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史学史的ということ


川勝義雄氏『史学論集』(朝日新聞社、1973年、中国文明選12)は、司馬遷の「太史公自序」から章学誠の『文史通義』原道篇にいたる中国史学の古典数篇を訳出して詳しく説き、中国史学のエッセンスを伝える名著です。本書にさしはさまれた「月報」に、鈴木成高氏「西洋史家の中国史妄語」という一文があり、興味深く読みました。

素人の気楽さであえて不遠慮にいわせてもらうなら、由来、シナ学という学問のなかに「史学史的」な関心というものが、欠けていたのではないだろうか。文献学的な関心だけで、史学史固有の関心というものが、欠けていたのではなかったか。そういう関心が生きておれば、文献学的にいかに厖大なジャングルであろうとも、そして自分の文献的能力がいかに未熟であろうとも、それほど恐れることはない筈である。とっくの昔、状況はそういうところまできている筈である。(p.2)

西洋史家の鈴木成高氏(1907-1988)から、「シナ学という学問がもつ体質」に向けて放たれた、鋭い指摘です。

内藤湖南の『支那史学史』は、たいへん貴重な本だが、私には奇妙にわかり難い本である。きわめて平易且つ平明に、読み易く、常識的に書かれているにもかかわらず、である。外国語で、しかも難かしい理論的用語で鹿爪らしく書かれている西洋の史学史の本の方が、はるかに私にはわかり易い。(p.2)

内藤湖南『支那史学史』が、「きわめて平易且つ平明に、読み易く、常識的に書かれているにもかかわらず」、「私には奇妙にわかり難い」と鈴木氏が言われる意味は、あまり詳しく説明されていない以上、私にはよく分かりません。鈴木氏が分かりやすいという「西洋の史学史の本」も読んでみたいのですが、書名までは挙げられていません(あるいはランケの著作などでしょうか?)。可能であれば、ぜひ対照してみたい気がします。

ともかく、鈴木氏が「シナ学という学問のなかに「史学史的」な関心というものが、欠けていたのではないだろうか」と言われる場合、鈴木氏の用いる「史学史的」の意味が十分には汲み取れないものの、それでも半分くらいは理解できるような気がします。史学史という歴史学の一派は、中国史研究の領域では(少なくとも日本では)門戸を確立していないように思えます。

「文献学的な関心だけで、史学史固有の関心というものが、欠けていたのではなかったか」という鈴木氏の指摘は貴重だと思いました。文献学というものが、史学文献に限らずすべての文献を包括する方法論であったからこそ、中国学においては文献学的関心からなされる研究が高度な発展を遂げたのではないかと私は考えます。

鄭樵『通志』にせよ章学誠『文史通義』によせ、「史学史」的見地からして中国を代表する著作であることは間違いないところですが、『通志』に「校讐略」が含まれ、『文史通義』の姉妹篇に『校讐通義』があることからしても、この両書とも、文献学的方法論と不可分の関係にあることは明白です。むしろ、文献学の方法こそが鄭樵や章学誠の史学を基礎づけていると言えそうです。

西洋史学において史学史的関心が重要であるのと同様、伝統的な中国学においては文献学的関心が重視されたということは認めてもよいのではないでしょうか。確かに、中国学には史学史的関心が欠けているというのは鈴木の指摘通りで、それが中国学の特徴の一つであるとも評しえましょう。

しかし、史学史的関心とは別に、文献学的関心ーこれを目録学的関心と言ってもよいのですがーが中国学において十全に機能していさえすれば、それほどジャングルの中で迷うのを恐れる事態に陥らずにすむのではないかと、私は思っています。

もちろんそれとは別に、今後、西洋史学の方法を鏡として中国学独自の史学史が登場し一定の地位を占めるとすればそれは素晴らしいことですが、その際にも、史学史的関心が従来の文献学的関心とどのような関係を取り結ぶのか、それをめぐって考えるべきことは多いように思います。

『資治通鑑』は面白い


これまで『資治通鑑』二百九十四巻を通読したことはありません。しかし、たまに読みたくなって、興味のある時代を数十年分(巻数にして数巻分)をながめることがあります。最近は、隋の時代の部分を読んでいます。

何しろ編年にしてあるので、時間軸に沿って読み進められるのが最もありがたいところです。正史の場合、本紀を除けばこのように直線的に読むのが難しいのです。その点、『通鑑』ならばずいぶん軽快に読めます。

また、『通鑑』には元の胡三省の注がついているので、必要な知識をつまみ取りながら読むことができるのも利点です。『史記』『漢書』『後漢書』の注はともかくとして、他の正史には訓詁注釈が不足していますから。

そんな魅力的な『資治通鑑』、ほぼ、信用して読んでいるのですが、たまに話が面白くできすぎているところがあり、そういう場合、私は正史に立ちもどって史実を確認するようにしています。

先日書いた「選曹七貴」のことも、読んでみて少々面白すぎるように感じたので、『隋書』を確認してみた、という次第です。このブログのささやかな裏話を語ってみました。

選曹七貴


『資治通鑑』によると、隋の煬帝の大業二年(606)頃のこと、本来、人事を統括すべき吏部尚書の地位にあった牛弘(545-610)は、その職務を一人で行うことを許されませんでした。牛弘は、蘇威(542-623)、張瑾(?- ?)、宇文述(?-616)、裴矩(557-627)、裴蘊(? -618)、虞世基(? -618)の六人とともに合議によって人事を行い、時の人は彼らを「選曹七貴」と呼んだ、とのこと。

時牛弘為吏部尚書,不得專行其職,別敕納言蘇威、左翊衞大將軍宇文述、左驍衞大將軍張瑾、内史侍郎虞世基、御史大夫裴蘊、黄門侍郎裴矩參掌選事,時人謂之「選曹七貴」。雖七人同在坐,然與奪之筆,虞世基獨專之,受納賄賂,多者超越等倫,無者注色而已。(『資治通鑑』卷一百八十,隋紀四,大業二年)

『資治通鑑』の記事は、主に正史に基づく部分が多いのですが、しかし、「選曹七貴」は『隋書』に記載がなく、代わりに「五貴」に関する記事が『隋書』蘇威伝に見えます。

煬帝嗣位,加上大將軍。及長城之役,威諫止之。高熲、賀若弼等之誅也,威坐與相連,免官。歳餘,拜魯郡太守。俄召還,參預朝政。未幾,拜太常卿。其年從征吐谷渾,進位左光祿大夫。帝以威先朝舊臣,漸加委任。後歳餘,復為納言。與左翊衞大將軍宇文述、黄門侍郎裴矩、御史大夫裴蘊、内史侍郎虞世基參掌朝政,時人稱為「五貴」。(『隋書』卷四十一,蘇威傳)

「五貴」をもとに、牛弘と張瑾(この人物はなぜか『隋書』に立伝されていません)の二人を足して、『資治通鑑』は「七貴」を仕立てたものとも見えます。

また『隋書』虞世基伝にも、虞世基が蘇威、宇文述、裴矩、裴蘊らと「朝政を參掌」した、とあります。

帝重其才,親禮逾厚,專典機密,與納言蘇威、左翊衞大將軍宇文述、黄門侍郎裴矩、御史大夫裴蘊等參掌朝政。

さらに虞世基伝には、「鬻官賣獄,賄賂公行,其門如市,金寶盈積」と見えており、これが、虞世基による乱脈人事と結びつけられ、『資治通鑑』の記事が綴られているのかも知れません。なお、この虞世基という人物、有名な虞世南の兄です。

ここで気になるのは時期のことで、『資治通鑑』は「選曹七貴」を大業二年に繫年しているのですが、かりに「選曹七貴」のような実態が存在したとしても、それは大業五年か六年のことではないかと思います。大業五年のこととして、煬帝が蘇威と牛弘の二人に、「清名天下第一の者」について下問しています。

大業五年入朝,郡國畢集,帝謂納言蘇威、吏部尚書牛弘曰:「其中清名天下第一者為誰?」威等以儉對。(『隋書』卷七十三,柳儉傳)

実は、蘇威は大業三年七月に一度、失脚しており、その後、(正確には分かりませんが)大業五年までには納言の職位にもどっています。『隋書』蘇威伝では、「五貴」のことをはっきりと蘇威の復帰以後のこととしていますが、『資治通鑑』は失脚前のことと誤って、大業二年に繫年したようです。

また、裴蘊が戸籍調査を徹底させ、「新附口六十四萬一千五百」を得て、その功績により御史大夫に抜擢された、というのも大業五年のことです(『隋書』卷六十七,裴蘊傳)。

『隋書』のこれらの資料を総合すると、「選曹七貴」と時人が呼んだことがもしあったとしても、それは大業五年か、もしくは六年のこととしか考えられません。当の牛弘は、大業六年十二月に逝去しました。時期については『資治通鑑』が誤っているはずです。

時期の話はともかく、「選曹七貴」というのは、ある種のフィクションではないかと私は思うのです。吏部侍郎の牛弘には人事の実権がなく、実は虞世基が人事を壟断し、賄賂を取って勝手に決めていた。そうでありながら彼ら七人が「選曹七貴」と呼ばれていた、というのでは、よく話が分かりません。

『資治通鑑』は(特に隋の記事については)正史以外の史料も参照していますから、すでに失われた有力な史料には確かに「選曹七貴」のことが書かれていたのかもしれません。その可能性は皆無ではありません。

しかし、如何でしょうか。この「選曹七貴」の話、「五貴」の評判と虞世基の不正人事の話(『隋書』を読むと、虞世基の妻の収賄のようなのですが)とを無理に取り合わせたものではないか。そう思えてなりません。

疏議か疏義か?


滂熹齋本『唐律疏議』
滂熹齋本『唐律疏議』

銭大群「『唐律疏議』結構及書名辨析」(『歴史研究』2000年4期)を読みました。

注釈書としての『唐律疏議』の性質を述べ、さらに書名に含まれる「疏議」という文字の当否を考証した論文です。

この『唐律疏議』と呼び習わされる書物は、『旧唐書』刑法志に「於是太尉趙國公無忌……等,參撰『律疏』,成三十卷,(永徽)四年十月奏之」とあり、また同書の経籍志に「『律疏』三十卷,長孫无忌撰」と見えるように、唐代においては『律疏』と呼ばれていました。

また、敦煌から見出された同書の残巻にも、「律疏」の題を有する本(『敦煌石室砕金』に収める徳化李氏旧蔵本)があります。この残巻は現在、杏雨書屋に蔵され、「羽020R」の番号を振られています。『敦煌秘芨』影片冊一(杏雨書屋、2009)pp.172-177を参照。

ところが宋代以降、書名が変化したようで、現在、『唐律疏議』『唐律疏義』『故唐律疏議』などの名称で知られています。中でも、『唐律疏議』の名が最も一般的と言えましょう。

銭氏が紹介するとおり、「疏議」という二文字については、すでに王重民(1903-1975)による1942年の考証があり、『敦煌古籍叙録』(中華書局、1979年、145頁)に収められています。

それによると、『唐律疏議』の多くの本は律・注・疏をあわせたものだが、「疏議曰」と標示して疏の文を示している。ところが、善本である滂熹齋本(「四部叢刊三編」に収める。宋版とも言われるが、実は元版とのこと)では、「疏議曰」の「疏」字だけを陰刻で刻み、反転させている。そこから、「疏」というのは標記にすぎず、「疏議」という熟語ではないことが分かる。また敦煌本の『律疏』は、「疏」を標示せず、直接に「議曰」と書いている。元版で、「疏議」の二字を陰刻で刻むものがあるのは誤り、とのこと。

この王氏の議論は正しいと思います。つまり、「疏議曰」の「疏議」を、二字つなげて読むのはいけません。

銭氏は王氏の議論を踏まえてさらに議論を進め、元代の柳贇が同書を『唐律疏義』と呼んだのは許容範囲内だが、後人が本文中に見えた「疏議」を書名に持ち込み、『唐律疏議』と命名したのは誤りだ、と言っています(「後代所以有《唐律疏議》名,原因只是一個:把“疏”與其下的“議曰”簡單地合成為“疏議曰”,又從而把它理解為“疏議”之書“曰”,於是就把這部書名之為“疏議”」,117頁)。

ただ、「書名として、疏義が正しく疏議は誤り」というポイントに、過度にこだわる必要はないように思います。

本文に見える「疏議曰」の「疏」が、単なる標記に過ぎないことを知っておりさえすれば、『唐律疏議』という通名を使っても特に問題ないように考えます。

また四庫全書本は、書名を『唐律疏義』とし、他の本が「疏議曰」「議曰」としている部分を、すべて「疏義曰」としています。銭氏は四庫全書本をよい本だとおっしゃっていますが、「義曰」は不適当な用字であると感ぜられます。

しかしながら、「『唐律疏議』の疏は、「議」と「問答」、二つの部分から成り立っており、両者の関係は平行並立」とする指摘などは、深く肯かれるところです。

注釈書として『唐律疏議』を見る場合、参照すべき論文であると考え、ご紹介しました。

『唐律疏議』名例律の篇題疏


『唐律疏議』(元来の書名は『律疏』)は、唐代の永徽律につけられた注釈で、三十巻、長孫無忌(?-659)らの撰、永徽四年(653)の成書。この注釈の一番はじめの部分は少し変わっています。

唐律は、名例第一、衛禁第二、職制第三、戸婚第四、厩庫第五、擅興第六、賊盗第七、闘訟第八、詐偽第九、雑律第十、捕亡第十一、断獄第十二、以上、十二の律から成り立っていますが、その第一、「名例」の篇題につけられた疏のことです。

劉俊文校『唐律疏議』(中華書局、1983年)によって、その全文をお示しします。

  • 夫三,萬;稟,人。莫不憑黎元而樹司宰,因政教而施刑法。其有情,識,大則亂其區宇,小則睽其品式,不,則未。故曰「以刑止刑,以殺止殺。」刑不可,笞不得。時,用。於是結,盈;輕,大。『易』曰「天垂象,聖人則之。」觀雷而制威,睹秋而有肅,懲,而防;平,而存,蓋聖王不獲已而用之。古者大刑,其次;中刑用刀鋸,其次用鑽笮;薄刑用鞭扑。其所由來,亦已尚矣。昔白、白,則伏、軒;西、西,則炎、共。鷞於少,金於顓。咸,典。大,撃。逮,化,議,畫媿,所有條貫,良多簡略,年代浸遠,不可得而詳焉。堯舜時,理官則謂,而皋,其,而往,則『風俗通』所云「皋陶謨,虞造律」是也。
  • 者,訓銓,訓法也。『易』曰「理財正辭,禁人為非曰義。」故銓量輕重,依義制律。『尚書大傳』曰「丕天之大律。」注云「奉天之大法。」法亦律也,故謂之為律。昔者,聖人制作謂之為經,傳師所説則謂之為傳,此則丘明、子夏於『春秋』、『禮經』作傳是也。近代以來,兼經注而明之則謂之為義疏。疏之為字,本以疏闊、疏遠立名。又『廣雅』云「疏者,識也。」案疏訓識,則書疏記識之道存焉。『史記』云「前主所是著為律,後主所是疏為令。」『漢書』云「削牘為疏。」故云疏也。昔者,三王始用肉刑。赭衣難嗣,皇風更遠,樸散淳離,傷肌犯骨。『尚書大傳』曰「夏刑三千條。」『周禮』「司刑掌五刑」,其屬二千五百。穆王度時制法,五刑之屬三千。周衰刑重,戰國異制,魏文侯師於里悝,集諸國刑典,造『法經』六篇,一、盜法;二、賊法;三、囚法;四、捕法;五、雜法;六、具法。商鞅傳授,改法為律。漢相蕭何,更加悝所造戸、興、廏三篇,謂九章之律。魏因漢律為一十八篇,改漢具律為刑名第一。晉命賈充等,增損漢、魏律為二十篇,於魏刑名律中分為法例律。宋齊梁及後魏,因而不改。爰至北齊,併刑名、法例為名例。後周復為刑名。隋因北齊,更為名例。唐因於隋,相承不改。者,五刑之罪名。者,五刑之體例。名訓為命,例訓為比,命諸篇之刑名,比諸篇之法例。但名因罪立,事由犯生,命名即刑應,比例即事表,故以名例為首篇。者,訓居,訓次,則次第之義,可得言矣。者,太極之氣,函三為一,黄鍾之一,數所生焉。名例冠十二篇之首,故云「名例第一」。
  • 以上,英,潤春於品,緩秋於黎。今,前,章,鴻,而刑,執,大,刑。一,一。不,觸。皇帝彝,納。德禮為政教之本,刑罰為政教之用,猶昏曉陽秋相須而成者也。是以降綸於台,揮折於髦,爰,大。遠則皇,近則蕭、,沿,自,甄,裁。譬權,若規。邁,同者矣。

お示しした文章は、原文では段を分けていませんが、考えがあって三段に分けました。その理由は、私の分けた第一段と第三段が駢文によって書かれているのに対し、両者の間に位置する第二段が駢文ではない、ということです。その第二段は、典型的な注釈の文章、義疏の文章になっています。

駢文の部分、平仄を合わせたらしいところにつき、平声を赤、仄声を青で表示しました。これを見ると、たとえば王勃(650-676)以後のような完全な平仄ではありませんが、基本的には平仄を意識していることが看取できます。

また句末の文字に着目すると、仄/仄と重なっている場合(つまり「平仄が合っている」とは言えない場合)でも、互いに上・去・入をたがえ、声調による区別をしており、音響を意識して書いています。

  • 「憑黎元而樹司(上),因政教而施刑(入)」
  • 「大則亂其區(上),小則睽其品(入)」
  • 「咸有天(入),典司刑(去)」
  • 「所有條(去),良多簡(入)」
  • 「潤春雲於品(入),緩秋官於黎(去)」
  • 「不有解(入),觸塗睽(去)」
  • 「降綸言於台(上),揮折簡於髦(去)」
  • 「甄表寬(去),裁成簡(上)」

それに対して第二段は、「律名例第一」の書名と篇題とを解釈したもの、一字一字に対し、その訓詁と内容を説き、なぜ「律」「名」「例」「第」「一」の語が使われているのかを、いちいち解釈しています。典型的な義疏のスタイルで、平仄への意識は欠如しています。

このような二種の文体が、ひとつの文章にまとめられている点に、たいへん興味をひかれました。小さな発見かもしれません。

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「漢長安城未央宮の禁中」


漢長安城未央宮
『漢長安城未央宮』より

青木俊介氏「漢長安城未央宮の禁中―その領域的考察」(『学習院史学』第45号,2007年)を読みました。

昨日このブログにてご紹介した、米田健志「前漢後期における中朝と尚書―皇帝の日常政務との関連から」(『東洋史研究』64巻2号,2005年)を踏まえつつ、米田氏とは異なる視覚から、青木氏は、漢の長安城の禁中を論じています。

論文の副題からも分かるとおり、禁中が長安城未央宮の中の、どこに位置したか、という問題意識に貫かれています。

文献資料が網羅的に調べられているのみならず、『漢長安城未央宮―1980-1989年考古発掘報告』(中国大百科全書出版社,1996年)をはじめとする考古学の成果もとりこまれています。

禁中とそれ以外を厳密に区別してゆく手法は手堅いもので、たとえば、未央宮前殿は郎中令(光禄勲)によって警備され、禁中は鉤盾によって警備される、という区分が明らかにされています(pp.40-41)。たいへんに明晰です。

本稿では、承明殿・金馬門・温室・石渠閣・天禄閣・黄門・蚕室・後宮などが禁中にあったことが論証され、さらにその上で、上記の発掘報告に基づき、禁中にあった諸施設の場所を比定し、禁中が未央宮前殿の北側の特定の区画に位置したことが明かされます。

私が関心をもっている石渠閣・天禄閣についても詳細です。

未央宮遺跡には、天禄閣・石渠閣の跡と伝えられる高台が存在する。これらはそれぞれ前殿遺跡の北と西北に位置している。かつて天禄閣遺跡からは「天禄閣」の文字瓦当と、天鹿文様の瓦当が出土した。「天鹿」は「天禄」の仮借である。石渠閣遺跡からは、「石渠千秋」の文字瓦当が出土しており、伝承の正しさを示している。(p.56)

「石渠千秋」の瓦当の図版は、伊藤滋『秦漢瓦当文』(日本習字普及協会,1995年)から再録されています。「天禄閣」瓦当と天鹿文様の瓦当の方は、陳直『漢書新証』(第2版,天津人民出版社,1979年)に見えるようですが(この部分、当該論文の注に番号の誤りがあります)、私はその瓦の写真も拓本も、まだ確認できていません。いずれ是非とも自分の目で見たいものです。

以前、『文選』に収める班固「両都賦」の李善注に、『三輔故事』の佚文、二条を引くことに気づきました。

『三輔故事』曰:「石渠閣在大祕殿北,以閣祕書」。
(『文選』巻1「両都賦」序,「内設金馬、石渠之署,外興樂府協律之事」の注)

『三輔故事』曰:「天祿閣在大殿北,以閣祕書」。
(「西都賦」:「又有天祿石渠,典籍之府。命夫惇誨故老,名儒師傅,講論乎六蓺,稽合乎同異」の注)

後者につき、『文選考異』では「何校「大」下添「祕」字,是也。各本皆脱」としており、つまり正しくは前殿が「大祕殿」と呼ばれたと考えています。

また、『後漢書』列伝第30上、班固伝にも「両都賦」を収め、その「又有天祿石渠,典籍之府」に李賢が注を付けて、これも『三輔故事』を引いています。

『三輔故事』曰:「天祿、石渠並閣名,在未央宮北,以閣祕書」。

これら三条は、『三輔故事』の同一の文章をそれぞれ引用したものでしょう。石渠閣・天禄閣の位置は、「大祕殿北」であったのか、「大殿北」であったのか、はたまた「未央宮北」であったのか?そして、「以閣祕書」の一句をどのように読むべきか?これらは、今後、自分の問題として、引き続き考えてみたいと思います。

「前漢後期における中朝と尚書」


米田健志氏の「前漢後期における中朝と尚書―皇帝の日常政務との関連から」(『東洋史研究』64巻2号,2005年)を読みました。

タイトルに見える「中朝」というのは、「外朝」の対になる概念です。「前漢半ばの昭帝時代に、皇帝の側近集団として中朝が出現し、それ以前からある尚書とともに、中央政府における重要性を増し、時を経た唐代に至って政府の中枢たる三省へと成長してゆく萌芽となった」とのことです(p.2)。

「中朝」は、官制から言えば、皇帝を支える側近官の集合です。米田氏は『漢書』巻77、劉輔伝の顔師古注に引く孟康の説を手がかりとして、大司馬・将軍・侍中・中常侍・散騎・諸吏・諸曹・給事中の官を「中朝」官と認め、考証を行っています。

いわゆる「中」とは禁中のことであり、「禁中とは、省中とも呼ばれる宮中の一区画のことであり、「侍御する者」以外は入ることを許されなかった空間である」とのこと(p.4)。皇帝の私的な領域といってよいでしょう。

しかし皇帝というものの性質上、禁中は私的であるのみならず、同時に、政治の意思を決定する場でもありました。「禁中もまた皇帝にとって私的空間であると同時に、政務を行う場所だったのである」(p.12)。一般の官吏が立ち入ることのできない、政治の場。実に興味深い空間です。

米田氏の論文では、上記の「中朝」官と、尚書と呼ばれる官との関係も、丹念に追われています。そこでは、「尚書が禁中において職務にあたっていたこと」を示す資料が挙げられています(p.8)。

藤田高夫氏「前漢後半期の外戚と官僚機構」(『東洋史研究』48巻4号,1990年)に従い、「個々の中朝官の間には、何らの統属関係も無かった」(p.7)という確認も重要です。明確な制度設計により作られた体制ではなく、皇帝の必要に応じて、近侍が認められていったもののごとくです。

先行研究の中には、(宦官である)中書令の指揮下にある「中朝」と、丞相や御史大夫の率いる「外朝」との対立の図式を立てるものもありますが、これでは、中朝すなわち宦官と短絡してしまい、問題を見誤ることにもなりかねません。米田氏はその図式を避けつつ、禁中における政治の実態に迫っています。

劉向の校書が行われた天禄閣も、この禁中にありました。つまり劉向・劉歆たちは、一般の官僚が立ち入ることのできない、皇帝の私的空間にて校書を行っていたわけです。その関心から読みはじめたのですが、皇帝とその周囲について、これまで曖昧であったさまざまなことが、この論文を読んだおかげで明瞭になりました。制度がどのように生まれ、そして展開してゆくか、というダイナミズムも感じられました。

ただ『漢書』百官公卿表の該当部分にも黄門が見えることですし、せっかくならば宦官についても論及があれば、私のような”門外”漢には、いっそう分かりやすかったように思います。

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出土文字資料と歴史


8年ほど前に出版された書物を読みました。福田哲之氏『文字の発見が歴史をゆるがす』(二玄社、2003年)。

  • 古代“殷”王朝は実在した―甲骨文
  • 殷周革命の証人―西周金文・利𣪘
  • 孔子が予言したお家騒動の顚末―侯馬盟書
  • 修正を迫られる儒教史の通説―郭店楚簡・上海博物館蔵戦国楚竹書
  • 始皇帝時代の法律マニュアル―睡虎地秦墓竹簡
  • よみがえる漢代学術の世界―馬王堆漢墓帛書
  • 失われた『孫子』の発見―銀雀山漢墓竹簡
  • 三国志の時代に芽生えた楷書の肉声―走馬楼三国呉簡
  • 書聖“王羲之”の書の真相をもとめて―楼蘭出土文書
  • 唐代人が手習いした王羲之の実態―吐魯番出土文書

20世紀初頭以来、中国ではおびただしい資料が地下から出土し、「伝世資料」の対立概念として「出土資料」と呼ばれ、一貫して学界の関心をあつめてきました。本書では「出土資料」のなかの文字資料である、「出土文字資料」が、特に20世紀の発見について紹介されています。殷の甲骨文から唐代の手習いまでが網羅されており、一通り、中国の出土文字資料についての知識を得ることができるよう、配慮されています。

周到にまとめられており、図版も豊富で、しかもコラムまで用意されていて、たいへんに充実しています。お一人で執筆なさっていることにも驚かされます。中国から発見された唐代以前の出土文字資料の手引きとして、どなたにもお薦めできる内容です。私も多くのことを学びました。

ただし本書のタイトルについて、違和感を覚えました。「文字の発見が歴史をゆるがす」というのですが、読後感として「文字の発見は、本当に歴史を揺るがすのだろうか?」という疑問が浮かんだのです。

本書で挙げられている例で言えば、呉大澂(1835-1902)という学者は、「”文”字説」という考証文を書いて、『尚書』大誥の「寧王」とは、実は「文」の古文字を後世の学者が「寧」と読み間違えたものであった、と、非伝世文献をもとに証明しています。偉大な発見であり、その結論は疑い得ないでしょう。

その上であえて問います。「この発見により、歴史は揺らいだのだろうか?」確かに、『尚書』大誥を西周時代の史実を伝える「歴史資料」としてあつかうならば、西周の歴史は修正を受けるはずです。

しかしそれとは別に、『尚書』解釈の歴史はどうなるのでしょうか。歴代の多くの学者が、事実誤認ではありながら、「寧王」だと信じて解釈をしてきたこと、これもまた歴史上の事実です。この歴史事実が揺らぐことはないでしょう。

たとえて言うなら、ある宗教における信仰が何らかの誤謬にもとづくものであったことが証明されたとしても、「その宗教が信仰された」という事実、あるいは「その宗教ではかくかくしかじかの文化が醸成された」というような歴史上の事実はいささかも変わらないのと同じです。

ある出土文字資料が発見されたとして、その出土文字資料が書かれた時代の前後の歴史には修正が加えられるかも知れません。しかしそれよりも後の時代の歴史は、まったく揺るがないのではないか。私はそのように考えます。

「歴史をゆるがす」という言葉が、私にとって少し刺激的すぎただけかもしれませんが、「歴史はなかなか揺るがない」という私の感覚は落ち着いたものであるようです。中国の伝世文献には、どっしりとした安定感があります。

その一方で、今後とも多くの文物が出土することを大いに期待しています。優れた文物に触れることは、その文化に対する感覚を最もよく涵養する、とも信じているからです。本書は、日本の読者の眼をそのような出土資料に向けさせる、優れた手引きであると思います。

銭と仏像


北周の「永通万国」銭
北周の「永通万国」銭

 李書吉『北朝礼制法系研究』(人民出版社、2002年)第3章に、北周武帝の廃仏(574)が、財政上の理由によるものであった、と述べた部分があります(p.138-141)。そこに、マックス・ウェーバー『儒教と道教』が引かれていたので、日本語訳の第1章「社会学的基礎」第1節「貨幣制度」を読み直してみました。

 ウェーバーは、中国の伝統社会における「銅本位制」について述べる中で、次のように言います(木全徳雄訳『儒教と道教』、創文社、1971年、から訳文を拝借します)。

銅本位は、(銅の原料)価格がいちじるしく廉価であったにもかかわらず、前述の造幣費の驚くべき高価を意味したばかりではなく、貨幣の輸送経費が高くつくことによって総じて貨幣経済の発展や取引にとってきわめて不便な貨幣形態をも意味したのであった。…。加うるに、処分できる銅量の変動は、平時においても、銅が工業的および美術的に使用される(仏像)ために、その後も並はずれて大きく、物価においても、ことに税負担のさいにも、感知しうる状態がつづいた。…。

仏教徒や道教徒に対する迫害も、たしかに非常に主要な部分は宗教政策的な理由によるものではあったけれども、しかしそれとならんでしばしば純鋳貨財政的な理由も働いていたのである。すなわち、仏像、花瓶、祭式装具など、総じて寺院芸術によって刺激された貨幣原料の芸術的な使用は、通貨をたえずくり返し危機にさらした。すなわち、〔鋳貨の〕大量の鎔解は、鋳貨のひどい欠乏と銅材の退蔵と物価の下落という結果に導き、その結果として物々交換経済に導いたのであった。国庫による僧院の計画的強奪や、銅製品の関津税設定がおこなわれ、ついには青銅器および銅製品の国家的独占の試みがなされ、さらにのちにはあらゆる金属製品製造の独占が続いた。

 李書吉氏は、周の廃仏(建徳3年、574)の前後に、5度も貨幣改革と鋳造に関わる詔が出されている事実に注目し、仏像を鋳つぶして銅貨の原料を得ることが、この度の廃仏の重要な動機であったと指摘しています。また、李氏は周の武帝による廃仏のもう一つの目的は、儒教を中心とする国家運営であった、と言います。

 ウェーバーの説は、あらためて考慮してみる必要があるかも知れません。確かに銅の用途はきわめて広く、通貨と美術品、実用品を兼ねており、特に仏像鋳造の用途は南北朝時代においては重要であったことでしょう。「北朝の石仏はよく遺ったが、南朝の金銅仏は鋳つぶされてしまったので伝わるものが少ない」という話を聞いたこともあります。また、山田勝芳『貨幣の中国古代史』(朝日新聞社、2000年)には、次のようにあります。

北周の銭は鋳造技術が高く、いずれも精巧である。そして、「五銖」などの前漢以来の銭にみられた重さを示した銘文がまったくないという大きな特色がある。これは、漢以来の伝統を離れて、それより前の周代に行われた理想的な諸制度を実現するのだという北周の政治姿勢と関わる可能性がある。(p.276)

 これも面白い指摘です。

 とはいえ、以上のように見るだけで、周の廃仏の全貌が理解できるわけではありません。この時の廃仏には、衛元嵩という人物が深く関与しており、当初、廃仏に関心を示さなかった武帝を焚きつけたことが分かっています。余嘉錫が仏書から資料を丹念に集めて衛元嵩を考証した「衛元嵩事跡考」(『余嘉錫論学雑著』、中華書局、1963年、所収)を参照すべきでしょう。それによると、「黒衣」、すなわち僧侶が国を奪う、という妖言が当時、流布しており、それを武帝が恐れていたことや、衛元嵩の個人的な不満が上書につながった経緯などが記されています。いずれも勘案すべき事由です。

「北朝礼学系統」


 昨日、李書吉『北朝礼制法系研究』(人民出版社、2002年)という書物を取りあげて紹介しましたが、その中に、少し気になる章がありました。それは本書の第3章「北朝礼学系統」という章です。

〈 北朝礼学系统〉

  • 第一节 佛教心性的缘起及其流传 一、佛教心性说的缘起 二、佛教心性说在北朝的流传
  • 第二节 心性说的佛道、佛儒南北二系
  • 第三节 南北义疏之学与礼学
  • 第四节 南北二系三教在礼制轨道上的归宗及三礼的著述 一、南北二系三教在礼制轨道上的归宗 二、北朝三礼著述情况 三、北朝周隋时对诸学的熔铸 小结

 この一文、どこかで見たことがあると思い出し、蔵書を繰ったところ、果たして『北朝史研究』(商務印書館、2004年)という論文集の一章でした。

〈北朝礼学与佛教心性学〉

  • 一 佛教心性的缘起及其在北朝的流传
  • 二 心性说的佛道、佛儒南北二系
  • 三 南北义疏之学与礼学
  • 四 南北二系三教在礼制轨道上的归宗趋势
  • 五 北魏周隋对礼学的熔铸及其对礼制建设的匡扶

 タイトルも異なり、後半部分に、やや変更がありますが、両者ともほぼ同一の論文です。ここでは『北朝礼制法系研究』に収められたものについて、以下、感想を述べます。

 この一文の論旨は、「『涅槃経』に見える「一切衆生悉有仏性」の説が、南北朝時代における人間観に大きな影響を及ぼした」「南朝においては主に仏教と道教とが融合し、北朝においては仏教と儒教とが融合した」「南朝でも北朝でも、礼が重んじられた」「南朝でも北朝でも、礼というプラットフォームの上で儒仏道三教が融合する方向に進んだ」というものです。

 著者も言うように、南北朝時代において儒仏道三教が「会通」した経緯については、これまで定説というべきものは出されていません。李氏はこの難問に答えようとして、本章を執筆したのでしょうが、残念ながら、少なくとも私は十分に納得することができませんでした。疑問点を挙げてみます。

  1. 『涅槃経』に見えるような性説が、その時代の思想に決定的な影響を与えたと言えるのか?
  2. 著者の用いる「礼」という語の意味が曖昧すぎないか?
  3. 中国思想における性説の展開を十分に踏まえずに論じているのではないか?

 そのような点が気になります。ここでは、第3点目について反論します。李氏は皇侃『論語義疏』陽貨篇に見える次の文を引用します。

(人)稟天地陰陽氛氳之氣、氣有清濁、若稟得淳清者則爲聖人、〔若得淳濁者則爲愚人、愚人淳濁、雖澄亦不清、聖人〕淳清、攪之不濁、故上聖遇昏亂之世、不能撓其眞、下愚値重堯疊舜、不能變其惡、故云「唯上智與下愚不移也」、而上智以下、下愚以上、二者中間、顏閔以下、一善以上、其中亦多清少濁、或多濁少清、或半清半濁、澄之則清、攪之則濁、如此之徒以隨世變改、若遇善則清升、逢惡則滓淪。(〔〕内は私が補いました)

 皇侃のこの説を、李氏は「『大乗起信論』で「一心二門」の「衆生心」が「真如門」「心滅門」であるというのや、「真心本覚」の「心性本淨」や「性寂滅」「性寂静」とあい通ずる。だから、仏教が心性説に対して改変を加えたのは明らかだ」と評します。

 しかし、これは的をはずした議論ではないでしょうか。『論衡』率性篇に「稟氣有厚泊(泊與薄同)、故性有善惡也」とあり、同書の命義篇に「人稟氣而生、含氣而長、得貴則貴、得賤則賤」とあるように、人間には生まれつき、受けた「気」の質による差があることを言うのは、漢代以来の伝統であり、決して仏教の影響ではありません。

 同様に、『論語義疏』が「志於學」を解して「志者、在心之謂也」と言ったのをも、「心」に引きつけた南北朝的な解釈だと、李氏は言いますが、『尚書』孔伝に「在心為志」とあるように、これは普通の訓詁であり、仏教の影響などまったくありません。

 このように、本章の議論を駁することは難しくないのですが、はたと考えさせられました。南北朝時代における「礼」「心」「性」、これはなかなか新鮮なテーマなのではないか、と。新鮮すぎてついてゆけなかったのかも知れませんが、今後は私なりにも考えてみたいと思います。ただし、「礼」の問題をあつかう時、国家制度レベルの話と、個人倫理レベルの話をあえて混同する論じ方をするなら、著者と同じ陥穽にはまることは間違いなさそうです。

*殷憲主編『北朝史研究:中国魏晋南北朝史国際学術研討会論文集』(商務印書館、2004年)、Webcat所蔵館は21館(本日付け)。