氏が静嘉堂文庫所藏の竹添井井翁手校『通典』を紹介し、翁の治學方法の正當にして見識あることを表現せられたことである。井井翁が愛弟子たる島田彥楨を深く心にかけて居られた真情熱意には、其間に在つた筆者も今なほ新たなる如き感銘が在り、豪放不羈なる彥楨も井井師に對しては心から推服して居つた純情を思慕する者である。 (同上、pp.168-169)

竹添井井と島田翰との間にあった師弟愛について、どうしても語っておきたかったのでしょう。その場に居合わせた時代の証人として。いささか脇道に逸れたこの記述に、亡き友をしのぶ田中慶太郎の人柄を見る思いがします。

ただし島田氏に対する田中氏の評価は、決して甘いばかりではないようです。『論語義疏』について、島田氏は、邢昺疏を背面に注記した珍しい本を見た、と主張しますが、これについて田中氏は次のように言って、にべもありません。

『古文舊書攷』には新井某氏の許で見た義疏の古寫本には邢疏が背記されて居つた、後人が背記の邢疏を皇疏へ竄入したのであるとのことを記してゐる。さうあつても然るべきことではあるが、筆者はこの皇疏だけの古寫本を見たことが無いから何とも言へない。 (同上書、甲部、「論語義疏十卷」p.73)

我が国に伝わる梁の皇侃『論語義疏』にはどういうわけか、北宋の邢昺の疏が必ず併記されているのですが、島田氏の言うとおりであるとすると、古い形としては紙背に注記されていた邢昺の疏が、いつからか正面に転記されるようになった、ということになります。そうだとすると面白いのですが、何しろ、その本は島田氏以外に誰も見た者がないのです。「見たことが無いから何とも言へない」とした田中慶太郎のこの記述、持平の論というべきでしょう。

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半樹斎文


顧千里(1766-1835)にとって同郷の親友であった、戈襄(あざなは小蓮)。先日ご紹介した、その「贈顧子游序」は名文でした。内閣文庫蔵本の写真版が人文研にあるので、さっそく見てみました。

半樹齋文四卷 清 戈襄 撰

昭和四十四年 本所 用東京内閣文庫藏嘉慶三年序刊本景照 京大人文研 東方

巻頭に四つの序が冠せられています。

  • 錢大昕「半樹齋文藁序」
  • 袁枚「序」(嘉慶元年五月)
  • 顧広圻「序」(嘉慶二年五月)
  • 范熙「序」(嘉慶三年冬)

錢大昕(1728-1804)と袁枚(1716-1797)とは、実に豪華な顔ぶれで、親友たる顧千里と范熙も並んで序を寄せています。戈襄にとって、『半樹齋文』の出版は、この上なく晴れがましいことであったはずです。

范熙の序に「近頃、広東の東部から帰郷して、戈襄がみずから刻した『半樹齋文』四巻を見た」云々と言っているので、その序文が書かれた嘉慶三年(1798)に、戈襄みずから『半樹齋文』四巻を出版した、と考えられます。そういう意味では、前掲の書誌に問題はありません。

ところが、私が感激した「贈顧子游序」は、李慶氏『顧千里研究』(p.82)によると、『半樹齋文』卷10に収録されている、とのこと。しかもこの一文は、出版の二年後、嘉慶五年に書かれた、と。これ如何に?

不審に思い、『販書偶記』に当たってみると、『半樹齋文』には、(1)嘉慶年間に出版された四巻本と、(2)道光七年に出版された十二巻本が存在する、とのこと。李慶氏のご覧になったのは、後者であったに違いありません。

身近に十二巻本がないので、残念ながら「贈顧子游序」の全文を読むことはできませんでしたが、四巻本もなかなか興味深いものです。ほとんどの文に対して錢大昕や顧千里が簡単な評を加えているのも面白く感ぜられます。錢氏が「以小喩大,亦有見地」「奇挈自成一子」と評した「雨中蚊」上下篇(乙卯年1795の作、巻三所収)の冒頭を紹介してみましょう。

 蚊行于夏,不晝而夜。其來無方,其去莫知。雖百計使之斃,弗能絶。譬如小人,盈千累萬,君子縱斥逐之,放殛之,終無以盡,而于是得時者,多出其技,以噆人噬人,如蚊之所為,則蚊者小人之師也。

思わず読んでしまいます。戈襄は古文の名手として名を馳せたらしく、袁枚も錢大昕も高く評価しています。錢大昕の「置之韓(愈)、歐(陽修)集中而不能辨」という「達兒小誄」(巻四)に対する評も、あながち大げさではなさそうです。

さすがは顧千里の親友。興味深い人物です。

「段玉裁年譜訂補」


段玉裁(1735-1815)の年譜として知られるのは、劉盼遂(1896-1966)の『段玉裁先生年譜』です。近年に出版された鍾敬華校点『経韵楼集』(上海古籍出版社、2008年)にも附録として収められ、いよいよ便利になりました。

ただ『段玉裁先生年譜』は、1936年に来薫閣書店から『段王學五種』の一つとして出版されたものであり、今となっては古すぎます。その後、陳師鴻森先生の「段玉裁年譜訂補」(『中央研究院歴史語言研究所集刊』第60本、第3分、1989年)が発表されました。陳師の仕事は緻密そのものであり、劉氏の年譜はすでに塗り替えられており、段玉裁の人生を概観する際、現在では必ず陳師「訂補」を参照すべき情況です。

その嘉慶十二年丁卯(1807)の條に見える、段氏と顧氏の関係を、一部だけ訳しておきます。この一端からも、「訂補」の充実ぶりが知られるはずです。

まず、蕭穆『敬孚類稿』に録する方東樹(1772-1851)の識語が次のように引かれています。

 『十三経注疏校勘記』が完成すると、阮元は段玉裁に送って覆校してもらった。段氏は顧千里が校勘した『詩経』部分が段氏の説を用いていながら、その名を冠していないのを見ると、怒った。

(そこで)顧氏が校勘した部分について、段氏は理不尽に退け、そのまま(修正稿を)広州に送り、凌という姓の出版関係者に版を作らせたのだが、このことは(責任者である)阮元も、(担当者である)顧千里も知らなかった。それゆえ現行の『詩(注疏校勘記)』だけは体裁を成していないのである。

この一件は当時も知る人が無く、後世の人も分からないだろう。乙酉(1825)の八月、厳杰(1763-1844)が教えてくれたことだ。おそらく、それ以後に出版された諸経の正義は厳杰が自分で杭州に(原稿を)持って行って、段玉裁とともに校勘したのであろう。

陳師はこれを「『毛詩校勘記』について、段玉裁が覆校の際、恣意的な操作を行った」証拠として挙げ、さらに、次のようにいいます。

 劉盼遂『年譜』に、「顧千里が段先生に代わって(『詩経』を)校刊し、段先生の(『詩経』「甘棠」に関する)一条を削除してしまい」云々という箇所は、(顧千里に対する)的も無いのに矢を放つような言いがかりであり、また、ものの順序を顛倒したものでもある。

わたくしが考えるに、段氏・顧氏が不和になったのは、顧千里が阮元のために『毛詩校勘記』を編纂した際、時にあからさまに時にこっそりと、段氏の『詩経小学』と『毛詩定本小箋』の説を顧氏が論駁した結果である。

段氏はもともと人と争って勝つのを好む人で、それに、顧氏が阮元のために『校勘記』を書いたのは段氏の推挽によったのに、果たして段氏が顧氏の校記を審査してみると、ことごとく自分の説に楯突いているのを見て、たいへんに怒り、「顧千里の校勘に対して、理不尽に退けた」のであって、(その怒りは)さらに顧千里が前年(嘉慶11年)、張敦仁のために刊行した『礼記考異』にも及んで、反駁を加えたのであり〔その後はさらにその翌年に顧千里が胡克家のために著した『文選考異』にまで及んだ〕、そうして両者の(『礼記』の)学制に関する論争が起きたのであって、これが両者の仲が険悪となった経緯である。以上のことは、劉盼遂『年譜』では丁寧に考察されていない。 

両者の是非については、張舜徽氏『清人文集別録』巻12に、「わたくしから見ると、二人の感情的対立は、確かに段氏の方に非があり、『経韵楼集』「黄紹武に返答する手紙」を読んでも、当時の与論として段氏を非難する者が多かったことが分かる」(345頁)といっており、わたくしとしてもそのように考える。別に専論を用意して詳論するので、ここではいちいち述べない。

少なくとも、現段階で段氏顧氏の論争をお書きになる人は、昨日紹介した汪紹楹氏「阮氏重刻宋本十三經注疏考」とあわせて、この陳師「訂補」をも、踏まえて欲しいものだと思いました。

陳鱣の徒労


經籍跋文
經籍跋文

『禮記』祭義には「天子設四學,當入學而大子齒(天子は四つの学校を設置する。入学する時、太子は同級生と対等にふるまう)」とあり、その鄭玄注に次のように言います。

四學謂周郊之虞庠也。「文王世子」曰:「行一物而三善皆得,唯世子而已。其齒於學之謂也」。

この鄭注に見える「四」郊は、「西」郊の誤りである。これが顧千里(1766-1835)の主張です。その説は、以下の『禮記考異』という書物に見えます。

禮記二十卷 坿釋文四卷 坿考異二卷 漢 鄭玄 注 唐 陸德明 撰釋文 清 張敦仁 撰考異  

嘉慶十一年 陽城張氏 用宋撫州本景刊  8册

『禮記考異』は、張敦仁(1755-1833)という人物が宋版の『禮記』を覆刻した際につけられた附録です。著者は張敦仁ということになっていますが、実際には彼に雇われた顧千里が書いたもの。そこに書かれた顧氏の説が、段玉裁(1735-1815)の逆鱗に触れたのです。

この激しい論争の内容については、段玉裁の『經韵樓集』巻11、12に収められる、段氏・顧氏の往復書簡からその大体をうかがうことができます。若松信爾氏「段玉裁と顧千里の論争に関する一考察」(『東洋文化』106号、2011年)に論争の紹介があります。

ここではその論争自体には立ち入らず、この一件が及ぼした波紋を少し紹介します。段玉裁と顧千里、両者の間を取り持ち、争いによって生じた不和を解消しようという人物がいました。蔵書家として知られた陳鱣(1753-1817)です。『經籍跋文』は陳氏が経書の善本を読んだ記録ですが、そのうち「宋本禮記注跋」において、論争の内容を紹介した上で、次のように言っています。

是書(即『禮記考異』)初出,段懋堂大令作「禮記四郊疏證」申孫(即孫志祖)黜顧(即顧千里)。…。兩家遂成水火,余欲為調人,而終莫能解。嘗彙其書為一冊,題曰『段顧校讎編』,洪稚存編修見之曰:「正可對『朱陸異同辨』」,相與一笑。頃讀撫本『禮記』,故并及之。(『經籍跋文』。『校經山房叢書』所収本)

自分が間に入って調停しようとしたが、結局うまくゆかなかった。両者の論争を集めて『段顧校讎編』という一冊も作った。それを取り出して洪稚存、すなわち洪亮吉(1746-1809)に見せたところ、「朱子と陸象山との論争をまとめた、趙仲全の『朱陸異同辨』とつりあうな」と言うので顔を見合わせて笑った、というわけです。

『禮記考異』が出版されたのが嘉慶11年(1806)、段玉裁が怒ったのが翌12年。洪亮吉は嘉慶14年に亡くなっていますから、その頃には、彼らの周囲ではもう笑い話になっていたのでしょう。とはいえ、段氏が嘉慶20年に亡くなった後も、顧千里はなお「わだかまり」をもっていたようですから、本人たちにとっては一生解消できなかった対立であり、笑い話どころではありません。

なお、陳鱣の作った『段顧校讎編』の行方は知れません。汪紹楹「阮氏重刻宋本十三經注疏考」(『文史』第3輯、1963年)は、阮元の出版した十三經注疏に関する最も基本的な研究ですが、特筆すべきは、「附録」として6頁に及ぶ「段顧校讎篇」がつけられていることです。まさに陳鱣の意を汲んだものと言えましょう。段・顧の論争を考える上でも必備の文献です。

「段氏が嘉慶20年に亡くなった後も、顧千里はなお「わだかまり」をもっていた」と先に書きましたが、これも汪氏が引いた顧千里「重刻宋本儀禮疏後序」(道光10年、1830)によるものです。

顧千里の生き方


最近、なぜか顧千里(1766-1835)のことが妙に気にかかり、台湾出張の間も顧千里の年譜一冊を読みながら過ごしていました。李慶氏『顧千里研究』(上海古籍出版社、1989年)を久しぶりに取り出して読んだのです。

顧千里の事跡が綿密に調べ上げられており、完成度の高い年譜であり、そればかりでなく、この書物を読むことで顧氏の学問と人生が浮かび上がるように書かれています。初めて読んだ時の感動が今回もよみがえりました。

その中でも、最も心にのこったのは、嘉慶5年(1800)の年末、35歳の顧氏が地元の蘇州を離れて杭州へと旅立つに際して、古くからの親友である戈襄が彼に贈った文章です。阮元(1764-1849)が十三経注疏の校勘を行うための一員として、顧千里を杭州に招いたのです。誇り高い仕事ではありますが、とかく純粋にすぎて人と合わない顧氏の性格を、戈襄は深く憂慮しました。

顧子行端潔、性剛果、故出語恒觸人。醉後議事、尤中時要、而慢易人尤甚。即不慢人、習見者多徙席以辟。余之交顧子以此、而顧子之不合於世亦以此。今使顧子游而遂降其操、易其貞、非吾顧子矣。不降且易、則恐其識顧子者少、而遂至不能容也。況游士之紛雜瑣碎、此推彼翼、互譽交進、舉世一趨。乃所異者、獨吾顧子爾。顧子於游士之中下者、固奴畜之。其上者、亦非眉目間人、遇之當必有揮斥。不則、亦談笑置之、不與之同也、決矣。人見顧子之獨異、而妬且恨、又決矣。顧子誠明哲、其不能暢達所懷、而或幾乎有所沮止也、又決矣。(『半樹齋文』卷10「贈顧子游序」)

潔癖で、みずから持するところの高い顧千里が、杭州という未知の地でうまくやっていけるのか?それは、不可能であると思える。顧千里の性格は、杭州の人士との摩擦を必ず引き起こす。とはいえ、阮元のこの招きを断るわけにもゆかない。いかんともしがたい…。旅立つ顧千里に、戈襄はそのような序を贈りました。

これを読んだ顧千里は何を思ったのでしょうか。

戈襄が序を書いた二年後、嘉慶7年の暮れ、杭州の地でたくさんの学者と闘い、疲れた顧千里は、蘇州に戻りました。果たして戈襄の予言が的中したわけです。しかし、このことは戈襄のみならず、顧千里自身にもあらかじめ分かっていたことであったのかもしれません。

そのいさかいが事前に予測され得るものであったとはいえ、いったん事が大きくなると、もう後には引き返せません。杭州滞在中の二年間に蓄積された摩擦は、顧千里の生涯に大きな影を落としました。段玉裁(1735-1815)との対立がよく知られますが、それはやがて、親友の黄丕烈(1763-1825)との交友を破壊することにさえなりました。

私は近頃、そのような顧千里の生涯に思いを寄せてしまいます。校勘学の天才でありながら、ほかの学者との衝突ばかり繰り返した彼の人生は、一体、何であったのか?著作らしい著作も遺さず、他人のための校書に明け暮れた意味はあったのか?そういった疑問は、古典を学ぶ後輩であり、しかも人と合うことの少ない、自分が抱くべきものであるように思えるのです。

『荘子』を見る眼


江戸時代に生きた読書の先達、敬首和尚(1683-1748)。内藤湖南「敬首和尚の典籍概見」をもとに昨日、紹介しました。『内藤湖南全集』第12巻(筑摩書房、1970年)。

敬首和尚が目録学を体得していた点を湖南は高く評価しました。それはきわめて得難いことだからです。しかしその点以外にも、『典籍概見』からは敬首和尚の深い学識をうかがうことができます。

たとえば、『易』『老子』『荘子』の読み方のコツを次のように言っています。

『易』の書は、その義ははんじもの也。『老子』の書は、なぞなり。『莊子』の書は、諸事をさかさまに云なり。此の三書は各々文のままには其義通ぜず。皆共にこくびを傾げ思案して、能くはんじ、能くなぞを解き、能く口上の裏表を合點せねばならぬ也。故に此の三書を三玄と云ふ。玄とは幽玄なる義どもなればなり。

『易』『老子』『荘子』をさらりと通読しても、ほとんど何も得るものはありません。それらの書物の難解さに苦しんだ人にとって、それは分かりきったことですが、では、どうすればよいのか?和尚は、それぞれの書物を「『易』=はんじもの」、「『老子』=なぞ」、「『荘子』=さかさまに云う」と、あざやかに言い当ててみせ、その上で、「こくびを傾げ思案して、能くはんじ、能くなぞを解き、能く口上の裏表を合點せねばならぬ也」と読み方のコツを披露しています。ちょうど、詰め将棋の本を見る感じですね。これは出色です。

これほど面白くてためになる「三玄の読み方」は、見たためしがありません。和尚はさぞかしユーモアあふれる人だったのでしょう。

韓愈と柳宗元の散文を比較した、次の一段も痛快です。

韓文は源と『莊子』を祖として悟入す、故に其の筆、自在なり。柳文は源と『春秋』を祖として悟入す、故に其の筆、自在ならず。『莊子』はまめぞう口なり。『春秋』は公家の口上の如し。

韓愈の文体のもとは『荘子』、柳宗元の文体のもとは『春秋』。この「探源」自体、目録学的であり、玩味するに足るものですが、ことに楽しんだのは、「『莊子』はまめぞう口なり」の一文です。「まめぞう」とは何か?『日本国語大辞典』で「まめぞう(豆蔵)」を引くと、その第1項に次のようにあります。

(江戸時代、延宝〔1673-81〕の頃、大阪にいた力持の乞食の名から)手品や曲芸をし、滑稽な身振りや口上で人を笑わせて銭を乞うた大道芸人。豆蔵坊主。
*随筆『斉諧俗談』(1758)三、「豆蔵(マメゾフ)貞享、元禄のころ、摂津国に一人の乞食あり。名を豆蔵(マメゾウ)といふ。市町に出て、常に重き物をささげて銭を乞」。
*滑稽本『東海道中膝栗毛』(1802-09)七・下「見せもの、まめぞう、よみうり、こうしゃく」。…。

「まめぞう口」とは、大道芸人のように面白おかしく人を惹きつける話しぶり、ということになるでしょう。

「荘子は(『史記』でいえば)滑稽列伝中の人だ」という説を聞いたことがありますが(残念ながら、誰の説なのか失念してしまいました。ご存じの方はご教示ください)、まさにそれに通じます。

ひるがえってみれば、敬首和尚は、滑稽な大道芸を眺めつつ「荘子みたいな芸だな」とニヤリとしたに違いありません。それこそ、読書の達人でなければ、やりおおせぬ芸当なのです。

日本に目録学なし


「日本に目録学なし」。この強烈なアンチテーゼには一瞬にして引き込まれました。日本学には暗い者ではありますが、それでも、これまで眼に触れた書物から推すなら、きっと日本には目録学はなかったのだろう、と肯きたい気分になります。

このことばは、内藤湖南「敬首和尚の典籍概見」冒頭の一句です。『内藤湖南全集』第12巻(筑摩書房、1970年)所収。

 日本に目録學なし。目録や解題の書は相應に古き世より之あり、漢籍にては日本國現在書目、佛書にては八家の將來録などより、信西入道の藏書目、清原業忠の本朝書籍目録、これらは古書を考ふる者の缺くべからずとする所にして、徳川時代に入りては林道春父子の日本書籍考、經典題説が解題の嚆矢となりしより、遂に支那人をして其の名著に驚かしめたる經籍訪古志のごとき者さへ出づるに至りたり。故に目録の書は觀るべき者少しとせざれども、目録學の書に至りては、殆ど之あるを見ず。

 されば一人にても半人にても、此間に目録學らしき者を爲したる人あらば、之を空谷の跫音とせざる能はざるなり。余は敬首和上の「典籍概見」を以て、我邦に於ける殆ど唯一の目録學書として推薦せざるを得ず。

この一文を読み、是非とも『典籍概見』を一読したくなりました。宝暦年間に出された版本は珍しい本ですが、幸い、汲古書院が出した次の叢書に影印が収められていて、現在では容易に見ることができます。長澤規矩也・阿部隆一編『日本書目大成』第三巻(汲古書院、1979年)所収。

その解題を引いておきましょう。

典籍概見 釋敬首(隨縁道人)撰 釋天心筆記 釋大梁校 寶暦四年〔1754〕四月刊本 半一冊
寶暦四年芝増上寺僧大梁序、題言、同年海雲跋。道書・儒書・私史・國史・野史に渉って、分類綱目ならびに各類中の代表作について説明し、学び方、讀み方を記したもの。
著者は浄土宗の僧、晩年、下谷に瓔珞庵を結び、書庫真如院に數萬の古書を藏した。寛延元年〔1748〕寂、六十六歳。跋末に「和泉屋新八」と刊者の名を刻入した傳本がある。

本文わずかに27葉の薄い本ですから、すぐに読み終わりましたが、痛快な読後感、確かに素晴らしい書物です。目録学を理解し、そしてその目録学を応用して万巻の書籍を読み解いた、その跡をありありと示しています。同時代の中国には敬首和尚ほどの見識を有した学者が幾らもいたことでしょうが、日本ではおそらく唯一人ではなかったのでしょうか。

よい師、よい友がいて、よい学問ができるのは、当然です。しかし敬首和尚は、独学してこの境地にいたったものか、と想像されます。数万巻の蔵書とは理想的な環境でしょうが、それにしても、よい師もなく、みずからの力で漢籍をここまで読み解けたとすれば、それは驚異的です。「絶せる炯眼を具して、博覽の餘に自然に著述源流の學を、髣髴として把捉し得たる者」と湖南が激賞する道理です。

ただ、「其書は自ら筆を執りて記述したるにあらずして、其の弟子天心の筆記に成り、而も其の歿後に刊行せられたれば、往々筆者の誤と見ゆる處あり」と湖南も言うとおり、首を傾げてしまうようなところもあります。

それらの瑕疵は畢竟、敬首和尚が自分で書いたものではなく弟子の編輯になる、という経緯に由来するのでしょう。敬首の弟子の一人、海雲が書いた跋文は、その間の苦悩を濃くにじませています。

蓋し此書は、先師二三の小子の為めに、漫説せる一時の茶話を、天心の録せるものにて、刊定の書にしもあらず。豈にはからんや、今日壽梓の舉あらむとは。夫れ先師非常の識にして、其述する處多しといへども、帳中に秘して、さらに人間に流行することを許し玉はざりき。然るに此書の如き、梁子の手に落ちて、先づ世に行はるるものは、それ幸とせんか、また不幸とせんか。既でに上木の功畢れり、何かんともすることあたはず、看了一過して、ただ先師の説なる事を証明するのみ。

「もう出版の仕事は終わってしまった、もうどうすることもできない」。敬首の学識が正しく反映されていない、という思いが、弟子の海雲にあったに違いありません。しかし、後世の我々にとって、この書物がまがりなりにも出版されたことは「幸」とすべきでしょう。そうでなければ、敬首和尚という卓越した学者がいたことすら、知られずに終わったのですから。

今となっては、外典に関する敬首和尚の学識をうかがうよすがは、『典籍概見』のみです。この点については、残念というほかありません。ただ『国書総目録』を見ると、『阿弥陀経』の注釈などが写本として伝えられているようですから、余力があればいずれ読んでみたいものです。

藩札の学問


對嵐山房雅會記念寫眞
對嵐山房雅會記念寫眞

筑摩叢書に収められている神田喜一郎『敦煌學五十年』(筑摩書房、1970)に、「大谷瑩誠先生と東洋學」の一文があります(p.171-182)。

浄土真宗大谷派連枝、大谷大学学長でもあった大谷瑩誠師(1887-1948)の十七回忌法要に際しての記念講演ということで、神田氏は、大谷師の東洋學を概観した上で、次のように述べています。

大谷先生が御興味をお持ちになりました學問は、大體、以上お話いたしましたような諸方面にわたるように窺うのでありますが、それは、明治の末期から大正の初にかけて、とくに京都の地を中心として勃興いたしました新しい中國學の傾向と一致しているのであります。

その時代の中國學の指導者でありました内藤湖南先生とか狩野君山先生とかは、學問は世界的のものでなければならないということを、よく申されました。とくに狩野先生は、私どもに對して藩札の學問であってはならないと教えられたものであります。昔、江戸時代、日本全國が澤山の藩に分かれておりましたとき、各藩ではそれぞれ紙幣を發行いたしました。それが藩札であります。藩札は、その藩内では金銀同樣に通用いたしますが、藩外へ一步出ますと全くただの紙切れにすぎない、そういう性質のものであります。これに對して、金銀ならば、どこの藩でも同じように通用いたします。

狩野先生は、學問はすべからく金銀のように世界中どこへ出しても通用するものでなければならないということを仰言ったのであります。

いったい日本では、昔から漢學という長い傳統のある學問がありまして、これは、非常に尊いものであり、價値のあるものでありますが、しかしながら、この漢學は、長い鎖國時代に發達いたしましたもので、これをそのまま中國へ出しては通用いたしません。

内藤湖生や狩野先生は、それではいけないと考えられたのでありまして、京都に新しく勃興しました中國學は、こういう大きな理念のもとに發達したものであります。大谷先生は全くこれに御共鳴になったのであります。(p.177-178)

いまこそ、「新しい中國學」草創の理念を想起すべき秋ではないのでしょうか。

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徐仙民


 劉師培『經學教科書』は、未完の書ながら、経学史を知るのによい手引きですが、その第19課「三國南北朝隋唐之春秋學」に、魏晋時代の『春秋穀梁傳』解釈を説明する、次の一文があります。

説『穀梁』者、有唐固・麋信・孔衍・江熙・程闡・徐先民・徐乾・劉瑤・胡訥十數家、范寧集衆家之説成『穀梁集解』。

 范寧「春秋穀梁傳序」の「釋『穀梁傳』者雖近十家、皆膚淺末學不經師匠」という文句があり、それを唐の楊士勛『春秋穀梁疏』が解釈したものが、この劉師培の説明のもとになっていますので、引用して対照してみます。

近十家者、魏晉已來注『穀梁』者、有尹更始・唐固・麋信・孔演・江熙・程闡・徐仙民・徐乾・劉瑤・胡訥之等、故曰「近十家」也。

 両者には幾つかの異同がありますが、いま注目したいのは、「徐仙民」(劉氏は「徐先民」と表記)です。この人は徐邈という東晋時代の学者で、あざなは「仙民」(『經典釋文』叙録、及び『晉書』に書いてあります)。経書に「反切」をつけ、その読音を明らかにしたことで知られ、『経典釈文』には彼の説がとても多く引用されています。

 ところが、数年前に出版された陳居淵氏の『経学教科書』注(上海古籍出版社、2006年)には、「徐先民、范寧『春秋穀梁傳序考證』作「徐仙民」、生平事跡不詳」(p.74)とあります。『春秋穀梁傳序考證』というのは不正確ですし、また徐邈のことだとも気づいていないようです。この注は完成度の低いものですので、お読みになる際にはご注意を。

 それはそうと、『隋書』経籍志に「『史記音義』十二卷、宋中散大夫徐野民撰」という書物があります。現存しませんが、裴駰『史記集解』に「徐廣」としてたくさん引用されています。『史記』の読音と訓詁を明らかにしたものです。

 この徐野民『史記音義』については、銭大昕『廿二史考異』巻三十四の『隋書』経籍志の考異に、次のようにいいます。

即徐廣。隋人避諱、因稱其字。然廣又有『晉紀』四十五卷、『車服雜注』一卷、却稱名不稱字、蓋唐時修史不出一手、故多駁文。又如「民」字、避唐諱、例當作「人」、…、此徐野民仍用本字、則由後來校書者妄改、又不能盡改也。

 徐廣は、名(廣が隋の煬帝の名)も字(民が唐の太宗の名)も、隋唐の帝王の諱に当たってしまった、珍しい人です。

 もうお察しのように、上に挙げた徐邈(あざなは仙民)と徐広(あざなは野民)、兄弟です。徐広は、『晉書』卷八十二に、伝が立てられていて「徐廣字野民,東莞姑幕人,侍中邈之弟也」とありますから、徐邈が兄で、徐広が弟。『晉書』卷九十一の儒林傳には徐邈の伝があり、兄弟ともに当時の名士でした。兄弟で経学と史学とを分担して研究し、「音義」をつけた、という点に興味をひかれました。

許慎の故郷にて


趙振鐸先生筆跡  『説文解字』の著者、許慎の故郷は、汝南の召陵。現在の地名で言うと、河南省漯河市召陵区です。その漯河市にて、許慎の偉業を称える第2回「許慎文化国際研討会が大々的に催され、私も参加してきました。

 この会議に関して書くべき事は少なくなく、許慎を顕彰すべく新しく、許慎の墓の前に「許慎文化園」が作られたことなどは、その様子を日本の読者にお伝えすべき事ですが、それは、後日のこととさせていただくこととして、何より、多くの旧知の先生方に拝謁し、そして、初めてお目にかかる方々が多かったことが、私にとって嬉しいことでした。

 中でも、このブログでも紹介した趙振鐸先生のお目にかかることができたのは、望外の幸せです。『訓詁学概論』『訓詁学史略』の著者である趙先生は、私が心から尊敬する学者です。この学会の席で、何度かお見かけしても、緊張のあまり挨拶することもできませんでしたが、思い切ってお声をおかけすることができました。

 素直に大ファンである旨を告げると、快く握手してくださいました。そして、”boduoyetailang”先生という日本人と友人である、とおっしゃいました。日本人の姓名は、中国語で聞くと分からないので、紙に書いてもらいました。それが上掲の写真です。そして、「波多野先生はお元気か?」と問われました。私自身、波多野先生のご業績を愛用させてもらいながら、一度もお目にかかったことがなく、それゆえ、趙先生のご質問にも答えられなかったのは、実に残念でした。それでも、趙先生と波多野先生との交流に思いをはせ、とても満足しました。一生、忘れられない思い出となることでしょう。

 そして今夜は、学会も閉幕し、同じように敬愛してやまない葉国良先生のお酒におつきあいさせていただくことができたのは、幸せのきわみです。白酒の杯を傾けながら、親しく葉先生の高邁な理想をうかがい、深く感動しています。

 もちろん、この感動を今後、どのように自分の学問に反映させるのか、それが一番の問題であることは、間違いないことです。