カテゴリー別アーカイブ: 文献考証

留、劉と通ず


狩野直喜「経史子概要」(『漢文研究法』、みすず書房、1979年、所収)は、経書の簡潔な解説ですが、『詩経』の解釈における、毛伝と朱子集伝との違いを述べています。その例として、王風の「丘中有麻」の詩を挙げているので、ここに引用します(p.112)。

王風「丘中有麻」に、
「丘中有麻、彼留子嗟、彼留子嗟、將其來施施」云々
朱傳に、
「婦人望其所與私者而不來、故疑丘中有麻之處復有與之私而留之者」云々
と解せり。古義によれば、
「丘中有麻、思賢也、莊王不明、賢人放逐、國人思之而作是詩也」云々
曹劉と通ず。漢書地理志、水經注などにあり。

問題は末尾の「曹劉と通ず」であり、校訂者は「原稿にかく見えるが、文意は通じない」と注記しています(同書、p.113)。

確かにこれでは意味が通じません。著者の意図は「留、劉と通ず」であったと、わたくしは推測します。「曹」は「留」の誤りでしょう。

「彼留子嗟」という詩の句を、毛伝は「留、大夫氏。子嗟、字也」と解釈しています。つまり、留という氏の周の大夫(そのアザナは子嗟)を詠んだ詩、と理解するわけです。

その「留」は、文献のなかでは「劉」とも表記されます。例えば、『漢書』地理志、河南郡緱氏県の班固自注に「劉聚、周大夫劉子邑」と見え、また『水經注』洛水の部分に「合水北與劉水合、水出半石東山、西北流于劉聚、三面臨澗、在緱氏西南周畿内劉子國、故謂之劉澗」とあります(いずれも馬瑞辰『毛詩伝箋通釈』に引かれる資料です)。これらから、劉氏(留氏)の領地が河南の地にあったことが分かります。

以上のことが、著者が「漢書地理志、水經注などにあり」と言われたことの意味であろうと思います。

なお、『毛詩正義』が毛伝に沿って理解しているのは当然ですが、正義においてもすでに「下云「彼留之子」與『易』稱「顏氏之子」其文相類、故知劉氏、大夫氏也」といっており、「留」と「劉」との通仮が前提とされています。

毛伝と朱子集伝との比較からいえば、朱子はそもそも「留子嗟」を人名として理解していないので、その差は歴然としています。

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虎賁中郎(職官とは無関係です)


『尚書注疏』の善本と言えば、足利学校に蔵する宋版が挙げられますが、江戸時代にこれを覆刻した本があります。「足利本は松崎慊堂(1771-1844)の校審により弘化四年(1847)熊本藩時習館に於て覆刻され流布し」た(「日本国見在宋元版本志経部」(『阿部隆一遺稿集』第一巻、汲古書院、1993年)、という本です。

京都大学人文科学研究所が所蔵するこの弘化年間の覆刻本には、吉川幸次郎(1904-1980)の跋が加えられており、その全文をこのブログでもかつて紹介しました

kohon吉川氏の跋文の中に「足利闕頁、此皆不闕、則虎賁中郎、誠足貴矣」の一文があります。「虎賁(コホン)中郎」とは、武官の官名ですが、ここで何を言うのか、当時、判然としませんでしたので、触れずに置きました。ところが、最近、藤田吉秋氏よりコメントを頂戴し、再考する機会を得ました。

私は初見の時から、「虎賁中郎」の後に「誠足貴矣」と続くのが不思議でした。「貴」という動詞の対象が、「虎賁中郎」であると読めるからです。そうであるとすると、「虎賁中郎」は、誰か人を指すのではなく、この本(宋本を写した古梓堂文庫本)のありかたを言うことになります。

そこで、少し調べてみると、『世説新語』言語篇に「(桓玄)問左右:「虎賁中郎省,應在何處?」有人答曰:「無省」」とありました。虎賁中郎省はどこに置くべきか、という桓玄の質問に、「(建物としての)省はありません」とある人が答えた、という話です。そこで私は、この逸話を題材にして、「省略(=「省」)のない本のことを虎賁中郎と言ったのではないか」、と仮説を立てました。

古梓堂文庫本『尚書注疏』の場合、省略というよりは闕葉がないというわけですし、「無省」から連想して吉川氏が「虎賁中郎」と言った、というのは、やや飛躍も感じます。

そこで、もう少し調べてみました。本に省略や闕がないことを称して、「虎賁中郎」と表現する例はないものか、と。すると、葉德輝(1864-1927)『書林清話』に、この表現二個所を見つけました。

按『天祿琳琅目』載宋版書甚多,而御題又云「若此者亦不多得」。嘉慶二年,武英殿災,目載之書,同歸一燼,神物久歸天上,留此題跋,可見宋本書之精妙,古今人之愛護,心理相同。『文選』今尚有明袁褧仿宋裴氏本,國朝胡克家仿宋尤丞相本,可作虎賁中郎。『漢書』則形影無存,尤令人追思無已矣。(『書林清話』卷六「宋刻書箸名之寶」)

國朝官刻、家刻書,同有一缺事。如十三經注疏、史、漢、三國、皆有北宋、南宋及元刻本傳世。内則登之天祿琳琅,外則散見各藏書家書目。既已無本不善,隨刻一種,皆可為虎賁中郎。(『書林清話』卷九「國朝不仿宋刻經史之缺典」)

葉德輝は、本の闕損がない、という意味で「虎賁中郎」を用いたわけです。『世説新語』の故事を用いた、一種の衒学的な諧謔といえましょうか。吉川氏の跋文は、これを踏まえたものだと考えます。

藤田氏のご指摘があって、はじめて調べる気になりました。ご縁に深く感謝いたします。

選曹七貴


『資治通鑑』によると、隋の煬帝の大業二年(606)頃のこと、本来、人事を統括すべき吏部尚書の地位にあった牛弘(545-610)は、その職務を一人で行うことを許されませんでした。牛弘は、蘇威(542-623)、張瑾(?- ?)、宇文述(?-616)、裴矩(557-627)、裴蘊(? -618)、虞世基(? -618)の六人とともに合議によって人事を行い、時の人は彼らを「選曹七貴」と呼んだ、とのこと。

時牛弘為吏部尚書,不得專行其職,別敕納言蘇威、左翊衞大將軍宇文述、左驍衞大將軍張瑾、内史侍郎虞世基、御史大夫裴蘊、黄門侍郎裴矩參掌選事,時人謂之「選曹七貴」。雖七人同在坐,然與奪之筆,虞世基獨專之,受納賄賂,多者超越等倫,無者注色而已。(『資治通鑑』卷一百八十,隋紀四,大業二年)

『資治通鑑』の記事は、主に正史に基づく部分が多いのですが、しかし、「選曹七貴」は『隋書』に記載がなく、代わりに「五貴」に関する記事が『隋書』蘇威伝に見えます。

煬帝嗣位,加上大將軍。及長城之役,威諫止之。高熲、賀若弼等之誅也,威坐與相連,免官。歳餘,拜魯郡太守。俄召還,參預朝政。未幾,拜太常卿。其年從征吐谷渾,進位左光祿大夫。帝以威先朝舊臣,漸加委任。後歳餘,復為納言。與左翊衞大將軍宇文述、黄門侍郎裴矩、御史大夫裴蘊、内史侍郎虞世基參掌朝政,時人稱為「五貴」。(『隋書』卷四十一,蘇威傳)

「五貴」をもとに、牛弘と張瑾(この人物はなぜか『隋書』に立伝されていません)の二人を足して、『資治通鑑』は「七貴」を仕立てたものとも見えます。

また『隋書』虞世基伝にも、虞世基が蘇威、宇文述、裴矩、裴蘊らと「朝政を參掌」した、とあります。

帝重其才,親禮逾厚,專典機密,與納言蘇威、左翊衞大將軍宇文述、黄門侍郎裴矩、御史大夫裴蘊等參掌朝政。

さらに虞世基伝には、「鬻官賣獄,賄賂公行,其門如市,金寶盈積」と見えており、これが、虞世基による乱脈人事と結びつけられ、『資治通鑑』の記事が綴られているのかも知れません。なお、この虞世基という人物、有名な虞世南の兄です。

ここで気になるのは時期のことで、『資治通鑑』は「選曹七貴」を大業二年に繫年しているのですが、かりに「選曹七貴」のような実態が存在したとしても、それは大業五年か六年のことではないかと思います。大業五年のこととして、煬帝が蘇威と牛弘の二人に、「清名天下第一の者」について下問しています。

大業五年入朝,郡國畢集,帝謂納言蘇威、吏部尚書牛弘曰:「其中清名天下第一者為誰?」威等以儉對。(『隋書』卷七十三,柳儉傳)

実は、蘇威は大業三年七月に一度、失脚しており、その後、(正確には分かりませんが)大業五年までには納言の職位にもどっています。『隋書』蘇威伝では、「五貴」のことをはっきりと蘇威の復帰以後のこととしていますが、『資治通鑑』は失脚前のことと誤って、大業二年に繫年したようです。

また、裴蘊が戸籍調査を徹底させ、「新附口六十四萬一千五百」を得て、その功績により御史大夫に抜擢された、というのも大業五年のことです(『隋書』卷六十七,裴蘊傳)。

『隋書』のこれらの資料を総合すると、「選曹七貴」と時人が呼んだことがもしあったとしても、それは大業五年か、もしくは六年のこととしか考えられません。当の牛弘は、大業六年十二月に逝去しました。時期については『資治通鑑』が誤っているはずです。

時期の話はともかく、「選曹七貴」というのは、ある種のフィクションではないかと私は思うのです。吏部侍郎の牛弘には人事の実権がなく、実は虞世基が人事を壟断し、賄賂を取って勝手に決めていた。そうでありながら彼ら七人が「選曹七貴」と呼ばれていた、というのでは、よく話が分かりません。

『資治通鑑』は(特に隋の記事については)正史以外の史料も参照していますから、すでに失われた有力な史料には確かに「選曹七貴」のことが書かれていたのかもしれません。その可能性は皆無ではありません。

しかし、如何でしょうか。この「選曹七貴」の話、「五貴」の評判と虞世基の不正人事の話(『隋書』を読むと、虞世基の妻の収賄のようなのですが)とを無理に取り合わせたものではないか。そう思えてなりません。

人名から宗教に及ぶ


六朝時代には、外来の仏教と並び、道教が広く信仰されました。道教の信仰は、庶民ばかりでなく貴族にも広がっていました。

道教は、個人個人の宗教的な選択によって信仰されるというよりも、むしろ家族によって信仰されていた。そして、それぞれの家族が住んでいた地域、特に中国の沿岸部に近い地域が、その信仰を育んだ。陳寅恪氏はそのように考え、次の論文をを書きました。

「天師道與濱海地域之關係」(『金明館叢稿初編』上海古籍出版,1980年。初出は『中央研究院歴史語言研究所集刊』第3本,第4分冊,1933年

論文の中では、道教を信ずる家族の例として、琅邪の王氏、高平の郗氏、呉郡の杜氏、会稽の孔氏、義興の周氏、陳郡の殷氏、丹陽の葛氏、東海の鮑氏、丹陽の許氏、丹陽の陶氏、呉興の沈氏が検討されています。

道教を信奉する家族か否かを判断する際、ひとつの手がかりとして採用されたのが、「名前に「之」字や「道」字を含む」ことでした。

すなわち中国では古くから、君主や親の名(いみな、「諱」)を呼ぶことを避ける「避諱」と呼ばれる習慣があり、親の名を口にすることすらできません。南北朝時代は、その習慣がもっとも厳しく遵守された時期でもありました。ところがその六朝時代、「之」「道」などを名に含む家族が多く見いだされ、これを観察すると、親にも子にもそれらの文字が共通する例がたいへんに多いのです。

有名な王羲「之」の息子に、王献「之」がいます。これは通常の避諱観からすると奇異ですが、道教徒はこれを意に介さなかったらしいのです。こういう理由で、「之」「道」字を名に多く用いる家族は、道教徒の一家である、という仮説が成り立ちます。

この仮説は、陳寅恪の得意の議論であったようで、次の論文にも応用されています。

「魏書司馬叡傳江東民族條釋證及推論」(『金明館叢稿初編』上海古籍出版,1980年。初出は『中央研究院歴史語言研究所集刊』第11本,第1分冊,1943年

この論文は、『魏書』司馬叡傳に見える少数民族を考証したものですが、その中に「谿」と呼ばれる民族があり、陳寅恪は、陶淵明の一家もその民族に属するといい、しかも一族に陶綽之・陶襲之・陶謙之など、名前に「之」字を持つ者が多いので、彼らは谿族、かつ道教徒の家系なのであろう、と言っています。

また同論文の中では、これも同じく谿族に属する胡諧之という人物に触れています。『南史』で彼にまつわる悪口を引き、「胡諧是何谿狗」とありますが、『資治通鑑』では「胡諧之」と、「之」字を補っています。これを陳寅恪は、司馬光の見識不足と見ています。すなわち、「之」は省略可能であって、実際、多くの資料に「之」を書かない例があるから、わざわざ補う必要はない、という主張です。

また、次の論文でも六朝人の「之」字に触れています。

「崔浩與寇謙之」(『金明館叢稿初編』上海古籍出版,1980年。初出は『嶺南學報』第11本,第1分冊,1950年

そこでも、『北史』巻27に寇謙之が「寇謙」と表記されることにつき、「之字非特專之真名,可以不避諱,亦可省略(之の字は、固有の本名ではなく、避諱せずともよいし、省略もできた)」と解釈しています。

以上が、「之」字をめぐる陳寅恪の議論です。「之」字を足すことが見識不足というのは、少々行き過ぎのようにも思いますが、ともかく、名前と宗教との関係を明らかにした大発見でした。

『穀梁疏』の作者、楊士勛


潘重規「春秋公羊疏作者考」(『學術季刊』第4巻、第1期、1955年)という論文を読みました。潘氏(1908-2003)は黄侃(1886-1935)の弟子に当たる方で、特に敦煌学者として名の通った方です。

この論文自体、たいへんに興味深いのですが、論旨とは関係のないところで、面白い考証が含まれていることに気がつきました。『春秋穀梁傳疏』を書いた、楊士勛という人物については、『春秋正義』(五経正義の一つ)の共同執筆者で、唐代初期の学者である、という以外、何も伝記が知られていない人物ですが、その人は、隋の学者である劉炫の弟子であった、そのように潘氏は言うのです。

『春秋穀梁傳』莊公二十七年「衣裳之會,十有一」の疏に「先師劉炫」と見える、というのがその根拠です。

『穀梁傳』が「衣裳の会」と呼ぶ殿様同士の会合が、その頃、十一回ありました。当時、中国の春秋時代(前770-403)は群雄割拠の時代であり、各国が覇を競い合っていたので、お互い同盟関係を結んだり条約を作ったりするため、殿様同士の会合がしばしば開かれていました。その際、犠牲の血をすすりあって同盟を結ぶという、少し気味の悪い習慣があったのですが、この時期、斉国に管仲という立派な大臣がいたので、血をすすりあわずとも、会合を十一回も開くことができた(彼らにしたところで、血をすする行為はできれば避けたかったのでしょう)。そういう管仲にまつわる美談です。

その十一回の数え方に、漢代から南北朝時代にかけて、諸説あったらしいのです。しかも、それが『論語』憲問篇に見える「九合諸侯(九回、諸侯が会合した)」と同じことを言っている、とみなが考えたので、話がややこしくなりました。二回分、数が合わないわけです。その議論を紹介する楊士勛の『春秋穀梁傳疏』に、確かに「先師劉炫」の名が見えます。なるほど潘先生、よく読んでいらっしゃるな、と脱帽しました。

自分の先生を「劉炫」と実名で呼ぶのは、いかにも不自然ですが、たとえば、楊士勛がもともと「先師劉光伯(光伯は劉炫のあざな)」と書いたのを、後の人が「劉炫」と書き改めたのだ、と、そのように推測することもできましょう。

少なくとも私には、潘氏の言うところが正しいように思えてきました。

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『王勃集』の断簡


『王勃集』上野本
『王勃集』上野本

『書法漢学研究』(第8号、2011年1月)という雑誌に載った論文を読みました。道坂昭廣氏「伝橘逸勢筆「詩序切」と上野本『王勃集』の関係について」と題された論文です。

『王勃集』は、我が国に古く伝えられた、唐の早熟の詩人、王勃(649-677)の詩文集であり、中国の本はその全貌を伝えていないので、日本に伝存している唐写本の残簡はたいへんに貴重なものです。道坂氏の論文(p.16)に従い、以下、列記します。

  • 「詩序」1巻として正倉院に伝わる41篇の「序」。
  • 上野本(上野尚一氏蔵)。唐の『王勃集』の巻28に相当。
  • 富岡本(「東博本」と呼ばれる。東京国立博物館現蔵)。唐の『王勃集』の巻29、30に相当。
  • 神田本(東京国立博物館現蔵)。巻29の残巻。

以上は、内藤湖南らが紹介して、すでに明らかになっていたことですが、道坂氏は、熱海市にあるMOA美術館が所蔵する『翰墨城』という手鑑(古筆を集めて貼り合わせたもの)の中に「橘逸勢の筆」と称される古筆切があることに注目され、そして、これこそが「上野本」から切り取られた、『王勃集』巻28の断片である、と論証されています。

わずかに3行を残すのみのこの断簡が、「陸□□墓誌」の銘文であることが、道坂氏の力によって論証されたのは、喜ばしい限りで、素晴らしい考証に敬意を表します。紙の裏(紙背)に書かれた仏書を根拠にした推理には、殊に切れ味を感じました。

ただ、この銘文にはいくつか読みがたいところがあります。道坂氏はこの断簡を「…泉不廻。悠々蒼天,此何人哉。先王有制,何為王摧〔其二〕。昔殷三仁,同謂哲達。士誘物誰,是顧生死。嗟乎弊俗,情變久矣。吾子隕…」と読まれ、この釈読は間違いないはずですが、「達」の字が韻を踏まないことは、特に不審です。いくつか誤字があるように思われますが、如何でしょう。

ともかくも、このように「上野本」から切り取られた断簡が見いだされたことは、たいへんに興味深く、京博にて現在開催中の展覧会、「筆墨精神」を展観する上でも、大きな楽しみとなります。開催期間中にまた足を運び、もう一度『王勃集』をながめてこようと思っております。

戸川芳郎「〈礼統〉と東漢の霊台」


 たまたま借り出した安居香山氏編『讖緯思想の綜合的研究』(国書刊行会, 1984)。科研の報告書であるが、楠山春樹氏・吉川忠夫氏の論文など、非常にレベルが高い。性質上、「これで讖緯思想が網羅される」といったものではないが。

 特に私の目を引いたのが、戸川芳郎氏「〈礼統〉と東漢の霊台」。タイトルのとおり、『礼統』というあまり知られていない礼学文献と、後漢時代の「霊台」と呼ばれる施設を考証した論文。「論文の体をなしていないのではないか」という批判もあるかも知れないが、文献考証が冴えわたり、さすがに考察が緻密。

 類書の用い方に妙味があり、勝村哲也氏の『修文殿御覧』研究(「修文殿御覧天部の復元」、『中国の科学と科学者』京都大学人文科学研究所, 1978)を引用して、類書編纂者たちの心理にせまっている。勝村氏の論文をかつて読んだ時の感動も再現された。

*『讖緯思想の綜合的研究』 Webcat所蔵図書館 62館(本日付)。
*『中国の科学と科学者』 Webcat所蔵図書館 78館(本日付)。