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魏晋南北朝時代の石刻に見える漢字


数年前から、井波陵一教授をリーダーとして、京都大学人文科学研究所に蔵する拓本を読んでいます。私もその末席に連なっており、魏晋南北朝時代の石刻の拓本に親しむ機会を得てきました。

それら石刻に刻まれた漢字は、基本的に現在我々が読み書きするそれと大きく違いはしませんが、後世のように強い規範意識がはたらいていたわけでもないらしく、同じ文字についても、実にさまざまに書かれています。今では、筆画の微小な違いを味わうのも、楽しみのひとつとなっています。

南北朝時代の石刻に見える異体字を調べる工具書としては『碑別字新編』(秦公輯、文物出版社、1985年)があり、私も重宝しています。またネット上には、「拓本文字データベース」という便利な道具もあります。ボックスに文字を入れるだけで、さまざまな異体字が調べられます。

しかし同じ字であるのに、形がばらばらで、決まった「正しい」書き方がないというのは、後世の基準で律すれば、かなり無秩序で、いい加減なことにも見えます。「魏晋南北朝の石刻に見える字はいい加減だ」という見方が、研究者にもあります。

毛遠明氏「魏晉南北朝漢字的特徵及規律」(《山西大學學報(哲學社會科學版)》35-6, 2012年11月)は、そのような見方に対するひとつの反論です。この時代の石刻資料に見える漢字には、理性的に書かれた字と、非理性的に書かれた字があるが、理性的な字、まともな根拠のある字の方が多い、というのが、毛氏の考え方です。

魏晋南北朝時代は、漢代の隷書から規範的な唐代の楷書に向けて漢字が変化・定着してゆく過渡期に当たり、その展開が複雑であるのですが、複雑ではあるが、必ずしも無秩序とはいえない、というわけです。

石刻に見える「表」字の例
石刻に見える「表」字の例

たとえば、楷書で書かれている石刻の中に、たまに篆書の要素が現れていたりすることにも指摘がありました。決してでたらめに書かれたものではありません、先祖返りのようなものでしょうか。「表」の篆文は「衣」の間に「毛」を書く形ですが、まさにそのような形が石刻に見えます。この形の「表」は、先日の研究班で見かけたばかりでしたので、面白く感じられました。

上部を「山」に作る「歳」
上部を「山」に作る「歳」

また「止」の要素を「山」と書く例、反対に「山」の要素を「止」と書く例、「口」の要素を「ム」と書く例、「ム」の要素を「口」と書く例なども挙げられています。これらは、帰納的にもっとたくさん用例を引き出せると思います。時間があれば、『碑別字新編』を用いて挙例してみたいものです。

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『王勃集』の断簡


『王勃集』上野本
『王勃集』上野本

『書法漢学研究』(第8号、2011年1月)という雑誌に載った論文を読みました。道坂昭廣氏「伝橘逸勢筆「詩序切」と上野本『王勃集』の関係について」と題された論文です。

『王勃集』は、我が国に古く伝えられた、唐の早熟の詩人、王勃(649-677)の詩文集であり、中国の本はその全貌を伝えていないので、日本に伝存している唐写本の残簡はたいへんに貴重なものです。道坂氏の論文(p.16)に従い、以下、列記します。

  • 「詩序」1巻として正倉院に伝わる41篇の「序」。
  • 上野本(上野尚一氏蔵)。唐の『王勃集』の巻28に相当。
  • 富岡本(「東博本」と呼ばれる。東京国立博物館現蔵)。唐の『王勃集』の巻29、30に相当。
  • 神田本(東京国立博物館現蔵)。巻29の残巻。

以上は、内藤湖南らが紹介して、すでに明らかになっていたことですが、道坂氏は、熱海市にあるMOA美術館が所蔵する『翰墨城』という手鑑(古筆を集めて貼り合わせたもの)の中に「橘逸勢の筆」と称される古筆切があることに注目され、そして、これこそが「上野本」から切り取られた、『王勃集』巻28の断片である、と論証されています。

わずかに3行を残すのみのこの断簡が、「陸□□墓誌」の銘文であることが、道坂氏の力によって論証されたのは、喜ばしい限りで、素晴らしい考証に敬意を表します。紙の裏(紙背)に書かれた仏書を根拠にした推理には、殊に切れ味を感じました。

ただ、この銘文にはいくつか読みがたいところがあります。道坂氏はこの断簡を「…泉不廻。悠々蒼天,此何人哉。先王有制,何為王摧〔其二〕。昔殷三仁,同謂哲達。士誘物誰,是顧生死。嗟乎弊俗,情變久矣。吾子隕…」と読まれ、この釈読は間違いないはずですが、「達」の字が韻を踏まないことは、特に不審です。いくつか誤字があるように思われますが、如何でしょう。

ともかくも、このように「上野本」から切り取られた断簡が見いだされたことは、たいへんに興味深く、京博にて現在開催中の展覧会、「筆墨精神」を展観する上でも、大きな楽しみとなります。開催期間中にまた足を運び、もう一度『王勃集』をながめてこようと思っております。

「筆墨精神」


IMG_0030 京都国立博物館にて、現在開催中(会期:2011年1月8日-2月20日)の展示会「筆墨精神-中国書画の世界」を観覧してきました。

とにかく、会場に立ち入るなり、唐以前の写本のみで第1室が埋められており、これには圧倒されました。それも、近代にもたらされたもののみならず、遣唐使が将来した「古渡り」のものも多くありました。これほどの充実ぶりは予期していませんでした。以下にそれらを列記します。

  • 『法華経』『大智度論』(中国・南北朝時代、5世紀。*クチャ出土。京博)
  • 『三国志』呉志巻12(中国・南北朝時代、5世紀。トルファン出土。書道博物館)
  • 『三国志』呉志巻12(中国・南北朝時代、5世紀。トルファン出土。上野家)
  • 『三国志』呉志巻20(中国・南北朝時代、5世紀。楼蘭出土。書道博物館)
  • 『真草千字文』(中国・隋-唐時代、7世紀)
  • 『漢書』楊雄伝(中国・唐時代、7世紀。上野家)
  • 『世説新書』巻6(中国・唐時代、7世紀。京博)
  • 『玉篇』巻9(中国・唐時代、7-8世紀)
  • 『毛詩正義』秦風(中国・唐時代、7-8世紀。京都市)
  • 『王勃集』巻28(中国・唐時代、7-8世紀。上野家)
  • 『冥報記』(中国・唐時代、8世紀。高山寺)
  • 『文選』「弁命論」(中国・唐時代、8世紀。上野家)

私の関心は、もちろん、初めて眼にする写本『真草千字文』でした。予想よりも、わずかに小さく感じましたが、しかしながら、予想以上に力強い筆でした。写真は見慣れているはずなのに、やはり実物は違うもの、と、感銘を受けました。できることなら、啓功氏にも見てもらいたかったものです。

そのとなりには、宋拓の智永『真草千字文』(隋時代、6世紀。京博(上野コレクション))が並べてありました。この拓本は、「関中本」と呼ばれるもので、写本とともに「神疲守真志滿逐物意移」の行から「浮渭據涇宮殿磐鬱樓觀」の行までの部分を開いて展示してありました。

「比較検討せよ」という趣向なのでしょう。どう見ても、同一の人の書写したもので、また、写本を摸本と見るのも根拠を欠きますので、写本を智永のものと認めて差し支えないように思いますが、展示の解説および図録の解説では、そうとは断定していません。断定を避けるのはかまわないのですが、写本を「隋-唐時代、7世紀」とし、拓本を「隋時代、6世紀」(もちろん、これは石に刻された時期ではなく、その底本が書写された年代、の意ですが)として並べられると、さすがに首をひねります。そろそろ、「智永のものだ」と本当のことを言ってもよい時期ではないでしょうか?そうすれば、すっきりするのですが。

以前、『真草千字文』とともに触れた唐写本『世説新書』も出品されており、しかも、予期せぬ唐写の単疏本『毛詩正義』(これは、京都文化博物館で以前見たことがありましたが、何度でも見たい!)や朱子自筆『論語集註』草稿も出品されており、満足しました。

ほかにも篆刻家、園田湖城のコレクションや作品を大量に列品し、大いに楽しめる展示会でした。入場者も多く、にぎわっていましたよ。

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啓功と『真草千字文』


啓功千字文 先日ご紹介した、『啓功口述歴史』(北京師範大学出版社、2004年)から、『真草千字文』にまつわる話題をひとつ。

 啓功(1912-2005)は17歳の時、顔真卿『多宝塔碑』の拓本を目にして、突然「開悟」し、書家として身を立てることを決意するに至ったそうです。その後、趙孟頫、董其昌、欧陽詢、柳公権を学び、書家としての基礎を築いた、と語っています(p.171-173)。さらに、次のように言葉を継ぎます。

  後に、私は歴代の各種の墨跡碑帖をさまざま臨書したが、なかでも智永の『千字文』にはもっとも力を注ぎ、いったい何度臨書したことか知れないが、ならうたびにかならず新しい体得と進歩があった。出土文物や古代の文字がたえず発見され世に伝わるのに従い、さいわい、我々はより多く古人の真品の墨跡を目にすることができるようになり、これは私が書法を学ぶのにたいへん大きな助けとなった。

 私は碑拓の作用を否定するわけではなく、碑拓はつまるところ原作の基本的なありさまを保存できているわけだし、とりわけ、好い碑刻は神髄を伝えうる水準にさえあるのだが、ただ古人の真品の墨跡は、その結構の由来と、運筆の点画曲折を、我々によりはっきりと見せるのだ。(p.173)

 そして、現代の複製技術が、書法の学習に大いなる便をもたらしていることに触れ、さらにこう言います。

 智永の『千字文』について言うと、もともと智永の石刻本と呼ばれたものには4種あるが、模刻が精密でなく、繰り返し拓を取られることにより本来の姿が失われ、あるものは筆意こそ墨跡自体と合致するものの、欠損がひどく、結局は模刻に過ぎず本物ではない。ところが日本で智永の真跡が発見されてからというもの、このような遺憾な事態はすべて解決された。…。現在、この真跡は高度な科学技術により影印出版されており、だれもが入手可能で、私もこの本によって臨模した。(p.174)

  我々の先祖がよく保存し、よく伝えた『真草千字文』は、我が国の国宝であるのみならず、人類の貴重な遺産です。私は『千字文』の読誦をみずからにも学生にも課し、「文言基礎」というサイトも作りましたが、それは、この『真草千字文』を広く伝えたいという気持ちもあってのことでした。

 なお、二玄社「書跡名品叢刊」のような書跡の写真版は、現在ではあまりにも入手がしやすく、そのありがたみを感じづらくなってすらいますが、古人と比べてはるかに恵まれた条件の下に我々はあるのだ、という啓功のことばは、確かにその通りで、忘れるべきでないと思います。

「山田永年の書学」


 西嶋慎一「山田永年の書学-明治初期、京都における書学鑑識の一側面」(『大東書道研究』16号、2008年)を読む。

 明治という新しい時代は、書画の世界にもインパクトを与えた。楊守敬(1839-1915)が明治13年(1880)に来日し、日本に新しい書学が伝えられたからである。そのような時代にあり、山田永年(1844-1913)は、独自の審美眼をもって、京都の地で古写本・碑帖を愛玩した。その山田永年の書学を丁寧に説いた論文である。

 山田鈍、字は子静、号は永年、京都の豪商。家業は生糸問屋と酒造で、店は御池通東洞院にあった。建築自体はいまも存しており、国の登録有形文化財に指定されている、という。

 山田永年は、第一級の書画を目睹し、鑑賞した。彼が備えていた鑑定眼について、西嶋氏はいう。

 明治以前に渡来したこれ等の拓は、粗刻粗拓として、資料的価値が低いと論ぜられることが多い。……。粗刻であっても、訓練を経た眼力は容易に原書の真を見抜く。永年がその代表的な一人なのである。

 このような、示唆にあふれる指摘、あるいは、唐写本『世説新書』が切断されて五つに分割された経緯をはじめとするエピソードなど、さまざま興味深い。

 『千字文』に興味をもつ者としては、『真草千字文』(『二体千字文』)の記述が特に目にとまった。この写本を、永年は智永の筆と明示しない。当時は、智永筆と喧伝されていなかったのであろう。西嶋氏は、次のように推測する。

 この千字文が智永と称され始めるのは、日下部鳴鶴や楊守敬が鑑じた、この時期(引用者:明治14年ごろ)から以降なのではあるまいか。

 一考に備え、機会があれば探ってみたい。