カテゴリー別アーカイブ: 田中慶太郎

『周易集解』宋刊本


田中慶太郎(1880-1951)『羽陵餘蟫』(文求堂書店、1938年)に、唐の李鼎祚『周易集解』の条があり、次にようにいいます。

支那では是書の影宋寫本は稀に傳はつてゐるが宋刊本は無い。ところが昨年神田教授が歐州旅行中、獨逸國で宋刊本を發見せられた。『書誌學』昭和十二年二月號に詳細なる同教授の論文が載せられてある。(p.10)

この宋刊『周易集解』、神田喜一郎(1897‐1984)が1936年、ドイツのベルリンにあった、プロイセン州立図書館(Preußische Staatsbibliothek)で見出したものです。

同館は現在、ベルリン州立図書館(Staatsbibliothek zu Berlin)と名を変えていますが、実はこの図書館に、その『周易集解』は存在していません。戦争に巻き込まれ、長らく行方知れずになっていたそうです。

それが近年、京都大学の高田時雄教授により再発見されました。2009年11月に中国国家図書館が開催した古文献学国際学術研討会にて、「宋刊本『周易集解』的再發現」として発表された内容です。

私はその間の事情を知らずにいたのですが、高田氏の発表を聞いた中国国家図書館の李致忠氏が「唐李鼎祚『周易集解』略考」(『文献』2010年第4期)という論文を書かれ、かえってそれによって状況を理解しました。

それによると、高田氏は2007年2月、その本の巻八・九(一冊)と巻十(一冊)、合わせて二冊を、ポーランドのクラクフにあるヤギェウォ大学のヤギェウォ図書館(Biblioteka Jagiellońska)において再発見なさったとのことです(神田氏が見た時には十巻とも揃っていたとのこと)。第二次世界大戦中の1941年以降、プロイセン州立図書館からは多くの図書が疎開させられたとのことで、この本も転変を経てクラクフに行き着いたものらしく、その経緯は高田氏が詳しく発表なさったはずです。

李氏によると、この本は南宋の嘉定五年(1212)に鮮于申が刻したもの。毛晋(1599‐1659)の旧蔵品で、後に清朝の皇帝の有に帰し円明園にあったものとのこと。ひと目、拝みたいものと思い、ミュンスター大学のミヒャエル・ヘッケルマン氏に頼んで、ヤギェウォ図書館に問い合わせてもらったところ、何とすでに電子化されて公開されてることが分かりました。

まったく驚くべき時代になったものです。ポーランドに蔵されている、毛晋の蔵書印が麗々しく捺された紛うことなき宋刊本を、じっくりとオンラインで鑑賞できるのです。

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島田翰への同情


明治大正期の漢学者、島田翰(あざなは彦楨、1879-1915)は、大才を抱きながらも虚言を弄する、一風変わった学者です。その著『古文旧書攷』(民友社、1905年)には卓見と虚言が混在しており、なかなかあつかいに悩ませられます。

宮内庁蔵の北宋版『通典』についても、同書を高麗における覆刻と見る、妙な説を唱えています。田中慶太郎(1880-1951)は島田翰の友人であったのですが、これについて、「好んで異を立てたもの」とその非を指摘しつつも、島田氏には同情すべき点があるとして、次のように言います。

當時は明治初中年間の好事者は已に凋落し、新しき版本學者の擡頭しなかつた過渡時代であつた。……。彥楨がその學問文章鑑識を以てして、斯界を空うする態度を取つたのも、寧ろ恕すべきであると思ふ。 (『羽陵餘蟫』文求堂書店、1938年、乙部、「通典二百卷」pp.167-168)

これが「恕すべき」理由なのかどうか、首をかしげたくなりますが、ともかく、島田氏に対する田中氏の同情を読み取ることはできます。さらに続けて『通典』に関する仁井田陞(1904-1966)の論文を紹介する中で、あらためて島田氏およびその師である竹添進一郎(1842-1917、号は井井)に説き及んでいます。

仁井田陞氏の「通典刻本私考」〔『東洋學報』二十二ノ四〕は的確有用なる考證である。最も快心事は仁井田氏が静嘉堂文庫所藏の竹添井井翁手校『通典』を紹介し、翁の治學方法の正當にして見識あることを表現せられたことである。井井翁が愛弟子たる島田彥楨を深く心にかけて居られた真情熱意には、其間に在つた筆者も今なほ新たなる如き感銘が在り、豪放不羈なる彥楨も井井師に對しては心から推服して居つた純情を思慕する者である。 (同上、pp.168-169)

竹添井井と島田翰との間にあった師弟愛について、どうしても語っておきたかったのでしょう。その場に居合わせた時代の証人として。いささか脇道に逸れたこの記述に、亡き友をしのぶ田中慶太郎の人柄を見る思いがします。

ただし島田氏に対する田中氏の評価は、決して甘いばかりではないようです。『論語義疏』について、島田氏は、邢昺疏を背面に注記した珍しい本を見た、と主張しますが、これについて田中氏は次のように言って、にべもありません。

『古文舊書攷』には新井某氏の許で見た義疏の古寫本には邢疏が背記されて居つた、後人が背記の邢疏を皇疏へ竄入したのであるとのことを記してゐる。さうあつても然るべきことではあるが、筆者はこの皇疏だけの古寫本を見たことが無いから何とも言へない。 (同上書、甲部、「論語義疏十卷」p.73)

我が国に伝わる梁の皇侃『論語義疏』にはどういうわけか、北宋の邢昺の疏が必ず併記されているのですが、島田氏の言うとおりであるとすると、古い形としては紙背に注記されていた邢昺の疏が、いつからか正面に転記されるようになった、ということになります。そうだとすると面白いのですが、何しろ、その本は島田氏以外に誰も見た者がないのです。「見たことが無いから何とも言へない」とした田中慶太郎のこの記述、持平の論というべきでしょう。

市橋氏献本『儀礼経伝通解』のゆくえ


市橋本『儀礼経伝通解』
市橋本『儀礼経伝通解』

田中慶太郎(1880-1951)の『羽陵餘蟫』(文求堂書店、1938年)に、朱子『儀礼経伝通解』を説明して、次のようにいいます。

東方文化学院東京研究所所蔵に宋刊七行本の完本がある。

これと同版の零本第十七中庸一冊が近時市上に出で某富豪の手に歸した。昌平學校の舊藏で市橋獻本の一である。

市橋長昭獻本三十種は圖書寮尊藏の外、内閣文庫・帝國圖書館に分藏せられてゐるが、この中庸だけは、幕末昌平學校舊藏時代に、民間へ逸出したものであるかと思はれる。珠聯璧合の時節もあらう。 (『羽陵餘蟫』甲部、「儀禮經傳通解」pp.42-43)

文中に見える、市橋氏とは、近江仁正寺藩の藩主、市橋長昭(1773-1814)。昌平坂学問所(昌平黌・昌平学校とも。現在の湯島聖堂)に、三十種の宋版元版を献上したそうです。

そして「某富豪」というのは、安田財閥の祖、安田善次郎(1838-1921)。多く漢籍善本を集めた人物でした。先年、その安田氏の曾孫にあたる安田弘氏が、蔵書11種を東京大学東洋文化研究所に寄贈されましたが、その中に、まさにこの『儀礼経伝通解』巻第十七が見えたのです。なお、文中の東方文化学院東京研究所の蔵書は、現在、東京大学東洋文化研究所に引き継がれております。

安田弘氏の寄贈本について、橋本秀美氏が「安田弘先生捐贈正平本『論語』等十一種」と題して、ウェブ上に記事を書いておられます。そこから、市橋長昭献本の『儀礼経伝通解』巻第十七について引用しておきます。

南宋刊本。東洋文化研究所は全巻揃いの宋本を所蔵しているが、行格はそれと全く一致するものの、同版ではない。江戸時代に市橋氏が孔廟に献上した宋元本三十種の一つで、昌平坂学問所の印がある、由緒あるもの。他の二十九種は、内閣文庫等に現存している。

市橋氏献本のうち、唯一の流出分、『儀礼経伝通解』が、ようやく広く世に知られるようになったわけです。

『儀礼経伝通解』の完本を以前から有してきた東洋文化研究所が、さらに同書の市橋献本、巻17を蔵するにいたったのは、まったく歴史の偶然でしょう。

そして同じく版式を一にする『儀礼経伝通解』の南宋版でありながら、同版ではないことが分かりました。こうして田中氏の時よりも、認識が一歩、進んだのです。彼の言った「珠聯璧合の時節」とは、実は、このことを予言したものであったのかも知れません。

郁達夫の采石磯


田中慶太郎(1880-1951)『羽陵餘蟫』に、郁達夫(1896-1945)の小説が紹介されていました。

郁達夫作の短篇小説『采石磯』は、安徽提督學政朱竹君の幕客として、黄仲則・洪稚存の兩人が竹君の知遇を得て居つた時に、當時考據の大家として盛名隆隆たる戴東原先生が京師から紀曉嵐等諸要人の推薦狀を携へて、長江南岸太平府の學政衙門に朱竹君を訪ね、竹君が大に戴氏を厚遇したのはよかつたが、戴氏が黄仲則の詩を「華而不實」と言つたとか言はぬとかで、黄仲則が大大的犯脾氣して、滿腹の牢騒は發して一篇の名詩となり、それが大江の南北に風誦されるといふ一寸風變りな小説である。

邦文譯もあるから考證考證で肩の凝つた時には讀んで見るのも一興であらう。

但し此小説は戴氏に取つては御迷惑千萬なことであつて、おそらく戴東原先生を胡適博士にたとへ、黄仲則を郁氏自身にたとへたものの樣にも思はれる。 (『羽陵餘蟫』甲部、「禮記正義六十三卷」p.48)

年末から一月いっぱい、苦しんで論文を書いており、先日やっと解放されました。考証、考証で、かなり肩が凝ってしまったので、この『采石磯』を読んでみました。田中氏のいうとおり、まことに「風變りな小説」であり、無理に登場させられた「戴氏に取つては御迷惑千萬なこと」に違いありません。

朱竹君は朱筠(1729-1781)、黄仲則は黄景仁(1749-1783)、洪稚存は洪亮吉(1746-1809)、戴東原は戴震(1724-1777)です。一読して、歴史事実に即したものとはとても思えませんし、戴震が登場するといっても、主人公の黄仲則は戴震に会いもせず、戴氏の言を又聞きして憤っている始末です。何か腑に落ちません。

田中慶太郎と郁達夫。田中氏の方が十数歳、年長ですが、同時代人と言えます。「おそらく戴東原先生を胡適博士にたとへ、黄仲則を郁氏自身にたとへたものの樣にも思はれる」というのも、我々には想像もつかぬことですが、それこそ、おそらく何らかの根拠があることなのでしょう。

なお、小説中で戴震に言わせた「華而不實」という成語は、見ばえはしても中身がない、という意で、『春秋左氏伝』文公五年に基づくもの。甯嬴という人物が陽処父を評して「華而不實,怨之所聚也」と言ったそうです。『国語』晋語五にも似た話が見えています。

古書は古画のごとし


日ごろ愛読している「續積讀日記」に、田中慶太郎(1880-1951)『羽陵餘蟫』(文求堂書店、1938年)についての読書記が載せられました。私も読んでみようかという気になり、いま読み進めているところです。

『羽陵餘蟫』は、書物としての中国古典に関心のある方におすすめできる著作であり、日本語で書かれた漢籍解題として、これほど生き生きとしたものも珍しいのではないでしょうか。ひとつ面白いと思ったのが、偽書について述べられた以下のくだりです。

『左傳』の成立については古來種々の見方があり、殊に清の劉逢祿の『左氏春秋考證』の著述以後、康有爲の『新學僞經考』を始め、或は天文の方面より、或は思想の方面より、或は文法語法の方面より、幾多内外人の研究が發表せられている。

筆者程度の常識だけで本を讀んでゐる者には、どれを讀んでも、讀んでゐる間はいづれも道理が有ると思はれるだけで、判定をする能力が無く見當がつかぬ。

假令ばここに閻立本の繪いた肖像畫が有るとする、古畫のことであるから當然補筆が澤山ある。袖の部分はたしかに元人の筆であると見える。裳から靴のあたりは宋人の筆らしい、しかし顔面はたしかに唐人の筆で、且つ閻立本に非ずともそれに近い年代の人の筆に相違無い。古畫にはこんなものはいくらもある。顔面だけを取あげて唐畫とするのも誤りであらうが、袖だけを取あげて元畫とするのも亦誤りであらう。(甲部、「春秋經傳集解三十卷」、pp.53-54)

『春秋左氏伝』という書物の成立については、さまざまな議論があるが、そんなに簡単に決められるのか、というのが、田中慶太郎の疑問です。

前漢時代以前には、そもそも一つの書物を一人の人物が書くという習慣がありませんでしたから、その成立の過程は入り組んでいます。この点、後世の著作とまったく事情が異なります。書物がいったん成立した後の伝承の経緯はさらにさまざまで、削られたり、書き足されたり、整理されたりということが、しばしば行われました。このような過程をもつ中国の「古書」はかならず慎重にあつかうべきものであり、我々が先般、翻訳した余嘉錫『古書通例』(平凡社、東洋文庫、2008年)には、この事情が詳しく多角的に説明されています。

田中氏が唐の画家、閻立本の絵をたとえ話に出して語るのも、まさしく「古書の複雑さ」です。これは実にうまいたとえだと思いました。古書の成書問題に限らず、単純化された議論にはそれなりの爽快さがあるものですが、本来複雑なものを単純明快にスパッと切ると、そのもの自体が持つよさは損なわれてしまいます。そのような単純化に、田中氏はさりげなく注意を促したわけでしょう。

この一点をもってしても、田中氏の見識の高さをうかがうことができるのです。田中氏のいう「常識」は、当時にあってもまた今日にあっても、得難いものであるように思われます。