カテゴリー別アーカイブ: 訓詁学

引用はどこまでか?


中国の文言文には、もともと符号が少ないという性質があります(金文には重文符号が使われることがあり、簡帛にはその他にL字や●などは見えるものの)。句読点もほとんど打たれず、ましてや引用符号などありません。

ところが困ったことに、書物によっては大量の引用文が存在します。引用の開始は「曰」「云」などのマーカーにより、比較的簡単に判別できますが、その引用がどこまで続くのかがかなり頭の痛い問題であることは、文言文をお読みになる方はみなご存じでしょう。

中華書局の「十三經清人注疏」の一冊として、昨年、郝懿行(1757-1825)の『爾雅義疏』が整理・出版されました(王其和・吳慶峰・張金霞點校)。出版自体、大変に有意義なことで、喜んで購入したのですが、読んでいると、引用符の位置が気になってしまいました。

『爾雅義疏』中之三、の「釋樂弟七」の部分に、以下の引用があり、この点校本は以下のような標点を施しています。

《一切經音義》六引《世本》云:“伶倫作樂。周衰樂壞,遭秦絕學,古樂淪亡。漢興,武帝時河間獻王作《樂記》,劉向所校廿三篇,《樂器》弟十三。今《禮記》所取才止十一,合為一篇。其餘十二篇,《別錄》存其名,其文則闕焉。”(『爾雅義疏』p.535)

『世本』は『漢書』藝文志に見える古書ですが、後に失われ、我々はその全貌をうかがうことができません。しかし「伶倫作樂」の文はさておき、「周衰樂壞」以下の部分は、どうも『世本』の本文らしく見えませんし、また唐代の『一切經音義』らしくもありません。玄應『一切經音義』卷六および慧琳『一切經音義』卷二十七を調べてみると果たしてこれは、郝懿行の文でした(内容的には王應麟『漢書藝文志攷證』の説をなぞった記述です)。

また同じ篇には以下のようにあります。

邢疏引《世本》曰:“庖犧氏作五十弦,黃帝使素女鼓瑟,哀不自勝,乃破為二十五弦,二均聲。《禮圖》舊云:‘雅瑟長八尺一寸,廣一尺八寸,二十三弦,其常用者十九弦。頌瑟長七尺二寸,廣尺八寸,二十五弦,盡用之。’”(『爾雅義疏』p.536)

「《禮圖》舊云」以下の部分をも『世本』の引用とみなしていますが、これも不適切で、その部分は邢昺の疏を引用したものです(郝懿行の文章も不完全ではありますが)。なお、「其二均聲」の「其」は、阮元刻本の邢昺『爾雅注疏』では「具」に作っており、「其」とするのは郝懿行の考えで改めたものか、もしくは底本の誤刻でしょう。

いずれにせよ、書物に引用された文を判定するのはなかなか難儀なことですが、これらはちょっとした確認によって防ぐことができる誤りであったので、少し残念に思った次第です。

 

 

広告

蘭子とは


『列子』説符篇に「宋有蘭子者,以技干宋元」とあり、「蘭子」という語が見えています。何のことでしょうか。

小林勝人氏は、この一文、次のように訳しています。

 宋の国に蘭子と呼ばれる流れ者の曲芸師がいて、その曲芸を宋の元君に売り込みに行った(『列子』下冊、岩波文庫、1987年、p.188)。 

また、『漢語大詞典』では「蘭子」の一語を「技を以て妄りに游ぶ者なり。即ち江湖を走る人を指す。蘭は「闌」に通じ、妄なり」と説明しています。小林氏の解釈と似た方向です。殷敬順が『列子釋文』を書いて「『史記』無符傳出入謂之闌。此蘭子,謂以技妄遊(『史記』に符傳無くして出入するを之(これ)闌と謂う。此の蘭子、技を以て妄りに遊ぶを謂う)」といいましたが、小林説、『漢語大詞典』説とも、これに影響されたものでしょうか。

一方、『説文解字』十二篇上、門部に、「𨷻,妄入宮掖也。从門䜌聲。讀若闌。(𨷻、妄りに宮掖に入る也。門に从(したが)い䜌の聲。讀みて闌の若(ごと)し)」とあります(なお段玉裁注本は「掖」を「亦」に作る)。そして段玉裁は次のように言います。

『漢書』以“闌”爲“𨷻”字之叚借。成帝紀:「闌入尚方掖門」。應劭曰:「無符籍妄入宮曰闌」。又或作“蘭”。『列子』:「宋有蘭子」。張湛注曰:「凡物不知生之主曰蘭」。殷敬順曰:「『史記』無符傳出入謂之闌。此蘭子,謂以技妄遊」。

『列子』に出てくる「蘭」子は、「𨷻」子の假借字だ、ということでしょう。なお張湛注の本文は、世徳堂本に基づき「凡人物不知生出者謂之蘭也」とするのが正しいというのが、王叔岷先生の説です(『列子補正』台聯國風出版社、1975年、p.390)。

「𨷻」(ひとまず『説文』に依拠して、「𨷻」を本字、「闌」「蘭」を假借字とみなして話を先に進めます)の字義は、「(宮門や関所などを)許可なく通過する」、ということにな

lanwangりそうです。そうだとすると、『列子』にいう「宋有蘭子者」とは、おそらく、「外国から勝手に亡命して宋に来ている人」、ということでしょう。芸人がどうのということは関係ありません。張湛が「凡そ人物の生出を知らざる者、之を蘭と謂う也」とするのは、正解に近いと思います(その土地の出身者でないから、出生地が分からないということ)。

ただし、『史記』や『漢書』には「闌入」「闌出」などの語彙が見えていますが、「𨷻」を用いた例はないようです。また、睡虎地秦簡『法律答問』48に「告人曰邦亡,未出徼闌亡,告不審,論可殹」とあるように、秦代の簡牘に書かれた法制史料には「闌亡」の語がよく見えていますが(右側の写真は『嶽麓書院藏秦簡』4から)、こちらも「𨷻」を用いてはいません。「𨷻」がその本字であるというのが、『説文』以外の資料によって裏付けられないのは残念です。

龍宇純「論声訓」


龍宇純氏(1928-)「論聲訓」(『清華學報』新9卷、第1、2期、1971年)を読みました。

声訓は、訓詁の方法の一。訓詁というのは、語義を解釈する行為で、中国では遅くとも春秋時代にさかのぼります(「訓詁学」について書いた過去記事はこちらから)。

その訓詁には、形訓(漢字の字形に基づく訓詁)・義訓(字義に基づく訓詁)・声訓(字音に基づく訓詁)という三種の方法があるとされ、声訓はその一角を占めています。

魯の季康子が孔子に政とは何か、と問うた時、孔子は「なる者は、なり」と答えた、とか(『論語』顏淵篇)。「政」と「正」とは漢語の字音が同一ですから、その事実を根拠として「政」の語義を説明したもので、これなどは声訓の古い例の一つです。

漢語の声訓を、日本語の一例でなぞらえるなら、「鰺はどうして鰺というのか?」「味がよいからアジという」、といったところでしょうか。

声訓は『説文解字』『広雅』『釈名』などの古い字書に多数見えているのですが、如何せん、現代人の目から見れば、うそかまことか判断がつきづらく、なかなか学術的なとりあつかいに躊躇するところがあります。そこで龍氏の論文を読んでみた次第。

この論文は、以下の8節からなっています。

  1. 甲、聲訓之實質
  2. 乙、聲訓義訓明辨
  3. 丙、誤聲訓為義訓舉例
  4. 丁、誤聲訓為義訓蓋始於《廣雅》說
  5. 戊、誤聲訓為義訓探原
  6. 己、聲訓法之施用範圍
  7. 庚、古人聲訓多不足信說
  8. 辛、聲訓三條件

わたくしが最も啓発を受けたのは、第1節と第2節で、それによると、声訓が用いられるのは、ある語がそのように名づけられた由来や起源を答えようとする意識を有する場合である、とのこと。たとえば、なぜ「政」という言葉があるのかというと、それが「正」に由来するから、という具合に。

すると、声訓とは、単に音を利用した訓詁というだけでないわけです。ものの命名の由来を、同音(もしくは近似音)の語を用いて説明する訓詁である、と。なるほど、と、膝を打ちました。

義訓などは、由来を説明しないが、声訓は由来を説くはたらきがある、というわけ。

声訓が語源の由来を探る点において、声訓と義訓とはまったく異なる、というのが龍氏の強調する点で、紙幅のほとんどがその説明に割かれていますが、そこまではっきりと分かれるのか、あるいは分ける必要があるのか、まだわたくしは十分には納得していません。

また龍氏は、古代の小学書に載っている声訓は、大いに重んじられているのだが、誤った訓も多い、とみなし、大いに古訓を否定するのですが(第9節「古人聲訓多不足信說」)、わたくしの見るところ、近現代の大部分の学者は声訓を荒唐無稽と位置づけているはずで、むしろ、(現代人に見捨てられつつある)多くの声訓の中から、有意義な手がかりを見出すことに注力すべきではないか、と思うのです。

声訓とは何か、あらためて考えさせてくれる論文でした。台湾の国立清華大学のウェブサイトから、pdfファイルを取得することができます。 龍宇純「論声訓」 の続きを読む

ジガバチについて


ジガバチという蜂がいます。青虫を狙って毒針で刺して麻痺させ、巣穴に埋め、そこに自分の卵を産み付けるそうです。孵化したジガバチの幼虫は、青虫の体を少しずつ食い、それを食い尽くすと蛹になり、やがて成虫になって飛び立ってゆきます。まことに恐ろしい昆虫といえましょう。

なぜその蜂はジガバチ、と呼ばれるのか?『広辞苑』には次のように言います。

獲物を穴に入れる時、翅をじいじい鳴らすので、古人が「じがじが(似我似我)」と言って青虫を埋めると蜂になって出てくるものと思い、この名がついたものという。

なかなか面白い命名譚なのですが、出典などが分かりません。

さて、中国の人々もこの蜂をむかしから「蜾蠃」と呼んでおり、それは『詩経』にも歌われています。小雅「小宛」の詩、その第三章。

中原有菽,庶民采之。
螟蛉有子,蜾蠃負之。
教誨爾子,式穀似之。

中原に菽有り、庶民 之を采る。
螟蛉に子有り,蜾蠃 之を負う。
爾が子を教誨し,穀(よ)きを式(もっ)て之に似す。

ジガバチが青虫を捕まえて、「教誨」して自分に似せさせる、というわけ。ただ、「似我」のことばは直接的には出てきません。

このジガバチのついて、中国側に興味深い資料があることに気がつきましたので、以下、ご紹介します。

平安時代に菅原是善が、『東宮切韻』という韻書を作りました。中国の隋唐の十三家の韻書をもとに作った、便利な本です。ただ同書はすでに失われていて、数百条の佚文が知られるに過ぎません。元弘三年の奥書を有する『五行大義』(穂久邇文庫蔵、汲古書院から影印本が出ています)には、注記として、その『東宮切韻』が三百条ほど写されています。

中村璋八氏「神宮文庫本五行大義背記に引存する東宮切韻佚文について」(『東洋学研究』11、1955年)は、穂久邇文庫蔵本と同じ内容を持つ神宮文庫本の『五行大義』から、『東宮切韻』を輯佚したものです。そこに、ジガバチの記述が見えるのです。標点は、中村氏のものを踏襲しています。

蛉 陸法言云。螟蛉。小青蟲。釋氏云。食桑者。郭璞云。詩云。螟蛉有子。蜾蠃負之。蜾蠃土蜂。取之致木。空中七日而成其子。里語云。其蜂。祝尚丘云。象々我々。

穂久邇文庫蔵本の影印本によって、これを確認し、新たに標点します。

「蛉」,陸法言云:螟蛉,小青蟲。釋氏云:食桑者。郭璞云:『詩』云:「螟蛉有子,蜾蠃負之」,蜾蠃,土蜂。取之致木空中,七日而成其子。里語云:「其蜂祝云:象我象我」。(影印本下冊、p.536)

中村氏の輯佚に見える祝尚丘は、『東宮切韻』が依拠した十三家の一。穂久邇文庫本には、「祝尚丘」ではなく、ただ「祝」とのみあります。神宮文庫本が「祝尚丘」と作っているのか、あるいは中村氏がそのように整理したのかは、未確認ですが、ともかく、祝尚丘とするのは誤りで、この「祝」は「咒」に通じ、呪文をかける意。

「釋氏」(これも十三家の一です)の説に、「その蜂は咒文を唱えて、『自分に似よ、自分に似よ』という」、そういう「里語」(世俗の伝承)が見えるというわけです。何とも、「似我似我」に似ているではありませんか。むしろ中国では、「象我」蜂であったのです。

さらに言うと、この説は慧琳『一切経音義』巻四十一にも見えているのです。

取桑上虫,負於土中,或於書卷中,或筆筒中,七日而化為子,故俗語云「咒曰:象我象我」。(T54-578b)

『東宮切韻』に引く「釋氏」の説が、慧琳『一切経音義』とどのように関係しているのか、軽率なことを言うわけにはゆきませんが、少なくともジガバチに関する限り、類似する記述が見えています。

中国の唐代頃の人々は、ジガバチの羽音を「象我象我」と聞きなしていたのでした。「象我」がなぜ「似我」になったのか、いずれ知りたいものです。

門柱にぶつかる


龍谷大学蔵『論語義疏』
龍谷大学蔵『論語義疏』

この四月以来、京都大学の授業で皇侃『論語義疏』を読んでおり、なかなか面白い発見があります。今日読んだ部分の『論語』郷党篇の義疏には、次の一文がありました。

門左右兩橽邊,各竪一木,名之為棖。棖以御車過,恐棖觸門也。(「立不中門」義疏。龍谷大学蔵、文明年間写本によります

門の左右の蝶つがいのわきにそれぞれ一本ずつ柱を立て、それを「棖」と呼ぶ。「棖」は車が通過するのを制御し、門に接触しないように設けたもの。

常識的にいえば「棖」というのは門の両側の柱です。どの辞書にも、そのように書いてあります。それを皇侃が車がぶつからないように云々と解説しているのが、不可解でした。どう考えても理解できません。

困ったので、訓詁の書である郝懿行(1757-1825)『爾雅義疏』を見てみました。すると次のことが分かりました。中国が南北に分断されていた南北朝時代のこと、南の人たち(「南人」)は、物に物をぶつける意味で「棖」といっていたそうなのです。

そのせいで、どうやら「南人」である皇侃は、経書の中で門柱を意味する「棖」ということばについても、物に物をぶつけることを連想したようです。英語でbumpと言えば、物をぶつけることですが、皇侃は「棖」と聞いて、bumperのような物を思い浮かべたのでしょう。そして、門柱にぶつかるものといえば、車が頭に浮かんできたのでしょう(古代では門を車が通ることがありました)。

『論語』皇侃疏云:「門左右兩橽邊,各豎一木,名之為棖。棖以禦車過恐觸門也」。然則棖訓為觸。『文選』「祭古冢文」注:「南人以物觸物為棖」,是其義也。(『爾雅義疏』巻中之

ここに引用された『文選』とその李善注とを当たっておきます。

『文選』巻六十,謝惠連「祭古冢文」:「刻木為人,長三尺,可有二十餘頭,初開見,悉是人形,以物撥之,應手灰滅」。注:「南人以物觸物為也」。

この「祭古冢文」なる作品は、謝惠連(407-433)という詩人が、ある古墓を通り過ぎたときのことを描写したもので、そこで彼は二十数体の木彫りの古い人形を見たのですが、それを物でコツンとたたいてみたところ、その途端にくずれてしまった、という話です。その一文に対する李善注に、「南の人は、物を物にあてることを棖という」とします。この場合の「棖」、一種の方言というわけです。

「棖以御車過,恐棖觸門也」という「棖」の解釈は奇説というべきで、『論語義疏』以外の文献には見えぬようです。皇侃に、言葉遊びのような説が多いことは、すでに喬秀岩氏『義疏学衰亡史論』(2001年、白峰社)、193頁にも指摘がありますが、この「棖」の例も面白いと思います。「棖」と聞いて、皇侃はその門柱に車がぶつかる様子を連想しただけでしょう。本当に車がぶつからないように柱が設置されていたというわけではありませんし、礼学上の根拠があるわけでもなさそうです。

こうして、皇侃が言いたいことが分かり、心の底からすっきりとしました。これも郝懿行のおかげ、そして李善のおかげです。

許慎の「各」理解


許慎は「各」を、「口」と「夂(zhǐ、漢音はチ)」とを合したものと考えます。「口」はものを言う口のことで、「夂」とは両足の足並みがそろわずに、前に進まない様子。そのようにとらえます。

各,異䛐也。䛐者,意內而言外。从口夂。夂者,有行而止之,不相聽意。
各とは、「詞」を異にすること。「詞」とは、意が内にあり言が外に現れること。口と夂とに従う。「夂」とは、進もうというのを引きとめ、互いの思いを聞かない、ということ。(『説文解字』二篇上。『説文解字注』2篇上、26葉右)

足と口とを一緒に示されても、なかなか一つの状景を思い浮かべられませんが、「思うこと、言うことに関して、足がもつれるように、食い違うこと」、そのような解釈を許慎は与えました。

「各,異䛐也。䛐者,意內而言外」は分かりやすくありませんが、段玉裁は「人が別々に「意」をもち、それぞれ「言」を口にする、ということ」と釈しています。

「夂者,有行而止之,不相聽意」というのが問題です。『説文解字』夂部の、「夂」字の説解と矛盾があるからです。これについて、段玉裁は次のように説きます。

夂部曰:「從後至也。象人㒳脛後有致之者」。致之止之,義相反而相成也。
夂部には「(夂は)後ろからやって来る形に従う。人の両足のはぎで、後ろ足が前足に追いつく様子を表す」とある。「追いつく(致)」と「引きとめる(止)」)とは、義が反対でありながら、補いあって意味をなす。

「夂」は「後ろ足が前足に追いつく様子」も示すし、同時に「両足の足並みがそろわない様子」も示す。両者をあわせて、「夂」の意味が完成する、というわけです。「義が反対でありながら、補いあって意味をなす」とは、一見すると思いつきの説明のようですが、実は訓詁学でいう「反訓」の考え方を用いたもので、いかがわしい説ではありません。もちろん、「夂」字、「各」字についてそれが当たっているかどうかは、別問題ですが。

前回お話しした通り、「各」の下部を口そのものととらえる古文字学者は、すでにほとんどないようです。そういう意味で、この場合、許慎の説を信じることは危険であるかもしれませんし、私もそこに固執するつもりはさらさらありません。

しかしながら、「夂」が両足の足並みのそろわないさまを表す、という一点は、正しいように思われます。「単語家族」説を唱えた藤堂明保氏は、「各」は「「ひっかかる」さまを表わす」といいました。これは決して偶然ではありません。「右文説」の考え方をもとに、「各」を声符に持つ字を集めてみても、それが決定的に誤っているとは思われないのです。

許慎の「各」理解 の続きを読む

沈兼士のとらえた右文の「各」


昨日、ご紹介した、沈兼士(1887-1947) 「右文説在訓詁學上之沿革及其推闡」(『慶祝蔡元培先生六十五歳論文集』國立中央研究院,1933年。後に『沈兼士學術論文集』中華書局,1986年に収める)にも、先日来、私がこだわっている「各」字に関する記述がありました。それは、「應用右文以比較字義」という章において、「觡」字をめぐって考察されています。

まず、『説文解字』(4篇,角部)に次のようにあります。

觡,骨角之名也。从角,各聲。
觡とは、骨の角の名である(段玉裁によると「骨のような角の名」)。角に従い、各の声。

これについて、沈氏は資料や諸家の説を引いた上で、次のようにいっています。長文にわたりますが、訳文をお示しします。

わたくしが考えるに、『説文』では「各」を「異詞」と釈しており、それゆえ「各」の声に従う字には、「分かれる(「岐別」)」義がある。たとえば、「路」は「分かれる」から名づけられたものである。言い争ってやまないことを「詻」というし、「𩊚」とは、なめしていない革を、ものを包む用に当てることであり、「𠲱」とはさえぎる(「枝𠲱」)ことで、「笿」とは杯をしまう竹かごであり「𩊚」と同意、「絡」もそうである。

以上、「各」の声符を持つ字を列挙し、続いて「骼」字を検討します。

ここから推測すると、『説文』は「骼」を「禽獣の骨を骼という」とするが、これは、『礼記』月令、孟春「掩骼埋胔」の鄭玄注に「骨枯を骼という」とし、蔡邕が「露出している骨を骼という」とし、『呂氏春秋』孟春紀「揜骼埋髊」の高誘注に「白骨を骼という」とする、それらの諸説にかなわない。おそらく骨に肉がなくなり外に露出しており、肢体が骨ばって見えるので、肉のある屍と異なる、ということであろう。…。

次は、「𠲱」字。

また、「𠲱」を『説文解字』では「枝𠲱のこと」としており、段注に「枝𠲱とは、さえぎる意である。『玉篇』に「𠲱とは枝柯のこと」といい、『釈名』に「戟とは格である。横に枝分かれ(枝格)のあるもの」といい、庾信の賦に「草樹溷淆し、枝格あい交わる」という。「格」字が通行するようになり、「𠲱」字が廃れたのであろう」と。

わたくしが考えるに、段玉裁は、『説文解字』が「格」を「木が長い様子」と訓じており、「𠲱」こそ枝格(枝分かれ)の意の本字であると思ったのであろう。右文説の考え方で調整するならば、「各」の声に従う字は、「分かれる」ことから「枝分かれ」の義を得たのであり、偏が「木」か「丯」かという重文にすぎず、決して二字ではない。…。

「𠲱」字の検討を終え、沈氏はさらに論を進めて、「閣」字に及んでいます。

「格」「𠲱」がそうであるのみならず、「閣」も同じである。厳元照『爾雅匡名』巻5に「『爾雅』釈宮に「扉をとめるための部分を閎という」とあり、『経典釈文』に「閎の音は宏、ある本では閣に作る。郭璞の注本には閣の字はない」と。…」という。思うに、「閣」の字は「各」の声に従って「止める」義を得たものである。

そして、ようやく本題の「觡」字にもどり、次のように結論します。

以上のことから考えると、「觡」字の義は、『礼記』楽記、『史記』封禅書の文にもとづき、郭璞、顧野王の訓に照らし、さらに右文説を参考とすれば、許慎・鄭玄の説の誤りがわかるのである。

「觡」は、単に「骨のような角」というのではなく、「枝分かれした角」であるというのが、沈兼士の結論であるわけですが、その中で「各」字に「分かれる」義があることを繰り返し確認しております。

沈兼士がこの論文を書いた1930年代、甲骨・金文の研究も進展し、「各」字についても議論があったようです。それは古文字においては「いたる」意を表し、「格」の本字である、という考え方が多かったようです。そのためか、上に引いた本文に対して、沈氏は次のような注をつけています。

各は、甲骨文字や金文では「来格」(いたりきたる)の格の字のもとの形であるが、その字は、足がくつから出た形をかたどっており、「出」字がくつに足を入れようとする形をかたどるのと、ちょうど反対である(呉大澂の説)。おそらく、古代では地面に席をしいて座したので、家に入るときはくつをぬぎ、外出するときはくつを履いたのであり、『礼記』曲礼に「戸外にくつが二足あるとき」というのは、それにあたる。

「口」は口舌の口ではなく、ちょうど「履」「般」が「舟」に従うものの舟や車という意味の舟ではないのと同じである。

そうではあるが、「各」の音素に「分かれる」義が含まれているのも、また事実であり、そもそも本字であるか、仮借字であるかにこだわる必要はない。

なぜ「くつを履く形」を示している「各」が、「分かれる」意を持つのか。これについて、沈氏の見方は明確ではありません。その原義よりもむしろ、「各」を声とする諸字を帰納して、それらが「分かれる」意を共有することの意義を重んじた結果、といえましょうか。

沈兼士の説が正しいとは限りませんし、先日、紹介した藤堂明保氏が指摘している「声母(語頭の子音)の区別」を沈氏は行っていません。しかし右文説の立場から、このような意見が提出されていることは、いまなお軽くない意味を持つのではないでしょうか。

「右文説在訓詁學上之沿革及其推闡」


沈兼士(1887-1947) 「右文説在訓詁學上之沿革及其推闡」(『慶祝蔡元培先生六十五歳論文集』國立中央研究院,1933年。後に『沈兼士學術論文集』中華書局,1986年に収める)を読みました。

もとの雑誌に載ったものは80ページに近い雄篇です。目次に簡単な説明を付して引いておきます。

  1. 引論
  2. 聲訓與右文(同音・近似音を用いた古い訓詁である「声訓」と、右文説との関係)
  3. 右文說之略史一(宋代の右文説についての概説)
  4. 右文說之略史二(明・清の右文説についての概説)
  5. 右文說之略史三(清末から近代にかけての字源研究の概説)
  6. 諸家學說之批評與右文說之一般公式(研究史の総括、および本稿の主内容たる「公式」)
  7. 應用右文以比較字義(右文を手がかりとして訓詁を考え直す方法)
  8. 應用右文以探尋語根(右文を手がかりとして「語根」をとらえる方法)
  9. 附錄(魏建功・李方桂・林語堂・呉承仕からの手紙、および沈兼士の識語)

形声字の声符(諧声符。本稿では「声母」と呼ばれる)に注目する右文説を大きく総括し、学問らしい学問として位置づけなおした研究であるといえます。

「政とは正なり」といった声訓の方法や、「戔のつく字はすべて小さい物事をあらわす」といった宋代の右文説は、一見すると語呂合わせや思い付きのようで、学問らしくありません。しかし清朝には、段玉裁『説文解字注』、王念孫『広雅疏証』、焦循、阮元、陳詩庭、陳澧らが、古音研究を基礎として、諧声符にあらためて着目し、研究が大きく進展します。さらに清末から民国時代には、章太炎『文始』を代表とする字源研究が、もはや諧声符の字形にこだわらず、文字の生成を論じました。こうした学問の展開が、「引論」から「右文說之略史三」にいたるまで、「右文説」という着眼点からまとめなおされています。

そして、本稿の主たる内容は、「諸家學說之批評與右文說之一般公式」という一章であろうと思われます(pp.811-834)。単純な構造をした「音符」は、さまざまなかたちで文字を派生させてゆきます。たとえば「皮」は「はぎ取られた皮」の意であり、その音が、「かぶせる」という意味を持つ「被」「彼」等のグループと、「はいで分ける」という意味の「破」等のグループを派生し、さらに「破」等のグループが、「かたむく」意の「波」「頗」等の字を派生する、という例が挙げられています(pp.814-815)。

音符が字本来の意味としてではなく、単なる音の借用として用いられることがあるなど、説明は容易ではありません。それゆえ、表による説明がなされています。辞書ではないので、調べ物に使えるわけではありませんが、これによって沈氏の考え方を知ることができます。

「應用右文以比較字義」および「應用右文以探尋語根」の二章は、この理論に基づいて訓詁学を深めるという応用編になっており、これは訓詁を考える参考になりそうです。特に後者においては、漢字ではなかなか探りがたい「語根」の概念が提唱されています。

付録とされている各氏からの手紙も興味深いものです。李氏はいかにも言語学者らしく、「字形を離れ、語音を根拠とすべきこと」を説きます。これに対し、沈氏の識語では、訓詁学の立場があらためて強調されており、それぞれの方法の違いも感じさせます。

古文字研究でもなく、近代的な言語学でもない、訓詁という立場を沈氏はとりました。そして、「右文説」という観点から学説史をまとめ、自己の見方を提示しました。ここに、右文説というひとつの漢語観の総括を見るのは、不公平ではあるまいと思うのです。

清朝の右文説


先ごろ、藤堂明保氏(1915-1985)の「単語家族」の考え方をご紹介しましたが、もとをたどれば、それは藤堂氏の完全な独創ではありません。直接的にはベルンハルド・カールグレン(Bernhard Karlgren, 1889-1978)の”Word Families in Chinese” (B.M.F.E.A, vol.5, 1933)をもとにしていますし、さらに溯って伝統的な中国古典研究の文脈に沿っていうならば、「右文説」という漢字の見方を大いに参考にしているのです。

この右文説について解説したいと思い、その総括である、沈兼士(1887-1947) 「右文説在訓詁學上之沿革及其推闡」(『慶祝蔡元培先生六十五歳論文集』國立中央研究院,1933年。後に『沈兼士學術論文集』中華書局,1986年に収める)を読みかえしておりましたが、思いのほか手間取っておりました。

しかし思いおこせば、藤堂氏の著書『漢字語源辞典』の中に、右文説についての適切な解説が含まれていました。右文説は宋代に溯るものですが、清朝の学者がこれを展開させたことこそ重要なので、ここでは、清朝の学者たちの成果を述べた部分について、藤堂氏の解説を引いておきたいと思います(學燈社,1965年,「序説」II-2)。

そもそも「右文説」とは何か?藤堂氏は次のように説明します。

形声文字は、多くは右側に音符となる部分を含んでいる。従って、青・晴・清・精という系列を例に取れば、その基本義は右側の音符「青」で代表されるといってよい。この主張を「右文説」という。

右文説とは、発音を表示する「右文」すなわち形声符が、同時に「基本義」をも表す、という学説である、というわけです。この右文説に対する清朝の学者の貢献を、藤堂氏は次のように述べます。

清朝の安徽・揚州の学派は、こうした(右文説の)考えを積極的に推進するに力があったが、そのうち程瑤田「果臝転語記」と、阮元「釈矢」「釈門」の三篇の論文は、今日からみても、かなり精彩のあるものである。

それら三つの論文について、藤堂氏は次の注釈を加えています。

程瑤田は{k-l-}という語形を表すさまざまな動植物や物の名が、概して「丸くコロコロした」特色をもつことを指摘した。阮元の「釈矢」は、矢・尸・屎・雉などが「直進する」という意味を含むことを論じ、「釈門」は門・悶・免・勉・敏などが、「狭い間隙をおかして出入りする」という意味を含むことを論じた。

ここに引かれた阮元の例からも分かるとおり、清朝の学者たちは、もはや形声符にこだわらず、「音」の共通性が意味の共通性をもつと考えるようになりました。

注目すべきは、このころになると、もはや形声文字の内部だけにとらわれず、広く「同類の語音だ」と認められるものを綜合して論じるようになったことである。高郵の王念孫『広雅疏証』は、ほとんど全書にわたって、この方法を活用し、古代語の真の意味を追求しようとしている。

さらに藤堂氏は、これを次のようにまとめます。

私は清朝古典研究の最も精彩ある部分はここにあり、また清朝古典学が300年の歴史をへて到達した終点も、まさにここに在ったと考える。それを総括したのは、清末の劉師培『左盦集』巻4にみえる「字義は字音より起こるの説(上中下)」と題する論文であった。

その劉師培の論とは如何?藤堂氏の訓読を再録するならば、以下のようなものです。

古には文字なし、まず語言あり。造字の次(じゅんじょ)は独体のもの先にして、合のもの後(のち)なり。……。古人の事物を観察するや、義象(すがた)をもって区(わか)ち、体質をもって別たず。義象(すがた)を援(ひ)きて名を製(つく)る。故に数物の義象あい同じければ、命名もまた同じ。語言に本づいて文字を製(つく)るに及んで、名物の音をもって字音となす。故に義象(すがた)同じければ、従う所の声(=音符)もまた同じきなり。

劉師培の用いる語は独特かつ難解ですが、おおむねこういうことでしょうか。まず無文字時代に溯って考えると、古人はものを把握する時、かたちや様子を基準に名づけた。四角いもの、丸いもの、白いもの、黄色いもの、長い様子、ゆったりとした様子、などなど。たとえば、四角いもの、四角い様子は、ある通ずることば(すなわち近い音声)によって、表現されること。そういう「義象」、ありさまの把握において、ものごとがとらえられた。そして、たとえば、木の仲間、石の仲間というような「体質」(すなわち偏旁的な分類)は、いまだ認識されていなかった、と。

さて、はじめて漢字を作ろうとした時、まずは、そのものごとの、かたちや様子を描写した「独体」の字(組み合わせられていない単純な構造の文字)が作られた。先の「青」の例でいえば、「すみきった」感じをいうものを、何もかも、「青」といった、というわけです。

その後、「合」の字、すなわち組み合わせて作られた複合的な文字を作る時、先に作られた「独体」の字を音符として用いて、様々な文字が作られた。そこで独体の「青」から派生して、「晴」(澄んだ日)、「清」(澄んだ水)、「精」(きれいにした米)などが、文字として、派生的に次々と作られた、というのです。

以上、藤堂氏のまとめた右文説をあらためてご紹介いたしました。

この説には、一見するとこじつけめいたところがあり、近代人として受け入れがたい面があるかも知れません。

それゆえ日本の漢学者でも、右文説と正面から向き合うような人は多くありません。しかし、藤堂氏は清朝における右文説の進展を「清朝古典研究の最も精彩ある部分はここにあり、また清朝古典学が300年の歴史をへて到達した終点も、まさにここに在った」とまで評しました。

その上、藤堂氏はさらに古文字学やカールグレンの音韻論を消化吸収し、『漢字語源辞典』を完成させ、世に問いました。そうであるとすると、藤堂氏こそ、右文説に修正を加えつつ、それをもっともよく理解し、継承しようとした学者であるといえましょう。右文説を新たに「単語家族」説として鋳なおしたのです。

ただ私としては、前述の沈兼士の論文のことで、やはり“ひっかかる”のです。藤堂氏は『漢字語源辞典』序説において、これに触れることがありませんが、沈氏の論文こそが清朝学術の「精彩」としての右文説の真の総括であると思うのです。ようやく読了しましたので、いずれ、近いうちにご紹介いたします。

「各=ひっかかる」


前回、紹介したとおり、藤堂明保氏の『漢字語源辞典』(學燈社,1965年)は「単語家族」という考え方に基づき、漢字の古義を考察したものです。

同書にはあわせて223の「単語家族」が列挙されていますが、「各」の字は、そのうち第101の家族に入っています。

第101の家族:「古・固・各・行・亢・岡・京・庚〔かたい,まっすぐ〕」。古い音はKAG, KAK, KANG。

そして、「各」の字は、次のように説明されています。

各は、「夂あし+口」の会意文字である(この足を引きずる形は、愛や憂の下部に含まれている)。□印はクチではなくて、石のごとき物、またはある地点を示す記号であろう。各の字は、金文や甲骨では、「いたる」(格)という意味に用いられる。しかし原義は、足先が固い石に届いて、「ひっかかる」さまを表わすといってよい。つまずく姿と考えてもよい。のちひっかかることを「支格」という。「某処にイタル」との意味は、そこからの派生義である。ところで、柔らかい物には、ひっかからない。つかえるのは固い物に限る。各の系列は、その点で古の系列と縁が深い。(pp.386-387)

つまり、各とは、石のような何かに足先が「ひっかかる」様子だというわけです。

なお藤堂氏は、さらに次のように注記しています。

各は固くゴロゴロした小石状の物を意味する。小石状の物は固まって別々に存在する。ところで、箇は固い竹であり、個は別々に固く領域を分かって孤立する物である。個別の個(箇)と、各別の各とは、きわめて縁が近い。各が副詞となってオノオノという意味を表わすようになるのはそのためである。なお各〔k-〕―落・洛〔l-〕のように、この諧声系列は、k,lの双方に関係するので、Karlgren氏は各*klak、落*glakという語形を推定している。(p.387)

ここで「各は固くゴロゴロした小石状の物を意味する」というのは、おそらくは各の字の下にある四角形についていうものと思われます。そうであるならば、「個」や「箇」と近いというのは、むしろ、「各」の派生的な意味であろうと考えられます。

藤堂氏は「客」字についても、「ひと所に住んで動かぬ人を主人といい、たまたま訪れて、そこにひっかかって寄留する人を客という。客は格(いたる、つかえる)と同系のコトバであり、各の原義(足がつかえる)をよく保存したコトバである」といっています(p.387)。

さらに「閣」字を説いて、「あけた扉をひっかけて固定させるくい。とじた扉を行きすぎぬよう止める臬をも閣という。北京語の擱(おく)という動詞はその系統を引くことば」ともいっています。

「各」(ひっかかるさま)、「客」(ひっかかって寄留する人)、「閣」(ひっかけて固定させるくい)というように、個別に字について、藤堂氏は「ひっかかる」様子を強調しています。では「ひっかかる」意と、「かたい」を意味する「古」の系列の字とが、どのように意味的につながるのか。前述のように、「柔らかい物には、ひっかからない。つかえるのは固い物に限る」と藤堂氏はいいますが、これでは十分に理解できません。kを声母とし「各」を含む字を、藤堂氏は「ひっかかる」と理解した。ひとまず、その点だけを確認しておきたいと思います。

「各」とは「ひっかかる」さまである。この解釈は、藤堂氏独自のものではなく、明らかに『説文解字』の「各,異辭也。从口夂。夂者,有行而止之,不相聽也」に基づくものでありましょう(上述の通り、「各」の下部を、藤堂氏は口でないと考える違いはあるものの)。

私自身としては、ここであらためて『説文解字』に立ち戻り、許慎の意図を探りたいのですが、それは先のこととさせていただきます。