カテゴリー別アーカイブ: 老子

井筒俊彦の『老子道徳経』理解


井筒俊彦(1914-1993)は、1970年代、テヘランにおいて『老子』のペルシア語訳ならびに英訳を行いました。

井筒の没後、その英訳版は2001年に慶應義塾大学出版会から出版されました。

Lao‐tzŭ : the way and its virtue
translated and annotated by Toshihiko Izutsu
Keio University Press 2001 1st ed
The Izutsu library series on Oriental philosophy, v. 1

さらにその後、同じく慶應義塾大学出版会が、「井筒俊彦英文著作翻訳コレクション」と題して、井筒の英文著作を日本語訳することを計画しました。

そして今春、「井筒俊彦英文著作翻訳コレクション」の一冊として、『老子道徳経』が刊行されるに至りました。

井筒俊彦著、古勝 隆一訳『老子道徳経』、慶應義塾大学出版会、2017年4月

laozidaodejing2001年の英語版を編輯されたのは、天理大学の澤井義次先生ですが、私もその時に少しばかりお手伝いさせていただき、今回もそのご縁で、日本語版への翻訳を担当いたしました。

私にとってこの訳出作業は、井筒の『老子』理解を知るよい機会となりました。その概要は、本書の「訳者解説」に書いておきました。

縁あって、この連休中に、福岡県朝倉郡の信覚寺(浄土真宗本願寺派)というお寺で、少しばかり井筒の『老子』理解についてお話しさせてもらうつもりです。

『老子』という中国古典が、現代においてどのような意味を持ちうるのか、皆さんと語り合うことができれば、と期待しております。

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『人類史のなかの定住革命』


西田正規『人類史のなかの定住革命』(講談社、講談社学術文庫 [1808]、2007)という書物を読みました。原本は、『定住革命 : 遊動と定住の人類史』(新曜社、1986)。

全体を書き下ろしたものではなく、別々に書いたものを編輯し、そこに新たな書き下ろしを加えたものです。初出一覧は以下の通り。

  • 「定住革命」 『季刊人類学』15巻1号、1984年
  • 「遊動と定住の人類史」 『現代思想』1984年7月号、臨時増刊
  • 「狩猟民の人類史」 『歴史公論』1985年5月号
  • 「中緯度森林の定住民」 『国立民族学博物館研究報告』10巻3号、1985年
  • 「歴史生態人類学序説」 『現代のエスプリ』1983年12月号、別冊
  • 「”鳥浜村”の四季」 『アニマ』1981年3月号
  • 「「ゴミ」が語る縄文の生活」 『歴史読本』1985年11月号
  • 「縄文時代の人間-植物関係」 『国立民族学博物館研究報告』6巻2号、1981年
  • 「人類=手型動物の頂点に立つ」 書き下ろし
  • 「家族、分配、言語の出現」 書き下ろし

樹上生活をやめて地上で暮らすようになった人類の祖先は、その後、低緯度地域から中緯度地域へと生活の場を広げました。さらに、今から1万年ほど前、それまでの遊動生活をやめて定住生活をするようになりますが、これこそが著者のいう「定住革命」です。日本の地で定住を始めた、縄文時代の人々の暮らしについても、分析が見えます。本書は、人類の歴史の中での定住の意義を明かしたものです。

書名にも含まれる、「定住」の意義についての記述が、やはりもっとも興味深く感じられました。農耕の始まりを重視する論者が多いそうですが、「採集か農耕かということより遊動か定住かということの方が、より重大な意味を含んだ人類史的過程」と考える筆者の論点が面白く感じられました。

そもそも大型の哺乳類は、一定の場所に住み続けることが難しい、との指摘がありましたが、我々、定住に慣れきってしまった今の人類からすると、かえって新鮮に感じられます。

遊動狩猟採集民が、明日の食料について心配しないのは、自然の恵みを確信しているからであり、それゆえ、食料を蓄える行為は、いわば自然に対するまったき信頼を放棄することにほかならない。(本書、pp.49-50)

遊動民は、大規模な倉庫を築いて食料や財産を貯蔵することはしなかった、とのことです。遊動民の暮らしは、世界の多くの地域で、1万年ほどまえに終わり、定住生活へと移行したようですが、新しく定住を始めた人々の一部にも、そのような貯蔵に対する違和感がのこったのではないでしょうか。中国史にも、思い当たるところがあります。たとえば、『漢書』卷二十八下、地理志下の、次のような記述。

楚有江漢川澤山林之饒;江南地廣,或火耕水耨。民食魚稻,以漁獵山伐為業,果蓏蠃蛤,食物常足。故啙窳媮生,而亡積聚,飲食還給,不憂凍餓,亦亡千金之家。(中華書局、p.1665)

楚の地域の人々は、「啙窳にして生を媮(ぬす)み、而して積聚する亡く、飲食還(ま)た給し、凍餓を憂えず、亦た千金の家も亡し」。「啙窳」は怠惰で自堕落なこと。緯度のより高い地域の定住民の基本である「積聚」をしない生き方は、自堕落に見えたのでしょう。しかし漢代になっても、なお「積聚」しない生活もあり得たのだ、ということを教えてくれる記事です。

また、自然に対して絶大な信頼を寄せる『老子』は、「金玉堂に滿つれば、之を能く守る莫し」(第九章)といい、「天の道は、餘り有るを損いて足らざるを補う」(第七十七章)といいます。これは、過度の蓄積についての拒絶であるとも読めます。中国におけるこのような思想は、定住以前の人類の記憶を伝えるものとも読めます(『老子』が楚の文化を反映していると短絡的に考えるわけではありませんが)。

一方、後世になると、「金玉滿堂」はめでたい言葉とも受けとられています。富の蓄積がよいことなのか、そうでないのか。人類の歴史がその判断に刻み込まれているのかもしれません。本書を読みつつ、そのようなことに想いをめぐらせました。

『老子』河上公注を読む


道は知りがたく、把握しがたい。『老子』第二十五章に「物有り混成し、天地に先立ちて生ず。寂たり寥たり、独立して改まらず、周行して殆うからず。以て天下の母と為すべし。吾その名を知らず、之にあざなして道といい、強いてこれが名を為して大という」、と。天地に先立つものでありながら、名づけることさえ難しいもの、しいてアザナをつけるなら、「道」ということになる、と。単なる道路どころの話ではない。

このような道の探索は、先秦時代から漢代にかけて、道家と呼ばれるグループにより深められた。たとえば『淮南子』原道訓に「まことに道は、天の天、地の地なるもの。四面八方にせり出し、果てもなく高く、底知れず深く、天地を抱き無形にいのち注ぐもの。ああ、泉と湧き源と溢れれば、空洞もやがて満ちわたり。蕩々とほとばしれば、混濁もやがて澄みわたる」、というのは、道についての美しい表現である。そして、そのような道をもっとも正しく語り、その核心にある著作だと認められてきた書物こそが『老子』であった。

同じく先秦時代から漢代にかけての頃、大きな力を持っていたもう一つの思想集団として、儒家があり、儒家も道に言及している。『論語』里仁篇に、「子曰く、朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」というのも知られるが、しかし道の探究という点において、儒家はとうてい道家に及ばない。

『史記』を書いた司馬遷の父、司馬談は、道家思想への深い思いを抱いており、そのことは『史記』の太史公自序にも描かれている。そしてもちろん、『史記』の中にも老子という人物の伝記が書かれている。しかし、その伝記がきわめて混乱しており、実態をほとんど想像できない。司馬遷の時代においてすら、老子の人物像は不明瞭であったらしい。後世、それがますます混乱したのも、無理のないことであった。

老子なる人物の伝記が謎めいているのみならず、『老子』という書物の内容や、その中心に位置する道の思想もつかみがたい。そこで説明や注釈が求められた。後世、前漢の河上公なる人物が書いたという注と、魏の王弼が書いた注とが、『老子』解釈の二本の大きな柱となったが、前者の河上公注は、たいへんに興味深い『老子』観を示している。

そもそも河上公とは如何なる人物であるのか。河上公注『老子』につけられた、葛玄の序という文章によると、河上公は姓名未詳。前漢の文帝の時に黄河の岸辺に隠居して、『老子』を読み解いていた。文帝は、河上公が『老子』に通じていると聞いて召し寄せようとしたが、「そんなことでは道や徳は教えられない」と河上公が上京を拒むので、しかたなく文帝みずからが出向いてその非礼を責めたところ、河上公は手を打ってふわりと虚空に浮かび上がり、自分は帝王の指図を受けぬと宣言する。そこで文帝は河上公が神人であると悟り、礼を尽くして教えを乞うたところ、河上公は『老子道徳経章句』二巻を文帝に授け、「これをよく研究すれば、『老子』は分かるだろう。余がこの経に注をつけて以来、千七百年になるが、伝授したのは、あなたを含めて四人だけだ。人には見せるな」と言った。伝授を終えると、河上公はどこかに消えた、と。葛玄の序はそのように説く。河上公もまた、謎に満ちた人物である。

上記の逸話は、もちろん作り話に違いない。河上公注ができたのは、後漢の頃だという学者もあれば、南北朝の頃だという学者もある。その成書年代はともかく、内容には著しい特徴がある。それは道の思想を、国を治める政治思想としてとらえると同時に、自分の身体を治めるための思想ともみなしている点にある。『老子』冒頭の第一章に「これが道だといえるような道、それは常なる道ではない」とあるが、河上公によると、「これが道だといえるような道」とは政治の道のことで、他方、「常なる道」とは自然長生の道であるという。この「常なる道」に従うならば、自分の身体中にいる神を養うこともできるし、また同時に、民を治めることもできるのだ、そのように河上公は主張するのである。

これは非常におもしろい考え方だ。『老子』には、道に最も近い人間たる「聖人」の話題が頻出する。「聖人」とは、『老子』が書かれた頃の時代状況を背景に生み出された理想的人間像であるが、後世、聖人どころか、政治に携わることすらない一般人が『老子』を読むようになると、「聖人」の話題はどこか現実離れしたものと感じられたのではないか。しかし河上公は、「聖人」が国を治めるのと、身体を治めるのは、別物ではなく同じである、と、そのように説いた。こうして『老子』は、広い読者層にとって魅力的な書物となり得たのである。

このような『老子』読解は、曲解として片付けるわけにいかないところがある。というのも、中国思想の伝統には、自分にとって身近なもの、特に身体、それの類似として、政治や、宇宙の構造、そして万物の成り立ちをとらえる、そのような発想が濃厚にあるからだ。河上公の『老子』解釈をそういう伝統の中に置いてみると、あまり違和感なく自然に読める。もちろん、『老子』の作者がそういうつもりで書いたかどうかは、まったくの別問題であるが、ただ、河上公注のような『老子』解釈が後に生まれ、それが広く受け入れられたということは、吟味するに足る、中国思想史上の事実であると思うのである。

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易州龍興観『老子』の无と無


龍興観碑の无
龍興観碑の无

六朝時代、儒教経典のうち、『易』のみは(「無」ではなく)「无」の字を用いた、とのこと、すでに紹介いたしました。

『老子』において「無」は核心的な概念ですが、では、その用字法はどのようになっているのでしょうか。

唐代の『老子』の例として、景龍2年(708)、易州(今の河北省保定)の龍興観という道観(道教寺院)に立てられた石のテクスト、「景龍二年易州龍興観道德經碑」を挙げることができます。この碑の本文は無注本ではあるものの、河上公注本に属する本文を持つと言われており、朱謙之『老子校釈』(中華書局、1963)の底本にもなっています。

この碑は「道経」(『老子』の第1章から第37章まで)を石の表(碑陽と呼びます)に刻し、「徳経」(同、第38章から第81章まで)を裏(碑陰と呼びます)に刻しています。

「無」に着目してその拓本を見ると、奇妙なことに、「道経」についてはすべて「无」字を用い、「徳経」については、途中(64章)までは「無」字を用い、69章より後は「无」字を用いてあります。

『説文』によれば、「无」は「虛无の道」であるとのこと。「無」よりもさらに奥深そうな雰囲気です。「道経」は、「徳経」に比してもなお根源的である、とする立場に拠り、特に「无」字を用いたのかも知れません(「徳経」の69章より後の部分になぜ「无」を用いたのかについては、別途、考察が必要ですが)。

「景龍二年易州龍興観道德經碑」が『老子』テクスト中の善本であることは確かでありますが、このような「遊び心」があったり、また、字句も他の本と比べて相当に個性的です。それゆえ、『老子校釈』を利用する際には、他本への配慮が必要でしょう。

朱謙之の『老子校釈』では、「無/无」の使い分けについても、底本である「景龍二年易州龍興観道德經碑」を忠実に再現しています。つまり、第1章から第37章まで、そして第69章から第80章の各章には、「无」が用いられ、第38章から第64章までの各章には「無」が用いられています。同書をお持ちの方は、ご確認ください。

『老子校釈』では、第1章「无名」に注して魏稼孫と言う人の説を引いて、「景龍二年易州龍興観道德經碑」の「道経」部分はすべて「无」に作り、「徳経」部分の前半は「無」に、「行无行」(69章)より後はまた「无」に作る旨、すでに述べています。

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耳を切られて


四部叢刊初印本(左)と注疏叢刊本(右)
四部叢刊初印本(左)と注疏叢刊本(右)

四部叢刊に収める『老子』について言うと、初次印本と重印本の内容が少しばかり異なる、と書きました。そうは言っても、四部叢刊の初次印本も重印本も、貴重な線装本であり、一般の図書館では自由に閲覧できるものではありません。

私も初次印本のコピーを取りたいと思ったのですが、線装本のコピーはさすがに気が引けます。しかし、是非ともコピーする必要があったので、方法を考えました。北京の中華書局が1998年に出した「四部要籍注疏叢刊」というシリーズに収められた『老子』河上公注本が、四部叢刊の初次印本をもとにしたリプリントらしい、と気づき、これをコピーしたのです。

「四部要籍注疏叢刊」。四部叢刊の『老子』の初次印本をリプリントするという、素晴らしい着眼点なのですが、やや残念なのは、匡郭(木版本の上下左右を区切っている枠)内の内容は保全されているものの、それ以外の部分、すなわち「枠の外」が排除されている点です。

たとえば、「本の耳」である耳格が削除されています。耳格(書耳ともいいます)とは、宋版などによく見られるもので、各葉の枠の左上に篇名などを記す、古雅なものです。この宋版『老子』建安虞氏家塾刻本にも見えるのですが、一律に省かれています。

また、枠の外に書き入れた記録や印が抹消されています。巻上の終わりには、正徳11年(1516)と乾隆58年(1793)、二度の修理の記録が記されていますが、これも削除されており、味わいをやや減らした感があります。

なお、原本は現在、北京の国家図書館に蔵されていますが、かつては有名な大蔵書家、黄丕烈(1763-1825)の所持品でした。黄丕烈の蔵書記録、『百宋一廛書録』(嘉慶8年、1803序)にこの本を録して、「惜墨敝紙渝、且俗工装裱、殊不耐觀」と、その紙墨と装丁のまずさを言っています。いつか、原本を見る機会を得られれば、その装丁を拝んでみたいものです。

書物の内容にまったく関わらぬことですが、一人の本好きとして、善本の細部にも愛着がある、という話です。

愚かな「頭」


四部叢刊重印『老子』
四部叢刊重印『老子』
四部叢刊初印『老子』
四部叢刊初印『老子』

山城喜憲氏『河上公章句『老子道德經』の研究』(汲古書院、二〇〇六年)は、きわめて精細な『老子』河上公注の校勘学的研究です。同書の緒論に、四部叢刊本の『老子』を説明して、次のように言っています。

四部叢刊には初次印本と重印本とがあり、重印に際して一部の収載図書は底本を新出の善本と差し替えてある。しかし『老子道德經』の底本は、初次印、重印共に同本であって、影印本であるからにはどちらを使用しても変わりないはずであるが、実際には、僅かであるが字句に異同が存在する。重印時に無用な操作が施されたことが原因のようである。(p.25)

山城氏は、緒論の注(46)においてさらに詳しい説明を加えており、初次印と重印とで字が変えられている例として、第1章の「頑」が「頭」に変えられ、第15章の「米」が「采」に変えられ、第17章の「煩」が「須」に変えられている、と指摘しています(p.602)。

これを読み、急いで四部叢刊の初次印本と重印本を対照してみました。すると、確かに、第1章の「非常名」の河上公注の「外如愚頑」と初次印本にあるのに対し、重印本では、なんと「外如愚頭」に変えられているのです。山城氏がこれを「妄改」と評するのは、もっともなことです。

四部叢刊と言えば、善本の影印版の代表的なものであり、私も日常的に利用して裨益を受けていますが、残念ながら私の所有する台湾版も、重印本をさらにリプリントしたものですから、上記の「妄改」を免れていません。困ったものです。

なお、同じく山城氏の指摘によると、四部叢刊が重印を出した経緯については、商務印書館「印行四部叢刊啓例」(張静廬編『中国現代出版史料』甲編、巻4)に詳しい、とのことです(p.602)。

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『老子』の学び方


 『老子』はなかなか難しい本です。「薄い」というのがくせ者で、たとえば、訳のこなれた小川環樹訳(中公文庫、1973年)を読めば、1時間くらいで読み終えることができ、しかも、意味は通ったようにも思えるのですが、なかなか「読んだ」という以上の印象をもつにはいたらない人が多いようです。

 一方、いろいろと考えて読めば、ものすごく時間をかけて読むこともできますが、結局、何年も向き合った上、「分からん」となってしまう人もいます。そういう意味で、「読み方の難しい書物」だと思います。

 『老子』というテクストを支えている思考を生み出した背景がおぼろげながらでも分からないと、読んでも分からないという、思想的な難しさも、もちろんあります。「道」「聖人」のような概念をある程度まで近しく理解できないと、全体的に意味不明になるのかも知れません。

 アプローチは多々ありえます。まず、伝統的には、「注釈=解釈を通じて読む」読み方があります。しかし、実際問題、王弼も河上公も、そうとうに難しいので、あまり実用的ではありません。『韓非子』の喩老・解老篇を読むのは、意外によいヒントを得られる手かも知れません。

 また、異本どうしを比較する、「校勘学的」な方法も伝統的なやり方でしょう。ただ、この方法は、万人向けではありませんし、差のないところには意識が向かないという欠点があります。

 次に、英訳を読む方法があります(英語が堪能であれば、の話ですが)。曖昧模糊とした『老子』の原文に、5w1h的な要素が補ってあるので、像を結ぶことができます。寺田寅彦は、ドイツ語訳を読んで眼を開いたそうです。

 次に、さまざまな日本語訳や解説をたくさん読んで、日本語的な理解から出発するというやり方です。これがもっとも敷居の低いやり方で、多くの「漢文好き」が採用している方法です。しかし、敷居が低いだけに、自分なりの理解に至るのは困難で、たんなる「受け売り」になります。それゆえ、専門家になりたい人には勧めにくいのですが、『老子』くらい難解な対象の場合には、「方便」として積極的に使えるかも知れません。まず、日本語として理解した上で、次に原文に立ち向かう、という段取りですが、残念ながら、往々にして「日本語/原文」の差が曖昧となり、「知ったかぶり」に堕するのが普通です。

 私がよいと思うのは、陳鼓応(『老子註譯及評介』中華書局、1984年)などの中国の訳注を1冊読み、そして『老子』を中国音で聴いてみずから音読し、はじめから中国語として理解した上で、次に王弼注に進み、さらに自分なりに『老子』像を考え、その上で日本語訳を含めた諸家の議論を参照する、というものです。

 しかし、これはあまりにハードルが多く、高く、とにかく大変すぎて、学生にやらせようとしても、まだ効果があがっていません。これは自分が実践した方法で、自分なりには効果をあげましたが、万人に有効だとは思えない感じです。

 「中国古典の学び方」は、このブログの中心的な関心事なのですが、今年は個人的に、大陸に赴いて『老子』を講ずる予定もあり、最近、特に『老子』の読み方を再考しているところです。

岩波文庫『老子』の新版・旧版


 「功成り名遂ぐ」のエントリにて述べたように、『老子』の諸本には多様なものが存在し、なかなか複雑なものです。少なくとも、漢籍の中では複雑な方だと思います。

 最近、蜂屋邦夫氏が訳された岩波文庫の『老子』は、「王弼本」(「正統道蔵」所収のもの)を底本にしつつも、「河上公本」「馬王堆帛書」「郭店楚簡」を含む、他の系統の本文にも目配りがきいており、『老子』を読んでみようかという方は、一読なさるとよいと思います。

 詳しい注と、詳しい解説のついた、アカデミックな著作です。最近の岩波文庫は、単に閲読の便をはかるという以上に、アカデミックな方向を目指しているのかも知れません。本書といい、『高僧伝』といい、注と解説が充実しています。

 ただ、「王弼本」を底本とする原文と、訓読とが一致していないので、はじめ、戸惑うことがあるかもしれませんが、そこは「慣れ」です。

 一方、武内義雄が戦前に訳した「旧」岩波文庫の『老子』は、「河上公本」に基づくものですから、日本文化に関心のある方などは、これも手もとに置かれるとよいのではないでしょうか。以前、復刊もされましたし、古書店などで入手できるはずです。

 「新」岩波文庫本『老子』については、そのうち、詳しく紹介してみたいと思います。

功成り名遂ぐ


  「功成り名遂ぐ」という国語は、『老子』第9章の「功成名遂身退、天之道」に基づく成語です。

 持而盈之,不如其已。揣而鋭之,不可長保。金玉滿堂,莫之能守。富貴而驕,自遺其咎。功成名遂身退,天之道。

  しかしながら、国語辞書のたぐいでこの語を検しても、その出典として『老子』を明示しているものは、ほとんどないようです。なぜでしょうか?その理由について、明確な答えがあるわけではありませんが、私の見通しは、次のようなものです。

  伝統的に言って、『老子』の有力な本文系統が二つ、あります。魏の王弼が注をつけた「王弼本」と、河上公なる謎の人物が注をつけた「河上公本」です。

 それ以外に、近年、注目を集めている本文として、1970年代に湖南省から発見された前漢の写本、「馬王堆帛書」の甲本・乙本、1990年代に湖北省から発見された戦国時代の写本、「郭店楚簡」の甲本・乙本・丙本があります。ただし、「郭店楚簡」は、現行の『老子』81章の一部を収めるだけです。

 専門的に言うと、これほど簡単にはまとめられませんが、一応、「王弼本」、「河上公本」、「馬王堆帛書」、「郭店楚簡」くらいを頭に入れておくと、『老子』の本文の話は分かりやすくなるはずです。

 それぞれの本に文字の異同があるので、一口に『老子』といっても、どの本が根拠とされているかにより、議論が食い違うことがあります。

 さて、「功成り名遂ぐ」に話をもどしますと、この文句は、「河上公本」にしか、見えない本文なのです。「王弼本」にも、「馬王堆帛書」にも、「郭店楚簡」にも、見えません。「王弼本」では、この部分、「功遂身退,天之道」となっています。

 「功成名遂」の語が「河上公本」にしかない、という事実から、「日本では、伝統的に、(王弼本ではなく)河上公本が伝承された」ことが、推測できます。また、現在、日本に伝わっている『老子』の古写本は、すべて「河上公本」であり、「王弼本」の古写本は一つもありません。このことからも、日本では古くから河上公本が伝承されたことが確認できます。

 ことほどさように、日本の『老子』と言えば、「河上公本」なのです。しかし、近年、「河上公本」と「王弼本」の勢力関係は、完全に逆転したようです。たとえば、現在市販され、よく読まれている『老子』の訳本の底本は、ほとんどすべて「王弼本」である、という状況にあります。

 国語辞書の編纂者は、「王弼本」重視の流れを見て取り、さらにそこに「河上公本」に対する中国古典学者の「貶意」を読み取り、「功成り名遂ぐ」が『老子』(河上公本)に基づくという事実の指摘を避けているのではないか、というのが、私の推測です。邪推かも知れませんが。

 『日本国語大辞典』では、「功成り名遂ぐ」「功成り名遂げて身退くは天の道なり」の両項を立て、さすがに後者については、『老子』に基づくむね明記していますが、かえって前者に対して口を閉ざしているのは、やはり奇妙です。

 なお、「河上公本」は、文献学的な価値の低いものなどでは決してなく、私見に拠れば、「王弼本」以上に尊ぶべきものです。何しろ、「王弼本」には、古写本も宋版もないのですから。

 このような「王弼本」重視の状況にあって、たとえば日本文学を専攻する方が、能の〈舟弁慶〉の「功成り名遂げて、身退くは、天の道」の出典を調べようと『老子』を当たっても、これを検出するのは、容易ではないかも知れません。

The Classic of the Way and Virtue


 “The Classic of the Way and Virtue: A New Translation of the Tao-te ching of Laozi as interpreted by Wang Bi”、ずいぶん長い副題がついていますが、その名の通り、『老子』とその王弼注の英訳です。訳者はリチャード・ジョン・リン氏、カナダのトロント大学の名誉教授、とのこと。

 同書のイントロダクションに、次のような訳者のことばが見えます。

 『老子』とその王弼注とを訳し始めたころ、しばしば自分が陶鴻慶『読諸子札記』に示される読みに合うよう、『老子』と王弼注のテクストを修正して読んでいることに気づいた。しかししばらくして、陶鴻慶が単なるテクストの校勘をはるかに越えたことを行っていることに思い至った。彼は自分の考えに合致するように、根本的に『老子』及び王弼注を書き換えており、彼はそれらを書き換えることで、自分の考える正しい解釈をテクストが意味するようにさせていたのだ、と。

 (『老子』王弼注の代表的な整理者である、)波多野太郎も樓宇烈も、陶鴻慶の読みと解釈を引用するが、時にそれらを皮相・誤りとして拒否しており、そして拒否はしばしば生じており、私は陶鴻慶の示唆する読みのほぼすべてを疑うようになっていった。そこで私は作業の初めに立ち戻ってやり直すことにして、陶鴻慶の示唆のほぼすべてを棄て、出来るかぎりテクストをいじらぬよう、決意したのである。(p.21)

 陶鴻慶(1859-1918)の『読諸子札記』は、近代的な感覚で諸子の書物を校勘した著作です。「分かりやすくなるように、大胆にテクストを校勘する」といった印象です。

 一人の西方の学者が、はじめ、陶氏の読みの通りの良さに従いながら、後に「陶鴻慶の示唆する読みのほとんどすべて(almost all of Tao’s suggested readings)」を疑うようになった、というのは、非常に興味深い話です。私の目からしても、古文献の本文をあまりにきれいに(つまり、現代人の頭に分かりやすいように)直しすぎる陶鴻慶の読みは相当に疑わしいものであり、リン氏の気づきは、結果としてたいへんよかったのではないかと思います。

 とはいえ、リン氏が結果的に底本とした楼宇烈氏『王弼集校釈』(中華書局,1980)も、少なからぬ箇所において、陶鴻慶の説に従っています。『老子』王弼注のテクストには問題が多く、そのままの状態では読みがたいのが、悩ましいところです。たとえば、『老子』第一章「此兩者同出而異名,同謂之玄」の王弼注は、楼氏の本では次のようになっています。

不可得而名,故不可言同名曰玄。而言〔同〕謂之玄者,取於不可得而謂之然也。〔不可得而〕謂之然。則不可以定乎一玄而已。

 亀甲括弧に入れた5文字が、陶鴻慶の説により補われたものです。リン氏も、その結果に従って英訳されています。

 さて、『老子』を十分に理解しようとするなら、王弼(226-249)の注を読むことが、どうしても必要です。たとえば現代の翻訳本で、直接・間接に王弼の解釈の影響をまったく受けていないものなど、皆無なのでは、と想像します。『老子』の訳を読んで、「老子を直接に理解した」と思っても、実はもとをたどれば王弼の解釈につながっている場合が多いのです。

 その王弼注に立派な英訳があるのは、彼らの福でしょう。ひるがえって、『老子』の思想に憧れる人の多い我が国には、いまだその訳書がありません。注釈という性質の都合上、日本の出版界には受け入れられないのでしょうか?いずれによせ、あきたりないことです。

“The classic of the way and virtue : a new translation of the Tao-te ching of Laozi as interpreted by Wang Bi” ,  translated by Richard John Lynn, Columbia University Press (Translations from the Asian classics), 1999。Webcat所蔵館は4館。