カテゴリー別アーカイブ: 訓読・日本漢学

慊堂先生の誕生日


明和八年九月二十七日(西暦で言えば1771年11月3日)、甲子の日、松崎慊堂は熊本に生まれました。『慊堂日暦』文政六年五月の記事に、「慊堂が所歴の甲子」として次のようにあります。

明和八(辛卯)年九月二十七日甲子、慊堂生まる。文政六(癸未)年四月二十五日甲子にいたるまで凡そ五十三歳、総て三百十四甲子。一万八千八百五十七日。(『慊堂日暦』1、平凡社東洋文庫、p.16)

甲子という特別な日(1から60まである干支の第1ですから)に出生したことは、慊堂にとって大切なことであり、甲子の日にはしばしばそのむね言及があります。感慨を持って、二ヶ月に一度の甲子を迎えたようです。たとえば、文政十年十一月二十三日の甲子には、「余が生まれし歳の九月二十七日は甲子、ここに於て三百三十八甲子なり」(『慊堂日暦』2、平凡社東洋文庫、pp.131-132)と書いています。

文政十一年九月二十七日、この日、慊堂の「誕辰」が行なわれました。前日には隣居の老人にわざわざ蕎麦を挽いてもらって準備した、と日記にあります。当日の日記を引きます。

晴、寒。甲子、五十八の初度たり。輪翁は晁上人・崋山外史と来り、芳洲・儀之助・牛之丞の三公来り臨まる。三管合奏し、輪翁は郢曲を歌う。集まる者は、井筒君、浅山哲蔵、渡辺奎輔、陰山・熊谷二生、古梁夫婦・女孫・上田雪坡。席上にて数十紙を漫書す。(『慊堂日暦』2、平凡社東洋文庫、p.212)

輪翁こと屋代弘賢(1758-1841)や崋山外史つまり渡辺崋山(1793-1841)も出席した、華やかな会合です。慊堂は「三百四十七甲子、二万八百二旬九。五十八年かくの如く過ぐ、富貴浮雲三杯の酒」というような詩も詠みました。

毎年九月二十七日になると誕生会を催したというわけではなく、この日は折よく九月二十七日と甲子とが重なったために、盛大な会を開いたのでしょう。誕生会の楽しさが想像されます。

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文に和習あって始めてこれ真の文


松崎慊堂(1771-1844)の『慊堂日暦』が面白いというのは、以前から聞いていたのですが、大部のものでもあり、なかなか手をつけずにおいてありました。最近、必要あって読み始めたところ、すっかり魅了されてしまいました。まだ読了していませんが、いたるところに興味をひかれる記事があります。

「和習」といえば、日本人の書く漢文の癖のようなもので、中国文を手本とする立場からすればあまりありがたいものではないようです。慊堂はその和習について、面白いことを言っています。文政十年十二月八日の日記から。

 「助字・作文」。古今各々異なる。先ず『史記』と六経とを比視すべし。漢は周の助字を用いず。後漢と前漢と異なる。作文もまた然り。唐の元結は六代の比儷を厭い、ここに於て始めて復古の事あり。然れども唐の文は自らこれ唐、宋の文は自らこれ宋。韓(愈)を学ぶ欧(陽脩)は、却って韓に似ず、自らこれ欧の文なり。南宋また北宋に非ず。この論は甚だ長ず、暇時にまさに説破すべし。文に和習あって始めてこれ真の文。漢に漢習あり、唐宋に唐宋の習あり。和に和習なければ、和人の文となさず。(『慊堂日暦』第2冊、平凡社、東洋文庫、1972年、p.137)

「漢に漢習あり、唐宋に唐宋の習あり」、中国のそれぞれの時代の文にも、他の時代とは異なる「習」があるのだから、日本人の書く文にも和習がなければ本当の文とは呼べない。なるほどと思いました。理想の文、などというのは、言われてみれば幻想です。

同日の日記には別のこともあわせて書かれているのですが、「右、九日夜の酔語、陰生と語る約略なり。筆かなわねば、急に思う通りに書付かれぬる。他日の心覚えにす」とメモがあります。九日、というのは八日の誤りか、とも思いますが、さて。

ともかく、陰生こと、陰山量平(1789-1833、あざな仲海)と酒を飲みながら話したことを書き付けたようです。陰山量平は、陰山豊洲(1750-1809)の養子で、私はこの陰山豊洲にも少し関心を抱いているところでしたので、ますます楽しくなりました。

臥内ニ於テ詩數反ヲ高吟ス


我が国の中世において、儒学がどのように伝えられていたのか、少しばかり興味を持っています。

和島芳男『中世の儒学』(吉川弘文館、1965年、p. 175)に、三条西実隆(1455-1537)の『実隆公記』の一文が引かれているのが、目に留まりました。三條西實義編(1931-1938)の五冊本『実隆公記』が、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」に収録されているので、そこから引用しましょう。

永正八年(1511)五月二十九日の記事に、「太相国」(徳大寺実淳、1445-1533)の言葉として、次の一節が見えます(第五巻、p. 516)。

宜竹和尚談云、毛詩常忠講尺之時、諸尊宿聽聞、講談未始之前、於臥内今日可講之詩數反高吟云々。此事一日相尋之處、毛萇ハ專詩ノ作意ヲ面白ク見ナシタリ、鄭玄ハ只字訓、義理等ヲ尺セリ、毛萇カ心ノコトク、詩ノ心ノ面白キ樣ハ、今ハ吟味セハアリヌヘキ事也、仍再三吟味云云、尤有興云々、 

宜竹和尚とは、相国寺に住した景徐周麟(1440-1518)。その宜竹が、常忠(清原業忠、きよわらのなりただ、1409-1467)を回想した、と。

業忠は『毛詩』を講義する前は、寝床のなかでその日に講ずる詩を数度にわたり高らかに朗詠した。そのことをある時、実淳が業忠に質問したところ、業忠は次のように言った、「毛萇(『詩経』の注釈をし、「毛伝」を書いたとされる前漢の学者)はそれぞれの詩の創作意図を面白いものとみなしたが、一方の鄭玄(「毛伝」を踏まえて、さらに『詩経』の注釈「鄭箋」を書いた後漢の学者)は訓詁・義理の説明ばかり。毛萇のように詩を面白く読むには、こうして吟詠すればそう感じられるだろう。そこで何度も吟詠しているのだ」、と。

寝床のなかで古人に思いを馳せて詩を唱えるとは、なかなか味わい深い学びの姿だと感じられます。教師として、このようにありたいものです。

この逸話に続けて、実隆自身が大儒、清原宣賢(1475-1550、先ほどの業忠の孫)に聞いた後日談が、次のように加えられています。

後日予此事語宣賢朝臣處、鄭玄禮記ヲ注シテ後毛詩ヲ注スル間、禮ニカハリテ多注シタリ、毛萇心ハ詩ハサノミ禮法ニノミ不可拘、作意本タルヘシト心得ヲ注セリ云々、清家ノ習、嫡流ニハ毛萇ノ點ヲ傳フ、庶流ニハ鄭玄カ點ヲヲシフルト云々、

面白いのは、清原家では、嫡流に毛伝を教え、庶流には鄭箋を教えていた、という宣賢の証言です。

毛伝と鄭箋は、ともにひとつの本に書き連ねられた『詩経』の注釈でありながら、内容が異なる場合がしばしばあります。鄭箋が世に伝えられて後、両者の齟齬に学者たちは大いに悩みました。

そこで清原家では、一人の後継者に二つの相異なる説を伝えるのではなく、二つに分けて伝えるという方法を考案したわけです。真摯に学問に打ち込む家ならでは、と言えましょうか。

この一件、実隆が直接に宣賢に聞いたことですから、信憑性は高いはずです。何ともゆかしく思われました。

揚馬の輩


和島芳男『中世の儒学』(吉川弘文館、1965年)を読んでいたところ、『本朝文粋』に「游夏の徒、もと卿相の子にあらず。揚馬の輩、寒素の門より出づ」なる対句があることを知りました。『中世の儒学』、第15頁。

出身にこだわらず、才能のある人材を登用すべしと主張する文章のようです。平安時代にすでにそのような開けた考え方があったのかと関心を引かれて、原文に当たってみました。

その文章は『本朝文粋』巻二「官符」に、太政官符「應補文章生並得業生復舊例事」(天長四年(827)六月十三日)として収録されていました。以下に抜粋します。

大學尚才之處,養賢之地也。天下之俊咸來,海内之英並萃。

游夏之徒,元非卿相之子;揚馬之輩,出自寒素之門。高才未必貴種,貴種未必高才。

且夫王者用人,唯才是貴。朝為廝養,夕登公卿。而況區區生徒,何拘門資;竊恐悠悠後進,因此解體。

(新日本古典文学大系『本朝文粋』pp. 145-146)

和島氏が「揚馬」に注して「漢の揚雄と後漢の馬融」というのはもとより誤り。岩波の新日本古典文学大系の『本朝文粋』(岩波書店、1992年、p.21)が「揚雄と司馬相如」と注するのを是とすべきです。

曰く、「揚馬の輩、寒素の門より出づ」と。別に司馬相如や楊雄が都の大学に入って学問を身につけたわけではありませんが、高貴の出身でないにもかかわらず名を成した例として、平安貴族は彼らを想起したようです。

桂庵玄樹の「直読」


 金文京氏の新著、『漢文と東アジア-訓読の文化圏』(岩波書店、岩波新書、2010年)から、「直読」の話題を。直読とは、中国文を訓読によらず、中国語で読むことです。今の日本においても、「中国の文言文を直読するか?それとも訓読するか?」は、しばしば問題とされますが、これには歴史があるのです。江戸時代の学者、荻生徂徠(1666-1728)が訓読の廃止を主張したことは有名ですが、それ以前、室町時代の禅僧がその先駆けとなった、との指摘が金氏の著書に見えます。

  金氏の著の第1章第6節「訓読の新たな展開―鎌倉時代から近代まで」は、副題の通り、我が国の中世・近世・近代における漢文読方の歴史を追ったものです。その中に「訓読に対する新たな考え方」という見出しを付し、室町時代の禅僧、桂庵玄樹(1427-1508)による漢文の読み方を紹介した部分があり、次のように言います。 

 (桂庵は)朱子の『大学章句』を刊行するなど、朱子学の普及に努めたが、彼にはまた『桂庵和尚家法和訓』という訓読についての著述がある。その中で桂庵は、「文字読ヲバ無落字(落字なき)様ニ、唐韻ニ読ミ度キ也。其故ハ偶一句半句、ソラニ覚ユル時モ、ヲキ字不知曰其何字也(其の何の字と曰うを知らざるなり)、口惜事」と言っている。ここで落字、ヲキ字(置字)と言っているのは、漢文の原文にはあるのに訓読では読まれない字のことで、おもに「而」「也」などの助辞を指す。…。

 ところが桂庵は、その置字、落ち字も全部読む、しかも訓読ではなく唐韻、というのはおそらく当時の中国音を指すと思えるが、それで読みたいと言う。…。

 これは、漢文はすべて訓読で読み、訓読で理解すればよいとする平安中期から院政期までの考えと真っ向から対立するものであろう。桂庵にとって、訓読は原文を理解するための補助的な手段にすぎず、文意はあくまでも原文によって理解すべきものであった。しかも原文をできれば中国語で読みたいというのであるから、これは直読への志向にほかならない。(p.66,67)

 また金氏は、伊藤東崖・荻生徂徠ら、江戸時代の学者の「直読」志向を説くに際し、「かつて桂庵が述べた漢文を直読したいという願望、言い換えれば訓読廃止論が再び現れるのは、自然の勢いであろう」(p.73)と言っています。つまり、桂庵玄樹を「直読」派の祖とみなし、その流れの上に伊藤東崖・荻生徂徠らの主張を置くのです。 

 その一方で、金氏は「日本ではじめて朱子のもっとも重要な著作である『四書』を講義したのは、京都五山のひとつ東福寺の僧、岐陽方秀であった。その岐陽の訓点を後に桂庵玄樹が改訂し、さらに文之玄昌が完成させる。これがいわゆる文之点であり、文之点が江戸時代の四書訓読の基礎となった」(p.66)とも言います。

 「直読」志向と「訓読」の正統派、この両者は、桂庵という一人の人物の中で、どのようにして両立しえたのでしょうか?私は疑問に思い、これを機に『桂菴和尚家法倭點』を読んでみました。とはいっても、私の読んだのは、写本でも版本でもなく、国会図書館「近代デジタルライブラリー」にて公開している活字本(明治四十一年序)のコピーですが。

  この書物を読んだ私の印象は、「これは直読派の書物ではなく、訓読派の書物だ」というものです。たとえば、「カリカ子(雁がね点。レ点のこと)」を述べた、次のような部分があります。

一二上下甲乙之点ハ、不点カナハサル處ニ用之也、古点ニ任筆可点鴈金處二用一二、一二ノ處ニ上下甲乙ヲ用フ、甚惡也。

  「古点」、すなわちそれ以前の訓点は、レ点・一二点・上下点・甲乙点の使用原則が守られておらず、「筆に任せて」いい加減である、と非難するのです。他にも古い訓読を批判する部分は多く、まさに「訓読の革新者」という意気込みを感じさせます。

 そうであるとすると、桂庵の「直読」はどうなるのでしょう?金氏が引用した「唐韻ニ読ミ度キ也」をあらためて確認しましょう。前にある文章とともに引きます。

世界申シツケタ様ニ讀テ、早ク達理為肝要(理に達するを肝要と為す)也。雖然、郷談、其外卑辞(其の外いやしきことば)、又宜正之也。古點、「不亦樂乎(亦たのしからずや)」之類、イヤシキナリ。「タノシマザランヤ」ト読テ好ナリ。唐音ニ読度(読みたき)也。其故ハ偶 一句半句、ソラニ覺ユル時、ヲキ字、不知有其何字也(其の何の字有ることを知らず)、口惜哉。

  この一段は、なかなか読みにくいのですが、どうやら、漢音・呉音の別を述べ、また読書に用いられる音と世俗に用いられる音を述べたもののようです。「世の中の読む通りに読んで、意味をとるのが大事だが、それでも俗語やその他の卑しいことばは正すべきだ」と論じ、「いやしい」と言ってまたぞろ「古點」批判をした後、突如、「唐音ニ読度也」というのです。脈絡を追いづらい文章ですが、基調として訓読の革新を目指しつつも、確かに金氏の言われるとおり、「直読」への志向も見えます。なお、この一段は、本文の末に位置しています(附録として、さらに「儒釋道三教」の一文があります)。

  では、桂庵が「唐音ニ読度也」というのは一体どういうことかというと、絶好の例が、『桂菴和尚家法倭點』の序文に当たる部分に見えます。そこでは、宋以来の儒学革新を紹介し、中国大陸では誰もが朱子学を学んでいると言った後、「朱子を宗とせざれば元 學に非す、看て匡廬に到りて始めて是れ山(朱子にのっとった学問でなければ学問とは言えぬが、いま廬山を見ると、これこそが山というものだ、と分かった)」という対句を示しています。そして驚くべきことに、次の文が続くのです。

兩句ヲ唐音ニハ「不(フ)宗(スン)朱(チウ)子(シ)元(エン)非(ヒ)學(イヨウ)、看(カン)到(シをン)匡(シヨウ)廬(ル)始(シ)是(シイ)山(サイ)」。

  明らかに、当時の中国語のいずれかの方言を音写したものでしょう(この部分、おそらくは注記です)。ちょっとおかしい音があるので、写本などを調べて細部を確定する必要が有ります。明治四十一年に活字となった際につけられた西村時彦の序を読むかぎり、この書物の成立・流伝は明確でないようですが、少なくとも、写本を調べれば、桂庵の「唐音」は分かるのではないでしょうか。桂庵は「明に入るや、蘇杭の諸儒に就きて宋學を研究し、歸朝の後も、專ら鼓吹する所あり」(西村時彦序)という人物なので、そのあたりで聞き覚えたことばかも知れません。

  これぞ、「唐音ニ読度也」の実例でしょう。留学経験のある自分は、「一句半句、ソラニ覺ユル時」、ちょっとした句などの暗誦はできるが、一般の日本人にはそれも難しいがゆえに、訓読の改良を目指さざる得なかった、というのが実情ではないでしょうか。

 鎌倉時代の道元禅師以来、中国に入った禅僧たちも、当然、禅句などは中国音で覚えたことでしょう。そうであるなら、桂庵の立場もその延長線上にあることになります。金氏の説を否定するわけではありませんが、私は桂庵が「直読」を唱えた、とすることに、やはり躊躇を覚えるのです。少なくとも、「桂庵にとって、訓読は原文を理解するための補助的な手段にすぎず、文意はあくまでも原文によって理解すべきものであった」(p.67)と、までは言えないように思います。

  なお、「不宗朱子元非學、看到匡廬始是山」の「匡廬」とは廬山のことで、江西省北部の名山です。この句は、明代の詩人、聶大年(1402-1455)が、福建省と江西省の間にまたがる武夷山を詠んだという「不宗朱子元非學、看到武夷方是山」に酷似しています。廬山と武夷山とは、むろん別の山ですが、少なくとも桂庵が覚えてきたのが「匡廬」の方であったことは、疑いのないところです。

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