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龍宇純「論声訓」


龍宇純氏(1928-)「論聲訓」(『清華學報』新9卷、第1、2期、1971年)を読みました。

声訓は、訓詁の方法の一。訓詁というのは、語義を解釈する行為で、中国では遅くとも春秋時代にさかのぼります(「訓詁学」について書いた過去記事はこちらから)。

その訓詁には、形訓(漢字の字形に基づく訓詁)・義訓(字義に基づく訓詁)・声訓(字音に基づく訓詁)という三種の方法があるとされ、声訓はその一角を占めています。

魯の季康子が孔子に政とは何か、と問うた時、孔子は「なる者は、なり」と答えた、とか(『論語』顏淵篇)。「政」と「正」とは漢語の字音が同一ですから、その事実を根拠として「政」の語義を説明したもので、これなどは声訓の古い例の一つです。

漢語の声訓を、日本語の一例でなぞらえるなら、「鰺はどうして鰺というのか?」「味がよいからアジという」、といったところでしょうか。

声訓は『説文解字』『広雅』『釈名』などの古い字書に多数見えているのですが、如何せん、現代人の目から見れば、うそかまことか判断がつきづらく、なかなか学術的なとりあつかいに躊躇するところがあります。そこで龍氏の論文を読んでみた次第。

この論文は、以下の8節からなっています。

  1. 甲、聲訓之實質
  2. 乙、聲訓義訓明辨
  3. 丙、誤聲訓為義訓舉例
  4. 丁、誤聲訓為義訓蓋始於《廣雅》說
  5. 戊、誤聲訓為義訓探原
  6. 己、聲訓法之施用範圍
  7. 庚、古人聲訓多不足信說
  8. 辛、聲訓三條件

わたくしが最も啓発を受けたのは、第1節と第2節で、それによると、声訓が用いられるのは、ある語がそのように名づけられた由来や起源を答えようとする意識を有する場合である、とのこと。たとえば、なぜ「政」という言葉があるのかというと、それが「正」に由来するから、という具合に。

すると、声訓とは、単に音を利用した訓詁というだけでないわけです。ものの命名の由来を、同音(もしくは近似音)の語を用いて説明する訓詁である、と。なるほど、と、膝を打ちました。

義訓などは、由来を説明しないが、声訓は由来を説くはたらきがある、というわけ。

声訓が語源の由来を探る点において、声訓と義訓とはまったく異なる、というのが龍氏の強調する点で、紙幅のほとんどがその説明に割かれていますが、そこまではっきりと分かれるのか、あるいは分ける必要があるのか、まだわたくしは十分には納得していません。

また龍氏は、古代の小学書に載っている声訓は、大いに重んじられているのだが、誤った訓も多い、とみなし、大いに古訓を否定するのですが(第9節「古人聲訓多不足信說」)、わたくしの見るところ、近現代の大部分の学者は声訓を荒唐無稽と位置づけているはずで、むしろ、(現代人に見捨てられつつある)多くの声訓の中から、有意義な手がかりを見出すことに注力すべきではないか、と思うのです。

声訓とは何か、あらためて考えさせてくれる論文でした。台湾の国立清華大学のウェブサイトから、pdfファイルを取得することができます。 龍宇純「論声訓」 の続きを読む

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羊の子のように


最近、『毛詩』大雅「生民」の詩を読みました。『毛詩正義』に当たって、毛伝と鄭箋との説の違いを確かめるのは、いつも私にとって興味深いことです。しかも「生民」の詩は、周の始祖である后稷の事蹟を褒め称えたものであるだけに、なかなか読み応えがあります。

その詩に、后稷の出生を歌い、「誕彌厥月,先生如達」の二句があります。毛伝と鄭箋の説は以下のとおり。

〔毛伝〕誕,大。彌,終。達生也。姜嫄之子先生者也。

誕とは、大いに。弥とは、終える。【達生也。】姜嫄(后稷の母)の子のうち、先に生まれた者、ということ。

〔鄭箋〕達,羊子也。大矣后稷之在其母,終人道十月而生。生如達之生,言易也。

達とは、羊の子。偉大なることよ、后稷はその母の胎内にいるころ、人の道である十ヶ月を終えて生まれた。その生まれ方は、まるで羊の子が生まれるようであった。安産であったということ。

「達」字から「しんにょう」を除いた「羍」字には、生まれたての羊、という意味があります。それゆえ鄭箋は、后稷の出生は、子羊のように安産だった、と理解するわけです。

毛伝が「達生也」と言うのは、意図がよく分かりませんので、訳せません。正義によれば、「まるで子羊が生まれるようだ、ということ(言其生易如達羊之生)」と。そうすると、鄭箋と同説ですが、果たして「達生也」のみから、そこまで読み取れるものかどうか。

そんな疑問を抱いていたところ、ちょうど点注会(我々が参加する、段玉裁『説文解字注』を標点する読書会)で「羍」字の部分を読み、上記の問題について、段玉裁に独自の説があることを知りました。

毛曰:「達生也。姜嫄之子先生者也」,此不可通。當是經文作「羍」,傳云:「羍,達也。先生,姜嫄之子先生者也」。……凡生子始生較難,后稷為姜嫄始生子,乃如達出之易,故曰「先生如羍」。(『説文解字注』第四篇上、羊部)

毛伝は「【達生也。】姜嫄の子のうち、先に生まれた者、ということ」というが、これは通じない。きっと(毛詩の経文はもともと「達」ではなく)「羍」字に作っており、毛伝は「羍とは、達すること。先生とは、姜嫄の子のうち、先に生まれた者、ということ」、とあったはずである。……一般に、子どもを産む時には第一子はやや難産であるが、后稷は姜嫄の第一子でありながら、出生が簡単であるかのようだったので、だから(経文に)「先生如羍」といったのだ。

さらに段玉裁は鄭箋について、次のように言います。

鄭箋如字,訓爲「羊子」,云如羊子之生,媟矣。尊祖之詩,似不應若是。且嘼類之生無不易者,何獨取乎羊。

(毛詩の本文は「羍」字に作り、)鄭箋はその字の通りに「羊子」と訓じ、羊の子が生まれるよう、といったが、それは下品だろう。(「生民」の詩は、周の)祖(である后稷)をたっとぶ詩であるのに、そんなことは言うはずがないと思う。しかも哺乳類が生まれる場合はいずれの動物でも安産だが、なぜ羊だけを取り上げるのか。

言われてみれば、自分たちの始祖である后稷を「羊の子のように安産だった」と言うのは不謹慎かもしれませんね。かくして、段氏は鄭玄の説を否定し、本文を独自に変更した上で、毛伝の説を支持します。段玉裁の説に理があるのかどうか、即断はしがたいのですが、確かに毛伝をそのまま読むこともできません。

簡潔に過ぎる毛伝のことばをめぐって、鄭箋・正義・段玉裁、それぞれが思惑をもって解釈しました。私は、その間に横たわる緊張感自体を味わってゆこうと思います。

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ジガバチについて


ジガバチという蜂がいます。青虫を狙って毒針で刺して麻痺させ、巣穴に埋め、そこに自分の卵を産み付けるそうです。孵化したジガバチの幼虫は、青虫の体を少しずつ食い、それを食い尽くすと蛹になり、やがて成虫になって飛び立ってゆきます。まことに恐ろしい昆虫といえましょう。

なぜその蜂はジガバチ、と呼ばれるのか?『広辞苑』には次のように言います。

獲物を穴に入れる時、翅をじいじい鳴らすので、古人が「じがじが(似我似我)」と言って青虫を埋めると蜂になって出てくるものと思い、この名がついたものという。

なかなか面白い命名譚なのですが、出典などが分かりません。

さて、中国の人々もこの蜂をむかしから「蜾蠃」と呼んでおり、それは『詩経』にも歌われています。小雅「小宛」の詩、その第三章。

中原有菽,庶民采之。
螟蛉有子,蜾蠃負之。
教誨爾子,式穀似之。

中原に菽有り、庶民 之を采る。
螟蛉に子有り,蜾蠃 之を負う。
爾が子を教誨し,穀(よ)きを式(もっ)て之に似す。

ジガバチが青虫を捕まえて、「教誨」して自分に似せさせる、というわけ。ただ、「似我」のことばは直接的には出てきません。

このジガバチのついて、中国側に興味深い資料があることに気がつきましたので、以下、ご紹介します。

平安時代に菅原是善が、『東宮切韻』という韻書を作りました。中国の隋唐の十三家の韻書をもとに作った、便利な本です。ただ同書はすでに失われていて、数百条の佚文が知られるに過ぎません。元弘三年の奥書を有する『五行大義』(穂久邇文庫蔵、汲古書院から影印本が出ています)には、注記として、その『東宮切韻』が三百条ほど写されています。

中村璋八氏「神宮文庫本五行大義背記に引存する東宮切韻佚文について」(『東洋学研究』11、1955年)は、穂久邇文庫蔵本と同じ内容を持つ神宮文庫本の『五行大義』から、『東宮切韻』を輯佚したものです。そこに、ジガバチの記述が見えるのです。標点は、中村氏のものを踏襲しています。

蛉 陸法言云。螟蛉。小青蟲。釋氏云。食桑者。郭璞云。詩云。螟蛉有子。蜾蠃負之。蜾蠃土蜂。取之致木。空中七日而成其子。里語云。其蜂。祝尚丘云。象々我々。

穂久邇文庫蔵本の影印本によって、これを確認し、新たに標点します。

「蛉」,陸法言云:螟蛉,小青蟲。釋氏云:食桑者。郭璞云:『詩』云:「螟蛉有子,蜾蠃負之」,蜾蠃,土蜂。取之致木空中,七日而成其子。里語云:「其蜂祝云:象我象我」。(影印本下冊、p.536)

中村氏の輯佚に見える祝尚丘は、『東宮切韻』が依拠した十三家の一。穂久邇文庫本には、「祝尚丘」ではなく、ただ「祝」とのみあります。神宮文庫本が「祝尚丘」と作っているのか、あるいは中村氏がそのように整理したのかは、未確認ですが、ともかく、祝尚丘とするのは誤りで、この「祝」は「咒」に通じ、呪文をかける意。

「釋氏」(これも十三家の一です)の説に、「その蜂は咒文を唱えて、『自分に似よ、自分に似よ』という」、そういう「里語」(世俗の伝承)が見えるというわけです。何とも、「似我似我」に似ているではありませんか。むしろ中国では、「象我」蜂であったのです。

さらに言うと、この説は慧琳『一切経音義』巻四十一にも見えているのです。

取桑上虫,負於土中,或於書卷中,或筆筒中,七日而化為子,故俗語云「咒曰:象我象我」。(T54-578b)

『東宮切韻』に引く「釋氏」の説が、慧琳『一切経音義』とどのように関係しているのか、軽率なことを言うわけにはゆきませんが、少なくともジガバチに関する限り、類似する記述が見えています。

中国の唐代頃の人々は、ジガバチの羽音を「象我象我」と聞きなしていたのでした。「象我」がなぜ「似我」になったのか、いずれ知りたいものです。

位は徐広に非ず、情は楊彪に類る


北周から隋代にかけて生きた栄建緒は、まがったことの嫌いな人物で、学問も立派であったとのこと。

彼はもともと楊堅(のちに隋の文帝となる人、541-604)と親しく、楊堅が北周を倒す野望をいだき、栄氏にそのことをほのめかしたところ、「明公の此の旨、僕の聞く所に非ず」と栄氏が色をなした、と『隋書』は伝えます。それに対して、楊堅は不機嫌になったものの、栄氏はそのまま立ち去りました。

(榮)毗兄建緒,性甚亮直,兼有學業。仕周為載師下大夫、儀同三司。及平齊之始,留鎮鄴城,因著『齊紀』三十卷。建緒與高祖有舊,及為丞相,加位開府,拜息州刺史,將之官,時高祖陰有禪代之計,因謂建緒曰:「且躊躇,當共取富貴。」建緒自以周之大夫,因義形於色曰:「明公此旨,非僕所聞。」高祖不悅。建緒遂行。(『隋書』卷六十六、榮建緒傳)

隋が天下を取ると、いまや隋の文帝となった楊堅の前に、栄氏が再び現れました。文帝は「お主も後悔しておるか?」と昔の話を蒸し返します。すると栄氏は、頭を下げて「臣、位は徐広に非ず、情は楊彪に類(に)る」と答えました。これには文帝も苦笑し、「朕は書物の文言は知らぬが、それでもお主のこのことばが不遜であるのは分かるぞ」と言った、とのこと。

開皇初來朝,上謂之曰:「卿亦悔不?」建緒稽首曰:「臣位非徐廣,情類楊彪。」上笑曰:「朕雖不解書語,亦知卿此言不遜也。」(同上)

「位は徐広に非ず、情は楊彪に類る」。徐広(352-425)は東晋末から劉宋初にかけて生きた人、東晋に忠誠心を持ちつつも、宋では高祖に重用され秘書監にまで至りました。一方の楊彪(142-225)は後漢末から魏初にかけて生きた人で、後漢に仕え、曹操には屈しない態度を示しました。

この対句から、栄氏の気骨がうかがわれます。

文帝が「不遜」と評した栄氏のことば、内容が露骨であることはもちろんですが、その「言いぶり」もなかなか嫌味です。「位非徐廣,情類楊彪」、駢文の中に見出されてもおかしくない綺麗な対句で、平仄まで整っています。そう思って見返してみると、もう一つの発言、「明公此旨,非僕所聞」の方も、平仄が合っているのです。

こういう、いかにも文人らしい美しい「言いぶり」が、文帝をますますいらだたせたのかも知れません。

人名と『説文解字』


陳垣『中国仏教史籍概論』巻二には、『続高僧伝』(巻十一、法侃伝)の次の文を引きます。

侃初立名,立人安品。後値內道場沙門智騫曰:「侃之為字,人口為信,又從川字。言信的也」。因從之。

法侃は、初め名前を付けたとき、人偏に品を置く形(「偘」の字)にしていた。後に内道場の沙門智騫に会った所、「侃という字は、人の口を信となし(人に口と書くのは信という意味であり)、また川の字に従う。言葉に信頼性があり明らかなことである」と言うので、これに従った。(知泉書館版、p.71)

陳垣はこの一節を根拠として、智騫という僧が小学に詳しかったことを証しています。まことに注意深い読書というべきです。

当時、南北朝時代から唐代にかけての頃、「侃」の字はしばしば「偘」とも書かれました。しかしながら、智騫は「侃」と書く方が、「偘」と書くよりもよいと考え、用字を変えることを法偘に助言した、というわけです。智騫のこの説、実は『説文解字』に拠っているのです。

侃,剛直也。从㐰,㐰,古文信;从川,取其不舍晝夜。『論語』曰:「子路侃侃如也」。(『説文解字』十一篇下、川部)

侃とは、剛直のこと。㐰に従い、㐰は「信」の古文、(さらに)川に従い、昼夜を問わずに流れることをいう。『論語』に「子路は侃侃如たり」とある。

「侃」は「㐰」(=信)と「川」とを組み合わせた「会意」の字であるから、「偘」と書いてしまってはその原義が伝わらない、と智騫は考えたのでしょう。当時、『説文解字』が実用されていたことを示す興味深い例です。

ただ、智騫が言ったという、「言信的也」の言葉はよく理解できません。「的」字は何らかの誤字なのでしょうか。

史記という熟語


同じ韻部に属する二字を合わせた熟語を「畳韻語」と呼んでいます。古い漢語には、おびただしい数の畳韻語が存在しており、そのうち、「丁寧」「辟易」「芍薬」「沐浴」などの熟語は、今の日本語にも遺っているほどです。

「史記」の上古音について、王力氏は*ʃǐɘ kǐɘと推定しています。二字とも「之部第一」と呼ばれる韻部に属しています。「史記」という語は、「史官の記録」というほどの意味ですが、現在では司馬遷の著作の書名(もとは『太史公』『太史公書』といいました)として、より広く知られています。「史記」という語も、(ゆるやかに言えば)よく熟した畳韻語のひとつのようです。

『説文解字』(三篇下、史部)で「史」の字を見ると、次のように説かれています。

史,記事者也。从又持中。中,正也。

この「史,記事者也」のところを、試みに王力氏の推定する上古音で示してみましょう。

*ʃǐɘ, kǐɘ dʒǐə ȶiɑ ʎia.

「史」「記」「事」の三文字が、すべて「之部」に属することが分かります。「記事」もまた、畳韻語です。

これはおそらく偶然ではなく、『説文解字』を書いた許慎が、あえて似た音を持つ字を用いて、「史」を説明したものと考えられます。

『説文解字』では、しばしば同部の字を用いて文字の説明をおこなっています。たとえば一篇上(一部)に見える「吏,治人者也」の「吏」「治」はともに「之部第一」に属し、また三篇上(共部)に見える「共,同也」の「共」「同」はともに「東部第十」に属します。

このような文字どうしを「畳韻の関係にある」といいます。

畳韻。漢語を学ぶ上で、かなり重要な手がかりであるように思っています。

上古音を覚えたい


このところ、中国語史の概説として名高い王力『漢語史稿』(重排本、中華書局、1996年)を読み返しています。その第11章は上古音(漢代以前の漢語の音)の解説で、王氏自身の研究成果にもとづき、合計29部に韻部を分けています。

それぞれの部に、例として二字の熟語、いわゆる「畳韻語」が主として並んでおり、次のように注記されています。

これらの例は二字で連なったもので、記憶の方便のために過ぎない。すべてが連綿字というわけでもない。これらの例によって、諧声符を手がかりに多くの字の韻部を類推できよう。(pp. 74-77)

以前読んだときには目にとまらなかったのですが、つまりこれらの例は、記憶すべきもののようです。たとえば、「流求*lǐɘu gǐɘu」「憂愁*ǐɘu dʒǐɘu」はともに幽部第四、などと覚えてゆけばよいのでしょう。

例には推定音価がついていなかったので、郭錫良『漢字古音手冊』(北京大学出版社、1986年)をもとに、音を書き入れてみました(この手冊は王力氏の学説に依拠しています)。ただし、声調は省略してあります。

自分の学習用のメモであり、本来、人様にお示しするものでもないのですが、備忘のためにここに掲載しておきます。

  • 之部第一 *-ɘ

胚胎*p‘uɘ t‘ɘ 始基*ɕǐɘ kǐɘ 母子*mɘ tsǐɘ 事理*dʒǐɘ lǐɘ 鄙倍*pǐɘ bɘ 紀載*kǐɘ tsɘ 史記*ʃǐɘ kǐɘ

  • 職部第二 *-ɘk

戒備*keɘk bǐɘk 服食*bǐwɘk ȡǐɘk 惑慝*ɣuɘk t‘ɘk 崱屴*dʒɘk lǐɘk

  • 蒸部第三 *-ɘŋ

崩薨*pɘŋ xɘŋ 升登*ɕǐɘŋ tɘŋ  稱懲*ȶ‘ǐɘŋ dǐɘŋ  能勝*nɘŋ ɕǐɘŋ  冰凝*pǐɘŋ ŋǐɘŋ  鄧馮*dɘŋ bǐwɘŋ  蹭蹬*ts‘ɘŋ dɘŋ

  • 幽部第四 *-ɘu

皋陶*kɘu ʎǐɘu 綢繆*dǐɘu mǐɘu 周遭*ȶǐɘu tsɘu 蕭條*siɘu diɘu 流求*lǐɘu gǐɘu 老幼*lɘu iɘu 壽考*ʑǐɘu k‘ɘu 優游*ǐɘu ʎǐɘu 憂愁*ǐɘu dʒǐɘu 椒聊*tsǐɘu liɘu

  • 覺部第五 *-ɘuk

鞠育*kǐɘuk ʎǐɘuk 覆育*p‘ǐɘuk ʎǐɘuk 苜蓿*mǐɘuk sǐɘuk 肅穆*sǐɘuk mǐɘuk

  • 宵部第六 *-au

逍遙*sǐau ʎǐau 招搖*ȶǐau ʎǐau 號咷*ɣau dau 窈窕*iau diau 渺小*mǐau sǐau 夭矯*ǐau kǐau 嫖姚*p‘ǐau ʎǐau 驕傲*kǐau ŋau 高超*kau t‘ǐau

  • 藥部第七 *-auk

確鑿*k‘eauk dzauk 卓犖*teauk leauk 綽約* ȶǐauk ǐauk 芍藥*ʑǐauk ʎǐauk

  • 侯部第八 *-o

傴僂*ǐwo lǐwo 句漏*ko lo 侏儒*ȶǐwo ȵǐwo 須臾*sǐwo ʎǐwo

  • 屋部第九 *-ok

沐浴*mok ʎǐwok 瀆辱*dok ȵǐwok 觳觫*ɣok sok 岳麓*ŋeok lok 剝啄*peok teok

  • 東部第十 *-oŋ

童蒙*doŋ moŋ 朦朧*moŋ loŋ 崆峒*k‘oŋ doŋ 共工*gǐwoŋ koŋ 蔥蘢*ts‘oŋ loŋ 從容*ts‘ǐwoŋ ʎǐwoŋ 洶湧*xǐwoŋ ʎǐwoŋ 邦封*peoŋ pǐwoŋ

  • 魚部第十一 *-ɑ

祖父*tsɑ bǐwɑ 吾予*ŋɑ ʎǐɑ 狐兔*ɣɑ t‘ɑ 吳楚*ŋɑ tʃ‘ǐɑ 葫蘆*ɣɑ lɑ 孤寡*kɑ koɑ 租賦*tsɑ pǐwɑ 補苴*puɑ tsǐɑ 古雅*kɑ ŋeɑ 舒徐* ɕɑ zɑ 居處*kǐɑ ȶ‘ǐɑ 除去*dǐɑ k‘ǐɑ 嗚呼*ɑ xɑ

  • 鐸部第十二 *-ɑk

落魄*lɑk p‘eɑk 廓落*k‘uɑk lɑk 絡繹*lɑk ʎiɑk 赫奕*xeɑk ʎiɑk

  • 陽部第十三 *-ɑŋ

倉庚*ts‘ɑŋ keɑŋ 滄浪* ts‘ɑŋ lɑŋ 螳螂*dɑŋ lɑŋ 兄長*xiwɑŋ tǐɑŋ 卿相*k‘iɑŋ sǐɑŋ 光明*kuɑŋ miɑŋ 剛強*kɑŋ gǐɑŋ 倘佯*t‘ɑŋ ʎǐɑŋ 汪洋*uɑŋ ʎǐɑŋ 蒼茫*ts‘ɑŋ mɑŋ 彷徨*bɑŋ ɣuɑŋ 商量*ɕǐɑŋ lǐɑŋ 景象*kiɑŋ zǐɑŋ

  • 支部第十四 *-e

睥睨*p‘ie ŋie 支解*ȶǐe ke 斯此*sǐe ts‘ie 佳麗*ke lǐe

  • 錫部第十五 *-ek

蜥蜴*siek ʎǐek 辟易* bǐek ʎǐek 滴瀝*tiek liek 策畫*tʃ‘ek ɣwek

  • 耕部第十六 *-eŋ

蜻蜓*tsieŋ dieŋ 精靈*tsǐeŋ lǐeŋ 聲名*ɕǐeŋ mǐeŋ 崢嶸*dʒeŋ ɣoeŋ 丁寧*tieŋ nieŋ 娉婷*p‘ǐeŋ dieŋ 輕盈*k‘ǐeŋ ʎǐeŋ

  • 脂部第十七 *-ei

階陛*kei biei 麂麋*kǐei mǐei 次第*ts‘ǐei diei 指示*ȶǐei ȡǐei

  • 質部第十八 *-et

垤穴*diet ɣiwet 一七*ǐet ts‘ǐet 實質*ȡǐet ȶǐet 吉日*kǐet ȵǐet

  • 真部第十九 *-en

秦晉*dzǐen tsǐen 天淵*t‘ien iwen 神人*ȡǐen ȵǐen 年旬*nien zǐwen 新陳*sǐen dǐen 親信*ts‘ǐen sǐen

  • 微部第廿 *-ɘi

依稀*ǐɘi xǐɘi 徘徊*buɘi ɣuɘi 崔嵬*ts‘uɘi ŋuɘi 虺隤*xǐwɘi duɘi 悲哀*pǐɘi ɘi 瑰瑋*kuɘi ɣǐwɘi 玫瑰*muɘi kuɘi 水火*ɕǐwɘi xuɘi

  • 物部第廿一 *-ɘt

鶻突*ɣuɘt duɘt 密勿*mǐɘt mǐwɘt 鬱律*ǐwɘt lǐwɘt 畏愛*ǐwɘt ɘt

  • 文部第廿二 *-ɘn

晨昏*ʑǐɘn xuɘn 根本*kɘn puɘn 渾沌*ɣuɘn duɘn 悶損*muɘn suɘn 困頓*k‘uɘn tuɘn 逡巡*ts‘ǐwɘn zǐwɘn 紛紜*p‘ǐwɘn ɣǐwɘn 存問*dzuɘn mǐwɘn

  • 歌部第廿三 *-a

羲媧*xǐa koa 綺羅*k‘ǐa la 嵯峨*dza ŋa 蹉跎*ts‘a da 阿那*a na 羈縻*kǐa mǐa

  • 月部第廿四 *-at

豁達*xuat dat 契闊* k‘iat k‘uat 蔽芾*pǐat pǐwat 滅裂*mǐat lǐat 決絕*kiwat dzǐwat 折閱*ȶǐat ʎǐwat 雪月*sǐwat ŋǐwat

  • 寒部第廿五 *-an

丹晚*tan mǐwan 顏面*ŋean mǐan 燕雁*ian ŋean 關鍵*koan gǐan 餐飯*ts‘an bǐwan 寒暄*ɣan xǐwan 完全*ɣuan dzǐwan 片段*p‘ian duan 判斷*puan duan 簡慢*kean mean 閒散*ɣean san 團欒*duan luan 輾轉*tǐan tǐwan 攀援*p‘ean ɣǐwan 贊歎*tsan t‘an 汗漫*ɣan muan 泮喚*p‘uan xuan 燦爛*ts‘an lan 叛亂*buan luan

  • 緝部第廿六 *-ɘp

集合*dzǐɘp ɣɘp 雜沓*dzɘp dɘp 什襲*ʑǐɘp zǐɘp 執拾*ȶǐɘp ʑǐɘp

  • 侵部第廿七 *-ɘm

陰暗*ǐɘm ɘm 深沉*ɕǐɘm dǐɘm 侵尋*ts‘ǐɘm zǐɘm 浸淫*ts‘ǐɘm ʎǐɘm 衾枕*k‘ǐɘm ȶǐɘm 吟諷*ŋǐɘm pǐwɘm 降減*koɘm keɘm 隆冬*lǐɘm tuɘm

  • 葉部第廿八 *-ap

蛺蜨*kiap siap 唼喋*ts‘iap diap 躞蹀*siap diap 涉獵* ʑǐap lǐap

  • 談部第廿九 *-am

沾染*tǐam ȵǐam 瀲灩*lǐam ʎǐam 巉岩*dʒam ŋeam 纔暫*ʃeam dzam

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鳳凰出版社版『説文解字注』


数年ほど前、段玉裁『説文解字注』の標点本が出版されました。『説文解字注』、上下冊、許惟賢整理、鳳凰出版社、2007年。これまでは『説文解字注』といえば、嘉慶二十年(1815)に段氏自身が刻した経韵楼本やその影印本ばかり利用してきましたが、何と言っても標点本は手軽です。

この鳳凰出版社版の『説文解字注』、かなりよい出来で、通読のためにふさわしい本と言えましょう。 この数年、我々のグループ「点注会」は、『説文解字注』を会読しており、先週、三篇下までを読み終えました。鳳凰版の標点本を時々、参照しているのですが、いくつか鳳凰版の誤りが目につきましたので、三篇下についてのみ、備忘のために記しておきます。亀甲括弧の中が段玉裁注です(適宜、省略してあります)。校誤は漢語で記します。

  • 㱾,㱾,大剛卯也,㠯逐精鬽。从殳,亥聲。(鳳凰版第215頁,經韵樓本第二十七頁)

按:「㱾改」,經均樓本亦同,然宜作「㱾攺」。『説文解字注』第三篇下,攴部云:「攺,㱾攺,大剛卯㠯逐鬼鬽也。从攴,巳聲。讀若巳」,音余止切(鳳凰版第225頁,經韵樓本第四十頁)。

  • 尋,繹理也。〔……《方言》曰:「尋,長也。海岱大野之閒曰尋,自關而西,秦晉梁益之閒凡物長謂之尋。」《周官》之法,度廣爲尋。古文《禮》假尋爲燅。《有司徹》:「乃燅尸俎。」注:「燅,温也。」古文燅皆作尋,《記》或作尋。《春秋傳》:「若可尋也,亦可寒也。」……〕(鳳凰版第216頁,經均樓本第三十頁)

按:「《周官》之法,度廣爲尋」一文,《方言》(第一)文,引號有誤,當改。

又按:「古文燅皆作尋,《記》或作尋。《春秋傳》:「若可尋也,亦可寒也。」」,此亦《儀禮・有司徹》鄭注文,當改引號。

  • 寇,暴也。〔暴當是部之曓,……。〕(鳳凰版第223頁,經韵樓本第三十七頁)

按:「本」當作「夲」。本書十篇下,夲部:「夲,進𧼈也。从大十」,音土刀切(鳳凰版第869頁,經均樓本第十五頁)。

  • 斆,覺悟也。从,尚矇也。〔下曰:「覆也。」尚童矇,故敎而覺之。此說從之意。……〕聲。(鳳凰版第226頁,經韵樓本第四十一頁)

按:「冂」字四見,均當作「冖」。本書七篇下,冖部:「冖,覆也。从一下垂也」,音莫狄切(鳳凰版第617頁,經韵樓本第三十六頁)。

又按:「臼」當作「𦥑」。本書三篇上,𦥑部:「𦥑,叉手也」,音居玉切(鳳凰版第189頁,經韵樓本第三十九頁)。

これらの誤りは、すべてメンバーの指摘によるものであり、特に白須裕之先生がお気づきになったものが多いこと、ここに明記します。 標点本は確かに便利ですが、全面的には依拠できるわけではありません。経韵楼本を主とすべきことは、今後も変わらないようです。

『唐律疏議』名例律の篇題疏


『唐律疏議』(元来の書名は『律疏』)は、唐代の永徽律につけられた注釈で、三十巻、長孫無忌(?-659)らの撰、永徽四年(653)の成書。この注釈の一番はじめの部分は少し変わっています。

唐律は、名例第一、衛禁第二、職制第三、戸婚第四、厩庫第五、擅興第六、賊盗第七、闘訟第八、詐偽第九、雑律第十、捕亡第十一、断獄第十二、以上、十二の律から成り立っていますが、その第一、「名例」の篇題につけられた疏のことです。

劉俊文校『唐律疏議』(中華書局、1983年)によって、その全文をお示しします。

  • 夫三,萬;稟,人。莫不憑黎元而樹司宰,因政教而施刑法。其有情,識,大則亂其區宇,小則睽其品式,不,則未。故曰「以刑止刑,以殺止殺。」刑不可,笞不得。時,用。於是結,盈;輕,大。『易』曰「天垂象,聖人則之。」觀雷而制威,睹秋而有肅,懲,而防;平,而存,蓋聖王不獲已而用之。古者大刑,其次;中刑用刀鋸,其次用鑽笮;薄刑用鞭扑。其所由來,亦已尚矣。昔白、白,則伏、軒;西、西,則炎、共。鷞於少,金於顓。咸,典。大,撃。逮,化,議,畫媿,所有條貫,良多簡略,年代浸遠,不可得而詳焉。堯舜時,理官則謂,而皋,其,而往,則『風俗通』所云「皋陶謨,虞造律」是也。
  • 者,訓銓,訓法也。『易』曰「理財正辭,禁人為非曰義。」故銓量輕重,依義制律。『尚書大傳』曰「丕天之大律。」注云「奉天之大法。」法亦律也,故謂之為律。昔者,聖人制作謂之為經,傳師所説則謂之為傳,此則丘明、子夏於『春秋』、『禮經』作傳是也。近代以來,兼經注而明之則謂之為義疏。疏之為字,本以疏闊、疏遠立名。又『廣雅』云「疏者,識也。」案疏訓識,則書疏記識之道存焉。『史記』云「前主所是著為律,後主所是疏為令。」『漢書』云「削牘為疏。」故云疏也。昔者,三王始用肉刑。赭衣難嗣,皇風更遠,樸散淳離,傷肌犯骨。『尚書大傳』曰「夏刑三千條。」『周禮』「司刑掌五刑」,其屬二千五百。穆王度時制法,五刑之屬三千。周衰刑重,戰國異制,魏文侯師於里悝,集諸國刑典,造『法經』六篇,一、盜法;二、賊法;三、囚法;四、捕法;五、雜法;六、具法。商鞅傳授,改法為律。漢相蕭何,更加悝所造戸、興、廏三篇,謂九章之律。魏因漢律為一十八篇,改漢具律為刑名第一。晉命賈充等,增損漢、魏律為二十篇,於魏刑名律中分為法例律。宋齊梁及後魏,因而不改。爰至北齊,併刑名、法例為名例。後周復為刑名。隋因北齊,更為名例。唐因於隋,相承不改。者,五刑之罪名。者,五刑之體例。名訓為命,例訓為比,命諸篇之刑名,比諸篇之法例。但名因罪立,事由犯生,命名即刑應,比例即事表,故以名例為首篇。者,訓居,訓次,則次第之義,可得言矣。者,太極之氣,函三為一,黄鍾之一,數所生焉。名例冠十二篇之首,故云「名例第一」。
  • 以上,英,潤春於品,緩秋於黎。今,前,章,鴻,而刑,執,大,刑。一,一。不,觸。皇帝彝,納。德禮為政教之本,刑罰為政教之用,猶昏曉陽秋相須而成者也。是以降綸於台,揮折於髦,爰,大。遠則皇,近則蕭、,沿,自,甄,裁。譬權,若規。邁,同者矣。

お示しした文章は、原文では段を分けていませんが、考えがあって三段に分けました。その理由は、私の分けた第一段と第三段が駢文によって書かれているのに対し、両者の間に位置する第二段が駢文ではない、ということです。その第二段は、典型的な注釈の文章、義疏の文章になっています。

駢文の部分、平仄を合わせたらしいところにつき、平声を赤、仄声を青で表示しました。これを見ると、たとえば王勃(650-676)以後のような完全な平仄ではありませんが、基本的には平仄を意識していることが看取できます。

また句末の文字に着目すると、仄/仄と重なっている場合(つまり「平仄が合っている」とは言えない場合)でも、互いに上・去・入をたがえ、声調による区別をしており、音響を意識して書いています。

  • 「憑黎元而樹司(上),因政教而施刑(入)」
  • 「大則亂其區(上),小則睽其品(入)」
  • 「咸有天(入),典司刑(去)」
  • 「所有條(去),良多簡(入)」
  • 「潤春雲於品(入),緩秋官於黎(去)」
  • 「不有解(入),觸塗睽(去)」
  • 「降綸言於台(上),揮折簡於髦(去)」
  • 「甄表寬(去),裁成簡(上)」

それに対して第二段は、「律名例第一」の書名と篇題とを解釈したもの、一字一字に対し、その訓詁と内容を説き、なぜ「律」「名」「例」「第」「一」の語が使われているのかを、いちいち解釈しています。典型的な義疏のスタイルで、平仄への意識は欠如しています。

このような二種の文体が、ひとつの文章にまとめられている点に、たいへん興味をひかれました。小さな発見かもしれません。

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『漢字文化の世界』


藤堂明保『漢字文化の世界』(角川書店、1982年、角川選書135)を読みました。まずは目次をお示しします。

I 伝説と歴史
一 歴史に先立つ太古の中国
二 太古の黄河流域
三 伝説と歴史の始まり
四 夏王朝は実在か
五 虚構の聖王―禹
六 中国の創世記―天地人間の初め
七 殷・周の古代帝国

II 文字と民族
一 漢字の生い立ち
二 竜神の守り―越の国
三 風の使者―鳳凰
四 西北の騎馬民族
五 シルクロードの諸民族

III 風土と生活
一 数の起源
二 農耕の歩み
三 牧畜の起こり
四 自然と生活
五 うつわの形
六 工作・工事の原点
七 絹と桑はどこから
八 紙と印刷
九 はかり方の起源

IV 社会と思想
一 陰と陽―周易の論理
二 老子の嘆き
三 国を盗めば侯となる―荘子
四 扁鵲、病を治す―漢方の元祖
五 健康とバランス
六 士と民
七 公と私
八 文と武
九 毛沢東の発想

「漢字文化」と銘打ってあるものの、本書の構想は実に大きく、漢字にまつわる話にとどまるものではありません。言語学や小学、文献史学はもとより、考古学・人類学・歴史地理学・医学・思想史などの知見が存分に盛り込まれており、一冊で立派な中国文化史として成り立っています。藤堂氏は、中国文明の展開を生き生きと描き、そこで生まれ、用いられてきた言語について、興味深い洞察を随所に開陳されています。

本書の後書きにて、藤堂氏は「近ごろは学問の分野が細かくわかれて、個々の専門については進歩したけれども、ひろく中国の文明史を概括するような読み物がほとんど姿を消した」と書かれています。そのような反省のもとに、本書は作られているわけです。

量詞と手の動き
量詞と手の動き

とりわけ印象深いのは、第三章「風土と生活」の第九節「はかり方の起源」でした。中国語では、ものを数える単位「量詞」(陪伴詞)がたいへんよく発達しており、これこそが漢語話者の「もののとらえ方」を最も見やすいかたちであらわしているとも言えます。

藤堂氏は「中国語の特徴といわれるこの無数の「かぞえる単位」が、なぜ今日かくも活発に用いられているのかを探求してみようと思う。これは語源論に課せられた一つの大きな問題であって、これを解明することができたなら、漢語そのものの秘密にまでも、メスを入れることができるかも知れないのである」(191頁)と言われましたが、もっともなことです。

本章においては、ある種の量詞が、身体、特に手の動きとと密接不可分に結びついていることが説かれます。私もこれまで、量詞というものが漢語の重要な特徴であることは認識していたつもりですが、これほど包括的かつ説得力のある説明は聞いたことがありませんでした。大いに勉強になりました。

「千仞の谷」の「仞」は、垂直方向の長さをはかる量詞ですが、これを八尺とする許慎説と、七尺とする鄭玄説があると紹介したうえで、藤堂氏は後者を是とし、「同じ臂を伸ばすにしても、「尋」と「仞」とはちがう。水平の長さをはかるには、ただ左右の手を伸ばせばよいが、垂直線をはかるには、上体を横に曲げなければならない。姿勢にむりがあるから、左右の両手はまっすぐの線を成さず、いわば曲線を成してゆるい弧をえがく。そこで手の先から先までは八尺とは成らず、せいぜい七尺どまりとなるのである」(201頁)というのには、大いに肯かされました。

本書『漢字文化の世界』が書かれたのは、1982年、今から三十年も前のことでした。個々の記述については、更新が必要な部分もあると思いますが、それでも、中国文化と漢語とを見通したこの著作は、今日もなお読者をひきつける力を持っていると言えそうです。