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日本に目録学なし


「日本に目録学なし」。この強烈なアンチテーゼには一瞬にして引き込まれました。日本学には暗い者ではありますが、それでも、これまで眼に触れた書物から推すなら、きっと日本には目録学はなかったのだろう、と肯きたい気分になります。

このことばは、内藤湖南「敬首和尚の典籍概見」冒頭の一句です。『内藤湖南全集』第12巻(筑摩書房、1970年)所収。

 日本に目録學なし。目録や解題の書は相應に古き世より之あり、漢籍にては日本國現在書目、佛書にては八家の將來録などより、信西入道の藏書目、清原業忠の本朝書籍目録、これらは古書を考ふる者の缺くべからずとする所にして、徳川時代に入りては林道春父子の日本書籍考、經典題説が解題の嚆矢となりしより、遂に支那人をして其の名著に驚かしめたる經籍訪古志のごとき者さへ出づるに至りたり。故に目録の書は觀るべき者少しとせざれども、目録學の書に至りては、殆ど之あるを見ず。

 されば一人にても半人にても、此間に目録學らしき者を爲したる人あらば、之を空谷の跫音とせざる能はざるなり。余は敬首和上の「典籍概見」を以て、我邦に於ける殆ど唯一の目録學書として推薦せざるを得ず。

この一文を読み、是非とも『典籍概見』を一読したくなりました。宝暦年間に出された版本は珍しい本ですが、幸い、汲古書院が出した次の叢書に影印が収められていて、現在では容易に見ることができます。長澤規矩也・阿部隆一編『日本書目大成』第三巻(汲古書院、1979年)所収。

その解題を引いておきましょう。

典籍概見 釋敬首(隨縁道人)撰 釋天心筆記 釋大梁校 寶暦四年〔1754〕四月刊本 半一冊
寶暦四年芝増上寺僧大梁序、題言、同年海雲跋。道書・儒書・私史・國史・野史に渉って、分類綱目ならびに各類中の代表作について説明し、学び方、讀み方を記したもの。
著者は浄土宗の僧、晩年、下谷に瓔珞庵を結び、書庫真如院に數萬の古書を藏した。寛延元年〔1748〕寂、六十六歳。跋末に「和泉屋新八」と刊者の名を刻入した傳本がある。

本文わずかに27葉の薄い本ですから、すぐに読み終わりましたが、痛快な読後感、確かに素晴らしい書物です。目録学を理解し、そしてその目録学を応用して万巻の書籍を読み解いた、その跡をありありと示しています。同時代の中国には敬首和尚ほどの見識を有した学者が幾らもいたことでしょうが、日本ではおそらく唯一人ではなかったのでしょうか。

よい師、よい友がいて、よい学問ができるのは、当然です。しかし敬首和尚は、独学してこの境地にいたったものか、と想像されます。数万巻の蔵書とは理想的な環境でしょうが、それにしても、よい師もなく、みずからの力で漢籍をここまで読み解けたとすれば、それは驚異的です。「絶せる炯眼を具して、博覽の餘に自然に著述源流の學を、髣髴として把捉し得たる者」と湖南が激賞する道理です。

ただ、「其書は自ら筆を執りて記述したるにあらずして、其の弟子天心の筆記に成り、而も其の歿後に刊行せられたれば、往々筆者の誤と見ゆる處あり」と湖南も言うとおり、首を傾げてしまうようなところもあります。

それらの瑕疵は畢竟、敬首和尚が自分で書いたものではなく弟子の編輯になる、という経緯に由来するのでしょう。敬首の弟子の一人、海雲が書いた跋文は、その間の苦悩を濃くにじませています。

蓋し此書は、先師二三の小子の為めに、漫説せる一時の茶話を、天心の録せるものにて、刊定の書にしもあらず。豈にはからんや、今日壽梓の舉あらむとは。夫れ先師非常の識にして、其述する處多しといへども、帳中に秘して、さらに人間に流行することを許し玉はざりき。然るに此書の如き、梁子の手に落ちて、先づ世に行はるるものは、それ幸とせんか、また不幸とせんか。既でに上木の功畢れり、何かんともすることあたはず、看了一過して、ただ先師の説なる事を証明するのみ。

「もう出版の仕事は終わってしまった、もうどうすることもできない」。敬首の学識が正しく反映されていない、という思いが、弟子の海雲にあったに違いありません。しかし、後世の我々にとって、この書物がまがりなりにも出版されたことは「幸」とすべきでしょう。そうでなければ、敬首和尚という卓越した学者がいたことすら、知られずに終わったのですから。

今となっては、外典に関する敬首和尚の学識をうかがうよすがは、『典籍概見』のみです。この点については、残念というほかありません。ただ『国書総目録』を見ると、『阿弥陀経』の注釈などが写本として伝えられているようですから、余力があればいずれ読んでみたいものです。

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湖南と仏経目録


内藤湖南「支那目録学」の中で、もっとも納得のゆかない部分をひとつ。それは、仏教書の目録に対する評価です。

 阮孝緒の頃は、僧祐が出三藏記を作つた頃であるが、これはもつと便宜的の目録で、殆ど學問上の意味をなさない。大體佛教の方の目録は、その後まですべて索引目録が主で、内容目録になつたことはない。佛教學者には目録の智識は發達しなかつた。

僧祐(445-518)の『出三蔵記集』といえば、仏教目録の金字塔です。一五巻の内訳は以下の通り。

  • 撰縁記:巻一
  • 詮名録:巻二-五
  • 総経序:巻六-一二
  • 述列伝:巻一三-一五

「撰縁記」は経典の成立を説いた記事を集めたもの、「詮名録」は目録、「総経序」は経典訳出の際につけられた序文を集めたもの、「述列伝」は訳経者の伝記、と、非常に周到に組み立てられています。特に、目録を補佐する「撰縁記」「総経序」「述列伝」の周到さは、同時代の一般書の目録を遥かに凌駕しています。湖南の「便宜的の目録で、殆ど學問上の意味をなさない」などいう評価は、とんでもない誤りです。

1938年に「中国文化史叢書」の一冊として出版された姚名達(1905-1942)の『中国目録学史』は、「宗教目録篇」という篇を設け、大きな紙幅を割いて仏経目録を熱く論じました。なかでも『出三蔵記集』については、きわめて詳しく紹介しています。

 遥かに安録(道安『綜理衆経目録』)を続ぎ、近く『別録』(『衆経別録』)を接ぎ、一切の経録を嚢括しその大成を集むる者は、釈僧祐の『出三蔵記集』為り。

姚名達は、僧祐の「撰縁記」は、劉歆『七略』が学術の源流を論じたのに相当し、「総経序」「述列伝」は劉向の解題に当たる、といいました。僧祐のこの目録がこれほどまでに成功し得た理由も、詳しく説明してあります。

仏書目録の意義とその到達点を見誤っている点が、湖南目録学の最大の弱点であろうと思います。

湖南の毒


内藤湖南(1866-1934)が毒を含む人であったことは、周知のことでしょう。以前にご紹介した「支那目録學」の一節に、次のような言がありました。

 目録學は支那には古くからあるが、日本には今もつて無い。……。かの佐村氏の「國書解題」などでも、箇々の書の特質を標出し得ずして、何れの書にも同樣の解題をしてあるやうな處があつて、解題の意味をなさぬものがあるが如きである。(「支那目録學」、『内藤湖南全集』巻12、筑摩書房、1970年所収)

ここに見える「佐村氏の「國書解題」」について、『内藤湖南全集』第一二巻に収める『目睹書譚』には、もっと過激な非難が見えるのです。

 裒然たる大冊にて、打ち見るより其の勞苦の思ひやらるること、經濟雜誌社の人名辭書、社會事彙などにも劣らじと見ゆるは、佐村八郎氏の國書解題なり。然るに此書ほど無用の勞苦を積み、無用の大冊を成就したるは、亦想像の外にあり。著者の盲目的勉強は實に氣の毒の至りといふの外なし。著者は實に解題の書を作るに於て、其氣力あるのみにて、其の才能と學識とは、全然缺乏せる者なり。(『目睹書譚』「野籟居讀書記」、『内藤湖南全集』巻12、筑摩書房、1970年所収。初出は明治33年7月20日の「日本人」。以下同じ)

湖南の罵言は、さらにこの書物の序を書いた著名人たちにも向けられます。

 此書の如く序文題詞の賑はしきは、近來に未だ見ざる所なるが、木村正辭、井上哲次郎二氏の外は、多くは一通りの無責任なる御世辭をならべたるは、我邦序文の常とて、怪しむにも足らねど、中には之を四庫全書提要に比したるなどあり、著者にして愚物にあらざる限りは、慙汗背に浹ねかるべし。

さらに具体例を挙げて非難を加えた上で、最後に、こうたたみかけます。

 この著者の腦は、全く記憶、比照、概括の能力なきかと疑はるるばかりに、粗雜を極めたり。著者にして若し學術界の為に、忠實に「國書解題」なる題目に副ふに足るべき著述を貢獻せん熱心あらば、須らく此の成書を焚て、最初より改め編すべきなり。著者の目的は、決して書肆の廣告、新聞紙の書籍紹介よりも劣れる反古同然の大冊を徒勞して作るのみにはあらざるぞかし。

麗々しい序文を掲げ、よい装丁に包まれた、この「反古同然の大冊」は、何回も出版を重ね(増訂、と称して)、現在もなお、各図書館の参考書室の一番よい席を占めています。外見重視の風潮を打ち破るには、湖南の義憤も無力であった、と言えそうです。

輯略のはなし


内藤湖南「支那目録学」は、日本語で読める目録学史概説として、現在でもその価値と輝きを失っていません。このことは、すでに以前の記事で書いたとおりです。

しかし、内容的に同意しかねるところもあります。その一つが、『七略』の「輯略」に関する問題です。

『七略』とは、前漢の末期、劉歆(りゅうきん)という学者がまとめた、中国で初めての本格的な図書目録です。現在は伝わっていませんが、輯略・六芸略・諸子略・詩賦略・兵書略・術数略・方技略という七つの部分から出来ていたそうです。

この『七略』をもとに、現存最古の目録、『漢書』芸文志が出来ているのですが、両者の関係について、湖南は次のようにいっています。

 現存の支那の目録では、漢書の藝文志が最も古いものである。漢書は班固の生前には出來上らないで、その妹の曹大家が完成したものといふが、藝文志は班固自身の手に成つたものであらう。後漢の中葉、西洋紀元一世紀の終り頃に出來たものである。
大體、漢書藝文志は、班固が自分で書いた處は、最初の敍文ぐらゐの僅かばかりで、その全體の大部分は、劉歆の七略によつて書いたのである。七略の中の六略を採つて載せたので、七略の一つである輯略は藝文志には載せられてゐない。

湖南は「七略の一つである輯略は藝文志には載せられてゐない」といっています。また、湖南の敬愛する清朝の目録学者、章学誠も、その『校讐通義』において「班固は輯略を削って、六略だけをのこした」といっています。湖南はこの説を襲っているのでしょう。

しかし、多くの目録学者は、「輯略は、ちゃんと『漢書』芸文志に収まっている」と考えているのです。これについては、早く姚振宗(1842-1906)が『七略佚文』の序で主張しています。その結論は、現在、『漢書』芸文志に見える各分類の解説(「小序」と呼びます)は、「輯略」を分割して載せたものである、というものです。それゆえ、「輯略」は今も伝わっている、といえるのです。

この説が正しいであろうことについて、余嘉錫『目録学発微』巻二、「目録書体制三 小序」が詳しく考証しています。

なお、「班固が自分で書いた處は、最初の敍文ぐらゐ」と湖南がいう「最初の敍文」は、しばしば「大序」と呼ばれますが、この部分も、姚振宗によれば「輯略」を元にして書かれた、ということで、姚氏はそれを『七略』の佚文として『七略佚文』に載せています。

私も姚氏と同様、大序は、大部分、「輯略」の文章を踏襲したのではないかと思いますが、これについては、いずれあらためて考えてみたいと思います。

『七略』は滅んでしまったものの、『漢書』芸文志によって、その大体を知りうる、というお話でした。

湖南による高似孫紹介


内藤湖南「支那目録学」の特色のひとつとして、宋代の目録学に紙幅を割いている点が挙げられるでしょう。

宋代目録学の成果として、『新唐書』藝文志・『崇文総目』・『秘書省続編到四庫闕書目』・『遂初堂書目』・『郡斎読書志』・『直斎書録解題』・『通志』・『史略』・『子略』・『玉海』・『文献通考』が紹介されています。内容豊富と言うべきです(『中興館閣書目』及び『続書目』についての言及がないのは奇異に感じられますが)。

この中でも、特に注目したいのは、高似孫(1158-1231)の『史略』・『子略』についての説明、ならびに高似孫の学風についての考察があることです。

大體彼のやり方は、宋の時の一般のやり方と異り、漢以來の古い學問の仕方を復活せんとした。鄭樵の目録學の影響を受けながら、それより一段内容に立入つて考へ、又鄭樵の目録學は自己の頭で組織立てた理論であつたが、高似孫はすべて昔からあるものについて之を組織しようとした。即ち歴史に關する理論も、昔から多くの人が書いたものを引き拔いて並べると、そこに一種の史學が出來る。目録學より見て史學・諸子の全體を知らしめ、しかも自分の組立てた理論でなくして、人の議論を順序よく並べて、昔の人の議論で自分の説を立てようとする。これは學問の深い人でなければ不可能のことである。

 これは内藤湖南ならではの見方で、高似孫の学問はともすれば、単なる抜き書きとも見なされかねないものです。また、目録書でもないので、一般的に目録学史で触れられることはほとんどありません。

『史略』は中国で早く失われ、日本にのみ伝存した書物なので、湖南がこれを顕彰したかったとの見方も出来ますが、むしろ、高似孫の学問への深い理解を読み取るべきでしょう。なお、『史略』の宋版は現在、重要文化財に指定され、内閣文庫に蔵されており、オンラインでも紹介されています。http://www.archives.go.jp/owning/important.html

宋代は、木版印刷がはじめて本格化した時代で、それゆえにこそ、書物観が大きな変化を遂げた時代です。今日、我々が中国の書物史を考える場合にも、この変化には是非とも目を向ける必要があります。ともすれば、目録学史は分類の変遷にのみ目を奪われがちとなり、この変化に対して鈍感です。湖南による宋代目録学の解説は、この点、バランスがとれているものと感じられます。

湖南の劉向評価


内藤湖南(1866-1934)の全集、第12巻に収められている「支那目録学」は、日本語で読める目録学概説としてはまず第一に読むべきものでしょう。内藤乾吉氏による全集の「あとがき」を引用しておきましょう。

「支那目録学」は、大正十五年の四月から六月まで、京都大学の東洋史学科の特殊講義として、十一回を以て講じたものである。著者はこの年の八月に大学を退いているから、これが大学在職中の最後の講義である。他の講義同様、著者自身の草稿はないので、聴講者のノート数種と、著者が使用したと思われる資料とを参照して整理した。文中の標目はその際に便宜施したものである。整理をしたのは昭和二十四年八月であるが、当時刊行の機を逸し、このたびはじめて印行するものである。

大正十五年といえば、西暦で1926年です。この講義では、劉向から章学誠までの目録学をとりあげており、同時代の孫徳謙(1866-1935)が書いた『漢書芸文志挙例』『劉向校讐学纂微』を参考にしています。当時、中国の学者が目録学に対して持っていた関心にまさに呼応したものです。

「支那目録学」の魅力のうち、最大のものは、司馬遷と「二劉」、すなわち劉向(りゅうきょう)父子の学問についての比較だと思います。

漢代までの支那の學問を總括して考へたものに、二通りの種類がある。一は司馬遷の史記で、一は二劉の學である。

湖南は、春秋戦国時代に成熟した中国文化の総括こそ、司馬遷の学問であり、劉向の学問であると考えます。まず、司馬遷の学問をこう語ります。

あらゆる學問の中で、最も總括的な最大の學問は史學であつて、史學は世の中を經綸する學問であり、史學が古來から漢代までの學問の關係を知る學問であるとし、この根本の古今一貫した學問を知れば、當時世に殘つてゐる書籍はそれによつて總括せられ、色々の本はあつても、その全體に關係があり、世の中の經綸に役立つといふ考へで史記を書いたのである。

一方の劉向の学問はどうか。

二劉はこれと異り、司馬遷が史記に載せないで、そのままにして世間に殘しておいたその方を全體に總括したのである。これは一書毎に解題を作り、その由來・主張・得失を一一の本について書き、之を子目ごとに一纏めにし、更にそれを一纏めにして六略の各部類とし、全體を六略とし、その六略の上に輯略を作つて全體を總論した。即ち各々の本の部分的方面より見て行き、最後に總括されたところで、人間の思想・技術が古來如何に動いたかを見たのである。即ち司馬遷の殘した部分的のものを一つに纏めた。當時の學としては、司馬遷の如く歴史の中心から總括したものと、二劉の如く各部分より總括したものと、この兩方より見て全體の學問が分るのである。

以上のように、司馬遷と劉向とを対比した上で、次のように総括します。

この二書は、漢代の最大の學術的收穫で、これだけで支那の學術は盡きてゐると云つてもよい。その後、書籍も色々出來、分類法も色々變つたが、全體に於てこの二大學問の流れに過ぎぬ。

中国史において、前漢という時代がもっている特別な意味を再考せざるをえません。中国文化の第一の総括がここで徹底的に行われ、後世においても、この枠組みが有力に機能した、というわけです。

それと同時に、中国の伝統学術がもっていた特徴的な傾向、すなわち司馬遷的な史学と、劉向的な文献学とがその根幹になっていることを思い知らせるものです。

この説は、中国の伝統学術をかなり極端なかたちで単純化していますが、見識に満ちた湖南らしい、的を射抜いた考えであると思います。

*Webcatによると、所蔵図書館は、274館。