カテゴリー別アーカイブ: 音韻学

史記という熟語


同じ韻部に属する二字を合わせた熟語を「畳韻語」と呼んでいます。古い漢語には、おびただしい数の畳韻語が存在しており、そのうち、「丁寧」「辟易」「芍薬」「沐浴」などの熟語は、今の日本語にも遺っているほどです。

「史記」の上古音について、王力氏は*ʃǐɘ kǐɘと推定しています。二字とも「之部第一」と呼ばれる韻部に属しています。「史記」という語は、「史官の記録」というほどの意味ですが、現在では司馬遷の著作の書名(もとは『太史公』『太史公書』といいました)として、より広く知られています。「史記」という語も、(ゆるやかに言えば)よく熟した畳韻語のひとつのようです。

『説文解字』(三篇下、史部)で「史」の字を見ると、次のように説かれています。

史,記事者也。从又持中。中,正也。

この「史,記事者也」のところを、試みに王力氏の推定する上古音で示してみましょう。

*ʃǐɘ, kǐɘ dʒǐə ȶiɑ ʎia.

「史」「記」「事」の三文字が、すべて「之部」に属することが分かります。「記事」もまた、畳韻語です。

これはおそらく偶然ではなく、『説文解字』を書いた許慎が、あえて似た音を持つ字を用いて、「史」を説明したものと考えられます。

『説文解字』では、しばしば同部の字を用いて文字の説明をおこなっています。たとえば一篇上(一部)に見える「吏,治人者也」の「吏」「治」はともに「之部第一」に属し、また三篇上(共部)に見える「共,同也」の「共」「同」はともに「東部第十」に属します。

このような文字どうしを「畳韻の関係にある」といいます。

畳韻。漢語を学ぶ上で、かなり重要な手がかりであるように思っています。

上古音を覚えたい


このところ、中国語史の概説として名高い王力『漢語史稿』(重排本、中華書局、1996年)を読み返しています。その第11章は上古音(漢代以前の漢語の音)の解説で、王氏自身の研究成果にもとづき、合計29部に韻部を分けています。

それぞれの部に、例として二字の熟語、いわゆる「畳韻語」が主として並んでおり、次のように注記されています。

これらの例は二字で連なったもので、記憶の方便のために過ぎない。すべてが連綿字というわけでもない。これらの例によって、諧声符を手がかりに多くの字の韻部を類推できよう。(pp. 74-77)

以前読んだときには目にとまらなかったのですが、つまりこれらの例は、記憶すべきもののようです。たとえば、「流求*lǐɘu gǐɘu」「憂愁*ǐɘu dʒǐɘu」はともに幽部第四、などと覚えてゆけばよいのでしょう。

例には推定音価がついていなかったので、郭錫良『漢字古音手冊』(北京大学出版社、1986年)をもとに、音を書き入れてみました(この手冊は王力氏の学説に依拠しています)。ただし、声調は省略してあります。

自分の学習用のメモであり、本来、人様にお示しするものでもないのですが、備忘のためにここに掲載しておきます。

  • 之部第一 *-ɘ

胚胎*p‘uɘ t‘ɘ 始基*ɕǐɘ kǐɘ 母子*mɘ tsǐɘ 事理*dʒǐɘ lǐɘ 鄙倍*pǐɘ bɘ 紀載*kǐɘ tsɘ 史記*ʃǐɘ kǐɘ

  • 職部第二 *-ɘk

戒備*keɘk bǐɘk 服食*bǐwɘk ȡǐɘk 惑慝*ɣuɘk t‘ɘk 崱屴*dʒɘk lǐɘk

  • 蒸部第三 *-ɘŋ

崩薨*pɘŋ xɘŋ 升登*ɕǐɘŋ tɘŋ  稱懲*ȶ‘ǐɘŋ dǐɘŋ  能勝*nɘŋ ɕǐɘŋ  冰凝*pǐɘŋ ŋǐɘŋ  鄧馮*dɘŋ bǐwɘŋ  蹭蹬*ts‘ɘŋ dɘŋ

  • 幽部第四 *-ɘu

皋陶*kɘu ʎǐɘu 綢繆*dǐɘu mǐɘu 周遭*ȶǐɘu tsɘu 蕭條*siɘu diɘu 流求*lǐɘu gǐɘu 老幼*lɘu iɘu 壽考*ʑǐɘu k‘ɘu 優游*ǐɘu ʎǐɘu 憂愁*ǐɘu dʒǐɘu 椒聊*tsǐɘu liɘu

  • 覺部第五 *-ɘuk

鞠育*kǐɘuk ʎǐɘuk 覆育*p‘ǐɘuk ʎǐɘuk 苜蓿*mǐɘuk sǐɘuk 肅穆*sǐɘuk mǐɘuk

  • 宵部第六 *-au

逍遙*sǐau ʎǐau 招搖*ȶǐau ʎǐau 號咷*ɣau dau 窈窕*iau diau 渺小*mǐau sǐau 夭矯*ǐau kǐau 嫖姚*p‘ǐau ʎǐau 驕傲*kǐau ŋau 高超*kau t‘ǐau

  • 藥部第七 *-auk

確鑿*k‘eauk dzauk 卓犖*teauk leauk 綽約* ȶǐauk ǐauk 芍藥*ʑǐauk ʎǐauk

  • 侯部第八 *-o

傴僂*ǐwo lǐwo 句漏*ko lo 侏儒*ȶǐwo ȵǐwo 須臾*sǐwo ʎǐwo

  • 屋部第九 *-ok

沐浴*mok ʎǐwok 瀆辱*dok ȵǐwok 觳觫*ɣok sok 岳麓*ŋeok lok 剝啄*peok teok

  • 東部第十 *-oŋ

童蒙*doŋ moŋ 朦朧*moŋ loŋ 崆峒*k‘oŋ doŋ 共工*gǐwoŋ koŋ 蔥蘢*ts‘oŋ loŋ 從容*ts‘ǐwoŋ ʎǐwoŋ 洶湧*xǐwoŋ ʎǐwoŋ 邦封*peoŋ pǐwoŋ

  • 魚部第十一 *-ɑ

祖父*tsɑ bǐwɑ 吾予*ŋɑ ʎǐɑ 狐兔*ɣɑ t‘ɑ 吳楚*ŋɑ tʃ‘ǐɑ 葫蘆*ɣɑ lɑ 孤寡*kɑ koɑ 租賦*tsɑ pǐwɑ 補苴*puɑ tsǐɑ 古雅*kɑ ŋeɑ 舒徐* ɕɑ zɑ 居處*kǐɑ ȶ‘ǐɑ 除去*dǐɑ k‘ǐɑ 嗚呼*ɑ xɑ

  • 鐸部第十二 *-ɑk

落魄*lɑk p‘eɑk 廓落*k‘uɑk lɑk 絡繹*lɑk ʎiɑk 赫奕*xeɑk ʎiɑk

  • 陽部第十三 *-ɑŋ

倉庚*ts‘ɑŋ keɑŋ 滄浪* ts‘ɑŋ lɑŋ 螳螂*dɑŋ lɑŋ 兄長*xiwɑŋ tǐɑŋ 卿相*k‘iɑŋ sǐɑŋ 光明*kuɑŋ miɑŋ 剛強*kɑŋ gǐɑŋ 倘佯*t‘ɑŋ ʎǐɑŋ 汪洋*uɑŋ ʎǐɑŋ 蒼茫*ts‘ɑŋ mɑŋ 彷徨*bɑŋ ɣuɑŋ 商量*ɕǐɑŋ lǐɑŋ 景象*kiɑŋ zǐɑŋ

  • 支部第十四 *-e

睥睨*p‘ie ŋie 支解*ȶǐe ke 斯此*sǐe ts‘ie 佳麗*ke lǐe

  • 錫部第十五 *-ek

蜥蜴*siek ʎǐek 辟易* bǐek ʎǐek 滴瀝*tiek liek 策畫*tʃ‘ek ɣwek

  • 耕部第十六 *-eŋ

蜻蜓*tsieŋ dieŋ 精靈*tsǐeŋ lǐeŋ 聲名*ɕǐeŋ mǐeŋ 崢嶸*dʒeŋ ɣoeŋ 丁寧*tieŋ nieŋ 娉婷*p‘ǐeŋ dieŋ 輕盈*k‘ǐeŋ ʎǐeŋ

  • 脂部第十七 *-ei

階陛*kei biei 麂麋*kǐei mǐei 次第*ts‘ǐei diei 指示*ȶǐei ȡǐei

  • 質部第十八 *-et

垤穴*diet ɣiwet 一七*ǐet ts‘ǐet 實質*ȡǐet ȶǐet 吉日*kǐet ȵǐet

  • 真部第十九 *-en

秦晉*dzǐen tsǐen 天淵*t‘ien iwen 神人*ȡǐen ȵǐen 年旬*nien zǐwen 新陳*sǐen dǐen 親信*ts‘ǐen sǐen

  • 微部第廿 *-ɘi

依稀*ǐɘi xǐɘi 徘徊*buɘi ɣuɘi 崔嵬*ts‘uɘi ŋuɘi 虺隤*xǐwɘi duɘi 悲哀*pǐɘi ɘi 瑰瑋*kuɘi ɣǐwɘi 玫瑰*muɘi kuɘi 水火*ɕǐwɘi xuɘi

  • 物部第廿一 *-ɘt

鶻突*ɣuɘt duɘt 密勿*mǐɘt mǐwɘt 鬱律*ǐwɘt lǐwɘt 畏愛*ǐwɘt ɘt

  • 文部第廿二 *-ɘn

晨昏*ʑǐɘn xuɘn 根本*kɘn puɘn 渾沌*ɣuɘn duɘn 悶損*muɘn suɘn 困頓*k‘uɘn tuɘn 逡巡*ts‘ǐwɘn zǐwɘn 紛紜*p‘ǐwɘn ɣǐwɘn 存問*dzuɘn mǐwɘn

  • 歌部第廿三 *-a

羲媧*xǐa koa 綺羅*k‘ǐa la 嵯峨*dza ŋa 蹉跎*ts‘a da 阿那*a na 羈縻*kǐa mǐa

  • 月部第廿四 *-at

豁達*xuat dat 契闊* k‘iat k‘uat 蔽芾*pǐat pǐwat 滅裂*mǐat lǐat 決絕*kiwat dzǐwat 折閱*ȶǐat ʎǐwat 雪月*sǐwat ŋǐwat

  • 寒部第廿五 *-an

丹晚*tan mǐwan 顏面*ŋean mǐan 燕雁*ian ŋean 關鍵*koan gǐan 餐飯*ts‘an bǐwan 寒暄*ɣan xǐwan 完全*ɣuan dzǐwan 片段*p‘ian duan 判斷*puan duan 簡慢*kean mean 閒散*ɣean san 團欒*duan luan 輾轉*tǐan tǐwan 攀援*p‘ean ɣǐwan 贊歎*tsan t‘an 汗漫*ɣan muan 泮喚*p‘uan xuan 燦爛*ts‘an lan 叛亂*buan luan

  • 緝部第廿六 *-ɘp

集合*dzǐɘp ɣɘp 雜沓*dzɘp dɘp 什襲*ʑǐɘp zǐɘp 執拾*ȶǐɘp ʑǐɘp

  • 侵部第廿七 *-ɘm

陰暗*ǐɘm ɘm 深沉*ɕǐɘm dǐɘm 侵尋*ts‘ǐɘm zǐɘm 浸淫*ts‘ǐɘm ʎǐɘm 衾枕*k‘ǐɘm ȶǐɘm 吟諷*ŋǐɘm pǐwɘm 降減*koɘm keɘm 隆冬*lǐɘm tuɘm

  • 葉部第廿八 *-ap

蛺蜨*kiap siap 唼喋*ts‘iap diap 躞蹀*siap diap 涉獵* ʑǐap lǐap

  • 談部第廿九 *-am

沾染*tǐam ȵǐam 瀲灩*lǐam ʎǐam 巉岩*dʒam ŋeam 纔暫*ʃeam dzam

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『漢字古音手冊』増訂本


漢字の上古音、中古音をちょっと確認したいときに便利な郭錫良『漢字古音手冊』。以前、「文言基礎」で『千字文』を読んだときに、ご紹介しました。王力の学説に基づいて漢字音を分析し、推定音価を記しています。

今年、その増訂本が出版されました。郭錫良編著『漢字古音手冊(增訂本)』、商務印書館、2010年8月。中国の友人にたずねたところ、「ずいぶん収録字数が増えているらしい」とのことでしたので、一冊、買い求めました。

ページ数は、旧版(北京大学出版社、1986年)が345ページ、增訂版が535ページと、厚くなっています。収録字数は、旧版が8000字程度、增訂版は11000字程度、とのこと(「增訂本前言」による)。また旧版では、中古音については、『広韻』の反切のみをとっていましたが、增訂版は、『広韻』に載らない反切を『集韻』からとっており、情報が豊富になっています。さらに、誤植なども訂正してあるようです。

『説文解字』の部首、540部を覚えようと思い立った私は、まず、その540部の部首の発音を確認しました。手順は、まず大徐本と呼ばれる系統の『説文解字』に見える反切を抜き出し、それに対応する現代音を求め、さらに本書、『漢字古音手冊』を利用して、上古音の声母と韻部とを確かめる、というものです。段注も適宜、参照しました。

非常に好都合なことに、この增訂本では、「『説文解字』の収録字はすべて収録した」(「增訂本前言」)と言っており、『説文』収録字を調べるのに便利です。ただし、私が540字について当たってみたところ、『説文』収録字をすべて収めてあるわけではなく、落ちている字もかなりの数ありました。「㸚 lǐ」「𣎵 pò」「𠑹 gǔ」など。さほど大きな問題でもありませんが。

買ってすぐにこれほど酷使するとは思いませんでしたが、さっそく大活躍してくれました。少しくたびれてしまいましたが、よく手になじむようになりました。

なお、郭氏の「增訂本前言」は29ページに及ぶ長文であり、専門的な内容で読みごたえはあるのですが、読むのにちょっと苦労しました。

*郭錫良編著『漢字古音手冊(增訂本)』、商務印書館、2010年8月、Webcat所蔵館は0館(本日付)。日本の大学図書館では、まだ登録が済んでいないのでしょうか。

『音韻学教程』


 唐作藩(1927-)『音韻学教程』第3版(北京大学出版社、2002年)は、漢語の音韻学を学ぶための教科書であり、中国の大学の授業で用いられているものです。

 第1章 緒論

  • 第1節 音韻學的對象
  • 第2節 音韻學的功用
  • 第3節 音韻學的學習方法

第2章 音韻學的基本知識

  • 第1節 漢語音韻結構特點
  • 第2節 反切
  • 第3節 關於聲紐的概念
  • 第4節 關於韻母的概念
  • 第5節 關於聲調的概念
  • 第6節 等韻圖

第3章 《廣韻》音系

  • 第1節 《廣韻》的由來和體例
  • 第2節 《廣韻》的性質
  • 第3節 《廣韻》的聲母系統
  • 第4節 《廣韻》聲母和現代普通話聲母的比較
  • 第5節 《廣韻》的韻母系統
  • 第6節 《廣韻》韻母和現代普通話韻母的比較
  • 第7節 《廣韻》的聲調
  • 第8節 《廣韻》音系的構擬
  • 第9節 《廣韻》反切的規律

第4章 漢語音韻學簡史

  • 第1節 韻書産生以前的古音研究
  • 第2節 《廣韻》以後的韻書

 私は学生時代、漢語音韻学の大家に手ほどきを受け、自分でも幾つか概説書を読んでみたのですが、どうしても理解した気になれませんでした。音韻学は、中国語学を専攻する人にとって必要なのはもちろん、中国文学・中国思想を学ぶためにも重要な学科です。さように重要でありながら、マスターできる人は多くありません。「音韻学は難しい、理解しがたい」、というのは、必ずしも私にかぎった話でもなさそうです。

 本書の著者、唐作藩氏は次のように書いています。

 「音韻学は難しいか、難しくないか?」と問うた人がいる。難しい一面もあるが、また容易な一面もある、と我々は答えたい。難しいというのは、音韻学を学ぶのは、他の学科を学ぶのと違うところがあるからだ。たとえば古典文学、現代漢語などを学ぶ場合、過去に我々は多少なりとも対象に接触したことがあるわけだが、音韻学の場合、初めて接触するものだ。さらに面倒なことに、漢字は表音文字ではなく、古代には科学的に音を記録する道具もなかったので、表音文字ではない漢字によって語音を記述し、それによって漢字の読音を分析するのだから、どうしても専門的な術語を作る必要があったので、それが我々にいささかの困難をもたらしてしまうのである。……。

 けれども、我々が、音韻学は難しくない、そして容易ですらある、と言うのにも根拠がある。音韻学は畢竟、一種の「口耳の学」であり、ある言語やある方言を習うのと同じで、本来、特別なところはまったくなく、音韻を学習するというのは古代の語音を学習するということで、さらに語音は言語の三要素(語音、語彙、文法)のうちで最も系統性に富んでおり、語音の声母、韻母はともに有限であるから、それらを掌握してしまえば、系統全体も掌握することができるので、それゆえ、学習する際、その便利なところが確かにあるのだ。(p.12、第1章第3節)

 漢語音韻学は、外国人にとって難しいのみならず、漢語を母語とする人々にとっても、難しい面があることが知られます。著者は、長年、音韻学の講義をされて、学生が難しく感じる部分を熟知しているのでしょう。難しさを解消すべく、音声学をしっかりと説明し、国際音声記号(国際音標)を基準にしている点が、私にとっては分かりやすく感じられました。

 音声の問題を抜きにして、音韻学上の諸概念を理詰めで理解できる人もきっといるのでしょうが、その方法では私には理解できませんでした。たとえば、「五音」とは、音節のはじめの子音を喉音・舌音・歯音・唇音・牙音の五つに分ける伝統的な術語ですが、歯音といわれても、具体的にどう発音するのか、はっきりしません。しかし「精」の中古音の声母が、「舌尖前、塞擦音、清、不送気(Voiceless alveolar affricate)」であることが分かれば、国際音声記号表に照らして、それは現代漢語の「資」の声母と同じ音だと分かります。伝統的な音韻学の術語は、すべて国際音声記号で解釈できる、というのが、この教科書のミソです。

 目次からも分かるように、第3章、中古音の解説が内容の主体となっています。ただ、それを理解するためには、第2章の理解が不可欠であり、そこを読めば音声が分かるようになっています。逆に言うと、第2章をよく理解すれば第3章は難しくない、と感じました。音韻学は、確かに「口耳の学」なのだ、と納得できました。

 中古音の推定音価は、あくまでも「推定」ですから、確定したものではありません(そもそも古代の音を厳密に復元するのは原理的に不可能でしょう)。しかしながら、そうではあっても、手がかりとしてはきわめて有用です。歴史地図が、必ずしも正しくないとしても、古地理の理解に不可欠であるのと似ています。推定音価に疑いを抱くのは、初級の段階では不要ではないかと思います。

  私の読んだのは第3版ですが、第2版(1991年)と初版(1987年)もあります。書架を探ってみたところ、初版も見つかりました(橋本先生手沢本、なぜ私の手もとにあるのか、不明)。初版は簡化字版ですが、第2版・第3版は繁体字版です。比較してみたところ、内容は同一ですが、初版にあった誤りが第3版では訂正されているなど、細かい修正が加えられています。

*唐作藩『音韵学教程』(北京大学出版社、1987)、Webcat所蔵館は5館。

*唐作藩『音韻學教程』第2版(北京大學出版社、1991)、Webcat所蔵館は12館。

*唐作藩『音韻學教程』第3版(北京大學出版社、2002)、Webcat所蔵館は0館。

『敦煌音義滙考』


『敦煌音義汇考』希羨林題辞 張金泉、許建平『敦煌音義滙考』(杭州大學出版社, 1996年)は、20世紀初頭、甘粛省の敦煌から発見された典籍群、「敦煌遺書」のうち、「音義」に関わる書物について、写真を集め、解題、校勘記を記したものです。

 南北朝時代には、古典の読音を考える学問が発達し、その集大成が『経典釈文』であり、同書は現在にも伝わっています。敦煌遺書の中に、『経典釈文』の古い写本、そしてそれ以外の音義書が含まれており、当時の古典学を知る上で、きわめて貴重な資料です。『経典釈文』は中国古典の音義ですが、それ以外に、仏教経典の音義である『一切経音義』(これには、数種あります)などもあり、その敦煌写本もいろいろあります。

 本書の「前言」によると、P2494『楚辞音』、P2823『文選音』、S2729『毛詩音』などは、早くも1920年代から熱い研究課題とされてきたものの、これまで、音義書についての全面的、徹底的な整理がされてこなかったという現状に鑑みて、先行研究の成果を取り入れ、細かい校勘と論評とを加えた、とのこと。

 643件の写本を検討した結果、33種の書物としてまとめることができたそうで、全体を「四部書音義」「字書音義」「佛道經音義」の三類に分けています。細かい断片を集めた「四部書散音滙録」「佛道經散音滙録」を合わせると、35種になります。メモのため、その35種を挙げておきます。

 四部書音義

  • 『經典釋文』 S5735, P2617, P3315, 殷44(=BD09523)
  • 『毛詩音』 S2729(3), дх13660
  • 『毛詩音』 S10v
  • 『毛詩音』 P3383
  • 『毛詩』周頌 S5705
  • 『禮記音』S2053(2)
  • 『論語鄭注音義』 殷42
  • 『爾雅』郭注殘卷 P2661, P3735, P5522
  • 『春秋後語釋文』 S1439
  • 『莊子集音』 P3602
  • 『莊子音義』S6256
  • 『楚辭音』 P2494
  • 『文選音』 P2833, S8521
  • 注音本『文選』 S3663
  • 李善注『文選』 P2528, P2527
  • 「四部書散音滙録」

 字書音義

  • 『字書』 P3016
  • 『韻書摘字』P3823
  • 『注音本開蒙要訓』 P2578
  • 『字寶』 P2717, S619, P3906, S6204, P2508, 雨90
  • 『俗務要名林』S617, P2609, P5001, P5579(8)
  • 『雜集時要字』七種 S5514, P3776, S610, P3391, S3836, S3227, S6208
  • 『正名要録』 S388
  • 『辨別字』 S388
  • 『新商略古今字様撮并行正俗釋』S6208, S6117, S5731, S11423

 佛道經音義

  • 『一切經音義』S3469, S3538, P3734, ф23, P2901, P2271, P3765
  • 『新集藏經隨函録』 P3971, P2948, S5508, 李39, S3553
  • 『大般涅槃經音』 P2712, P3025, S2821, S3366, P2428, P5738, P3415
  • 『大佛頂如來密因修證了義諸菩薩萬行首楞嚴經音義』 S6691v, P3429, 宇26,S6985, S3720
  • 『佛本行集經難字』 P3506
  • 『妙法蓮華經音義』 P3406,S3082, S114
  • 『金光明最勝王經音義』 S6691v, S1117, S980, S17, 雲93, S267, S649, S2097, S18, S712, S814
  • 『佛經難字』 S5712, S5999, P3823
  • 「佛道經散音滙録」
  • 『諸難雜字』P3109, 秋26v, S4622(2), S840, P3365v, P3270

 このように、数百もの写本を逐一整理し、校勘記まで作られた張・許両氏の労力は察するに余りあります。写本の異体字を過度に整理しないために、1315頁にわたるこの厚冊は、わざわざ手写されています。

 残念なことに、写真に不鮮明なものが多く、まったく判読できないものさえありますが、写本の写真は、現在では比較的容易に見られるわけですから、深く責める必要はないでしょう。

*張金泉, 許建平『敦煌音義滙考』杭州大學出版社, 1996年。Webcat所蔵図書館は26館(本日付)。 『敦煌音義滙考』 の続きを読む

唐作藩「破読音的処理問題」


 最近、唐作藩氏(1927-)の音韻学入門を読み、その分かりやすい説明ぶりに舌を巻きました。そこで、もっと唐氏の著作を読みたいと思っていたところ、「破读音的处理问题」(『辞书研究』1979年第2期)という論文があるのを知り、さっそく読んでみました。

 「破読」とは、「一つの漢字の声調を変えて読み分けることにより、本来の意味や文法機能とは異なる意味や文法機能を表すこと」とご理解下さい。「破読音」を持つのは漢字全体からすると一部ですが、重要な漢字には、しばしばこの「破読」が存在します。

 以前、別のサイトで『千字文』を取りあげた際にも、この問題をあつかいましたので、そこから例を引いておきましょう。

  • 005「為」 wei2(平声)/wei4(去声)
  • 007「號」 hao2(平声)/hao4(去声)
  • 007「稱」 cheng1(平声)/cheng4(去声)
  • 011「衣」 yi1(平声)/yi4(去声)
  • 016「王」 wang2(平声)/wang4(去声)
  • 024「難」 nan2(平声)/nan4(去声)
  • 024「量」 liang2(平声)/liang4(去声)
  • 026「行」 xing2(平声)/xing4(去声)
  • 027「正」 zheng1(平声)/zheng4(去声)
  • 028「空」 kong1(平声)/kong4(去声)
  • 032「當」 dang1(平声)/dang4(去声)
  • 033「興」 xing1(平声)/xing4(去声)

 その時には、王力の次のような説明も引きました。

名詞・形容詞が動詞に転化した場合には、動詞を去声で読む。動詞が名詞に転化した場合には、名詞を去声で読む。要するに、転化したものは、一般的に去声で読むのである。(『漢語史稿』1996年重排本、第3章「語法的発展」第31節「語法発展的一般叙述」p.248)

 今日ご紹介する唐作藩氏の著作では、もとの音を「本音」と呼び、転化した音を「破読音」と呼んでいるので、それに従います。いろいろな例から、「本音」は平声・上声・入声、「破読音」は去声(または上声)であることが多いと分かります。

 この「破読」現象について、顧炎武をはじめとする清朝の学者たちは「中古の学者が、無理矢理に区別したもの(強生分別)」と見なしており、その意義を低くしか評価しませんが、それは明確に誤りであり、「破読」が漢語史の展開において、自然に生まれて発達したものであること、すでに王力・周祖謨、そして唐氏の説く通りです。

 さて、この論文における唐氏の関心は、「現代の辞書における破読記述を規範化する」ことにあり、『新華字典』『現代漢語詞典』『辞海』といった現代的な辞書について、実地に検討を加え、体例上の一貫性のなさを指摘しています。

 たとえば、『新華字典』では、「飾る」意の「文」の去声、”wen4″を”旧读”として挙げるのに、「王として君臨する」意の「王」の去声、”wang4″は”旧读”とも何とも言われていない、と指摘し、両者とも現代音に去声の読みはそもそもなく、”旧读”と書いたり書かなかったりで、不統一ではないか、と批判しています。もっともな話です。

 それはともかく、私が興味を持ったのは、唐氏が『群経音辨』『経史正音切韻指南』『馬氏文通』の諸書を駆使して挙げる資料の中で、「いまでは本音が存在しておらず、破読音だけが読音としてあるもの」43字です。

  1. 本音は平声で、破読音が去声だが、いまは去声でのみ読むもの13字:「貫」「怨」「令」「爨」「譽」「治」「忘」「慮」「料」「放」「慶」「任」「縱」。
  2. 本音は上声で、破読音が去声だが、いまは去声でのみ読むもの15字:「上」「下」「右」「柱」「去」「涕」「奉」「後」「近」「夏」「被」「樹」「善」「濫」「造」。
  3. 本音は平声で、破読音が上声だが、いまは上声でのみ読むもの3字:「總」「反」「攘」。
  4. 本音は去声で、破読音が上声だが、いまは上声でのみ読むもの1字:「仰」。
  5. 本音は入声で、破読音が去声だが、いまは去声でのみ読むもの11字:「炙」「*」「借」「貸」「告(誥)」「射」「覆」「刺」「帥」「畫」「易」。ただし、これは現代音では入声がないので、去声しかない、ということ。なお、「*」は唐氏の原文では「師」ですが、「錯」か何かの誤りだと思います。

 失われてしまった本音は、どこに行ってしまったのでしょうか?とても興味深い問題です。それとともに、去声というものの不思議さに、さらに惹かれてしまいます。

 「この程度のことは、『馬氏文通』を読んでいれば当たり前のことだ」とも言えます。私は遅ればせながら、唐作藩氏のこの論文を通して馬建忠『馬氏文通』(1898年刊)の力量を再認識しました。

音に因りて義を求む


 「望文生義」ということばがあります。「文を望みて義を生ず」と訓じます。漢字の字面をながめて、ありもしない意味をひねり出す、という意味です。むろん、そんなことをしてはならないという戒めのことばで、中国古典を読むに際しては、しばしば注意されることです。

 しかし、この戒めを守ることは、実はなかなか難しいことです。多くの文字で表記された他の言語が、「表音的」に表記されているのに対し、漢字は「表音的」でないからです(なお、私は漢字が「表意的」だとも思いません。「表音/表意」のdichotomyが有用とは思えません)。それゆえ、文字の字形を手がかりにした研究に傾かざるを得ない面が、確かにあります。

 清朝の考証学者たちは、この漢字の難点を克服するために「古音学」を発展させました。古代の中国語の音韻を研究することにより、字義・字形のみに頼る研究を乗り越えよう、というものです。王念孫『広雅疏証』、段玉裁『説文解字注』といった考証学の金字塔は、こうして誕生しました。

 古音研究の過程で、次第に注目を集めたのが、「古代漢語では、字の原義を離れて字を用いることがしばしばあった」という問題です。この現象は、「仮借(かしゃ)」と呼ばれます。漢字が産み落とされた時の意図とは別に、後世においては、その本義を離れて、漢語は音に従ってさまざまに表記されるようになりました。「原義」と「用法」との乖離は、漢字の成立後、かなり早い段階ではじまったようです。

 その中でも、漢語の熟語(「連語」などと呼ばれた)が、さまざまに表記される現象が調べられていくようになります。『論語』に「文質彬彬」ということばがありますが、「彬彬」は、「份份」「斌斌」「分分」「斑斑」などとも表記され、どう書いても同じ意味を表した、ということが明らかになりました。この場合、「份」「斌」「分」「斑」などの字義を調べ、「望文生義」しても、正解には絶対にたどり着かないわけです。逆に「音に因りて義を求む」方法こそが求められます。

 この「音に因りて義を求むる」考え方に基づき、熟語を網羅的に集めた学者がいました。朱起鳳(1874-1948)です。30年の時を費やし、300万字から成る巨冊、『辞通』なる「辞書」を彼は完成させたのです。

『宋書複音詞研究』


万久富『《宋書》複音詞研究』(鳳凰出版社、2006)を読んで、勉強になりました。487年、沈約という人の書いた、『宋書』という歴史書がありますが、この書物に用いられている熟語に関する研究です。

本書の第五章「《宋書》聯合式同素異序複合詞」の第三節「聯合式同素異序複合詞発展的内在機理」という一節が私の興味を引きました。

漢語では、しばしば同義・類義・反義の2文字を組み合わせて2字の熟語を構成するのですが、その際、第1字目に置かれる文字に関して法則性がある、というおはなしです。「平坦」というときの「平」も「坦」も似たような意味ですが、漢語では「坦平」とはいわない。これは何故か、という問題です。

 張鴻魁「〈世説新語〉并列結構的字序」は、「并列結構の字序は、第一に、そして主には声調により決定される。声調の規則というものが客観的に存在する」といい、「同じ声調に属する字の并列結構においても、字序は自由に置き換えられず、声調の規則の下に、さらにもうひとつの習慣、ないし規則が字順を制約している。字序を制約しているのは、声母の要素であり、我々はこのように声母が字序を制約していることを「声序規則」と呼んでいる」という(『魏晋南北朝漢語研究』281頁、286頁)
張氏は前後の文字の確率統計に基づいて、以下の結論を導き出した、「一般的に「前清後濁」であり、「明」類の字(「明」母、「微」母、「泥」母、「疑」母)は多くの場合、後ろに置かれ、「影」母の字は多くの場合、前に置かれる」など、と。
李思明「中古漢語并列合成詞決定詞素次序諸因素考察」は、「并列合成詞の詞素の配列順序に対して影響をもつのは、まず第一に声調、次に声母で、韻母はいかなる作用も及ぼさない」という(『安慶師範院社会科学学報』1997年、第1期)。 (万久富『《宋書》複音詞研究』より)

本書の著者である、万久富氏は、『宋書』に見えるさまざまな語彙のうち、後世、使用されなくなってしまった語彙を検討しているのですが、その結果、以上の原則から外れるもの(「源淵」「泄漏」など)が、多く淘汰された、という結論を導いています。

漢語の語彙を考えるについて、実に興味深い視点です。同義語・反義語を組み合わせた熟語について、いろいろと考えてみることが出来そうです。

*Webcatによると、所蔵図書館は、7館(本日付)。