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中華書局『史記』修訂本


二十四史の点校本の刊行は、解放後の中国において重要な意味を持ったもので、1959年9月に顧頡剛(1893-1980)が標点した『史記』が世に問われて以来、続々と整理出版されました。その後、50年以上にわたって広く読まれ、台湾の中央研究院が公開している「漢籍電子文獻」の底本ともなり、学術的にも利用されてきました。

このように歴史的に重要な役割を果たしてきたとはいえ、しかし、この『史記』点校本には校勘記がなく、また通行の金陵書局本をそのまま底本としており、本格的な学術利用に耐えるとは必ずしも言えないものでした。

このような状況の中で、複数の信頼できる伝本を利用した新しい点校本の出版は、待望されていたものと言えましょう。数年前からその噂を耳にするようになり、2013年、とうとう『史記』修訂本が出版されました。

『史記』
(漢) 司馬遷撰 ; (宋) 裴駰集解 ; (唐) 司馬貞索隱 ; (唐) 張守節正義
中華書局 2013年
點校本二十四史修訂本

私も喜び勇んですぐに一套を購入し、数巻分ほど旧版と新版を対照してみたりしておりました。校勘記も充実しており、期待を裏切らないものでした。

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『史記』修訂本

この新たな『史記』点校本は、南京師範大学の趙生群教授を修訂の責任者とし、同校の方向東教授などが協力して作られたもの、とのこと(本書の「史記整理人員名録」)。先月、方教授と趙教授が学会のために京都にいらしたおり、わざわざ私のもとに一套お持ち下さいました。感謝に堪えません。

新しい点校本が出る、という噂が広まった頃、「あまり大きな変更はないのでは?」という予測もありましたが、出版後に見比べてみると、底本の変更こそなかったものの、本文や句読については少なからぬ修正が加えられるように見えます。特に、注(いわゆる「三家注」)の部分にはすこぶる違いがありますし、詳しい校勘記がついたのはやはり大きな進歩です。

高山寺本などの古鈔本を用いたのも今回の修訂本の特徴ですが、ざっと見たところ、全面的に校勘記に取り入れられているわけではなく、もう少し慎重に見る必要がありそうです(修訂本が出たからと言って、他の伝本を見ずにすますわけにはゆかない、という意味です)。

頂戴した以上は、誠実に読まざるを得ません。いずれ、気づいたことはこのブログにも書くつもりですので、お待ちください。

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楚越の地


先日のブログ記事にて、『漢書』卷二十八下、地理志下の記述を引用しました。

有江漢川澤山林之饒;江南地廣或火耕水耨。民食魚稻,以漁獵山伐為業,蠃蛤,食物常足。故啙窳媮生,而亡積聚,飲食還給,不憂凍餓亦亡千金之家。(中華書局、p.1665)

後で気がついたのですが、この『漢書』の記述、『史記』卷一百二十九、貨殖列傳を踏まえたものでした。

越之地,地廣人希,飯或火耕水耨蠃蛤,不待賈而足,地埶饒食,無飢饉之患,以故呰窳偷生無積聚而多貧。是故江、淮以南,無凍餓之人,亦無千金之家。(中華書局、p. 3270)

司馬遷はこのように「楚越之地」の様子を描写した後、さらに続けて、「沂、泗水以北」などの北方中国を次のように対照させています。

沂、泗水以北,宜五穀桑麻六畜,地小人眾,數被水旱之害,民好畜藏,故秦、夏、梁、魯好農而重民。三河、宛、陳亦然,加以商賈。齊、趙設智巧,仰機利。燕、代田畜而事蠶。

最近、日比野丈夫「史記貨殖列傳と漢代の地理區」(『東方學報』京都、第41冊、1970年)を読んでいて『史記』の記述に気がついた次第です。いささか迂闊でした。司馬遷の南方観について、日比野氏は次のように評しています。

司馬遷は南方をおしなべて未開發な後進地域と受取り、文化の存在を認めなかった。ただ北方にない物資の産地、あるいは通過地として扱うだけで、植民地的な價値さえも無視していたといってよい。(p.155)

確かにそうかもしれません。しかし司馬遷のこの記述、『漢書』地理志はもちろん、なんと『隋書』地理志にまでほとんどそのまま踏襲されているのです。南方に対する無理解と偏見は、ひとり司馬遷だけの問題でないと思われます。

しかしそれは、司馬遷の地理観の重要性を損なうものではなく、貨殖列伝に見える忌憚ない地方への司馬遷の評価は、きわめて重い歴史の証言といえましょう。

『人類史のなかの定住革命』


西田正規『人類史のなかの定住革命』(講談社、講談社学術文庫 [1808]、2007)という書物を読みました。原本は、『定住革命 : 遊動と定住の人類史』(新曜社、1986)。

全体を書き下ろしたものではなく、別々に書いたものを編輯し、そこに新たな書き下ろしを加えたものです。初出一覧は以下の通り。

  • 「定住革命」 『季刊人類学』15巻1号、1984年
  • 「遊動と定住の人類史」 『現代思想』1984年7月号、臨時増刊
  • 「狩猟民の人類史」 『歴史公論』1985年5月号
  • 「中緯度森林の定住民」 『国立民族学博物館研究報告』10巻3号、1985年
  • 「歴史生態人類学序説」 『現代のエスプリ』1983年12月号、別冊
  • 「”鳥浜村”の四季」 『アニマ』1981年3月号
  • 「「ゴミ」が語る縄文の生活」 『歴史読本』1985年11月号
  • 「縄文時代の人間-植物関係」 『国立民族学博物館研究報告』6巻2号、1981年
  • 「人類=手型動物の頂点に立つ」 書き下ろし
  • 「家族、分配、言語の出現」 書き下ろし

樹上生活をやめて地上で暮らすようになった人類の祖先は、その後、低緯度地域から中緯度地域へと生活の場を広げました。さらに、今から1万年ほど前、それまでの遊動生活をやめて定住生活をするようになりますが、これこそが著者のいう「定住革命」です。日本の地で定住を始めた、縄文時代の人々の暮らしについても、分析が見えます。本書は、人類の歴史の中での定住の意義を明かしたものです。

書名にも含まれる、「定住」の意義についての記述が、やはりもっとも興味深く感じられました。農耕の始まりを重視する論者が多いそうですが、「採集か農耕かということより遊動か定住かということの方が、より重大な意味を含んだ人類史的過程」と考える筆者の論点が面白く感じられました。

そもそも大型の哺乳類は、一定の場所に住み続けることが難しい、との指摘がありましたが、我々、定住に慣れきってしまった今の人類からすると、かえって新鮮に感じられます。

遊動狩猟採集民が、明日の食料について心配しないのは、自然の恵みを確信しているからであり、それゆえ、食料を蓄える行為は、いわば自然に対するまったき信頼を放棄することにほかならない。(本書、pp.49-50)

遊動民は、大規模な倉庫を築いて食料や財産を貯蔵することはしなかった、とのことです。遊動民の暮らしは、世界の多くの地域で、1万年ほどまえに終わり、定住生活へと移行したようですが、新しく定住を始めた人々の一部にも、そのような貯蔵に対する違和感がのこったのではないでしょうか。中国史にも、思い当たるところがあります。たとえば、『漢書』卷二十八下、地理志下の、次のような記述。

楚有江漢川澤山林之饒;江南地廣,或火耕水耨。民食魚稻,以漁獵山伐為業,果蓏蠃蛤,食物常足。故啙窳媮生,而亡積聚,飲食還給,不憂凍餓,亦亡千金之家。(中華書局、p.1665)

楚の地域の人々は、「啙窳にして生を媮(ぬす)み、而して積聚する亡く、飲食還(ま)た給し、凍餓を憂えず、亦た千金の家も亡し」。「啙窳」は怠惰で自堕落なこと。緯度のより高い地域の定住民の基本である「積聚」をしない生き方は、自堕落に見えたのでしょう。しかし漢代になっても、なお「積聚」しない生活もあり得たのだ、ということを教えてくれる記事です。

また、自然に対して絶大な信頼を寄せる『老子』は、「金玉堂に滿つれば、之を能く守る莫し」(第九章)といい、「天の道は、餘り有るを損いて足らざるを補う」(第七十七章)といいます。これは、過度の蓄積についての拒絶であるとも読めます。中国におけるこのような思想は、定住以前の人類の記憶を伝えるものとも読めます(『老子』が楚の文化を反映していると短絡的に考えるわけではありませんが)。

一方、後世になると、「金玉滿堂」はめでたい言葉とも受けとられています。富の蓄積がよいことなのか、そうでないのか。人類の歴史がその判断に刻み込まれているのかもしれません。本書を読みつつ、そのようなことに想いをめぐらせました。