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『殷契選釋』


辭條選釋の例
辭條選釋の例

甲骨文を独習しようと思い立ちました。現在、訪問学者として在籍中のミュンスター大学漢学東亜学研究所には、文字学の専門家、ウルリヒ・ウンガー教授(Professor Ulrich Unger)が、かつていらしたこともあり、甲骨・金文に関する図書も充実しています。今回、その書架から、自分の目的にかなう一冊を求めました。

速習のため、以下の条件にかなう書物が必要でした。

  • 初心者向けのもの。
  • 洋装1冊本で、厚冊でないもの。
  • 甲骨文を模写したものと、その釈読が対比してあるもの。
  • 一文字ごとの説明でなく、甲骨の文に即したもの。

探してみると、『殷契選釋』という書物が見つかりました。

『殷契選釋』游壽主編,王明閣、李連元合編,
黒龍江人民出版社,1985年

  • 凡例
  • 序言(李學勤)
  • 前言(游壽)
  • 辭條選釋(p.1-92)
  • 辭片選釋(p.93-188)
  • 字形表(p.189-270)
  • 本書所引甲骨著錄主要書目
  • 後記(王明閣)

王明閣氏の「後記」によると、李学勤氏のもとで学んだ王氏が、哈爾浜師範大学に戻って教鞭を執ることとなり、そこで初心者向けの教材として甲骨文読解の手引きを執筆しました。それが本書のもととなっているようです。王氏が始めた仕事が知られて正式に出版される運びとなり、主編に游寿氏、もう一人の編者に李連元氏を得て、完成したもの、とのことです。

まず「辭條選釋」では、400例が選ばれ、甲骨文の模写と釈読が掲載されています。私はそれまで甲骨文を学んだ経験がなかったので、自習のために釈読は欠かせません。分量が適切で、頻出の文字・文言を多く載せているので、一通り目を通すと、簡単なものが読めるようになりました。

以上の「辭條選釋」は甲骨文の短文をベタ書きにしたものですが、これを習得すると、次の「辭片選釋」に進みます。この章では、甲骨の実物に即して形と文字とが模写されており、それを読む訓練をするものです。学びやすく工夫されているように思われ、快適に進みました。これも分量は十分でした。

文字の判定に疑問のあるところ、さらに未釈読の部分などがあり、素人の眼にも瑕疵があると思えるところもありましたが、それは私のような初心者の段階ではあまり問題になりません。むしろ、個別の字の釈読にいくつか疑問を抱くことができ、引き続き研究書に当たってみたい、という願望も生まれました。

何しろ、もう30年近くも前に編まれた手引きです。専門家が本書をどのように判断なさるのか、それは分かりませんが、甲骨文の初歩を自習したいという私の目的には、大いにかなうものでした。本書を読了した翌日、さっそく楊樹達『積微居甲文説・耐林廎甲文説・卜辭瑣記・卜辭求義』(上海古籍出版社,1986年)を読み、いくつかの疑問は解決され、さらに新たな興味もわきました。

『積微居甲文説』


『説文解字』に興味を持っているにも関わらず、これまで甲骨文・金文などの古文字については、まとまった勉強をしてきませんでした。先週、ふと思い立って、甲骨文を学び初め、まず一通り、初級の内容は習得したようなので、一歩進んで、楊樹達(1885-1956)の『積微居甲文説』を読んでみました。

楊樹達『積微居甲文説・耐林廎甲文説・卜辭瑣記・卜辭求義』
上海古籍出版社,1986年,「楊樹達文集」5

『積微居甲文説』の構成は、こうなっています。

卷上 說字之文(凡33篇)

  • 第1類 識字之屬(凡11篇)
  • 第2類 說義之屬(凡13篇)
  • 第3類 通讀之屬(凡6篇)
  • 第4類 說形之屬(凡3篇)

卷下 考史之文(凡20篇)

  • 第1類 人名之屬(凡7篇)
  • 第2類 國名之屬(凡5篇)
  • 第3類 水名之屬(凡2篇)
  • 第4類 祭祀之屬(凡2篇)
  • 第5類 雜考之屬(凡4篇)

あわせて53篇、1953年の自序がつけられており、1940年代以後、随時、書きためられたもののようです。上巻「說字之文」は文字自体に即した考証で、下巻「考史之文」は史実に即した考証となっています。

20世紀の初頭、殷の甲骨文の存在が知られるようになって以来、幾多の学者が研究を重ね、1940年代には、すでに相当の学説が蓄積されていたようです。楊氏のこの研究も、序文に明記されているとおり、王国維(1877-1927)、郭沫若(1892-1978)らの学説を踏まえ、独自の見解を提示したものです。

上巻「說字之文」は、いかにも小学家の面目躍如という印象で、『説文解字』に対する習熟はさすがと思いました。下巻「考史之文」では、後世の文献と比較して史実の考証が行われていますが、さらに第5類、雜考之屬「甲骨文中之四方風名與神名」では甲骨文に見える四方の風とそれを司る神の儀礼が明かされており、また「甲文中之先置賓辭」では目的語の倒置という文法現象が説明されるなど、豊富な内容を備えています。

私はかねがね、楊樹達の考証を尊敬してきましたが、如何せん古文字を知らないので、彼の著作の大部分を鑑賞できずにおりました。この機会に本書を読むことができ、大いに満足しております。今日の研究水準からすると、すでに古くなっている部分も多いかと思いますが、しかしそれでも私はここを足がかりに漢語を見てゆきたいと思っております。

思い出話を一つ。今世紀初頭のことでしたが、京都の清水寺にて、有名な白川静氏(1910-2006)のご講演をうかがったことがあります。その中で、白川氏は聴衆に向かい、「甲骨文は一週間もあれば、基礎が習得できるのですよ」とおっしゃいました。聴衆の多くは白川氏のファンらしく、そのことばを碩学一流のユーモアと受け止め、笑い声が起こりました。しかし私はその時、「これは、きっと本当のことだろうな。いつか一週間の時間を費やし、甲骨文を学んでみよう」と思ったのでした。今回、その機が到来したというわけです。もちろん、門外漢のにわか勉強にすぎませんが、読める字が増えたこともまた事実であり、そのきっかけを与えてくださった白川氏の学恩に感謝しております。

「各」の下部は何なのか


甲骨文編より
甲骨文編より

『説文解字詁林』(醫學書局,1928年)という大きな書物があります。丁福保という人が、1920年代に整理、出版したものです。膨大な量に及ぶ『説文解字』の版本や、諸家の注釈を、文字単位に配列しなおして、調べやすくしたもので、今なお重宝します。

しかし、文字を知ろうとするならば、『説文解字』だけでこと足りるわけではありません。同じ趣向の書物として、『爾雅詁林』『広雅詁林』なども出版されています。

今回、甲骨・金文についての学説を手軽に見ようと思い、『古文字詁林』(古文字詁林編纂委員會,全12册,上海教育出版社,1999年)というものを広げて、「各」字を調べてみました。

まず、『甲骨文編』、『続甲骨文編』、『金文編』、『包山楚簡文字編』、『睡虎地秦簡文字編』、『長沙子弾庫帛書文字編』、『古璽文編』、『漢印文字編』、『石刻篆文編』、『古文四声韻』の諸書に基づき、古文字の字形が集められています。続けて、『説文解字』の説解を挙げ、さらに呉式芬以下の諸家の説が引用されています。

ここでは、羅振玉(1866‐1940)と楊樹達(1885-1956)、二人の説を紹介いたします。

『殷虚書契考釈』において、羅振玉は、次のようにいいます。

『説文解字』に「各は、言葉を異にすること。口と夂とに従う。夂とは、歩いているのに歩みを止めることであり、人の意見を聴かないことである」と。考えるに、各の字は夂に従うが、これは足の形が外からやってくるのをかたどったもの。口に従うのは、みずから名乗るためである。「各」字が、「来𢓜(やってくる)」いう意味を示すもとの字(「本字」)である。

羅氏は、甲骨文の形を根拠として、「各」字の上半分は、足の形(おそらく、かかとからつま先を上から見た形)が外からやってくる様子とし、下半分は、口頭でみずから客が名乗るもの、と解釈しました。

一方、楊樹達には、その名も「釈各」、各を解釈する、という一文があり、『積微居小学述林』巻2に収められています。楊氏は、羅氏の説を引いたうえで、次のようにいいます。

わたくしが考えるに、羅氏の説で、「各」がやってくることの本字である、とするのは正しい。しかし、「足の形が外からやってくるのをかたどったもの」といい、「口に従うのは、みずから名乗るため」というのは、いずれも誤り。甲骨文では下の部分をUのように書くことがあり、口に従うわけでないと分かる。わたくしが思うに、口型やU型はみな「区域」をかたどった形であり、足でそこにやってくるから、それゆえ「来る」「至る」という意味になる。・・・。(表記の都合上、一部を意訳しました)

こうしてみると、「各」字の下方の四角については、諸家の間で見解がばらばらであることが分かります。これまで、当ブログですでにご紹介したものをまとめておきましょう。

  • 許慎:口の形。異なる意見を表す。
  • 藤堂明保:石のような物、またはある地点を示す記号。
  • 沈兼士:形は口であるが、口の意味ではない。
  • 羅振玉:口の形。客が口頭でみずから名乗ること。
  • 楊樹達:区域を示す記号。

『古文字詁林』を見ると、それ以外にも、実にさまざまな見解があります。たとえば、馬叙倫は「踏むという意味」といい、周名煇は「かかとの形」といい、労榦は「席をあらわす」といい、于省吾は「あなの形」といっており、説の一致を見ません。

立場としては大きく二つあり、第一は「とりあえず許慎の説を認めて、口として理解する」立場であり、第二は「それ以外の可能性を探る」立場でしょう。それはおのずと、「許慎との距離をどのようにとるか」という問題と一体であるに違いありません。

私は文字学者ではありませんので、古文字の形について、自分の見解は持っておりません。文字についてはあまり触れぬほうがよさそうです。そうではなく、いずれ訓詁の立場をさらに深めてゆきたいものです。

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三体石経、「無」の古文


三体石経の「無」
三体石経の「無」

三体石経とは、三国時代、魏の正始年間(240-249)に立てられた「石製の儒教経典」です。三字石経・魏石経・正始石経とも呼ばれます。『尚書』『春秋』『左伝』の、三つの経典が刻されました。それぞれの文字を、古文・篆文・隷書の三つの書体により書き分けている点に特徴があります。古文字の史料としてもたいへんに貴重なものです。

もともとは洛陽の太学の前に立てられましたが、後にだんだんと失われてしまいました。現在では、部分的に残石が存在するばかりですが、孫海波編『魏三字石経集録』(台湾藝文印書館、1975)にて、その一部の拓本を見ることができます。

「無」字に関しては、幸いなことに、『尚書』無逸篇の「亂罰罪、殺辜」部分の二か所の「無」字の拓本が残存していました。それによると、「無」の古文・篆文・隷書の関係は、以下のようになっています。

  • 古文は「亡」の篆文と似た形。
  • 篆文は「𣠮」(『説文』亡部の「無」)。
  • 隷書は「無」。

『説文』では、「亡」と「𣠮」とを異なる字としていますが、三体石経では同じ字と考えていた可能性もあります。もしそうであるとすると、石経の本文を定めた学者が、問題の字の発音をどう考えていたのか、気になるところです。「亡」は段玉裁の10部で、「𣠮」は5部。

「亡/𣠮」の関係は、もちろん、「明母(*m-)の双声」、「だから音が近いので通ずる」と理解してすませることはできますが、それを主張するためには、三体石経の残存部分全体に検討を加え、「三体石経における用字の規範意識」を論ずる必要があるでしょう。

あるいは石経の本文を定めた学者は、古文には「𣠮」(『説文』亡部の「無」)に相当する字が存在しないため、やむを得ざる処置として、異なる字であることを知りながら「亡」によって空白を埋めたものかも知れません。

「無」。ますますもって、謎の多い文字です。

ただ『易』のみ无字を用いる


易内皆作无字
易内皆作无字

前回、書きましたとおり、段玉裁は「無」と「无」には少し意味の違いがある、と言っています。意味の違いはさておき、「無」「无」の違いを考える際に考慮すべき、もう一つの面白い経学上のテーゼがあります。

それは、「儒教経典のうち、『易』のみが「无」字を用いる」というものです。段玉裁は「无」字に注して「今六經惟『易』用此字」と言っています。

この説のもとになっているのは、6世紀末に陸徳明が書いた『経典釈文』であるらしく思われます。『経典釈文』は『易』の乾卦の「无咎(とが無し)」を釈して、次のようにいっています。

无、音無。『易』内皆作此字。『説文』云:「奇字無也。通於无者、虚无道也。王述説:天屈西北為无」。
无、音は「無」。『易』のなかではすべてこの「无」字に作る。『説文』に「(「无」は)奇字の「無」である。「元」に通じるもので、虚無の道である。王育の説によると、天が西北に傾いているのを「无」という」とある。

『経典釈文』の「通於无」は「通於元」の誤り、「王述」は「王育」の誤り。訳では正しておきました(すでに先人の指摘があります)。

陸徳明は、「无」と「無」とを区別し、(他の経書と異なり)『易』ではすべて「无」の字を用いている、と指摘しているわけです。陸徳明は南朝の人ですから、南朝の『易』の写本は「无」字を用いていたというわけでしょう。

後に唐代においては、「『易』では「无」を用い、他の経では「無」を用いる」という規範意識が、すでに成立していたようです。唐の開成二年に立てられ、西安の「碑林」に現存してもいる「開成石経」は、唐王朝公認の経書本文ですが、これを見ると、『易』については「无」を用い、他の経については「無」を用いています。

甚だしい例は、『左伝』襄公九年のそれです。姜氏の言として、『易』の「隨,元亨利貞,无咎」を引用するのですが、その「无咎」をわざわざ「無咎」と書き換えているのです。

こうして見ると、「无は無の簡体字だ」と無造作に言えないことは明らかでしょう。

ただ、段玉裁が「今六經惟『易』用此字」と言った「今」の語を正当にとらえるならば、『易』とその他の経の間に見える「无/無」の使い分けは、歴史的に形成されて現在に伝わったものに過ぎず、そこに聖人の微意を読み込む必要はないはずです。

唐写本『説文』木部


大阪の武田薬品、杏雨書屋がいま所蔵する、国宝の唐写本『説文』木部残巻。この本の真贋をめぐって、清末以来、論争があります。贋作と見るのは、孫衣言、孫詒讓、朱一新、黄以周、惲天明、何九盈ら。一方、真作と見るのは、莫友芝、楊守敬、内藤湖南、周祖謨、梁光華、沈之傑ら。

写本は紛れもなく唐代のものであり、本来こんなことは問題にもならないはずです。しかし、1957年に雑誌『中国語文』で、惲天明氏が孫詒讓の偽作説を紹介し、さらに2006年、何九盈氏が問題を蒸し返しました。『中国語文』を主戦場に交わされた戦いは、以下の通り。

  • 周祖謨〈許愼和他的《説文解字》〉,《中國語文》1956年9月(總51期)。
  • 惲天明、周祖謨〈關於唐本《説文》的真偽問題〉,《中國語文》1957年5月(總59期)
  • 何九盈〈唐寫本《説文・木部》殘帙的真偽問題〉,《中國語文》2006年5期(總314期)
  • 梁光華〈也論唐寫本《説文・木部》殘帙的真偽問題〉,《中國語文》2007年6期(總321期)
  • 沈之傑〈試説唐寫本《説文・木部》殘帙在清代以前的定位與流傳〉,《中國語文》2007年6期(總321期)

莫友芝(1811-1871)が幻の唐代写本、『説文解字』木部を入手して喜び、1864年、《唐寫本説文解字木部箋異》を木版印刷して世に問いました。それに対し、木板印刷からでは、唐写本の存在を信じ切れなかった学者たちがおり、当時17歳の孫詒讓も含め、彼らがあやふやな論拠を基に本書を疑った、というのが一連の偽書騒動の実情のようです(梁氏、2007)。孫詒讓らは、何と、現物も写真も見ずに疑ったのです。当時、写真版が技術的に可能であれば、問題にすらならなかった話でしょう。

それだけに、「何でいまさら」の感がぬぐえません。特に、孫詒讓関係の資料は惲氏がすでに出しているにも関わらず、何氏が『孫衣言孫詒讓父子年譜』(上海社会科学出版社、2003)からの新出資料扱いで提示しているのは、粗忽です(梁氏、2007)。

2007年6期号に、すかさず反論が2本載せられたのは、さすがに『中国語文』の良心というべきでしょう。ともに有効な反論になっているので、ご関心の向きは是非、ご一読を(梁氏のものは、ネット上でも読めます)。一方、わが『汲古』に載せられた何氏論文の紹介には、何氏への批判がありませんでした。この点、残念に思いました。

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