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殷墟にて


安陽の発掘現場
安陽の発掘現場

 漢字の初期の姿、甲骨文字。19世紀末に初めて発見されましたが、後にそれらの甲骨が、殷代晩期の都である、河南省北部の安陽、少屯村から出たことが明らかになり、1928年からその発掘が始まりました。殷墟と呼ばれる場所です。殷墟は2006年、世界文化遺産に指定され、多くの観光客を集めています。

 河南省に足を踏み入れたからには、是非とも殷墟を見学したいものだと思っていましたので、河南大学の先生に案内を乞い、この地に臨むことができたことは幸せでした。

 まずは、中国社会科学院考古研究所(考古所)に向かいました。河南大学の先生の友人がここに勤務しておられるからです。考古所は北京に本拠を置きますが、中国考古学上、殷墟が特別に重要な地位を占めるため、ここにも拠点があるのです。所が所有する車輌も、北京ナンバーです。

 殷墟の発掘は、民国時代、中央研究院歴史語言研究所(史語所)が行っていましたが、解放後は中国社会科学院考古所が責任を持って発掘を継続しています。今でも、毎年のように大きな発見があるそうです。

 そのおかげで、発掘中の遺跡も拝見することができました。広大な敷地にそのサイトはあります。掘りかえされた発掘現場をよく見ると、土を築き固める「夯土(夯築)」と呼ばれる技術を使って作られた壁が、層を成しているのが分かります。何よりショッキングなのは、掘り起こされたばかりの人骨が置かれてあることでした。それにしても、このような現場を案内していただけたのは、ありがたいことです。

甲骨を廃棄した穴
甲骨を廃棄した穴

 殷墟博物苑という博物館も見学しました。ここは観光客も多いところで、展示も充実しており、この地から掘り出された青銅器、甲骨が多く展示されています。ほかにも、甲骨の廃棄されていた穴のひとつを再現した展示、人骨を埋めた様子を再現したもの、有名な「婦好墓」を再現したものなど、広く殷墟を楽しめるように設計されています。特に、甲骨を廃棄した穴を見て、想像した以上に、数えられないほどの甲骨がまるでゴミのように大量に捨てられていたことを知りました。ただ私がこの方面に疎いだけなのですが、大きな穴に捨てられた甲骨の累積に圧倒されました。これをはじめて掘り起こした人々は、どれほど感動したことか。

 それにしても思うのは、殷代が実に残酷な時代であった、ということです。大量の殉死、人間の頭を盛るための青銅器。大量の人骨を見ていると、この時代、どれだけ人命が軽んじられていたのか、いやでも思い知らされます。

 以前、台湾の中央研究院史語所を訪問していたころ、日本から来た歯学部の先生の通訳としてその方のお供をし、史語所の所有する殷墟出土の頭蓋骨をたくさん見たのを思い出しました。その先生は、「顎の骨と歯を見れば、人種の系統は簡単に分かる」と言い、また「この歯をこの顎にはめるのは、間違い」と言いながら、パズルのようにどんどん「正しい」状態に戻してゆかれました。思えばあれらの骨も、もとは無残に殺されて埋められた殷の人々のものなのでしょう。

 これほどに人命を軽視した、殷の晩期。名君とされる高宗も、どんな君主だったか、知れたものではありません。殷の滅亡は、すでに命運、定まっていたというべきでしょう。

開封の鉄塔にて


開封鉄塔
開封鉄塔

河南省の東部に位置する開封市。この都市は、前近代において、数度にわたり国都となった、中原地域の古都です。まずは戦国時代の魏の都、大梁(BC364-BC225)。その後、しばらく国都とはなりませんでしたが、五代の時、後梁の都となり、続いて、後晋、後漢、後周が都を置き、そして、続いて北宋の首都となったのです。この都の繁栄は、「清明上河図」として、今にその記憶を伝えています。それ以降も、河南の中心として、長くその地位を保ちました。1954年に河南の省都が鄭州に遷るまで、この地は政治都市として機能し続けてきたのです。

ところがこの開封、黄砂の堆積がひどく、古い街並みがどんどん砂の下に消えてゆくと聞きました。北宋の建築は、ほとんど現存せず、地下8メートルに眠っているとのこと。ちなみに、地下25メートルに至るまで、各時代の遺物が累々と積み重なっているそうです。現在でも高層ビルを建てず、極力、地下には手をつけていません。

そんな中、鉄塔と繁塔という、二つの塔のみが、今もそびえ、北宋の面影を伝えています。高い建物のない開封の市内からは、塔がよく見えます。鉄塔は、河南大学のすぐ北に位置しているので、この大学で簡単な講義をしたついでに、見学してきました。

もともと、皇祐元年(1049)、開宝寺の塔として建てられたもので、八角の十三層、高さは55.88メートルあります。鉄塔といっても、鉄製ではありません。見るところ、鉄のような鈍い光を放つので、鉄塔というのだそうです。磚に瑠璃の釉薬をかけて金属のような質感を出し、それを積み上げて作った磚塔です。一つ一つの磚は、きわめて美しく、塔の姿も優雅。これまで、いくつか中国の古塔を見てきましたが、最も印象に残る塔です。

鉄塔から望む
鉄塔から望む

内部には非常に狭くて暗い階段が設けられており、観光客がおっかなびっくり登り降りしています。私も登って見ましたが、狭い窓から中原を見おろし、愉快でした。

朝鮮半島ほどの面積を持ち、1億の人口を擁する河南省、その中心であった開封。鉄塔から、その開封の下に埋まっているであろう歴史に思いを馳せました。

許慎の故郷にて


趙振鐸先生筆跡  『説文解字』の著者、許慎の故郷は、汝南の召陵。現在の地名で言うと、河南省漯河市召陵区です。その漯河市にて、許慎の偉業を称える第2回「許慎文化国際研討会が大々的に催され、私も参加してきました。

 この会議に関して書くべき事は少なくなく、許慎を顕彰すべく新しく、許慎の墓の前に「許慎文化園」が作られたことなどは、その様子を日本の読者にお伝えすべき事ですが、それは、後日のこととさせていただくこととして、何より、多くの旧知の先生方に拝謁し、そして、初めてお目にかかる方々が多かったことが、私にとって嬉しいことでした。

 中でも、このブログでも紹介した趙振鐸先生のお目にかかることができたのは、望外の幸せです。『訓詁学概論』『訓詁学史略』の著者である趙先生は、私が心から尊敬する学者です。この学会の席で、何度かお見かけしても、緊張のあまり挨拶することもできませんでしたが、思い切ってお声をおかけすることができました。

 素直に大ファンである旨を告げると、快く握手してくださいました。そして、”boduoyetailang”先生という日本人と友人である、とおっしゃいました。日本人の姓名は、中国語で聞くと分からないので、紙に書いてもらいました。それが上掲の写真です。そして、「波多野先生はお元気か?」と問われました。私自身、波多野先生のご業績を愛用させてもらいながら、一度もお目にかかったことがなく、それゆえ、趙先生のご質問にも答えられなかったのは、実に残念でした。それでも、趙先生と波多野先生との交流に思いをはせ、とても満足しました。一生、忘れられない思い出となることでしょう。

 そして今夜は、学会も閉幕し、同じように敬愛してやまない葉国良先生のお酒におつきあいさせていただくことができたのは、幸せのきわみです。白酒の杯を傾けながら、親しく葉先生の高邁な理想をうかがい、深く感動しています。

 もちろん、この感動を今後、どのように自分の学問に反映させるのか、それが一番の問題であることは、間違いないことです。

清華大学にて


海寧王先生之碑銘
陳寅恪「海寧王先生之碑銘」

 今日、清華大学を初めて訪問しました。清華大学は、1911年に創建された大学で、中国の近現代史を語る際、落とすことのできない要素の一つです。

 ということは、この大学を語るためには、数冊もの書物を書くことが当然、必要となりますが、ここにその余裕はもちろんありません。初めてこの学園を訪れた者として驚いたのは、この大学が、あまりにも鮮明に清朝の王族の庭園たる、熙春園(清華園)の面影を伝えていることでしょうか。学園内で見かける「水木湛清華」の語には、まったく偽りがありません。

 学内の到る所に名所があることは申すに及びませんが、漢学を専攻する者がまず第一に興味を抱くのは、陳寅恪が亡き王国維のために書いた「海寧王先生之碑銘」に違いありません。この碑は、文革中、行方知れずになっていたそうですが、後に分かってみると、どこかの実験室の物置台になっていたということです。今は「恢復」されて、誰でも参観できるようになっています。

立碑の分業 面白い話をうかがいました。近年、これも「恢復」された清華大学の文科の授業において、ある先生は、この碑の内容を理解しているかどうか、清華の学生に様々な問題を出すそうです。とても文化的な話だと、私は感じました。

 ここは本当に素晴らしい学園です。学生寮は低額、食堂も品数豊富で安価ときては、学生にとっては実に魅力的なことでしょう。

 漢学の伝統も復活させ、来年、清華大学は建学100周年を迎えます。これから、この大学がどのように発展してゆくのか、大いなる関心を持って見守っています。

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ミレス作のヘディン像


ミレスのポセイドン スウェーデンを代表する彫刻家、カール・ミレス(Carl Milles, 1875-1955)の自宅兼アトリエを公開している、ミレス・ガーデン(Millesgården)を見学してきました。

 ストックホルムの市街の公共施設などに相当数の作品が今も伝えられる作家で、肉体の構造をかなり軽視した独特の人体描写、「野蛮な微笑み」と称される表情の造形を行っています。一度見ると忘れられない、個性的な表現です。彼が作るブロンズ像は、かなり複雑な制作工程を重ね、手間と金のかかるものであった、と聞きました。そのような彫刻を自宅の庭園に集めたのが、ミレス・ガーデンです。

Statue of Sven Hedin そのミレスが作ったスウェン・ヘディン像がこの庭に存在しました。ラクダにまたがったヘディンが、なにやら計測器のようなものを眼に当て、遠方をのぞんでいます。小さな像ではありますが、まさに探検家が次の一歩を踏み出すべく、遠くを眺めやっている、という趣で、力強く感じました。その表情に「野蛮な微笑み」があるわけではなく、ミレスの代表作というわけでもなさそうですが、ヘディンに対する思慕の念を抱きました。

 それ以外にも、面白いものを見ました。郭沫若(1892-1978)が1962年に揮毫した書が壁に掛けられているのです。それにより、郭沫若が3度もこの庭園、「米列士園」を訪れたことがわかります。郭沫若とミレス、ほかの資料からも両者のつながりを知りたいものです。

スウェーデン民族誌博物館にて


the museum of ethnography 本日、ストックホルムの民族誌博物館(英 the Museum of Ethnography, 瑞 Etnografiska Museet)を訪問。この博物館は規模こそ大きくありませんが、東洋学を志すものにとっては、大きな意味を持っています。というのは、この博物館は、スウェーデンの生んだ大探検家、スウェン・ヘディン(Sven Hedin, 1865-1952)の蒐集品や蔵書を収めているからです。

 ヘディンの発見は、中国史、中央アジア史にきわめて重要な資料をもたらし、新たな光を当てました。特に1901年における楼蘭の発掘はよく知られ、多くの概説書が書かれ、ドキュメンタリー番組も作られました。こ の博物館を訪れてヘディンに触れ、そしてヨーロッパの「探検熱」に触れ、有意義でした。

 楼蘭文書は通常展示としてもいくつか陳列されていますが、それ以外にも、「残紙」「木簡」を特別に見せていただくことができ、幸運でした。3世紀、4世紀の素晴らしい書法を目にすることができました。

 1989年に当時、西武百貨店の美術館で展示されたことがあります。その時、東京文化財研究所が仲介して、装丁をしたそうです。表裏両面に書かれた紙も数点ありますが、いったん表裏をはがした上で中に和紙を挟んで貼り合わせ、両面とも判読できる姿に再構成されています。博物館のホーカンさんは、「内容も素晴らしいが、装丁も同じように素晴らしい」と胸をはっていらっしゃいました。よくできた桐箱に入れられ、大切に保管されています。

 楼蘭の紙は敦煌の紙以上に古いものです。北欧の地にて、古い紙、古い墨を眼にするのは、不思議な体験です。「19世紀的な文化侵略」などと浅薄な批判をする気にはなれません。ここでは、中央アジアの遺物がたいへん重んじられていることを知りました。

 なお、この博物館に収める楼蘭文書は、冨谷至編著『流沙出土の文字資料-楼蘭・尼雅文書を中心に』(京都大学学術出版会、2001年)に収録されており、見ることができますので、図書館などでご覧ください。