カテゴリー別アーカイブ: 礼学

『中国文明 農業と礼制の考古学』


岡村秀典氏『中国文明 農業と礼制の考古学』(京都大学学術出版会、2008年、学術選書36、諸文明の起源6)を読みました。

中国の地における新石器時代から殷周時代までを射程に収め、きわめて複雑に展開した多様な諸「文化」が、如何にしてからまりあって影響しあい、後世に見られるような中国文明にまとまったのか、その諸相を明らかにしています。

  • 第1章 中国文明とは何か (1)四〇〇〇年におよぶ中国文明/(2)中国文明の空間動態
  • 第2章 文明の胎動ー紀元前三千年紀の龍山時代 (1) 農耕社会の成立/(2)複雑化する社会/(3)地域間交流の拡大
  • 第3章 文明の誕生ー紀元前二千年紀前半の二里頭文化 (1)王朝の成立/(2)中国的世界の形成
  • 第4章 初期国家の成立ー紀元前二千年紀後半の殷周時代 (1)農業生産の発展/(2)複雑化する王都の構造/(3)地方支配の構造/(4)王統と王陵の成立
  • 第5章 文明・王朝・国家の形成 (1)都市と農村の分化/(2)祭儀国家の成立

中国考古学に関する書物は少なくありませんが、「農業」と「礼制」とを中心に据えて考古学を解く書物は珍しいといえましょう。

本書を手にした読者はそこに戸惑うかもしれません。しかし、著者が奇を衒ったわけでまったくないことは、読んでみれば分かるはずです。

少し考えてみると、農林水産業や畜産は人間が生存する基盤を作るもの、そして礼の制度は現在に至る中国文明の核心をなすもの。周代から遡って歴史を考えるには、不可欠の要素と言えましょう。

SinsekkiInShu
(本書「はじめに」xiiiより)

前三千年紀には、すでに長江中流域・下流域、黄河中流域・下流域の諸文化が相互に影響を与えあっていたこと。「琮」という玉器があり、『周礼』にも見えますが、これが、長江下流域の良渚文化に由来すること。羊は西域から中国の北西部に伝わって、その肩甲骨を焼く占いが元となり、後世の牛の肩甲骨や亀の腹甲を焼く甲骨占に発展していったこと。河南省偃師市に栄えた二里頭文化を夏王朝と見なしうること、そしてその文化が周辺の他文化に大きな影響を与えるようになったこと、などなど。

そのようなさまざまな事実が明らかにされた上で、これら事実に基づき、中国に発達した古代の諸文化が、相互にどのような影響を与えながら展開を遂げ、殷周代へと結実して行ったのかが解き明かされています。

「考古学」対「歴史学」。「黄河文明」対「長江文明」、あるいは「北」対「南」。「殷」対「周」。このような対立軸が、先行研究においてしばしば語られてきました。しかし、そのような対立を過度に強調することは、図式的な単純化を生むに違いありません。岡村氏はこれらすべてに抗いつつ、古代史を見晴らす視野を与えています。

わたくしは古代史について乏しい知識しか持ちませんので、専門的なコメントはできませんが、本書には大きな感銘を受けました。

巻末に付けられた「文献案内」も充実しており、若い考古学徒に向けて作られたものとみえます。次世代の研究者の道標となるに違いありません。

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『三礼名物通釈』


銭玄(1910-1999)氏の『三礼名物通釈』を読みました。

錢玄『三禮名物通釋』
江蘇古籍出版社,1987年
南京師範大学古典文献研究所専刊 2

書名にある「名物」とは、物の名称のこと。今と昔とでは、物も言葉も変化していますから、古代の名物を知ることは、今となってはかなり困難なのです。古代において行われていた「礼」は、学びにくいものの代表で、まずは物の名称を知らねば、礼書を読んでも理解できない、だからこそ、まずは名物を知るべきだ、というのが、著者の主張です(本書、自序)。

目次は以下の通り。

第一 衣服篇

  1. 布帛
  2. 色采
  3. 冠冕
  4. 衣裳
  5. 韍舃
  6. 服制

第二 飲食篇

  1. 飯食
  2. 酒漿
  3. 膳牲
  4. 薦羞
  5. 器皿
  6. 飲食之禮

第三 宮室篇

  1. 都城中城
  2. 房屋結構
  3. 堂序房室
  4. 門塾廳階
  5. 寢廟深廣
  6. 璧廱明堂

第四 車馬篇

  1. 車輿稱謂
  2. 車輿形制
  3. 馬名與馬飾
  4. 乘車之法
  5. 駕馬之法

たとえば、「衣服篇」の「布帛」の項目の冒頭には、大きな文字で「麻織之總名曰,絲織之總名曰」とあります。このように簡潔に内容を述べた上で、小さな文字で、経典やその注釈を根拠として明示し、そして必要に応じて清代以降の学者の説などを紹介しています。

本書の内容は簡にして要を得たもので、大字の部分は、すべて覚えてしまいたいくらいです。まずは大字の部分に目を通し、その上で気になる部分の説明をじっくり読むとよいようです。

もちろん、本書の説明は三礼の名物の全体に及んでいるわけでなく、限られたものではありますが、この150ページばかりの薄い本を通読したところ、視界がずいぶんと明るくなりました。常識的なものではありますが、常識の確認も時には大切だと感じます。

本書以外にも、銭玄氏は礼に関する次の二書を書かれています。

  • 錢玄『三禮通論』南京師範大學出版社 1996年
  • 錢玄、錢興奇編『三禮辭典』江蘇古籍出版社 1993年 (本書のことは、過去の記事に書きました)

この二書を通読したことはありませんが、疑問がある場合にはいつも参照しています。

それにしてもこの『三礼名物通釈』、1987年発売当時の価格が1.60元。当時としては普通だったのかもしれませんが、新刊書の価格が高騰した今となっては安価です。手に取ると、感慨深く思われました。

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信と不信の間


『毛詩』大雅「生民」の詩に「履帝武敏歆」という句があります。あえて訳出しませんが、姜嫄が、その子の后稷を懐妊する経緯を描写したらしい部分です。これを毛伝は次のように解釈します。

履,踐也。帝,高辛氏之帝也。武,迹。敏,疾也。從於帝而見于天,將事齊敏也。歆,饗。

履とは、踏む。帝とは、高辛氏の帝(すなわち帝嚳)。武とは、あしあと。敏とは、すばやい。(姜嫄は)帝に従って天をまつり、祭事をおこなって敬虔かつ迅速であった。歆とは、(神に)供物をささげる。

毛伝の解釈によると、帝嚳・姜嫄の夫婦は、子を得られるように神に祈るべく、天にまします上帝をまつったが、その時、姜嫄は帝嚳のあしあとを踏んで付き従い、その祭事では敬虔かつ迅速に供物をささげた。そのような意味になります。

一方、鄭箋は次のように言います。

帝,上帝也。敏,拇也。……祀郊禖之時,時則有大神之迹,姜嫄履之,足不能滿履其拇指之處,心體歆歆然。

帝とは、(天の神である)上帝。敏とは、親指。……郊禖のまつりをした時、その時に大いなる神のあしあとがあり、姜嫄がそれを踏むと、(彼女の)足はその(巨大な)あしあとの親指のところにも満たなかったが、心も体も嬉しくなったのだ。

鄭玄によれば、帝嚳の子孫の妻であった姜嫄は、郊禖とよばれるしつらえで上帝をまつったが、その時に巨大なあしあとがあり、それを姜嫄が踏んで、妊娠した、ということになります。

『詩経』を解釈する際、毛伝と鄭箋とが異なる場合が多いのですが、「帝武」についても大きな違いを示しています。

これについては、鄭玄の学園でも話題になったらしく、『毛詩正義』に引用される『鄭志』によると、鄭玄の弟子、趙商が鄭玄に直接質問しています。

まず、趙商の質問。

此箋云:「帝,上帝」;又云:「當堯之時,姜嫄為高辛氏世妃」,意以為非帝嚳之妃。『史記』嚳以姜嫄為妃,是生后稷,明文皎然。又毛亦云:「高辛氏帝」。苟信先籍,未覺其偏隱。是以敢問易毛之義。

この部分の「箋」に「帝とは、上帝」とあり、また(同じ「生民」の箋に)「堯の時代、姜嫄は高辛氏の子孫の妃であった」ともあり、姜嫄は帝嚳の妃ではない、とお考えのようです。(しかし)『史記』(五帝本紀)には帝嚳は姜嫄を妃とし、彼女が后稷を産んだ、とありますし、明らかな記述ではっきりとしています。それに毛伝も「高辛氏の帝」としているわけです。伝来の典籍を信じるならば、偏りがあって未詳になっているとも感じられません。そこで、毛伝(の解釈)を変えられたわけをあえてお尋ねします。

それに対する鄭玄の答え。

天下之事,以前驗後,其不合者,何可悉信?是故悉信亦非,不信亦非。稷稚於堯,堯見為天子,高辛與堯並在天子位乎?是箋易傳之意也。

天下の事柄については、前の時代のことを後の時代のことで確かめるものだが、合致しないものについては、どうしてすべて信じられようか。それゆえ、すべて信じるのも誤りだし、信じないのも誤りだ。后稷は堯より若く、堯が現に天子であるからには、(后稷の父であるとされる)高辛(すなわち帝嚳)が堯と一緒に天子の位にあったというのか。これが、箋で毛伝(の解釈)を変更した意図だ。

鄭玄は、緯書のあやしげな記述に依拠しており、その点がしばしば批判されます。しかし、「すべて信じるのも誤りだし、信じないのも誤りだ」という鄭玄のこの言葉をみると、むしろ、古書の記載を妄信していたというよりは、「信」と「不信」の間にあった、と言えそうです。

残念ながら、鄭玄を信奉する人々は、鄭玄の「不信」の部分を重く見ず、鄭玄の出した結論自体を信じるようになりました。鄭玄の言葉、「悉信亦非,不信亦非」、これを味わってみたいものです。

浴衣とかいまき


『論語』郷党篇は難しく、なかなか手強い文献ですが、古代中国の習慣をよく保存していて、読みごたえのある一篇でもあります。「齊,必有明衣,布」という一文は、「斎戒する場合には、きまって明衣を身につけ、それは布(麻布)で作る」と訳せますが、その「明衣」とは何なのか、よく分かりません。

代表的な『論語』の注釈である程樹徳『論語集釈』(中華書局、1990年、p. 685)を見ると、面白いことが書いてありました。

集解・集注、均しく明衣を以て浴衣と為し、皇疏尤も明顯為り。今日本の國俗、浴時に例として浴衣有り、猶お古制也。清初の學者、浴衣の制を知らず、是に於て種種の曲説、此に由りて生ず。……(『論語竢質』、劉氏『正義』の如き)反って誤らざる者を以て誤りと為すは、皆な目、浴衣の制を睹(み)ざるに因りて、故に此の疑い有る也。

集解、集注均以明衣為浴衣,而皇疏尤為明顯。今日本國俗,浴時例有浴衣,猶古制也。清初學者不知浴衣之制,於是種種曲説由此而生。……(如『論語竢質』、劉氏『正義』)反以不誤者為誤,皆因目不睹浴衣之制,故有此疑也。

つまり『論語』に見える「明衣」というのは、何と日本で我々が着ている浴衣(ゆかた)だった、という説。中国では、浴衣に相当するものが失われ、かえって日本に遺っていた、というのが程樹徳の見解です。

同じく郷党篇に「必有寢衣,長一身有半」と見える「寢衣」についても、「今日本の被、領(えり)有り袖有り」と程氏は解釈しています。こちらは、日本の「かいまき」であるというわけです。

「明衣」にせよ「寢衣」にせよ、いずれも後世の中国では失われてしまっていた「古制」が、日本にはあった、と程氏は考えました。

その口ぶりからすると、浴衣とかいまき、程氏はそれらの現物を見たことがあるようです。あらためて調べてみたところ、程樹徳(1877-1944)、福建閩侯の人。光緒三十四年(1908年)の進士。法政大学法科の出身(法政大学の学位を取得した上で進士に合格した)とのことで、程氏が法政出身であることは、法政大学のウェブサイトにも掲載されています。

来日して、浴衣やかいまきの存在を知った程樹徳、大いに愉快であったに違いありません。

難書を解釈する方法:分節・絵画・釈例


陳澧(ちんれい,Chen Li,1810-1882)の『東塾読書記』(八「儀礼」)に興味深い指摘があります。

『儀礼』は難読であり、昔の人が同書を読んだのには、おおむね次のような手がかりがあった。第一に分節、第二に絵画、第三に釈例である。今の人は古人の後に生まれたが、それらの方法を身につけて『儀礼』を読めば、この経書に通ずることも難しくない。

難解な『儀礼』を読み解くために、古人は、第一に『儀礼』の本文を腑分けして理解し、第二に図を描くことによって理解し、第三に凡例を作って理解した。そのようにいくつかの工夫をこらして読んだ、というわけです。

難しい書物は、古人にとってもやはり難しかったので、理解のためには工夫せざるを得なかった、ということなのでしょう。陳澧の趣旨は、「後漢の鄭玄の注、唐代の賈公彦の疏などに『儀礼』読解の工夫が見える」ということですので、以下、それをかいつまんでみます。

分節

  • 賈公彦は『儀礼』の本文に対し、「どこからどこまでは、何々を論ずる」と説き、これが全書を貫いている。「有司徹」の鄭玄注が「どの句からどの句まで(自某句至某句)」としばしば言っており、これが賈疏の分節の手法の由来である。
  • 賈公彦の疏による『儀礼』分節には、たいへん細密な部分がある。たとえば、「聘礼」の「君使卿韋弁,歸饔餼五牢」以下の部分を三節に分ける。特に「有司徹」の疏は腑分けが細かい。
  • 朱子『儀礼経伝通解』は、賈公彦よりもさらに系統的に分かりやすく節を分けている。

絵画

  • 鄭玄も賈公彦も、注釈を書いたとき、必ずまず図を描いた。たとえば「士冠礼」の「筮人許諾,右還,即席,坐」の鄭注に「東面,右還北行就席」というが、これなどは図を描いて考えたに違いない。
  • 『儀礼』の中には、斜めに体を向ける、身をよじるなどの場面があり、これも図を描いてみないと理解できない。
  • 「郷射礼」の「司馬出於下射之南,還其後,降自西階」や、「燕礼」の「若君命皆致,則序進,奠於篚」には、きわめて詳しい疏がつけられているが、これらは動作が非常に複雑で、図にも描きにくいので、ことによると祭具をしつらえて礼の練習をして、はじめて分かったものかもしれない(「綿蕝習之,乃知之耳」)。
  • 宋の楊復『儀礼図』(「通志堂経解」に収める)は、偉大な業績。張恵言『儀礼図』がより詳細で、広く読まれている。
  • 張恵言『儀礼図』によせた阮元の序に、「いずれ家塾の子弟に、地面に線を引いて礼の練習をさせ、経書の研究も半分の労力で倍の成果をあげることになればよいと思う」と言っている。私(陳澧)自身も、礼の実習をしてみたことがあるが、確かに「半分の労力で倍の成果」であった。
  • 焦循「習礼格」では、宮室を碁盤のように描き、碁石を人物に見立てている。

釈例

  • 『儀礼』自体にすでに凡例的な記述があり、それが「郷飲酒礼」の「記」や、「郷射礼」の「記」に見える。
  • 鄭玄は、『儀礼』の凡例を数十条ばかりも指摘しており、それをまとめれば『儀礼凡例』が出来るほどだ。
  • 賈公彦は、鄭玄が示した凡例をさらに充実させた。

以上、陳澧がまとめた「古人の『儀礼』読解法」をご紹介しました。昔の人もいろいろと読書に工夫をこらしたものか、と想像すると、感慨深く思われます。『儀礼』に見える礼の多くは、後世、失われてしまったので、古人も苦労したのでしょうね。

君子は何を好むのか?


『礼記』緇衣篇に次の一段があります。

子曰:唯君子能好其,小人毒其。故君子之朋友有鄉,其惡有方。是故邇者不惑,而遠者不疑也。『詩』云:「君子好仇」。

このまま読むと、孔子が説いたという大意は、次のようになりましょうか。「君子だけが正しい人間を好むことができ、小人は正しい人間を害する。だから君子が友とする人々には傾向があり、嫌う対象にも類型がある。だから身近な人は君子の好悪の判断に戸惑うことはないし、遠くの人も疑いを抱かない。『詩経』にもこういう、「君子は自分にふさわしい相手を好む」と」。

君子は「正」を好む、というわけですが、これについて後漢の鄭玄は、「正の字は、きっと匹の字の誤りだろう。匹とは、知人友人のこと(正當為匹字之誤也。匹謂知識朋友)」と言います。つまり、君子は自分にふさわしい友を好む、というわけです。しかし鄭玄は用心深い人ですから、「匹」の方が正しいと考えたものの、自分の意見で経書の文字を変更してはおらず、誤字とみなした二つの「正」をそのまま保っています。

陸徳明『経典釈文』では、この部分、「正の字音は匹、下文も同じ。注がその根拠(正音匹,下同。出注)」と言っています。経文がすでに「正」で固定している以上、それを改めるわけにもゆかず、変則的に読みだけは「匹」と読んでしまう、という便法です。決して「正」の字に「匹」という発音があったというわけではありません。

また孔穎達『礼記正義』も、「君子能好其正者,匹,匹偶。言君子能愛好其朋友匹偶」と言って、鄭玄説に従っています。

後世の学者の中には、鄭玄説を信じずに、やはり「正」の字で読むべきではないか、と考えた人もいました。こじつけのように思ったのでしょうか。

ところが、ここ数十年あいつぐ「出土文献」ラッシュの中で、地下から二千数百年前の「緇衣篇」が出土したのです!しかも二種類も!一つは上海博物館に収められる竹書で、もう一つが湖北省の郭店という地から出土した竹書です。

郭店『緇衣』(部分)
郭店『緇衣』(部分)

それらの竹簡には一体、どう書いてあったのでしょうか?それを以下に示します(機械上の問題があるため、表記にはいい加減な部分があります。印刷された書物を確認して下さい)。

  • 子曰:惟君子能好其,少人豈能好其?古君子之友也有𣈅,其惡也有方。此以邇者不惑,而遠者不疑。『寺』員:「君子好仇」。(『上海博物館蔵戦国楚竹書(一)』上海古籍出版社,2001年,pp.196-197)
  • 子曰:惟君子能好其,少人豈能好其?古君子之友也有向,其惡有方。此以邇者不惑,而遠者不疑。『寺』員:「君子好逑」。(『郭店楚墓竹簡』文物出版社,1998年,p.131)

つまり、上博簡は「君子能好其匹」と作り、郭店簡は「君子能好其駜」と作ります。『郭店楚墓竹簡』の注釈によると、この「駜」は「匹」の通仮字。まさに鄭玄の言うとおり、「正」ではなかった、ということになります。

鄭玄の学問の精確さが知られる一例です。

『経典釈文』では、『易』姤卦の王弼注「正乃功成也」について、「正は、匹に作る本もある(正亦作匹)」と言います。隷書以後の文字では、「正」と「匹」とが容易に混同されていたことが知られます(兪樾『礼記鄭読考』に説が見えます)。

『礼記』緇衣篇の「唯君子能好其正」についていうと、鄭玄以前の段階で「正」と誤って伝えられていたものを、鄭玄が指摘したのでしょう。

最近、晁福林氏「《禮記・緇衣》文本的一樁歷史公案」(《山西大學學報(哲學社會科學版)》36-1, 2013年1月)という論文を読みました。教えられることも多い論文でしたが、「匹」が「正」に変わった理由は、単に形が近いために生じた誤字でなく、戦国時代における思想史の展開によるものだという晁氏の結論には、残念ながら同意できませんでした。

ただ、どのような経緯で「正」の字が「匹」に取って代わったのか、それは確かに気になるところではあります。その時期については、虞万里氏『上博館蔵楚竹書《緇衣》綜合研究』(武漢大学出版社,2010年,p.161)は「正、匹相混似應定在文、景或武帝以後」と言い、前漢の文帝期以後と推測されています。

校勘の難しさ


昨日、皇侃が「棖」を「ぶつける・ぶつかる」意と考えた、と書きました。該当の本文につき、もう少し詳しく見ておきたいと思います。まず武内義雄博士が大正時代に校刊された本によって〔甲〕としてお示し、次にその底本である龍谷大学蔵、文明年間写本を〔乙〕としてお示しします。さらに、武内氏の校勘記も併記しておきます。

〔甲〕門左右兩橽邊,各竪一木,名之為棖。棖以車過,恐觸門也。
〔乙〕門左右兩橽邊,各竪一木,名之為棖。棖以車過,恐觸門也。
〔校勘記〕文明本「觸」上有「棖」字,恐衍。今依他本削正。

「校勘記」が指摘するとおり、龍谷本は「恐棖觸門也」と作っているのですが、武内氏はこの「棖」を衍字と見なし削除しています。

この「恐棖觸門也」の部分、龍谷本では「棖」の右傍に「亻无」と注記を付けています。「亻」は「他本」の略記、龍谷本が参照したもう一つの写本には存在しなかった、ということで、武内氏はこの「他本」に依拠して一字を削った、というわけです。

なお、京都大学蔵の清家文庫本には「棖」字があり、天理大学天理図書館蔵の清熙園本にはありません。

意味的に考えると、「棖」字があってしかるべきで、そうでなければ、皇侃の意図がはっきりとしません。その点、武内氏の校勘は当たっておらず、校勘の難しさをあらためて感じさせられます。

さて、この「棖觸」なる語、『漢語大詞典』にも載せられており、第一義が「觸犯,觸動」、第二義が「感觸」となっています。第一義には資料が3條、『新唐書』、李純甫「虞舜卿送橙酒」詩、そして茅盾『子夜』が挙げられています。『新唐書』の例のみ挙げておきましょう。

廬墓左,鹿犯所植松柏,无量號訴曰: 「山林不乏,忍犯吾塋樹邪?」自是羣鹿馴擾,不復棖觸,无量為終身不御其肉。(『新唐書』卷二百,儒學傳下,褚无量傳)

『新唐書』のいう「棖觸」は、物を傷つける、犯す、という感じでしょうか。いずれにせよ、皇侃のことばから遠いわけではありません。つまり、この語の初例は皇侃の時代にまでさかのぼることができそうです。

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門柱にぶつかる


龍谷大学蔵『論語義疏』
龍谷大学蔵『論語義疏』

この四月以来、京都大学の授業で皇侃『論語義疏』を読んでおり、なかなか面白い発見があります。今日読んだ部分の『論語』郷党篇の義疏には、次の一文がありました。

門左右兩橽邊,各竪一木,名之為棖。棖以御車過,恐棖觸門也。(「立不中門」義疏。龍谷大学蔵、文明年間写本によります

門の左右の蝶つがいのわきにそれぞれ一本ずつ柱を立て、それを「棖」と呼ぶ。「棖」は車が通過するのを制御し、門に接触しないように設けたもの。

常識的にいえば「棖」というのは門の両側の柱です。どの辞書にも、そのように書いてあります。それを皇侃が車がぶつからないように云々と解説しているのが、不可解でした。どう考えても理解できません。

困ったので、訓詁の書である郝懿行(1757-1825)『爾雅義疏』を見てみました。すると次のことが分かりました。中国が南北に分断されていた南北朝時代のこと、南の人たち(「南人」)は、物に物をぶつける意味で「棖」といっていたそうなのです。

そのせいで、どうやら「南人」である皇侃は、経書の中で門柱を意味する「棖」ということばについても、物に物をぶつけることを連想したようです。英語でbumpと言えば、物をぶつけることですが、皇侃は「棖」と聞いて、bumperのような物を思い浮かべたのでしょう。そして、門柱にぶつかるものといえば、車が頭に浮かんできたのでしょう(古代では門を車が通ることがありました)。

『論語』皇侃疏云:「門左右兩橽邊,各豎一木,名之為棖。棖以禦車過恐觸門也」。然則棖訓為觸。『文選』「祭古冢文」注:「南人以物觸物為棖」,是其義也。(『爾雅義疏』巻中之

ここに引用された『文選』とその李善注とを当たっておきます。

『文選』巻六十,謝惠連「祭古冢文」:「刻木為人,長三尺,可有二十餘頭,初開見,悉是人形,以物撥之,應手灰滅」。注:「南人以物觸物為也」。

この「祭古冢文」なる作品は、謝惠連(407-433)という詩人が、ある古墓を通り過ぎたときのことを描写したもので、そこで彼は二十数体の木彫りの古い人形を見たのですが、それを物でコツンとたたいてみたところ、その途端にくずれてしまった、という話です。その一文に対する李善注に、「南の人は、物を物にあてることを棖という」とします。この場合の「棖」、一種の方言というわけです。

「棖以御車過,恐棖觸門也」という「棖」の解釈は奇説というべきで、『論語義疏』以外の文献には見えぬようです。皇侃に、言葉遊びのような説が多いことは、すでに喬秀岩氏『義疏学衰亡史論』(2001年、白峰社)、193頁にも指摘がありますが、この「棖」の例も面白いと思います。「棖」と聞いて、皇侃はその門柱に車がぶつかる様子を連想しただけでしょう。本当に車がぶつからないように柱が設置されていたというわけではありませんし、礼学上の根拠があるわけでもなさそうです。

こうして、皇侃が言いたいことが分かり、心の底からすっきりとしました。これも郝懿行のおかげ、そして李善のおかげです。

「清代経学著作叢刊」


清代経学著作叢刊『礼経学』
清代経学著作叢刊『礼経学』

昨年6月、北京大学出版社から「清代経学著作叢刊」というシリーズが出ました。繁体字、横組み。子目は以下の7点です。

  • 張惠言『周易虞氏義』劉大鈞校點 2012.6
  • 焦循『雕菰樓易學』陳居淵校點 2012.6
  • 王鳴盛『尚書後案』顧寶田、劉連朋校點 2012.6
  • 凌廷堪『禮經釋例』彭林點校 2012.6
  • 曹元弼『禮經學』周洪校點 2012.6
  • 孔廣森『春秋公羊經傳通義』崔冠華校點 2012.6
  • 劉逢禄『春秋公羊經何氏釋例』鄭任釗校點 2012.6

私はこのうち、曹元弼(1867-1953)の『礼経学』を買って読んでいます。難読で知られる『儀礼』を、「明例」「要旨」「圖表」「會通」「解紛」「闕疑」「流別」という、七つの観点から解説した概説書です。

宣統版『礼経学』
宣統版『礼経学』

同書はもと宣統元年(1909)に出版されたもので(右の写真をご参照ください)、新式標点本はこれまで出版されていないと思います。

もともとの『儀礼』が難しいので、読んですらすらと分かるとまではゆきませんが、私のように学の浅い者にとっては、標点本の手軽さは、なんと言ってもありがたいものです。

まだ読み終えていませんが、この「清代経学著作叢刊」の出版をよろこび、ここに記しておきます。彭林先生の標点なさった『禮經釋例』も、ぜひ読ませてもらうつもりでいます。

『論語疏』の性格(2)


昨日、『論語』八佾篇の「告朔の餼羊」について、邢昺『論語疏』の解釈の一部が、『毛詩正義』の流用であることを述べました。

そこに取り上げた「生け贄のうち、生きているものを餼という(牲生曰餼)」の後、鄭玄注はさらに「礼では、君主は毎月の朔日に廟において告朔を行い、祭りを行い、それを朝享という(禮,人君每月告朔於廟,有祭,謂之朝享)」と続きます。『論語疏』は、その鄭注を解釈しています。

昨日指摘した『論語疏』の一部は『毛詩正義』の襲用でしたが、以下に示す「禮,人君每月告朔於廟,有祭,謂之朝享」の解釈は、『春秋正義』からの襲用です。『春秋正義』巻十九上,文公六年「閏月,不告月,猶朝于廟」注「諸侯每月必告朔、聽政,因朝宗廟。文公以閏非常月,故闕不告朔,怠慢政事。雖朝于廟,則如勿朝,故曰猶。猶者,可止之辭」正義。

両者を比較すると、前者が後者をそのまま襲ったものであることがお分かりいただけると思います。意味の説明はしません。一致していることを確認していただきさえすれば、それで十分だと思います。なお、一致しない部分は青色で強調してあります。

【論語疏】『周禮』大史「頒告朔于邦國」,鄭玄云:「天子頒朔于諸侯,諸侯藏之祖廟。至朔,朝于廟,告而受行之」。云「子貢欲去告朔之餼羊」,是用生羊告於廟,謂之告朔。人君即以此日聽視此朔之政,謂之視朔。十六年:「公四不視朔」。僖五年傳曰:「公既視朔」,是也。視朔者,聽治此月之政,亦謂之聽朔。「玉藻」云:「天子聽朔于南門之外」,是也。其日,又以禮祭於宗廟,謂之朝廟。『周禮』謂之朝享。「司尊彝」云:「追享朝享」,是也。其歲首為之,則謂之朝正。襄二十九年「正月,公在楚」,傳曰:「釋不朝正於廟」,是也。告朔、視朔、聽朔、朝廟、享、朝正,二禮各有三名,同日而為之也。
【春秋正義】『周禮』大史:「頒告朔于邦國」,鄭玄云:「天子頒朔于諸侯,諸侯藏之祖廟。至朔,朝于廟,告而受行之」。『論語』云「子貢欲去告朔之餼羊」,是用特羊告于廟,謂之告朔。人君即以此日聽視此朔之政,謂之視朔。十六年,「公四不視朔」。僖五年傳曰:「公既視朔」,是也。視朔者,聽治此月之政,亦謂之聽朔。「玉藻」云:「天子聽朔於南門之外」,是也。其日,又以禮祭於宗廟,謂之朝廟。『周禮』謂之朝享。「司尊彝」云:「追享朝享」,是也。其歲首為之,則謂之朝正。襄二十九年「正月,公在楚」,傳曰:「釋不朝正于廟」,是也。告朔、視朔、聽朔;朝廟、朝享、朝正,二禮各有三名,同日而為之也。文公以閏非常月,故闕不告朔。告朔之禮大,朝廟之禮小,文公怠慢政事,既不告朔,雖朝于廟,則如勿朝。故書「猶朝于廟」,言「猶」以譏之。

【論語疏】必於月朔為此朔、聽朔之禮者,杜預春秋釋例』曰:「人君者,設官分職,以為民極,遠細事,以全委任之責;縱諸下,以盡知力之用,揔成敗以效能否,執八柄以明誅賞。故自非機事,皆委焉。誠信足以相感,事實盡而不擁,故受位居職者,思效忠善,日夜自進,而無所顧忌也。天下之細事無數,一日二日萬端,人君之明,有所不照;人君之力,有所不堪,則不得不借問近習,有時而用之。如此則六鄉六遂之長,雖躬履此事,躬造此官,當皆移聽於內官,心於左右。政之粃亂,必由此。聖人知其不可,故簡其節,敬其事,因月朔朝廟遷坐正位,會羣吏而聽大政,考其所行而決其煩疑,非徒議將然也,乃所以考已然,又惡其審聽之亂公也。故顯眾以斷之,是以上下交泰,官人以理,萬民以察,天下以治也」。
【春秋正義】必於月朔為此朔、聽朔之禮者,『釋例』曰:「人君者,設官分職,以為民極,遠細事,以全委任之責;縱諸下,以盡知力之用,揔成敗以效能否,執八柄以明誅賞。故自非機事,皆委焉。誠信足以相感事實盡而不擁,故受位居職者,思効忠善,日夜自進,而無所顧忌也。天下之細事無數,一日二日萬端,人君之明,有所不照;人君之力,有所不堪,則不得不借問近習,有時而用之。如此則六鄉六遂之長,雖躬履此事,躬造此官,當皆移聽於內官,心於左右。政之粃亂,必由此。聖人知其不可,故簡其節,敬其事,因月朔朝遷坐正位,會羣吏而聽大政,考其所行而決其煩疑,非徒議將然也,乃所以考已然,又惡其密聽之亂公也。故顯眾以斷之,是以上下交泰,官人以理,萬民以察,天下以治也。文公謂閏非常月,緣以闕禮。傳因所闕而明言典制,雖朝于廟,則如勿朝,故經稱「猶朝于廟也」。經稱「告月」,傳言「告朔」,明告月必以朔也」。

【論語疏】每月之朔,必朝於廟,因聽政事,事敬而禮成,以故告特羊。然則朝廟、朝正、告朔、視朔,皆同日之事,所從言異耳。是言聽朔、朝廟之義也。
【春秋正義】每月之朔,必朝于廟,因聽政事,事敬而禮成,故告以特羊。然則朝廟、朝正、告朔、視朔,皆同日之事,所從言異耳。是言聽朔、朝廟之義也。

【論語疏】「玉藻」說天子朝廟之禮云「聽朔於南門之外」,諸侯「皮弁聽朔於太廟」。鄭玄以為明堂在國之陽,南門之外,謂明堂也。諸侯告朔以特羊,則天子以特牛與。天子用特牛告其帝及其神,配以文王、武王。諸侯用特羊,告太祖而已。杜以明堂與祖廟為一,但明堂是祭天之處,天子告朔,雖杜之義,亦應告人帝。朝享即月祭,是也。「祭法」云:「王立七廟:祖廟曰考廟、王考廟、皇考廟、顯考廟。皆月祭之。二祧享嘗乃止。諸侯立五廟:曰考廟、王考廟、皇考廟。皆月祭之。顯考廟、祖考廟,享嘗乃止」。然則天子告朔於明堂,朝享於五廟;諸侯告朔於大廟,朝享自皇考以下三廟耳。皆先告朔,後朝廟。朝廟小於告朔,文公廢其大而行其小,故『春秋』文公六年經云「閏月不告朔,猶朝于廟」。『公羊傳』曰:「猶者,可止之辭也」。
【春秋正義】「玉藻」說天子之禮云「聽朔於南門之外」,諸侯「皮弁聽朔於大廟」。鄭玄以為明堂在國之陽,南門之外,謂明堂也。諸侯告朔以特羊,則天子以特牛與。天子用特牛告其帝及其神,配以文王、武王。諸侯用特羊,告大祖而已。杜以明堂與祖廟為一,但明堂是祭天之處,天子告朔,雖杜之義,亦應告人帝。朝享即月祭,是也。「祭法」云:「王立七廟:曰考廟、王考廟、皇考廟、顯考廟、祖考廟。皆月祭之。二祧享嘗乃止。諸侯立五廟:曰考廟、王考廟、皇考廟。皆月祭之。顯考廟、祖考廟,享嘗乃止」。然則天子告朔於明堂,朝享於五廟;諸侯告朔於大廟,朝享自皇考以下三廟耳。皆先告朔,後朝廟。朝廟小於告朔,文公廢其大而行其小,故云「猶朝于廟」。『公羊傳』曰:「猶者,可止之辭也」。

【論語疏】天子玄冕以視朔,皮弁以日視朝。諸侯皮弁以聽朔,朝服以日視朝。其閏月則聽朔於明堂闔門左扉,立於其中。聽政於路寢門終月,故於文王在門為閏。
【春秋正義】天子玄冕以視朔,皮弁以日視朝。諸侯皮弁以聽朔,朝服以日視朝。其閏有則聽朔於明堂闔門左扉,立於其中。聽政於路寢門終月,故於文王在門為閏。

この内容は、明らかに『春秋左氏伝』を解釈したものです。『論語疏』では文公についての言及を二箇所、省略していますが、そのせいで文脈が不自然になってしまっています。この文章が劉炫『論語述議』に存在したとは、とても考えられません。

かりに現代の感覚で律するならば、剽窃というべき程度まで、『論語疏』は『春秋正義』を襲っており、そのノリとハサミの跡さえうかがうことができるのです。