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李楨という学者


郭慶藩『莊子集釋』(光緒二十年1894序刊)と王先謙『莊子集解』(宣統元年1909刊)の二書は、今なお『莊子』研究の基礎とされていますが、この二種の注釈には、李楨という人の学説がしばしば引用されます。

はて、どんな人だろうかと思っても、あまり手がかりがなく、兪樾(1821-1907)の説を踏まえているところがあるので、そこから彼が生きた時代がおおよそ分かるという程度でした。

そこで調べてみると、王先謙『漢書補注』の編輯作業に関わった学者のリスト、「同時參訂姓氏」の中に、その李楨の名が見えていました。郭嵩燾、朱一新、李慈銘、繆荃孫、沈曾植、王闓運、葉德輝、皮錫瑞、蘇輿といった名人に並び、「李楨,字佐周,湖南善化人。附貢生」とあるのです。

王先謙(1842-1917)は郭慶藩(1844-1896)『莊子集釋』のために序文を書いていて、また郭慶藩は郭嵩燾(1818-1891)の甥に当たるという関係で、みな湖南省の出身者です。『漢書補注』「同時參訂姓氏」に列記される諸氏は、一見して湖南出身者が多く、そこに同じく湖南善化出身の李楨がいるわけですから、一応、王先謙と地縁的つながりのある人物と想像することができましょう。

その李楨には、『畹蘭齋文集』四巻という著作があり、『清代詩文集彙編』(上海古籍出版社)というシリーズに収録されています。その書物に、王先謙の序文(光緒十八年1892)が冠されているので、その一部を引用します。

李君佐周,長余一歲,自幼同學,相愛好,稍長,各以飢驅出走,十數年不相聞,而特聞其古文之學冠絕時輩。壬午歲,余歸相見長沙,各出所業相質,情誼視疇昔逾密。再歸,又加密焉。……甫三十,絕意進取,竟以歲貢生老,人咸惜之,而佐周夷然不屑。讀其文,可以知其自命矣。光緒壬辰秋八月,長沙愚弟王先謙謹敘。

李楨と王先謙との交友関係がよく分かりますし、「長余一歲」と言っているので、李楨の生年が道光二十一年(1841)であることも確認できます。

setsumonitsubunbenshoまた李楨は、『説文解字』に詳しかったらしく、『說文逸字辨證』二巻(光緒十一年自序 畹蘭室 刊本)の著もあります。

調べものをしているうちに、李楨という学者について少しずつ分かってきました。

井筒俊彦の『老子道徳経』理解


井筒俊彦(1914-1993)は、1970年代、テヘランにおいて『老子』のペルシア語訳ならびに英訳を行いました。

井筒の没後、その英訳版は2001年に慶應義塾大学出版会から出版されました。

Lao‐tzŭ : the way and its virtue
translated and annotated by Toshihiko Izutsu
Keio University Press 2001 1st ed
The Izutsu library series on Oriental philosophy, v. 1

さらにその後、同じく慶應義塾大学出版会が、「井筒俊彦英文著作翻訳コレクション」と題して、井筒の英文著作を日本語訳することを計画しました。

そして今春、「井筒俊彦英文著作翻訳コレクション」の一冊として、『老子道徳経』が刊行されるに至りました。

井筒俊彦著、古勝 隆一訳『老子道徳経』、慶應義塾大学出版会、2017年4月

laozidaodejing2001年の英語版を編輯されたのは、天理大学の澤井義次先生ですが、私もその時に少しばかりお手伝いさせていただき、今回もそのご縁で、日本語版への翻訳を担当いたしました。

私にとってこの訳出作業は、井筒の『老子』理解を知るよい機会となりました。その概要は、本書の「訳者解説」に書いておきました。

縁あって、この連休中に、福岡県朝倉郡の信覚寺(浄土真宗本願寺派)というお寺で、少しばかり井筒の『老子』理解についてお話しさせてもらうつもりです。

『老子』という中国古典が、現代においてどのような意味を持ちうるのか、皆さんと語り合うことができれば、と期待しております。

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『人類史のなかの定住革命』


西田正規『人類史のなかの定住革命』(講談社、講談社学術文庫 [1808]、2007)という書物を読みました。原本は、『定住革命 : 遊動と定住の人類史』(新曜社、1986)。

全体を書き下ろしたものではなく、別々に書いたものを編輯し、そこに新たな書き下ろしを加えたものです。初出一覧は以下の通り。

  • 「定住革命」 『季刊人類学』15巻1号、1984年
  • 「遊動と定住の人類史」 『現代思想』1984年7月号、臨時増刊
  • 「狩猟民の人類史」 『歴史公論』1985年5月号
  • 「中緯度森林の定住民」 『国立民族学博物館研究報告』10巻3号、1985年
  • 「歴史生態人類学序説」 『現代のエスプリ』1983年12月号、別冊
  • 「”鳥浜村”の四季」 『アニマ』1981年3月号
  • 「「ゴミ」が語る縄文の生活」 『歴史読本』1985年11月号
  • 「縄文時代の人間-植物関係」 『国立民族学博物館研究報告』6巻2号、1981年
  • 「人類=手型動物の頂点に立つ」 書き下ろし
  • 「家族、分配、言語の出現」 書き下ろし

樹上生活をやめて地上で暮らすようになった人類の祖先は、その後、低緯度地域から中緯度地域へと生活の場を広げました。さらに、今から1万年ほど前、それまでの遊動生活をやめて定住生活をするようになりますが、これこそが著者のいう「定住革命」です。日本の地で定住を始めた、縄文時代の人々の暮らしについても、分析が見えます。本書は、人類の歴史の中での定住の意義を明かしたものです。

書名にも含まれる、「定住」の意義についての記述が、やはりもっとも興味深く感じられました。農耕の始まりを重視する論者が多いそうですが、「採集か農耕かということより遊動か定住かということの方が、より重大な意味を含んだ人類史的過程」と考える筆者の論点が面白く感じられました。

そもそも大型の哺乳類は、一定の場所に住み続けることが難しい、との指摘がありましたが、我々、定住に慣れきってしまった今の人類からすると、かえって新鮮に感じられます。

遊動狩猟採集民が、明日の食料について心配しないのは、自然の恵みを確信しているからであり、それゆえ、食料を蓄える行為は、いわば自然に対するまったき信頼を放棄することにほかならない。(本書、pp.49-50)

遊動民は、大規模な倉庫を築いて食料や財産を貯蔵することはしなかった、とのことです。遊動民の暮らしは、世界の多くの地域で、1万年ほどまえに終わり、定住生活へと移行したようですが、新しく定住を始めた人々の一部にも、そのような貯蔵に対する違和感がのこったのではないでしょうか。中国史にも、思い当たるところがあります。たとえば、『漢書』卷二十八下、地理志下の、次のような記述。

楚有江漢川澤山林之饒;江南地廣,或火耕水耨。民食魚稻,以漁獵山伐為業,果蓏蠃蛤,食物常足。故啙窳媮生,而亡積聚,飲食還給,不憂凍餓,亦亡千金之家。(中華書局、p.1665)

楚の地域の人々は、「啙窳にして生を媮(ぬす)み、而して積聚する亡く、飲食還(ま)た給し、凍餓を憂えず、亦た千金の家も亡し」。「啙窳」は怠惰で自堕落なこと。緯度のより高い地域の定住民の基本である「積聚」をしない生き方は、自堕落に見えたのでしょう。しかし漢代になっても、なお「積聚」しない生活もあり得たのだ、ということを教えてくれる記事です。

また、自然に対して絶大な信頼を寄せる『老子』は、「金玉堂に滿つれば、之を能く守る莫し」(第九章)といい、「天の道は、餘り有るを損いて足らざるを補う」(第七十七章)といいます。これは、過度の蓄積についての拒絶であるとも読めます。中国におけるこのような思想は、定住以前の人類の記憶を伝えるものとも読めます(『老子』が楚の文化を反映していると短絡的に考えるわけではありませんが)。

一方、後世になると、「金玉滿堂」はめでたい言葉とも受けとられています。富の蓄積がよいことなのか、そうでないのか。人類の歴史がその判断に刻み込まれているのかもしれません。本書を読みつつ、そのようなことに想いをめぐらせました。

道蔵輯要本『南華真経注疏』


道蔵輯要プロジェクト(道藏輯要研究計畫、Daozang Jiyao Project)は、『道藏輯要』所収の諸書の解題作成を目指す研究計画です。その求めに応じ、いくつかの書物の解題を書きましたので、一書ごとに分載いたします。解題集が出版された際には、あらためてご案内します。

南華真経注疏 牛1-8(KX9:3515-3989; BR4:1-209)

【書名】

本書は、先秦時代の道家の書、『荘子』の注釈である。西晋の郭象が注した「注」と、唐初の道士、成玄英がそれを再解釈した「疏」の部分からなる。おそらく、郭象の『荘子』注(『荘子』本文に注を付したもの)と、成玄英の『荘子疏』を、後に取り合わせて一書としたものであろう。取り合わせられた時代は、唐代から宋代の間である。北宋の張君房は、郭象注と成玄英疏とをあらためて校訂したという(陳景元『南華真経章句余事』)。

『南華真経』という呼称にも、問題がある。重刊道蔵輯要本の書名は『南華真経注疏』であるが、もともと成玄英の疏は『荘子疏』と名づけられていたが、その後、唐代のうちに現在の書名に改称されたものであろうと考えられる。

唐の玄宗の天宝元年(742)二月、詔勅が発せられ、それにより、荘子は南華真人と呼ばれ、その著『荘子』は『南華真経』と呼ばれることとなった(『旧唐書』礼儀志四)。すなわちそれ以前には、『荘子』が『南華真経』と呼ばれることはなかった。『隋書』経籍志に、梁曠『南華論』二十五巻なる書が見えるから、唐代以前に荘子を南華と呼ぶことがあったと分かるものの、『南華真経』の呼び名は天宝元年以降のものである。成玄英自身も、注釈の中で南華真人および『南華真経』の名を使っていない。

【撰者】

注は晋の郭象(?-312?)の注。疏は唐の道士、成玄英(7世紀前半ころ活躍)の撰。

郭象の伝は、『晋書』に見える。それによると、郭象、字は子玄、若くから才能あふれ、老荘を好み清言に長じていた。太尉の王衍は、「象のことばを聴くと、まるで滝から水が落ちるようで、注がれて尽きることがない」と評した。州郡から召されても、応じなかった。静かに暮らし、文章を楽しみとしていた。後に、司徒の副官として召された、黄門侍郎の官に至った。東海王の司馬越が引き立てて、太傅主簿とし、信任されたが、権勢を振るい、影響を行使するようになり、かねてからの評判は失われた。永嘉年間の末に病死し、『碑論』十二篇を著した。

それ以外に、『晋書』本伝は、郭象の『荘子』注のことを伝えるが、すでに存在した向秀の『荘子』注を剽窃した、とする。しかしこれについて、現存の『荘子』注を郭象のものと認めるべきとする説が、現在では有力である。

疏を書いた成玄英は、正史には伝が立てられていないが、『新唐書』芸文志に、簡略な記事が記されている。すなわち、それによると、成玄英、字は子実、陝州(現在の河南省三門峡市)の人、東海(現在の江蘇省連雲港市)に隠居していたが、貞観五年(631)、召されて長安に至った。永徽年間(650-655)、郁州(現在の江蘇省連雲港市)に流された。『荘子疏』が完成すると、道王の李元慶(高祖の第十六子)は、賈鼎という人物を派遣してその大義を学ばせ、嵩高山の李利渉がこれに序を書いたという。

また成玄英による本書の序に、「唐西華法師成玄英撰」と記されているので、長安にいた頃、彼は西華観という道観に住したことが知られる。さらに、道宣(596-667)の『続高僧伝』に成英、成世英として、同『集古今仏道論衡』には成英として見え、これらの記事から、その時期の成玄英の活動をうかがうことができる。

【テクスト】

早くも『旧唐書』経籍志、丙部子録、道家類に「『荘子疏』十二巻。成玄英撰」と見え、『新唐書』芸文志も同内容である。『宋史』芸文志、子類、道家類では「成玄英『荘子疏』十巻」とし、巻数が異なる。

本書には、『南華真経注疏』と題する南宋時代の版本が存在し、古く日本に伝えられ金澤文庫に収められた。十巻(ただし、欠巻がある)。現在、静嘉堂文庫美術館に蔵し、国の重要文化財に指定されている。この本は、黎庶昌が光緒十年(1884)に出版した『古逸叢書』の一冊として覆刻されており、現在では中国でもよく知られる。郭象注本『荘子』と成玄英の疏とをまとめて編輯したものである。

南宋版を除くと、正統道蔵に収める三十五巻本の『南華真経注疏』(0743 洞神部 27-21639 507-519)が重要である。この本も、郭象注本『荘子』と成玄英の疏とをまとめたものである。道蔵に収められていながら、長い間、学者に知られておらず、四庫全書が編纂された十八世紀後半において、道蔵に本書が含まれることが知られていなかったので、四庫全書に収録されなかった。十九世紀末、郭慶藩(1844-1896)が『荘子集釈』を著した際にも、古逸叢書本のみに基づいており、道蔵本が参照されていない。

そのほかに和刻本一種が存在する。すなわち、万治四年(1661)、中野宗左衛門刊本の『南華真経注疏解経』三十三巻である。 この和刻本は、「和刻本諸子大成」第十一輯(汲古書院、1976年)にも収められている。

【構成】

現行の荘子は、すべて郭象が整理した三十三篇本に由来するものであり、その三十三篇本は内篇・外篇・雑篇に大分されている。本書もそれに従っているので、そのうちわけを記しておく。

内篇は、逍遥遊第一、斉物論第二、養生主第三、人間世第四、徳充符第五、大宗師第六、応帝王第七の諸篇からなる。

外篇は、駢拇第八、馬蹄第九、胠篋第十、在宥第十一、天地第十二、天道第十三、天運第十四、刻意第十五、繕性第十六、秋水第十七、至楽第十八、達生第十九、山水第二十、田子方第二十一、知北遊第二十二の諸篇からなる。

雑篇は、庚桑楚第二十三、徐無鬼第二十四、則陽第二十五、外物第二十六、寓言第二十七、譲王第二十八、盗跖第二十九、説剣第三十、漁父第三十一、列禦寇第三十二、天下第三十三の諸篇からなる。

重刊道蔵輯要本の本書は、まず巻頭に郭象「南華真経注序」および成玄英「南華真経疏序」を冠し、その本文は八巻からなる。本文の構成は以下のとおりである。

  • 第一巻には、内篇の逍遥遊第一から養生主第三までを収める。
  • 第二巻には、内篇の人間世第四から応帝王第七までを収める。
  • 第三巻には、外篇の駢拇第八から天地第十二までを収める。
  • 第四巻には、外篇の天道第十三から刻意第十五までを収める。
  • 第五巻には、外篇の繕性第十六から達生第十九までを収める。
  • 第六巻には、外篇の山水第二十から知北遊第二十二までを収める。
  • 第七巻には、雑篇の庚桑楚第二十三から外物第二十六までを収める。
  • 第八巻には、雑篇の寓言第二十七から天下第三十三までを収める。

重刊道蔵輯要本の篇巻の構成は、以上の通りであるが、さらに、各篇における『荘子』本文、郭象注、成玄英疏の体裁についても触れておく。まず、『荘子』本文を短く示し、次に改行して、行の冒頭に「注」と明記して、『荘子』本文を解釈する郭象注を示し、さらに改行し、行の冒頭に「疏」と明記して、成玄英疏を示している。

【内容】

本書の内容は、『荘子』本文の内容、郭象注の内容、成玄英疏の内容に分かれるが、ここでは、『荘子』本文を解説することはせず、注釈の内容を解説する。郭象注については最小限の記述にとどめ、成玄英疏について紙幅をさきたい。

郭象注は、西晋時代に著された最も有力な『荘子』の注釈である。まず郭象は、当時、五十二篇本であった『荘子』の一部を削除し、三十三篇に改変した。陸徳明『経典釈文』には、「『漢書』芸文志に『莊子』は五十二篇といい、司馬彪や孟氏が注釈した本がそれに当たる。奇矯なことばが多く、『山海経』に似ていたり、『占夢書』に似ていたりするところがあり、注釈者が自分の判断で取捨選択している。内篇に関しては、諸家ともに同じであるが、それ以外は、外篇はあっても雑篇がないものなどが存在した。郭象の注のみが、ひとり荘子の主旨に合致しており、世に重んじられている」という。南朝末期において、『荘子』郭象注が如何に重んじられたかを伝える、貴重な証言である。

郭象のとらえた荘子の主旨とは、聖人による理想的な世の現出を考える、一種の政治思想である。すなわち、聖人が是非の判断を停止し、何物にもとらわれず世に順応することにより、万物の生を妨げず、それにより万物それぞれが自得し、安寧が得られる。それを伝えるために『荘子』という書物は書かれた、とする。郭象によれば、歴史的事実としての王などの事跡は、個別的な足跡である「迹」にすぎず、その背後には、それらさまざまな「迹」を生み出す「所以迹」(それによってさまざまな「迹」が生まれる力)がある。それゆえ、個別の出来事に拘泥して価値判断を働かせることは、人々をさかしらにし、不幸にするものとされ、厳しく批判される。郭象は、『荘子』に見える固有名詞を実在のものとしてとらえたり、その考証を行ったりすることにも批判的である。

では成玄英の場合、如何なる注釈を施したのか。郭象注に基づいて『荘子』を再解釈した成玄英は、基本的には、郭象が作った枠組みの中で『荘子』を説く。すなわち「道を体した聖人」が世に出現して、是非をふくめたあらゆる判断を停止して、「自然」に順応することで世を教化し、「重玄至道の郷」「道徳の郷」などと呼ばれる本源に回帰することを理想とする。枠組み自体も、また個別の『荘子』本文の解釈も、成玄英はほとんど郭象を逸脱しないが、成玄英の独自性も乏しくはないので、以下にそれらを指摘する。

第一に、成玄英は道士であり、道教の観点から『荘子』を解釈している。老子を「老君」と呼んで尊崇して「大聖」と位置づけており、老子に関する記述を寓言と見る郭象を批判している。また、『荘子』が道教経典『西昇経』を引用したと主張するなど、道教の立場から『荘子』を解釈している。この点、道教と無縁の郭象とは大いに異なる。

第二に、当時の道教研究の進展を受けて、三論宗の仏教から大いに術語を取り入れ、それによって『荘子』を解釈している。すなわち、「四句百非」「境智」「空」などの仏教語を駆使して『荘子』を読み解いているのである。

第三に、上記の第一点、第二点とも関わるが、南北朝時代における『老子』研究の深化、および上記の三論宗の教理の受容にともなって生まれた「重玄」という概念を用いて『荘子』を解釈した。「重玄」は、成玄英が洗練して自身の思想の核心とした概念であり、『老子』第一章の「玄のまた玄」を根拠とするが、単に、神秘のさらにある神秘を指すのみならず、あらゆる対立を超えたその先にある道のあり方をも含意する。郭象も二項対立を超克すべきことは説いたが、否定の先をさらに際限なく否定してゆく理論は持たなかった。この点、確かに成玄英の独自性がある。

第四に、聖人による機を見た教化を重視する。「機に逗じて化を行う」などというのがそれである。郭象による聖人論は、聖人の無為がどのように万物にはたらくのか、不明瞭であったが、成玄英の場合には、聖人による教化が強調されている。

第五に、『荘子』に見える固有名詞や具体的な事象について、上述の通り、郭象は意図的に無視したが、成玄英は、司馬彪など他の『荘子』注釈者の成果などをもとに、詳しい考証を行っている。この点は、『経典釈文』と成玄英疏を対比することにより、明らかになる。

以上の通り、『荘子』の強力な解釈であった郭象注を基礎としてはいるものの、成玄英は道士として、唐代という新たな時代にふさわしい『荘子』解釈を作り上げたのである。

【参考文献】

  • 郭慶藩輯、王孝魚整理『荘子集釈』(中華書局、1961年)。
  • 曹礎基、黄蘭発点校『南華真経注疏』(中華書局、1998年)。
  • 砂山稔『隋唐道教思想史研究』(平河出版社、1990年)。
  • 関正郎『荘子の思想とその解釈―郭象・成玄英』(三省堂、1999年)。
  • 周雅清『成玄英思想研究』(新文豐出版、2003年)
  • 羅中枢『重玄之思―成玄英的重玄方法和認識論研究』(巴蜀書社、2010年)。
  • 崔珍皙『成玄英《庄子疏》研究』(巴蜀書社、2010年)。
  • Shiyi Yu, Reading the Chuang-tzu in the T’ang dynasty : the commentary of Chʻeng Hsüan-ying (fl. 631-652),  New York : Peter Lang, 2000.
  • Isabelle Robinet, “Nanhua zhenjing zhushu”, Schipper and Verellen ed., The Taoist Canon, The University of Chicago Press, 2004, 294-296.

『老子』河上公注を読む


道は知りがたく、把握しがたい。『老子』第二十五章に「物有り混成し、天地に先立ちて生ず。寂たり寥たり、独立して改まらず、周行して殆うからず。以て天下の母と為すべし。吾その名を知らず、之にあざなして道といい、強いてこれが名を為して大という」、と。天地に先立つものでありながら、名づけることさえ難しいもの、しいてアザナをつけるなら、「道」ということになる、と。単なる道路どころの話ではない。

このような道の探索は、先秦時代から漢代にかけて、道家と呼ばれるグループにより深められた。たとえば『淮南子』原道訓に「まことに道は、天の天、地の地なるもの。四面八方にせり出し、果てもなく高く、底知れず深く、天地を抱き無形にいのち注ぐもの。ああ、泉と湧き源と溢れれば、空洞もやがて満ちわたり。蕩々とほとばしれば、混濁もやがて澄みわたる」、というのは、道についての美しい表現である。そして、そのような道をもっとも正しく語り、その核心にある著作だと認められてきた書物こそが『老子』であった。

同じく先秦時代から漢代にかけての頃、大きな力を持っていたもう一つの思想集団として、儒家があり、儒家も道に言及している。『論語』里仁篇に、「子曰く、朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」というのも知られるが、しかし道の探究という点において、儒家はとうてい道家に及ばない。

『史記』を書いた司馬遷の父、司馬談は、道家思想への深い思いを抱いており、そのことは『史記』の太史公自序にも描かれている。そしてもちろん、『史記』の中にも老子という人物の伝記が書かれている。しかし、その伝記がきわめて混乱しており、実態をほとんど想像できない。司馬遷の時代においてすら、老子の人物像は不明瞭であったらしい。後世、それがますます混乱したのも、無理のないことであった。

老子なる人物の伝記が謎めいているのみならず、『老子』という書物の内容や、その中心に位置する道の思想もつかみがたい。そこで説明や注釈が求められた。後世、前漢の河上公なる人物が書いたという注と、魏の王弼が書いた注とが、『老子』解釈の二本の大きな柱となったが、前者の河上公注は、たいへんに興味深い『老子』観を示している。

そもそも河上公とは如何なる人物であるのか。河上公注『老子』につけられた、葛玄の序という文章によると、河上公は姓名未詳。前漢の文帝の時に黄河の岸辺に隠居して、『老子』を読み解いていた。文帝は、河上公が『老子』に通じていると聞いて召し寄せようとしたが、「そんなことでは道や徳は教えられない」と河上公が上京を拒むので、しかたなく文帝みずからが出向いてその非礼を責めたところ、河上公は手を打ってふわりと虚空に浮かび上がり、自分は帝王の指図を受けぬと宣言する。そこで文帝は河上公が神人であると悟り、礼を尽くして教えを乞うたところ、河上公は『老子道徳経章句』二巻を文帝に授け、「これをよく研究すれば、『老子』は分かるだろう。余がこの経に注をつけて以来、千七百年になるが、伝授したのは、あなたを含めて四人だけだ。人には見せるな」と言った。伝授を終えると、河上公はどこかに消えた、と。葛玄の序はそのように説く。河上公もまた、謎に満ちた人物である。

上記の逸話は、もちろん作り話に違いない。河上公注ができたのは、後漢の頃だという学者もあれば、南北朝の頃だという学者もある。その成書年代はともかく、内容には著しい特徴がある。それは道の思想を、国を治める政治思想としてとらえると同時に、自分の身体を治めるための思想ともみなしている点にある。『老子』冒頭の第一章に「これが道だといえるような道、それは常なる道ではない」とあるが、河上公によると、「これが道だといえるような道」とは政治の道のことで、他方、「常なる道」とは自然長生の道であるという。この「常なる道」に従うならば、自分の身体中にいる神を養うこともできるし、また同時に、民を治めることもできるのだ、そのように河上公は主張するのである。

これは非常におもしろい考え方だ。『老子』には、道に最も近い人間たる「聖人」の話題が頻出する。「聖人」とは、『老子』が書かれた頃の時代状況を背景に生み出された理想的人間像であるが、後世、聖人どころか、政治に携わることすらない一般人が『老子』を読むようになると、「聖人」の話題はどこか現実離れしたものと感じられたのではないか。しかし河上公は、「聖人」が国を治めるのと、身体を治めるのは、別物ではなく同じである、と、そのように説いた。こうして『老子』は、広い読者層にとって魅力的な書物となり得たのである。

このような『老子』読解は、曲解として片付けるわけにいかないところがある。というのも、中国思想の伝統には、自分にとって身近なもの、特に身体、それの類似として、政治や、宇宙の構造、そして万物の成り立ちをとらえる、そのような発想が濃厚にあるからだ。河上公の『老子』解釈をそういう伝統の中に置いてみると、あまり違和感なく自然に読める。もちろん、『老子』の作者がそういうつもりで書いたかどうかは、まったくの別問題であるが、ただ、河上公注のような『老子』解釈が後に生まれ、それが広く受け入れられたということは、吟味するに足る、中国思想史上の事実であると思うのである。

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逆説の書


三島由紀夫(1925-1970)は『葉隠』という書物に、傾倒、依存しました。その理由を率直に語った、『葉隠入門』を久々に読みました。以前、これを読んだのは高校生のころであり、当時、その情熱にこそ圧倒されはしたものの、十分には理解できなかったように思います。近頃読み返してみると、彼の知性に驚きました。書物の読み方など、並の学者以上だと思います。

「葉隠」は前にもいったように、あくまでも逆説的な本である。「葉隠」が黒といっているときには、かならずそのうしろに白があるのだ。「葉隠」が「花が赤い。」というときには、「花は白い。」という世論があるのだ。「葉隠」が「こうしてはならない。」というときには、あえてそうしている世相があるのだ。(『葉隠入門』一「現代に生きる「葉隠」」)

世の読者は、あらゆる書物を「額面通り」に受け取りがちです。もちろん、そのように素直に読むべき書物が多いのですが、しかし、素直に読んでは理解できない書物もまた存在します。たとえば『荘子』がそれです。敬首和尚が「『莊子』の書は、諸事をさかさまに云なり。…。文のままには其義通ぜず」というとおりでしょう。

『荘子』の場合、まず世相や人間そのものに対する強烈な違和感があり、そして世相や人間に対する批判が形成されています。しかし、その批判をそのままぶつけるのではなく、「寓言十九、重言十七、巵言日出、和以天倪」(寓言篇)というように、一見、親しみやすいような文章として表現するのです。

読者は、その親しみやすい文章を親しみつつ読むわけです。そうすると、あるとき、「おや?」と疑問を持つ瞬間が訪れる。その疑問は、すなわち「逆説」「さかさま」が引き起こすものでしょう。それをかみ砕いていくと、まず、どうやら「文のまま」に受け取ってはならないのだな、と気づき、さらに進んで、「『荘子』による批判」の正体、そして「『荘子』の抱いていた違和感」へと行き着く、という算段です。

『荘子』がすべてそのように書かれているわけではありませんが、『荘子』という書物を貫く基本的なトーンはそのようなものであろうと思います。

それを応用したのが、私の敬愛する韓愈であり、これまた敬首和尚が「韓文は源(みなも)と『莊子』を祖として悟入す」と言ったのは、炯眼を具備した人ならでは、というところです。多くの人がこのような韓愈の読み方を知らないようなので、以前、「韓愈の排仏論と師道論」(麥谷邦夫編『三教交渉論叢』京都大学人文科学研究所、二〇〇五年)という論文を書いたこともあります。

三島が紹介した『葉隠』は、対談の記録という性質もあり、もちろん、『荘子』や韓文のように練りに練られた表現とは異質です。しかし、同様に世相や人間に対する強い批判の眼が存在しており、「常識やそれに基づく推論と、『葉隠』が説くことが矛盾する」「それに対する気づきを読者に促している」という点において、確かに『葉隠』は逆説の書と言えそうです。

これ以外にも、三島の読書力、すなわち書物を通じた洞察力には驚くことが多々ありました。いずれ、ご紹介したいものです。

『荘子』を見る眼


江戸時代に生きた読書の先達、敬首和尚(1683-1748)。内藤湖南「敬首和尚の典籍概見」をもとに昨日、紹介しました。『内藤湖南全集』第12巻(筑摩書房、1970年)。

敬首和尚が目録学を体得していた点を湖南は高く評価しました。それはきわめて得難いことだからです。しかしその点以外にも、『典籍概見』からは敬首和尚の深い学識をうかがうことができます。

たとえば、『易』『老子』『荘子』の読み方のコツを次のように言っています。

『易』の書は、その義ははんじもの也。『老子』の書は、なぞなり。『莊子』の書は、諸事をさかさまに云なり。此の三書は各々文のままには其義通ぜず。皆共にこくびを傾げ思案して、能くはんじ、能くなぞを解き、能く口上の裏表を合點せねばならぬ也。故に此の三書を三玄と云ふ。玄とは幽玄なる義どもなればなり。

『易』『老子』『荘子』をさらりと通読しても、ほとんど何も得るものはありません。それらの書物の難解さに苦しんだ人にとって、それは分かりきったことですが、では、どうすればよいのか?和尚は、それぞれの書物を「『易』=はんじもの」、「『老子』=なぞ」、「『荘子』=さかさまに云う」と、あざやかに言い当ててみせ、その上で、「こくびを傾げ思案して、能くはんじ、能くなぞを解き、能く口上の裏表を合點せねばならぬ也」と読み方のコツを披露しています。ちょうど、詰め将棋の本を見る感じですね。これは出色です。

これほど面白くてためになる「三玄の読み方」は、見たためしがありません。和尚はさぞかしユーモアあふれる人だったのでしょう。

韓愈と柳宗元の散文を比較した、次の一段も痛快です。

韓文は源と『莊子』を祖として悟入す、故に其の筆、自在なり。柳文は源と『春秋』を祖として悟入す、故に其の筆、自在ならず。『莊子』はまめぞう口なり。『春秋』は公家の口上の如し。

韓愈の文体のもとは『荘子』、柳宗元の文体のもとは『春秋』。この「探源」自体、目録学的であり、玩味するに足るものですが、ことに楽しんだのは、「『莊子』はまめぞう口なり」の一文です。「まめぞう」とは何か?『日本国語大辞典』で「まめぞう(豆蔵)」を引くと、その第1項に次のようにあります。

(江戸時代、延宝〔1673-81〕の頃、大阪にいた力持の乞食の名から)手品や曲芸をし、滑稽な身振りや口上で人を笑わせて銭を乞うた大道芸人。豆蔵坊主。
*随筆『斉諧俗談』(1758)三、「豆蔵(マメゾフ)貞享、元禄のころ、摂津国に一人の乞食あり。名を豆蔵(マメゾウ)といふ。市町に出て、常に重き物をささげて銭を乞」。
*滑稽本『東海道中膝栗毛』(1802-09)七・下「見せもの、まめぞう、よみうり、こうしゃく」。…。

「まめぞう口」とは、大道芸人のように面白おかしく人を惹きつける話しぶり、ということになるでしょう。

「荘子は(『史記』でいえば)滑稽列伝中の人だ」という説を聞いたことがありますが(残念ながら、誰の説なのか失念してしまいました。ご存じの方はご教示ください)、まさにそれに通じます。

ひるがえってみれば、敬首和尚は、滑稽な大道芸を眺めつつ「荘子みたいな芸だな」とニヤリとしたに違いありません。それこそ、読書の達人でなければ、やりおおせぬ芸当なのです。

易州龍興観『老子』の无と無


龍興観碑の无
龍興観碑の无

六朝時代、儒教経典のうち、『易』のみは(「無」ではなく)「无」の字を用いた、とのこと、すでに紹介いたしました。

『老子』において「無」は核心的な概念ですが、では、その用字法はどのようになっているのでしょうか。

唐代の『老子』の例として、景龍2年(708)、易州(今の河北省保定)の龍興観という道観(道教寺院)に立てられた石のテクスト、「景龍二年易州龍興観道德經碑」を挙げることができます。この碑の本文は無注本ではあるものの、河上公注本に属する本文を持つと言われており、朱謙之『老子校釈』(中華書局、1963)の底本にもなっています。

この碑は「道経」(『老子』の第1章から第37章まで)を石の表(碑陽と呼びます)に刻し、「徳経」(同、第38章から第81章まで)を裏(碑陰と呼びます)に刻しています。

「無」に着目してその拓本を見ると、奇妙なことに、「道経」についてはすべて「无」字を用い、「徳経」については、途中(64章)までは「無」字を用い、69章より後は「无」字を用いてあります。

『説文』によれば、「无」は「虛无の道」であるとのこと。「無」よりもさらに奥深そうな雰囲気です。「道経」は、「徳経」に比してもなお根源的である、とする立場に拠り、特に「无」字を用いたのかも知れません(「徳経」の69章より後の部分になぜ「无」を用いたのかについては、別途、考察が必要ですが)。

「景龍二年易州龍興観道德經碑」が『老子』テクスト中の善本であることは確かでありますが、このような「遊び心」があったり、また、字句も他の本と比べて相当に個性的です。それゆえ、『老子校釈』を利用する際には、他本への配慮が必要でしょう。

朱謙之の『老子校釈』では、「無/无」の使い分けについても、底本である「景龍二年易州龍興観道德經碑」を忠実に再現しています。つまり、第1章から第37章まで、そして第69章から第80章の各章には、「无」が用いられ、第38章から第64章までの各章には「無」が用いられています。同書をお持ちの方は、ご確認ください。

『老子校釈』では、第1章「无名」に注して魏稼孫と言う人の説を引いて、「景龍二年易州龍興観道德經碑」の「道経」部分はすべて「无」に作り、「徳経」部分の前半は「無」に、「行无行」(69章)より後はまた「无」に作る旨、すでに述べています。

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耳を切られて


四部叢刊初印本(左)と注疏叢刊本(右)
四部叢刊初印本(左)と注疏叢刊本(右)

四部叢刊に収める『老子』について言うと、初次印本と重印本の内容が少しばかり異なる、と書きました。そうは言っても、四部叢刊の初次印本も重印本も、貴重な線装本であり、一般の図書館では自由に閲覧できるものではありません。

私も初次印本のコピーを取りたいと思ったのですが、線装本のコピーはさすがに気が引けます。しかし、是非ともコピーする必要があったので、方法を考えました。北京の中華書局が1998年に出した「四部要籍注疏叢刊」というシリーズに収められた『老子』河上公注本が、四部叢刊の初次印本をもとにしたリプリントらしい、と気づき、これをコピーしたのです。

「四部要籍注疏叢刊」。四部叢刊の『老子』の初次印本をリプリントするという、素晴らしい着眼点なのですが、やや残念なのは、匡郭(木版本の上下左右を区切っている枠)内の内容は保全されているものの、それ以外の部分、すなわち「枠の外」が排除されている点です。

たとえば、「本の耳」である耳格が削除されています。耳格(書耳ともいいます)とは、宋版などによく見られるもので、各葉の枠の左上に篇名などを記す、古雅なものです。この宋版『老子』建安虞氏家塾刻本にも見えるのですが、一律に省かれています。

また、枠の外に書き入れた記録や印が抹消されています。巻上の終わりには、正徳11年(1516)と乾隆58年(1793)、二度の修理の記録が記されていますが、これも削除されており、味わいをやや減らした感があります。

なお、原本は現在、北京の国家図書館に蔵されていますが、かつては有名な大蔵書家、黄丕烈(1763-1825)の所持品でした。黄丕烈の蔵書記録、『百宋一廛書録』(嘉慶8年、1803序)にこの本を録して、「惜墨敝紙渝、且俗工装裱、殊不耐觀」と、その紙墨と装丁のまずさを言っています。いつか、原本を見る機会を得られれば、その装丁を拝んでみたいものです。

書物の内容にまったく関わらぬことですが、一人の本好きとして、善本の細部にも愛着がある、という話です。

愚かな「頭」


四部叢刊重印『老子』
四部叢刊重印『老子』
四部叢刊初印『老子』
四部叢刊初印『老子』

山城喜憲氏『河上公章句『老子道德經』の研究』(汲古書院、二〇〇六年)は、きわめて精細な『老子』河上公注の校勘学的研究です。同書の緒論に、四部叢刊本の『老子』を説明して、次のように言っています。

四部叢刊には初次印本と重印本とがあり、重印に際して一部の収載図書は底本を新出の善本と差し替えてある。しかし『老子道德經』の底本は、初次印、重印共に同本であって、影印本であるからにはどちらを使用しても変わりないはずであるが、実際には、僅かであるが字句に異同が存在する。重印時に無用な操作が施されたことが原因のようである。(p.25)

山城氏は、緒論の注(46)においてさらに詳しい説明を加えており、初次印と重印とで字が変えられている例として、第1章の「頑」が「頭」に変えられ、第15章の「米」が「采」に変えられ、第17章の「煩」が「須」に変えられている、と指摘しています(p.602)。

これを読み、急いで四部叢刊の初次印本と重印本を対照してみました。すると、確かに、第1章の「非常名」の河上公注の「外如愚頑」と初次印本にあるのに対し、重印本では、なんと「外如愚頭」に変えられているのです。山城氏がこれを「妄改」と評するのは、もっともなことです。

四部叢刊と言えば、善本の影印版の代表的なものであり、私も日常的に利用して裨益を受けていますが、残念ながら私の所有する台湾版も、重印本をさらにリプリントしたものですから、上記の「妄改」を免れていません。困ったものです。

なお、同じく山城氏の指摘によると、四部叢刊が重印を出した経緯については、商務印書館「印行四部叢刊啓例」(張静廬編『中国現代出版史料』甲編、巻4)に詳しい、とのことです(p.602)。

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