カテゴリー別アーカイブ: 校勘学

古典の本文を比べること


大学院生のころ、研究室の宴会で「『荘子』郭象注を二十回は読んだ」と発言したところ、先生が「それは法螺話に違いない」とおっしゃいます。

修士論文を書いていた時のこと、活字本や版本の影印本を5種類ほど机上に並べて、一字ずつ比較しながら郭象注を読みました。違いがある部分についてはメモを取り、どちらがより妥当なのか、どういう種類の異文なのか、眼球を激しく動かしながら、真剣に考えて『荘子』郭注を読みました。集中的に読むので、一月で一通り読めたと思います。これで5回は読んだと勘定します。

こうして何度も複数の異本を比較しながら読むことで、私は二十回読んだと言ったわけです。実際に目を通しているのですから、嘘とは言えぬものでしょう。

その話を聞いた先生は、「それでは二十回とは言えない」とおっしゃいましたが、私も譲りません。今でも間違ってはいなかったと思っています。

この校書という方法—対校・校勘・校合など、言い方は何でもよいのですが—私は古典をお読みになる皆さんにこれをすすめたいと思っています。自己内対話にうってつけです。「これは甲本が正しいのだろうか?いや、乙本の方が正しいという可能性もあるぞ」という具合に、自問自答しながら読むのです。ただ漫然と読むよりもずっと張り合いがありますし、アイディアも次々湧いてきます。

新しい標点本を買った時など、それを他の伝本と比べたりするのは、今でも楽しいひとときです。

ごく小さな発見


『詩経』邶風「谷風」の詩に、次の一章があります。海音寺潮五郎の訳(『詩経』中公文庫、1989年)とともに示しましょう。

涇以渭濁  涇は渭を以て濁る

湜湜其沚  湜湜たる其の沚

宴爾新昏  爾の新昏に宴(やす)んじて

不我屑以  我を屑(いさぎよ)しとし以(もち)ゐず

毋逝我梁  我が梁に逝く毋れ

毋發我笱  我が笱を發する毋れ

我躬不閱  我が躬すら閱(い)れられず

遑恤我後  我が後を恤(うれふ)るに遑(いとま)あらんや

世間の人はみんな言ふ

涇は濁つて渭は澄んでゐると

流れが合うたところで見れば

それはさうかも知れないけれど

離してみればそれほどでもない

後妻(うはなり)と二人ならべて見ればこそ

あたしの器量の衰へが

はつきり見えてくるのです

器量は悪うなつたけど

操正しい心があるに

くやしや、それは見てくれず

惜しげもなく捨てられた。

後妻よ、

あたしが苦心して定めたことを かき乱さないで頂戴

苦労して貯へたものを 勝手に費(つか)はないで頂戴

とはいふものの

あたしは捨てられた妻

言つたとて

どうならう!

さて、その第一句「涇以渭濁」に見える「涇」「渭」とは、濁った涇水と清らかな渭水という二つの河川です。涇水と渭水とを比べると、前者がどうしても濁って見える。それが「涇は渭を以て濁る」ということです。

この一句につけられた鄭箋は、通行本(嘉慶二十年江西府学刊本)によると「涇水以有渭,故見渭濁」。しかし、その二句目には、古くから異文があったようです。

  • 「故見渭濁」(『經典釋文』に引く旧本、そして、通行の注疏本を含む多くの版本)
  • 「故見謂濁」(『經典釋文』に引く一本)
  • 「故見其濁」(『毛詩正義』に引く「定本」)
  • 「見其清濁」(『七經孟子考文』に引く一本)

段玉裁の意見(『經韵樓集』卷十二「與諸同志論校書之難」に見えます)によると、「謂濁」と作るものが正しく、他は誤り、との判定です。なお、この考え方は、阮元の『十三經注疏校勘記』にも、ほぼそのまま受け継がれています。

maoshi
4行目の下方に「故見其濁」と見える

ところで確認のために、足利学校遺蹟図書館に蔵する南宋刊十行本『毛詩註疏』(汲古書院、1973年、影印本)を見たところ、とても妙なことに気がつきました。影印本なので、確実なことは言いにくいのですが、問題の部分について、擦って文字を消した上で、「其」と手写しているようです。いつか原本を拝見したいものです。

日本の伝えられた写本の『毛詩鄭箋』には、「其」に作るものがあったのも確かで、そういったものによって改めたのか、あるいは『毛詩正義』に引く「定本」によって改めたものか。私は後者ではないか、という気がします。そして、もとの版の字は、おそらく「渭」ではないかと推測します。

最後に、この足利学校本を実見して『七經孟子考文』を書いた、山井鼎のメモ(京都大学人文科学研究所蔵、嘉靖版『十三經注疏』)をお示しします。「足利「渭」作「其」。又一本作「見其清濁」」という書き入れが、そこに見えます。

a0030196

医書の誤字、経典の誤字


医学書に誤字があると、どうなりましょうか?誤った情報に基づいて処方や治療が行われるならば、この上なく危険なことに思われます。では、儒教の経典に誤字があった場合はどうでしょう?むろんどんな本にも誤字はない方がよいのですが、医学書と比べると如何でしょうか。

昨日取り上げた、江辛眉(1922-1986)「校讎蒙拾」の中に、次の一節があります。

齊召南謂:“書有版本,讀書稱便;自有版本,校者轉難。”其故何哉?蓋舊本之訛,或出無心;新刻之失,每因怠忽。乃曰:“誤而思之,更是一適。”又曰:“非關壽夭,未有所傷。”其謬如此,固當騰笑眾口,而支離失讀矣。(「辨訛第四」p.49)

木版印刷が始まり、書写して本を作っていた時代よりも便利になったものの、どうも文字の正確さがおろそかになったのは、困ったものだ。それなのに、この問題の重大さを認識していない者がいる。大意はそういうことでしょう。

「非關壽夭,未有所傷」に対しては、次のような著者の自注がついています。

(劉跂《趙氏金石錄序》)又曰:“昔人欲刋定經典及醫方。或謂:‘經典同異,未有所傷;非若醫方能致壽夭。’ 陶弘景亟稱之,以為名言,彼哉卑陋,亦至於此

ある人が、「経典に違いがあっても、大問題ではない。医学書の場合には人命に関わるが、経典の誤字などそれほど重大ではない」と言ったところ、陶弘景(456-536)という医学にも造詣の深かった道士は、その考えに同意して「それは名言だ」とほめた。この陶氏の発言に対して、宋代の劉跂がとんでもないこと、と批判した部分です。

儒教経典を重んずる立場からすれば、人命に関わらないからといって、経典の文字に無頓着な姿勢は看過できないことなのでしょう。

中国の伝統的な価値観のもとでは、儒教経典の存在こそがこの世の秩序を成り立たせており、経典の真義を明らかにすることが最重要課題であるとされてきたからです。近代人である江辛眉も、どうやら劉跂に同調しているようです(本書全体の趣旨を踏まえると、江氏が儒教経典を絶対視していたとは思えないのですが、この部分の文字面はそのように読めるということです)。

儒家経典の誤字は、医書の誤字よりも深刻でないのかどうか?そのような問いに人々が熱くなった時代があったことを知りました。

『校讎蒙拾 読韓蠡解』


江辛眉(1922-1986)の『校讎蒙拾 読韓蠡解』という本を読みました。

江辛眉 『校雠蒙拾 读韩蠡解』

海豚出版社(海豚书馆),2014年11月

著者の江辛眉は、上海師範学院(現、上海師範大学)にて教鞭をとった方だと、本書に冠せられたご子息の序文に書いてあります。「校讎蒙拾」は校勘学の入門書、「読韓蠡解」は韓愈の詩の注釈。江氏が校勘学にも韓愈にも詳しかったことが本書から見て取れます。

「校讎蒙拾」、漢籍の校勘学に関する、とてもよい入門書でした。本文を駢文で書き、それに詳しい自注を加える形式です。入門書といってもなかなか高度で、校勘学に少しなじんだ人に向くのかもしれません。白状すると、私の学力では、本文だけを読んで内容を理解することは困難でした。

銭大昕『十駕斎養新録』、王念孫『読書雑志』、王引之『経義述聞』、俞樾『古書疑義挙例』、楊樹達『古書句読釈例』といった校勘の名著から豊富な例が引用されており、それらの著作への手引きともなっていますが、それのみならず、この本なりの体系が備わっており、読んで楽しむことができました。

「瓊」という字については、『説文解字』が「瓊,赤玉也」というのに基づき、赤い玉(ギョク)だとする説がありますが、韓愈の詩が雪を表現してこの字を用いるからにはそれはおかしいと江氏は言い、「瓊,亦玉也」が正しく、「赤」は「亦」の誤り、とする段玉裁説を肯定しており、痛快でした。

なお注に引かれた文などに不審なところがありました(句読など)。時間をみつけて確認しておきます。

この本も海豚出版社の一冊。16.80元と安価であったために手にしたのですが、買ってよかったと思いました。

羊の子のように


最近、『毛詩』大雅「生民」の詩を読みました。『毛詩正義』に当たって、毛伝と鄭箋との説の違いを確かめるのは、いつも私にとって興味深いことです。しかも「生民」の詩は、周の始祖である后稷の事蹟を褒め称えたものであるだけに、なかなか読み応えがあります。

その詩に、后稷の出生を歌い、「誕彌厥月,先生如達」の二句があります。毛伝と鄭箋の説は以下のとおり。

〔毛伝〕誕,大。彌,終。達生也。姜嫄之子先生者也。

誕とは、大いに。弥とは、終える。【達生也。】姜嫄(后稷の母)の子のうち、先に生まれた者、ということ。

〔鄭箋〕達,羊子也。大矣后稷之在其母,終人道十月而生。生如達之生,言易也。

達とは、羊の子。偉大なることよ、后稷はその母の胎内にいるころ、人の道である十ヶ月を終えて生まれた。その生まれ方は、まるで羊の子が生まれるようであった。安産であったということ。

「達」字から「しんにょう」を除いた「羍」字には、生まれたての羊、という意味があります。それゆえ鄭箋は、后稷の出生は、子羊のように安産だった、と理解するわけです。

毛伝が「達生也」と言うのは、意図がよく分かりませんので、訳せません。正義によれば、「まるで子羊が生まれるようだ、ということ(言其生易如達羊之生)」と。そうすると、鄭箋と同説ですが、果たして「達生也」のみから、そこまで読み取れるものかどうか。

そんな疑問を抱いていたところ、ちょうど点注会(我々が参加する、段玉裁『説文解字注』を標点する読書会)で「羍」字の部分を読み、上記の問題について、段玉裁に独自の説があることを知りました。

毛曰:「達生也。姜嫄之子先生者也」,此不可通。當是經文作「羍」,傳云:「羍,達也。先生,姜嫄之子先生者也」。……凡生子始生較難,后稷為姜嫄始生子,乃如達出之易,故曰「先生如羍」。(『説文解字注』第四篇上、羊部)

毛伝は「【達生也。】姜嫄の子のうち、先に生まれた者、ということ」というが、これは通じない。きっと(毛詩の経文はもともと「達」ではなく)「羍」字に作っており、毛伝は「羍とは、達すること。先生とは、姜嫄の子のうち、先に生まれた者、ということ」、とあったはずである。……一般に、子どもを産む時には第一子はやや難産であるが、后稷は姜嫄の第一子でありながら、出生が簡単であるかのようだったので、だから(経文に)「先生如羍」といったのだ。

さらに段玉裁は鄭箋について、次のように言います。

鄭箋如字,訓爲「羊子」,云如羊子之生,媟矣。尊祖之詩,似不應若是。且嘼類之生無不易者,何獨取乎羊。

(毛詩の本文は「羍」字に作り、)鄭箋はその字の通りに「羊子」と訓じ、羊の子が生まれるよう、といったが、それは下品だろう。(「生民」の詩は、周の)祖(である后稷)をたっとぶ詩であるのに、そんなことは言うはずがないと思う。しかも哺乳類が生まれる場合はいずれの動物でも安産だが、なぜ羊だけを取り上げるのか。

言われてみれば、自分たちの始祖である后稷を「羊の子のように安産だった」と言うのは不謹慎かもしれませんね。かくして、段氏は鄭玄の説を否定し、本文を独自に変更した上で、毛伝の説を支持します。段玉裁の説に理があるのかどうか、即断はしがたいのですが、確かに毛伝をそのまま読むこともできません。

簡潔に過ぎる毛伝のことばをめぐって、鄭箋・正義・段玉裁、それぞれが思惑をもって解釈しました。私は、その間に横たわる緊張感自体を味わってゆこうと思います。

羊の子のように の続きを読む

千慮の一失


「一曰相臣」
「一曰相臣」

昨日、土曜日の午前中に、同好の人が集まって段玉裁『説文解字注』の読書会を開き、その席で、白須裕之先生にたいへん面白いことを教えていただきました。

『説文解字』三下、攴部「徹」字は、段注本では次のようになっています。

通也。从彳、从攴、从育。一曰相臣。

末尾の「一曰相臣」に注をつけて、段玉裁は「疑有譌。鉉本無此四字」と言います。

そもそも段氏が『説文解字』を校訂した際、徐鉉が校訂した「大徐本」と呼ばれる本文を基礎とし、徐鍇『説文解字繫傳』(「小徐本」)などの本文を参照して、定本を作りました。大徐本や小徐本の詳細につきましては、頼惟勤『説文入門』(大修館書店、1983年)の第1章をご参照ください。

この部分につき、大徐本(鉉本)に「一曰相臣(一説によると、徹とは大臣のこと)」の句がない、というわけです。確かに様々な大徐本は、ただ「通也。从彳、从攴、从育」とのみ作っています。

この部分、段氏が小徐本によって補ったものと推測できるのですが、なんとなんと、確認してみると、小徐本では「一曰相」とするのみで、「臣」は下の文に続いているのです。

以上の指摘を白須先生からいただき、驚いた次第です。ケアレス・ミスに属する誤りであり、普通の学者ならばしばしば犯す失敗なのですが、綿密な考証を得意とする大学者、段玉裁には実に似つかわしくないものと感じられました。

君子は何を好むのか?


『礼記』緇衣篇に次の一段があります。

子曰:唯君子能好其,小人毒其。故君子之朋友有鄉,其惡有方。是故邇者不惑,而遠者不疑也。『詩』云:「君子好仇」。

このまま読むと、孔子が説いたという大意は、次のようになりましょうか。「君子だけが正しい人間を好むことができ、小人は正しい人間を害する。だから君子が友とする人々には傾向があり、嫌う対象にも類型がある。だから身近な人は君子の好悪の判断に戸惑うことはないし、遠くの人も疑いを抱かない。『詩経』にもこういう、「君子は自分にふさわしい相手を好む」と」。

君子は「正」を好む、というわけですが、これについて後漢の鄭玄は、「正の字は、きっと匹の字の誤りだろう。匹とは、知人友人のこと(正當為匹字之誤也。匹謂知識朋友)」と言います。つまり、君子は自分にふさわしい友を好む、というわけです。しかし鄭玄は用心深い人ですから、「匹」の方が正しいと考えたものの、自分の意見で経書の文字を変更してはおらず、誤字とみなした二つの「正」をそのまま保っています。

陸徳明『経典釈文』では、この部分、「正の字音は匹、下文も同じ。注がその根拠(正音匹,下同。出注)」と言っています。経文がすでに「正」で固定している以上、それを改めるわけにもゆかず、変則的に読みだけは「匹」と読んでしまう、という便法です。決して「正」の字に「匹」という発音があったというわけではありません。

また孔穎達『礼記正義』も、「君子能好其正者,匹,匹偶。言君子能愛好其朋友匹偶」と言って、鄭玄説に従っています。

後世の学者の中には、鄭玄説を信じずに、やはり「正」の字で読むべきではないか、と考えた人もいました。こじつけのように思ったのでしょうか。

ところが、ここ数十年あいつぐ「出土文献」ラッシュの中で、地下から二千数百年前の「緇衣篇」が出土したのです!しかも二種類も!一つは上海博物館に収められる竹書で、もう一つが湖北省の郭店という地から出土した竹書です。

郭店『緇衣』(部分)
郭店『緇衣』(部分)

それらの竹簡には一体、どう書いてあったのでしょうか?それを以下に示します(機械上の問題があるため、表記にはいい加減な部分があります。印刷された書物を確認して下さい)。

  • 子曰:惟君子能好其,少人豈能好其?古君子之友也有𣈅,其惡也有方。此以邇者不惑,而遠者不疑。『寺』員:「君子好仇」。(『上海博物館蔵戦国楚竹書(一)』上海古籍出版社,2001年,pp.196-197)
  • 子曰:惟君子能好其,少人豈能好其?古君子之友也有向,其惡有方。此以邇者不惑,而遠者不疑。『寺』員:「君子好逑」。(『郭店楚墓竹簡』文物出版社,1998年,p.131)

つまり、上博簡は「君子能好其匹」と作り、郭店簡は「君子能好其駜」と作ります。『郭店楚墓竹簡』の注釈によると、この「駜」は「匹」の通仮字。まさに鄭玄の言うとおり、「正」ではなかった、ということになります。

鄭玄の学問の精確さが知られる一例です。

『経典釈文』では、『易』姤卦の王弼注「正乃功成也」について、「正は、匹に作る本もある(正亦作匹)」と言います。隷書以後の文字では、「正」と「匹」とが容易に混同されていたことが知られます(兪樾『礼記鄭読考』に説が見えます)。

『礼記』緇衣篇の「唯君子能好其正」についていうと、鄭玄以前の段階で「正」と誤って伝えられていたものを、鄭玄が指摘したのでしょう。

最近、晁福林氏「《禮記・緇衣》文本的一樁歷史公案」(《山西大學學報(哲學社會科學版)》36-1, 2013年1月)という論文を読みました。教えられることも多い論文でしたが、「匹」が「正」に変わった理由は、単に形が近いために生じた誤字でなく、戦国時代における思想史の展開によるものだという晁氏の結論には、残念ながら同意できませんでした。

ただ、どのような経緯で「正」の字が「匹」に取って代わったのか、それは確かに気になるところではあります。その時期については、虞万里氏『上博館蔵楚竹書《緇衣》綜合研究』(武漢大学出版社,2010年,p.161)は「正、匹相混似應定在文、景或武帝以後」と言い、前漢の文帝期以後と推測されています。

「帯」があったという証拠


「帯」は無用である」と題して、先日、このブログに一文を書きました。現行の『礼記』喪服小記に「惡筓以終喪(女性は粗末な髪飾りを着け、そのまま喪を終える)」とありますが、段玉裁は「惡筓以終喪」というのが正しく、現行本は「筓」字の下に「帶」字を脱している、と主張します。

しかし『礼記子本疏義』によると、同書の著者である皇侃(488-545)、鄭灼(514-581)らが見た『礼記』の経文には、もともと「帶」がなかったらしい、というのが、上記の文章の論点です。

読者の藤田吉秋様が、コメントをお寄せくださり、『經義述聞』巻15「齊衰惡笄」によると、王念孫は「惡筓以終喪」とするのが正しいと考えていた、とご教示くださいました(藤田様ご本人は字を足さぬのが適切とお考えである旨、申し添えます)。王氏は、賈公彦『儀礼疏』の引く「喪服小記」二条と、山井鼎『七経孟子考文』の引く「古本」「足利本」を根拠とし、そのように考えました。

そこでは、「古本」「足利本」が重要な根拠とされているのですが、この両者は、古くから日本に伝わっていた系統の本です。少し一般化して言うなら、この部分、日本の伝本は「惡筓以終喪」と作った、というわけです。気になりましたので、これを確認しておきます。

日本に伝わる『礼記』の古写本として、いくつかの本が知られていますが、いま、簡便にそれらの写真を見られないので、古写本に基づいて本文が作られたと考えられる、古活字本に当たりました。

sangfuxiaoji1
谷村文庫本『礼記』

京都大学図書館機構では、一部、善本の写真を公開しており、その中に、『礼記』の古活字本(17世紀初か)二種がありますので、それらを見ました。まず第一は、谷村文庫の本です。

  • 書名       礼記 20巻
  • 文庫名等       谷村文庫
  • 画像の有無   画像あり
  • 冊数       10
  • 年   刊(古活字版)
  • 形態事項       26.7×19.5 (cm)*帙入
  • 写刊の別       刊
  • 請求記号       1-64/ラ/2貴
  • 登録番号       RGTN:763738

そしてもう一種は、清家文庫の本です。

sangfuxiaoji2
清家文庫本『礼記』
  • 書名       礼記
  • 文庫名等       清家文庫
  • 画像の有無   画像あり
  • 冊数       10
  • 形態事項       刊
  • 写刊の別       刊
  • 請求記号       1-64/ラ/3貴
  • 登録番号       RGTN:87675

写真版をもとに比較してみたところ、少なくとも、「喪服小記」の該当部分を含む葉は、両者、同版の関係にあるようです。確かに王念孫の主張どおり、両者とも、「惡筓以終喪」と作っています。

『礼記』古活字版の本文を系統的に調べてみたわけではありませんが、わが国に古く伝えられた本の中に(おそらくは遣唐使がもたらした本の中に)、王念孫の考えたような「惡筓以終喪」と作る本があり、古活字版はその本文を受け継いでいる、とはいえそうです。

しかしその事実は、現行本同様に「惡筓以終喪」と作る本がもともとなかった、ということを意味せず、かえって南朝に伝えられた本は、現行本と同然であった、となお推測できます。これは「「帯」は無用である」に書いた通りです。

言い換えると、『礼記正義』の編者、孔穎達の見た『礼記』と、その同時代人たる『儀礼疏』の著者、賈公彦の見た『礼記』とでは、おそらく文字が異なっていたであろう、と考えられるのです。

七十篇か十七篇か


『漢書』芸文志に「礼古経」なるものへの言及があります。通行本である、中華書局本によって、本文を示します。

『禮古經』者,出於魯淹中及孔氏,(學七十)〔與十七〕篇文相似,多三十九篇。

中華書局本は、王先謙『漢書補注』を底本としていますが(ただし『補注』を含まず)、問題のある部分について、底本の文字を括弧の中に残しつつ、代案を亀甲括弧に入れて示したところがあります。引用部分についていうと、底本の「學七十」を誤字と認めて括弧に入れた上で、「與十七」と代案を示しています。さらに中華書局本は、次の校語を付しています。

劉敞說「學七十」當作「與十七」。楊樹達以為劉說確鑿不可易。

楊樹達の考え方は、『漢書窺管』(上海古籍出版社、1984年、211-213頁)に見え、宋の劉敞(1019-1068)の説を支持しています。中華書局本の校訂者は、それに従ったわけです。

さて、その劉敞の説は、もと『漢書刊誤』という本に書かれていたそうですが、後に失われました。しかし劉敞説は、劉元起が刻した建安本『漢書』に引用され、その建安本を本にした明の南監本や清の武英殿本にも、同じく引用されます。その経緯は、王先謙『漢書補注』の序である「前漢補注序例」に書いてあります。

さて『漢書補注』は、汲古閣本という別系統の本文を主としつつも、注記については武英殿本をも採用しているので、ここにも劉敞説が見えます。

王先謙『漢書補注』は、本文を「『禮古經』者,出於魯淹中及孔氏,學七十篇文相似,多三十九篇。」とした上で、「補注」に劉敞・王応麟・沈欽韓・葉徳輝らの説を長々と引き、自分の按語を付けています。王氏は、「七十」を「十七」と改める点については劉敞に賛成するが、「學」を「與」と改める点には賛成しない、といいます。

この説は葉徳輝に基づいており、仮にこの説に基づいて本文を作るならば、「『禮古經』者,出於魯淹中及孔氏學,十七篇文相似。」となります(「多三十九篇」は下に続くと主張します)。しかし、楊樹達ならびに中華書局本の校訂者は、王氏の説に異を唱え、やはり全面的に劉敞の説に従うべし、とし、私もそれに同意します。

『漢書』芸文志の、この少し前の部分に、「『禮』,古經五十六卷,經七十篇。」ともあり、それについても劉敞が「十七篇」と改めるべきと主張しており、銭大昭や、中華書局本の校訂者もこれを是としています。

どちらの「七十篇」も、『漢書』のもとの姿としては、「十七篇」であった、と推測します。いたって常識的な見方で、人様にお示しするのもはばかられますが、やはり誤字であっても、千何百年も伝えられてきた本文は強いもの。「七十篇」として引用するものを見かけたので、備忘のために書き留めておきます。

文献学者の業の深さについて


『礼記』をめぐる段玉裁と顧千里との対立。「顧千里の生き方」「陳鱣の徒労」「段玉裁年譜訂補」「半樹斎文」「校勘学者の正義」「「西郊」の支持者」「「四郊」の支持者」と、7回にわたってくどくどと紹介してきましたが、今回、私の意見を提示して、ご批判をあおぎたいと思います。

経学の説の妥当性は、どのように判定されるのか。これについて正面から論じたものを知りませんが、私の見るところ、以下の点が基準になると思います。

  1. 経学の体系の中において、意義のある学説か。
  2. 推論に無理がないか。
  3. 歴代の議論を正しく踏まえているか。

段玉裁と顧千里は、『礼記』王制(経注)と『礼記』祭義(経注)との不一致を問題にしたわけですが、両者の説を上記の基準に照らし合わせてみましょう。

(1)経学の体系の中において、意義のある学説か。

両者の説は、ともに、「鄭玄の注は一貫性をもっている」という仮説にたって組み立てられています。孔穎達は「禮是鄭學」の語をのこしています。それほど、鄭玄の注、特に彼の三礼(『礼記』『周礼』『儀礼』)に対する注は、経学の中心に位置していますから、鄭玄の学問(鄭学)の一貫性を問うている点において、段氏の議論も顧氏の議論も、重要であることに違いはありません。

 (2)推論に無理がないか。

鄭玄の学問が一貫しているとすると、王制か祭義、どちらかに、必ず後世に生じた誤りがあると推測できます。それゆえ、王制の経文「虞庠在國之西郊」に誤りがあると推測した段氏、そして祭義の注文「周四郊之虞庠也」に誤りがあると推測した顧氏ともに、推測に無理があるとは言えません。ただし、どこをどう読み替えるかについて、検証が必要です。

(3)歴代の議論を正しく踏まえているか。

この点については、少し丁寧な検証が必要でしょう。問題の核心はここにあると思うのです。すなわち、段玉裁は、「孔穎達『禮記正義』は正しく鄭学を理解していない」と評定するので、ここが顧千里との分岐点です。

以上のように見ると、問題は、「推測の妥当性」そして「先行学説に対する姿勢」、この二点にしぼられます。これを一覧表の形にしてお示しします。

 

段玉裁

顧千里

王制の経文「虞庠在國之西郊」

「西郊」は伝写の誤り

問題なし

王制の注文「西序在西郊,周立小學於西郊」

「西郊」は伝写の誤り

問題なし

王制の正義

鄭注の誤本に基づく誤解

問題なし

祭義の経文「天子設四學,當入學而大子齒」

問題なし

問題なし

祭義の注文「四學謂周四郊之虞庠」

問題なし

「四郊」は伝写の誤り

祭義の正義

誤解

問題なし

祭義の正義に引く皇侃説

問題なし

王肅説に基づく異説

上記の表を見ると、顧氏と比べて、段氏はより多く経注の文字を改めています。顧氏の読み方に従うならば、伝写の誤りは注の一箇所ですが、段氏は経文の文字まで動かしています。これはかなり大胆です。

そして、さらに段玉裁は『正義』を信用していないことが分かります。それが両者の分岐点です。顧千里は、何とか『正義』の示す方向に従おうとしますが、段玉裁はそれを無視しています。

段玉裁は「唐代に編纂された『正義』など墨守するに値しない」という立場であり、顧千里は「『正義』に沿って読みたい」という立場です。ここに鮮明な対立が浮かび上がります。

私はこれまで『正義』を軽視しないよう、教育を受けてきました。また、文献資料の文字の変更には慎重であるべきだとも教わりました。そういうわけで、この対立について私見を述べるならば、「より少なく文字を改め、しかも重要な先行研究である『正義』説を守ろうとした顧千里に軍配が上がる」、ということになります。

文献学者と文献学者との論争などを見ていて思うのですが、論点が「資料の信頼性」に関わることになると、きわめて厳しい対立が生じるようです。前近代の学者も、近代の学者も、現代の学者もかわりありません。自分が信じている資料を疑う他人を、文献学者は敵あるいは愚物とみなします。段氏と顧氏との対立を紹介しながら、この点をあらためて思い知りました。

自分自身にかえりみても、もし自分が信じる資料の信頼性に疑いをかけられたとすると、逆上しない自信はありません。いかにも文献に固執している感じがします。

段氏と顧氏との対立から、何を学びとるべきか。私は、文献学者というものの、業(ごう)の深さをよくよく反芻してみたいと思います。