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『環境から解く古代中国』


原宗子氏の『環境から解く古代中国』(大修館書店、2009年、 あじあブックス 65)を読みました。まずは、目次をご覧ください。

  1. 「象」という字は、なぜできた?-殷周期の気候変動
  2. 「七月」が詠う冬支度-西周期の黄土高原
  3. 孔子の愛弟子・子路のバンカラの秘密-春秋~漢の毛皮観
  4. 「株を守る」のウラ事情-戦国期中原の開発と鉄器
  5. ホントは怖い(?)「一村一品」政策-春秋~漢代の斉の特殊性
  6. 合従連衡は、異文化同盟?-戦国秦漢期、北方・燕の環境
  7. スパイ鄭国の運命-秦の中国統一と大規模灌漑
  8. 司馬相如のカノジョはイモ娘?-秦漢期・四川に生きる心意気
  9. 「公共事業」は昔も今も……-漢・武帝期の大規模灌漑と後遺症
  10. “帰順”匈奴のベンチャービジネス-漢代の「ペットボトル」と大狩猟イベント
  11. 海と女と酒と「叛乱」-王莽・新の税制と環境
  12. 戦国男の夢実現(?!)-漢代シルクロードを支えた「内助の功」
  13. 曹操も手こずった黄河の凍結-魏晋南北朝の気温変化と戦法
  14. 均田制、もう一つの貌-五胡から唐宋期の樹木観
  15. 「貧困の黄土高原」はなぜできた-明清・中華帝国の光と影

目次を見ただけでも、実に面白そうではありませんか?読んでみると、文章もよくこなれており、読者が楽しく読めるような工夫が施された一冊でした。

このところ、授業では学生諸君とともに『孟子』を読んでおり、古代にもあらためて関心が向いているのですが、ただ古典を淡々と読むだけでなく、先秦時代の人々が、人類の一員として、どのような環境のなかで何を考えながら暮らしたのだろうか、と、彼らの生活に思いを馳せるようになりました。

そのためには、古典漢語に関する知識や書物についての理解が必要なことはもちろんですが、それだけでなく、人類学・考古学の知見をある程度まで理解し、人々が気候変動や自然環境の変化に対処しつつ、食料獲得の習慣をどのように変え、そうした環境に応じて生活したことこそが、中国思想が生まれて育まれた条件となっている以上、中国の環境史に対して理解を深めることが、自分が古書を読む際に欠かせないのではないか、と考えるようになりました。

環境について学ぶ目的は、もちろん現在、人類が直面している環境問題の深刻さを一方では意識したものではあるのですが、他方、中国の歴史、それ自体を知るためにも、自分自身、これまであまりにこの方面について無頓着であったのではないか、といった反省を背景としてもいます。

本書、『環境から解く古代中国』は、主に殷代から漢代までの環境史を対象としており、日本人にも比較的よく知られたエピソードを取り上げて、中国の地に生きた人々の生活と環境、そして思想を語っています。

本書から一例を挙げるなら、『韓非子』に見える「守株」のエピソードは、殷が滅びた後に建国された宋の地では、新たに森林を伐採して農地としたのではないか、そうであるからこそ、はたけに切り株が残されており、しかも森林を住処とするウサギが近くに棲んでいたのだ、と原氏は推測しています。たいへんに刺激的な考察です。

こうして、環境というものを念頭において古書を読み直すと、確かに、古書はこれまでとかなり異なった面貌をもって我々の前に現れてくるように思うのです。肩のこらない書物ですから、中国史を専門としない方にも勧められそうです。

楚越の地


先日のブログ記事にて、『漢書』卷二十八下、地理志下の記述を引用しました。

有江漢川澤山林之饒;江南地廣或火耕水耨。民食魚稻,以漁獵山伐為業,蠃蛤,食物常足。故啙窳媮生,而亡積聚,飲食還給,不憂凍餓亦亡千金之家。(中華書局、p.1665)

後で気がついたのですが、この『漢書』の記述、『史記』卷一百二十九、貨殖列傳を踏まえたものでした。

越之地,地廣人希,飯或火耕水耨蠃蛤,不待賈而足,地埶饒食,無飢饉之患,以故呰窳偷生無積聚而多貧。是故江、淮以南,無凍餓之人,亦無千金之家。(中華書局、p. 3270)

司馬遷はこのように「楚越之地」の様子を描写した後、さらに続けて、「沂、泗水以北」などの北方中国を次のように対照させています。

沂、泗水以北,宜五穀桑麻六畜,地小人眾,數被水旱之害,民好畜藏,故秦、夏、梁、魯好農而重民。三河、宛、陳亦然,加以商賈。齊、趙設智巧,仰機利。燕、代田畜而事蠶。

最近、日比野丈夫「史記貨殖列傳と漢代の地理區」(『東方學報』京都、第41冊、1970年)を読んでいて『史記』の記述に気がついた次第です。いささか迂闊でした。司馬遷の南方観について、日比野氏は次のように評しています。

司馬遷は南方をおしなべて未開發な後進地域と受取り、文化の存在を認めなかった。ただ北方にない物資の産地、あるいは通過地として扱うだけで、植民地的な價値さえも無視していたといってよい。(p.155)

確かにそうかもしれません。しかし司馬遷のこの記述、『漢書』地理志はもちろん、なんと『隋書』地理志にまでほとんどそのまま踏襲されているのです。南方に対する無理解と偏見は、ひとり司馬遷だけの問題でないと思われます。

しかしそれは、司馬遷の地理観の重要性を損なうものではなく、貨殖列伝に見える忌憚ない地方への司馬遷の評価は、きわめて重い歴史の証言といえましょう。

『人類史のなかの定住革命』


西田正規『人類史のなかの定住革命』(講談社、講談社学術文庫 [1808]、2007)という書物を読みました。原本は、『定住革命 : 遊動と定住の人類史』(新曜社、1986)。

全体を書き下ろしたものではなく、別々に書いたものを編輯し、そこに新たな書き下ろしを加えたものです。初出一覧は以下の通り。

  • 「定住革命」 『季刊人類学』15巻1号、1984年
  • 「遊動と定住の人類史」 『現代思想』1984年7月号、臨時増刊
  • 「狩猟民の人類史」 『歴史公論』1985年5月号
  • 「中緯度森林の定住民」 『国立民族学博物館研究報告』10巻3号、1985年
  • 「歴史生態人類学序説」 『現代のエスプリ』1983年12月号、別冊
  • 「”鳥浜村”の四季」 『アニマ』1981年3月号
  • 「「ゴミ」が語る縄文の生活」 『歴史読本』1985年11月号
  • 「縄文時代の人間-植物関係」 『国立民族学博物館研究報告』6巻2号、1981年
  • 「人類=手型動物の頂点に立つ」 書き下ろし
  • 「家族、分配、言語の出現」 書き下ろし

樹上生活をやめて地上で暮らすようになった人類の祖先は、その後、低緯度地域から中緯度地域へと生活の場を広げました。さらに、今から1万年ほど前、それまでの遊動生活をやめて定住生活をするようになりますが、これこそが著者のいう「定住革命」です。日本の地で定住を始めた、縄文時代の人々の暮らしについても、分析が見えます。本書は、人類の歴史の中での定住の意義を明かしたものです。

書名にも含まれる、「定住」の意義についての記述が、やはりもっとも興味深く感じられました。農耕の始まりを重視する論者が多いそうですが、「採集か農耕かということより遊動か定住かということの方が、より重大な意味を含んだ人類史的過程」と考える筆者の論点が面白く感じられました。

そもそも大型の哺乳類は、一定の場所に住み続けることが難しい、との指摘がありましたが、我々、定住に慣れきってしまった今の人類からすると、かえって新鮮に感じられます。

遊動狩猟採集民が、明日の食料について心配しないのは、自然の恵みを確信しているからであり、それゆえ、食料を蓄える行為は、いわば自然に対するまったき信頼を放棄することにほかならない。(本書、pp.49-50)

遊動民は、大規模な倉庫を築いて食料や財産を貯蔵することはしなかった、とのことです。遊動民の暮らしは、世界の多くの地域で、1万年ほどまえに終わり、定住生活へと移行したようですが、新しく定住を始めた人々の一部にも、そのような貯蔵に対する違和感がのこったのではないでしょうか。中国史にも、思い当たるところがあります。たとえば、『漢書』卷二十八下、地理志下の、次のような記述。

楚有江漢川澤山林之饒;江南地廣,或火耕水耨。民食魚稻,以漁獵山伐為業,果蓏蠃蛤,食物常足。故啙窳媮生,而亡積聚,飲食還給,不憂凍餓,亦亡千金之家。(中華書局、p.1665)

楚の地域の人々は、「啙窳にして生を媮(ぬす)み、而して積聚する亡く、飲食還(ま)た給し、凍餓を憂えず、亦た千金の家も亡し」。「啙窳」は怠惰で自堕落なこと。緯度のより高い地域の定住民の基本である「積聚」をしない生き方は、自堕落に見えたのでしょう。しかし漢代になっても、なお「積聚」しない生活もあり得たのだ、ということを教えてくれる記事です。

また、自然に対して絶大な信頼を寄せる『老子』は、「金玉堂に滿つれば、之を能く守る莫し」(第九章)といい、「天の道は、餘り有るを損いて足らざるを補う」(第七十七章)といいます。これは、過度の蓄積についての拒絶であるとも読めます。中国におけるこのような思想は、定住以前の人類の記憶を伝えるものとも読めます(『老子』が楚の文化を反映していると短絡的に考えるわけではありませんが)。

一方、後世になると、「金玉滿堂」はめでたい言葉とも受けとられています。富の蓄積がよいことなのか、そうでないのか。人類の歴史がその判断に刻み込まれているのかもしれません。本書を読みつつ、そのようなことに想いをめぐらせました。

孟子の時代の環境破壊


山東省淄博市の臨淄区は、かつて春秋・戦国時代の大国、斉の都、「臨淄」があったところ。

その臨淄の南には牛山という山があり、もともと樹木の生い茂る美しい山であったのが、孟子の時代にはすでに伐採され、また家畜の放牧のせいで、禿山になっていたそうです。

孟子曰:「牛山之木,嘗美矣。以其郊於大國也,斧斤伐之,可以為美乎?是其日夜之所息,雨露之所潤,非無萌蘖之生焉,牛羊又從而牧之,是以若彼濯濯也。人見其濯濯也,以為未嘗有材焉,此豈山之性也哉?雖存乎人者,豈無仁義之心哉?其所以放其良心者,亦猶斧斤之於木也。旦旦而伐之,可以為美乎?」

孟子がいわれた。「牛山は以前は樹木が鬱蒼と生い茂った美しい山であった。だが、斉の都、臨淄という大都会の郊外にあるために、大勢の人が斧や斤(まさかり)でつぎつぎと伐りたおしてしまったので、今ではもはや美しい山とはいえなくなってしまった。

しかし、夜昼となく生長する生命力と雨露のうるおす恵みとによって、芽生えや蘖(ひこばえ)が生えないわけではないが、それが生えかかると人々は牛や羊を放牧するので、片はしから食われたり踏みにじられたりしてしまい、遂にあのようにすっかりツルツルの禿山となってしまったのである。今の人はあのツルツルの禿山を見れば、昔から木材となるような樹木はなかったのだと思うだろうが、木のないのがどうして山の本性であろうか。いやいや、決して山の本性ではないのだ。

〔ただ山ばかりではない、〕人間とてもそれと同じこと。生来持って生まれた本性の中に、どうして仁義の心(良心)がないはずがあろうか。ただ、人がそういう本来の良心を放失(なく)してしまうわけは、やはりまた、斧や斤(まさかり)で木を伐るのと同じなのだ。毎日毎日、牛山の木を伐るように物慾という斧斤(おのやまさかり)が良心という木を伐り去ったなら、どうして心が美しい〔良心のある人だ〕ということができようか。 (小林勝人訳注『孟子』下冊、岩波文庫、1972年。p.244-245)

『孟子』告子篇上に見える、有名な一節です。人間の良心を山の草木になぞらえているわけですが、ただの喩え話ではなく、孟子の時代、斉の環境破壊がかなり深刻であった事実がここから分かります。材木を採るために山の木を斬り、食肉用の家畜を放牧して山を荒らすことは、孟子にとって、邪悪な、いまわしい行いであったに違いありません。

ジャレド・ダイアモンド『文明崩壊』(楡井浩一訳、草思社、2005年)には、木を斬ることから文明が滅んだ例が数多く載せられています。『孟子』のこの一節、環境史の面から読むことも可能でしょう(おそらくその試みは、すでになされていることと思います)。

孟子と同じ戦国時代の思想を反映するらしい『荘子』にも、木を斬る話が少なからず見えており、そこでも樹木を材料とのみ見なすことへの強烈な批判が見られます。たとえば人間世篇の匠石の話など。

人類が環境破壊に対して抱いた違和感。その原初のかたちが、『孟子』や『荘子』に見えるように思います。

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ecocriticism


過日、日本文学の研究者、ハルオ・シラネ氏の講演を聴きました。「エコクリティシズム ecocriticismは、その初期において、自然文学を対象として、文学の中に見える環境描写・環境意識を検討するものであったが、近年では、環境と文学的表象とのズレを検討するものへと変容してきている」とのお話がありました。

「環境と表象とのズレ」と聞いて、「北香花橋」のことを思い出しました。以前、草森紳一氏が雑誌『しにか』に「肘後集-明治人の清国見物」として連載された文章の、2002年5月号に見える話です。

「憲政の神様」こと尾崎行雄(1858-1954)は、明治17年(1884)、上海に向けて旅立ち、彼の地に2ヶ月ほど滞在しました。後にその体験をまとめた『遊清記』には、当時(光緒9年)の上海の雑沓を描いて次のようにあります(草森氏の文章から転引)。

悪臭の盛んなる果たして聞く所に違はず、同行の士、皆鼻を掩ふ。行くこと少しくして橋あり、小溝に架す。溝の汚穢なる、橋の狭隘なる、我が都人士の終生見る能はざる所なるべし。

汚らしいドブに架けられた貧相な橋。その橋の名は如何?

然れども支那人は文字に巧みなる、必ず之を付するに美名を以てするならんと想ひ、試に其名を問へば、北香花橋と答ふ。

さらに尾崎行雄は「六尺の小巷を名づけて大街と云ひ、溝上の小橋を名づけて北香花橋と云ひ、古池の破れ茶屋を称して湖心亭と云ひ」とののしります。この発言に、明治人のアジア蔑視を見てとることはもちろん可能ですし、そしてその蔑視は厭わしいものですが(その厭わしさの故にこそ、私もこの話を覚えていたのですが)、その一方、漢民族の表象に対して尾崎がいだいたであろう違和感も、容易に想像することができます。

上海の人々は、汚いドブの橋に「北香花橋」と名づけました。インテリぶって言うなら、悪臭とは、「無軌道な都市化にともなう環境破壊によって自然を喪失したことへの当然の報い」であり、「香」の命名は、「自然を喪失したことを補償・補完しようとする行為の一種」にほかならない、と解釈できます。SFに「失われた美しい環境」が描かれるのと同じ道理、『老子』の「大道廃れて仁義有り」と同じ道理です。

失われてしまった秩序の「恢復」、そして失われた太古への「復帰」を求める言説。中国人が中国を語ってきた伝統的なことばは、現代のエコクリティシズムの恰好の対象となりうるのかも知れません。