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道蔵輯要本『天隠子』


道蔵輯要プロジェクト(道藏輯要研究計畫、Daozang Jiyao Project)は、『道藏輯要』所収の諸書の解題作成を目指す研究計画です。その求めに応じ、いくつかの書物の解題を書きましたので、一書ごとに分載いたします。解題集が出版された際には、あらためてご案内します。

天隠子 危7(KX12:5291-5292; BR5:265-269)

【書名】

本書に附されている司馬承禎の序によると、彼が入手した本にすでにこのように題されていたものらしい。なお、書中にも天隠子の言葉が見える。

【撰者】

本書の撰者は未詳である。唐の司馬承禎(647-735)の序文が附されていることから、それ以前の成書であることが分かる。伝本の中には、司馬承禎の撰とするものが多いが、疑わしい。晁公武(1105-1180)の『郡斎読書志』に、「天隠子は子微(司馬承禎)である」とする王古の説が見え、陳振孫(1183?-1262?)も『直斎書録解題』にて、「この論は司馬承禎の著作である「坐忘論」と表裏する関係にあるので、天隠というのは仮託ではないか」と疑っている。しかし、これらはいずれも憶測の域を出るものではなく、司馬承禎「天隠子序」に「天隠子は、吾、その何許の人なるかを知らず」といっている以上、作者未詳とせざるをえない。道蔵輯要本には撰者を書かない。

なお、本書に注釈が含まれている部分がわずかながらあり、これを司馬承禎が書いた可能性はあろう。

【テクスト】

『新唐書』芸文志には本書の名が見えないものの、宋の晁公武『郡斎読書志』、陳振孫『直斎書録解題』とも、「『天隠子』一巻」として著録する。

道蔵・道蔵輯要本以外に、明代の『説郛』に収める本文があり、また明代の周子義が刊行した諸子書の叢書である『子彙』や、清末の光緒元年(1875)に崇文書局から刊行された『百子全書』(『子書百家』ともいう)にも収められている。また日本では江戸時代、明和六年(1769)、木村兼葭堂が校した和刻本が大坂で浅野弥兵衛刊本として出された。諸本の本文に、大きな差異は存在しない。

司馬承禎「天隠子序」に「著書は八篇」と明記されているので、現行本は完本と考えられる。

【構成】

巻頭には、司馬承禎「天隠子序」が冠せられている。

一巻、八章からなる。その第一は神仙、第二は易簡、第三は漸門、第四は斎戒、第五は安処、第六は存想、第七は坐忘、第八は神解である。それぞれの章はたいへんに短いが、全体の議論はよく整えられており、論旨は明瞭である。

四庫全書では、「わずか二三紙の分量しかなく、一巻とするには足りない」という理由から、成書の時代が近いらしい『玄真子』の附録としている。

【内容】

本書の内容を、章ごとに見てゆきたい。

  • 第一の神仙篇では、人は「虚気」を受けて生まれ、修行を怠らなければ、身体が「神宅」となる、と説く。「我が虚気を修め、世俗の淪折する所と為る勿れ。我が自然を遂げ、邪見の凝滞する所と為る勿れ」と説く。
  • 第二の易簡篇では、『易』繋辞伝上に「乾は易を以て知り、坤は簡を以て能くす」と見える、「易簡」なる概念を説く。天隠子のことばとして、「易簡とは、神仙の徳なり」といい、神仙の道を学ぶには、まず方法が自然で易しいことを知るべきであり、奇妙な方法を好めば迷妄に陥る、と説く。
  • 第三の漸門篇では、『易』に漸卦があり、『老子』に「衆妙の門」を説く通り、修行において、頓悟を果たすことは不可能であり、一歩一歩進む以外にないことをいう。そのために「漸門」なる修行の階梯が設けられており、それが「斎戒」「安処」「存想」「坐忘」「神解」の五つの方法である、という。斎戒とは、身を清め心を虚しくすること。安処とは、静室にこもること。存想とは、心をまとめて本来の性質に立ち戻ること。坐忘とは、身体や自我を忘れ去ること。神解とは、すべての存在が神に通じること、という。これらの関門を一つ一つくぐり抜けることにより、神仙となることができると説く。
  • 第四の斎戒篇では、斎戒といってもただ菜食したり身を清めたりするだけでなく、食事を節制して体の中を調え、按摩によって体の外をのびやかにすることだ、と説く。そのための具体的な方法も説かれている。
  • 第五の安処篇では、修行者が過ごす部屋のしつらえ、窓の設け方などを説く。
  • 第六の存想篇では、自己の精神を保持し、自己の身体を想うことを説く。それは、自分の目と心とを見つめることだという。ここまで来れば、「道を学ぶの功は半ばなり」という。
  • 第七の坐忘篇では、坐忘とは、前述の存想によって得、また存想によって忘れることだ、という。「道を行いてその行いを見ず、坐の義にあらずや。見ること有りてその見を行わず、忘の義にあらずや」といい、いながらにして認識の働きを停止することで、坐忘を実践するという。
  • 第八の神解篇では、斎戒から坐忘までの四つの段階の修行を終えることで、神解が完成するという。すなわち、斎戒によって信解が、安処によって閑解が、存想によって慧解が、坐忘によって定解が得られ、その四つの門が神に通じることが、神解なのだ、と説く。生死・動静・邪真などの対立も、この神解によって解消することができ、以上、五つの「漸門」により、神仙の道へと至るのだ、と総括する。

なお内容的に言って、本書の司馬承禎『坐忘論』との間に関係があるか否か、議論が重ねられている。早くも宋代、曽慥『道枢』巻二、坐忘篇中に、まず『天隠子』を引用し、さらにそれに対する司馬承禎の「吾はすなわち是と異なり」という論評を載せている。これが確かな資料であるとすると、司馬承禎も、『天隠子』と自身の坐忘に関する見方の差異を認識していた、ということになろう。

【参考文献】

  • 彭運生「論『天隠子』与司馬承禎『坐忘論』的関係」(『中国哲学研究』1998年第4期)
  • 坂出祥伸「『漢武帝内伝』『天隠子』両和刻本について : 大神貫道と木村蒹葭堂」(『汲古』 61、 2012年)。
  • Livia Kohn, “The Teaching of T’ien-yin-tzu”, Journal of Chinese Religions, 15 (1987). (『天隠子』全文の英訳を含む)

道蔵輯要本『玄真子』


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玄真子 危7(KX12:5291-5292; BR5:265-269)

【書名】

唐の張志和の号である玄真子を、著者自らが書名としたものであろう。

【撰者】

唐の張志和の撰。張志和は、『新唐書』隠逸伝に立伝されており、それによると、字は子同、婺州金華の人。初め、名を亀齢といった。父の張游朝という人物で、『荘子』『列子』に詳しく、それらに関する著書があった。肅宗(在位756-762)の時代、張志和は、十六歳の時に科挙の明経科に及第し、翰林院待詔となり、左金吾衛録事参軍の官を与えられ、志和の名を肅宗から賜った。その後、ある事件にまきこまれて南浦の尉に左遷されたが、恩赦を受けた。しかし、その後は仕官せず、みずから煙波釣徒・玄真子と称し、『玄真子』を著した。それ以外に、『太易』十五篇の著があり、この書物は三百六十五の卦を備える占いの書物であったらしい。また陸羽や顔真卿とも交流があったと、『新唐書』は伝える。それ以外にも、山水画を善くしたという。当時、よく知られた隠者であったらしい。

『新唐書』以外に、顔真卿が「浪跡先生玄真子張志和碑」を書いており(『顔魯公文集』巻九)、その内容は『新唐書』と基本的に一致するが、異なる部分もある。また、『歴代名画記』巻十、『唐才子伝』巻三にも張志和の伝を載せている。

【テクスト】

本書は、早くも『新唐書』芸文志に著録されているが、ただしその記載に混乱がある。すなわち、丙部子録道家類に「(張志和)『玄真子』十二巻。韋詣、内解を作る」と見えるにも関わらず、同類の神仙家の分類に「張志和『玄真子』二巻」と重出しており、しかも巻数に齟齬がある。顔真卿「浪跡先生玄真子張志和碑」にも同書を十二巻としているので、十二巻本があったことは事実であろう。

陳振孫(1183?-1262?)の『直斎書録解題』は、本書を録して、「『玄真子』外篇、三巻。唐の隠士、金華の張志和撰」といい、「『新唐書』には十二巻とするが、現行本は三巻しかないので、一部だけなのだろう。外篇というからには、内篇もあったに違いない」という。南宋の頃には、三巻本が伝わっており、しかも「外篇」と書かれていたことが分かる。なお現存諸本のうち、道蔵本が「外篇」と明記するものの、そのように明記しない本が多い。

本書は四庫全書にも収録されており、その本は、道蔵輯要本と同じ構成を持っている。『四庫提要』には、「伝わっているのは三篇だけで、第一は碧虚、第二は鸑鷟、第三は濤之霊で、あわせて一巻となっている。陳振孫のいうのとも異なるが、ことによると、南宋時代の本は一篇を一巻としていたのかもしれない」という。陳振孫はただ三巻というのみで、その篇目をいわないので、現行本と南宋時代の本とがどのような関係にあるのかは、確言できない。

刊本としては、道藏本、道蔵輯要本以外に、明代の周子義が刊行した諸子書の叢書、『子彙』にも収められており、その内容は、現行本と同じである。また、清末の光緒元年(1875)に崇文書局から刊行された『百子全書』(『子書百家』ともいう)にも収められている。

【構成】

「碧虚」「鸑鷟」「濤之霊」の三篇からなる。実録らしく思われる文章はごく少なく、複数の寓話から成り立っている。それぞれの篇の篇名は、篇の書き出しの二文字か三文字をとったものであり、古雅な命名法である。

「碧虚」篇は、短い序に続いて、黄郊(地)の神である祇卑、紫微(天)の神である神尊、碧虚の神である霊荒の三者の問答から始まり、さらに碧虚と紅霞の問答がそれに続き、その紅霞が造化という神を探す旅に出る様子を描く。

「鸑鷟」篇は、一連なりの寓話ではなく、五つの寓話を並べたものである。第一に、鸑鷟、狻麑、中華子の問答。第二に、太廖、無辺の問答。第三に九大に関する寓話。第四に鵜という怪鳥を射落とす寓話。以上の数話が収められている。

「濤之霊」篇も、いくつかの寓話からなる。第一に、濤の霊である江胥、漢の神である河姑、それに至元という神による問答。第二に、呉生という画家と玄真子の対話であり、これは実録らしく思われる。第三に、蓮の葉にたまった水の譬喩。第四に、日月や死生に関する議論。第五に、有無に関する議論。第六に、影と光の問答。第七に、黙と寂の問答である。

【内容】

全体として、一貫した構成をもっているわけでなく、複数の寓話や議論を集めたものである。大部分、複数の神に仮託した寓話の形式を取っているため、『荘子』『列子』に似ると評せられ、「その主旨は道家の虚無玄妙の説に帰着する」といわれる(『道蔵提要』)。

本書のうち、「碧虚」篇の内容はかなりまとまったものである。「構成」の項に記したとおり、碧虚の神と紅霞の神との問答が含まれているが、紅霞が碧虚に向かって、「それ造化の端、自然の元、その体は若何(夫造化之端、自然之元、其体若何)」と問いかけ、碧虚が「空洞の歌」を歌って、「自ること無くして然り、自然の元なり。造る無くして化す、造化の端なり(無自而然、自然之元。無造而化、造化之端)」とそれに答えている。それを受けて、紅霞は造化に会うための旅に出かけるが、東西南北をめぐっても、なかなか造化に出会うことが出来ない。行く先を見失っていたところ、神と易という名の二人の子どもに遭遇し、造化と会うための手がかりを得て、造化に謁見する。造化に会って大いに満足した紅霞は「至道の無有を知る(知至道之無有也)」という境地に至ったという。その造化は神として描かれているものの、張志和にとっては、中心となる概念であったように思われる。

「濤之霊」篇の第二の章は、呉生なる画家と玄真子の会話であり、ここにのみ、作者の張志和が表立って登場している。呉生は、「鬼」の絵の名人として紹介され、「あなたが造化の質問をしたのに感じ入り、私も造化の答えをせざるをえない」と玄真子に答えている。ここでも、『荘子』に由来する造化という概念が重んじられ、さらにそれが絵画の実践をささえるものとして表明されている。

それぞれの寓話や問答の背景は、十分に理解しがたいが、唐代における老荘思想の展開を示す一書として、資料的な価値の高いものと考えられる。

【参考文献】

  • 何建明「『玄真子』造化観探析」(『中国道教』1994年第2期)。
  • 陳耀東『張志和研究』(新華出版社、2007年)。

道蔵輯要本『劉子』


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劉子 危7(KX12: 5276-5282; BR5:259-262)

【書名】

劉昼という人物の著した子書であると考えられ(後述)、著者自身がみずからの姓を冠したものであろう。

【撰者】

北斉の劉昼(514-565)の撰と考えられるが、撰者については異説がある。

『隋書』経籍志には、「梁にはあったが、隋にはなかった」書物として、『劉子』十巻を載せるが、これについては詳細が分からない(後述)。『旧唐書』経籍志では、「『劉子』十巻。劉勰撰」とし、『新唐書』芸文志もこれを踏襲する。『劉子』は梁の劉勰(465?-?)の著作であるとする説が、すでに唐代にあったことは確実である。

一方、唐の人である袁孝政が本書に注を付け、その序文に、「劉昼は己の不遇を傷み、天下の凌遅に遭い、江表に播遷し、故に此の書を作る」と述べた。この序文の全文は現在、伝わっていないが、その引用が陳振孫(1183?-1262?)の『直斎書録解題』に見える。それによると、少なくとも袁孝政は同書を劉昼の著作と考えていた。すなわち唐代には、劉勰撰述説と劉昼撰述説とが存在していた。

それ以後も、長く両説が競い合っており、いまだ決定的な解決を見ていない。目録学者の王重民や『劉子集校』の作者である林其錟と陳鳳金は、劉勰撰述説を唱える。一方、目録学者の余嘉錫は劉昼撰述説を唱えている。『北斉書』儒林伝の劉昼伝にも、『梁書』文学伝の劉勰伝にも、『劉子』に関する記述は見えず、両説ともに決め手を欠く状況である。

近年、吉川忠夫氏が『広弘明集』に見える道宣(596-667)の劉昼批判を根拠として、あらためて『劉子』は劉昼の撰であると主張された。筆者も吉川氏の説に同意するが、しかし劉昼の撰と断定するには難点がひとつある。もし劉昼が書いたとすれば、「『劉子』十巻は、梁にはあったが、隋にはなかった」という『隋書』経籍志の記述が説明できないのである。

隋志の「梁にはあった」という記載は、梁の阮孝緒(479-536)が普通四年(523)にまとめた『七録』を参考にして、唐代初期に注記された、と考えられている(姚振宗『隋書経籍志考証』の説)。そうであるとすると、514年に生まれた劉昼の著書が523年に編まれた『七録』に収められた、ということになる。これは明らかに矛盾である。

この隋志の記述には誤りがあるのではないかと筆者は疑っている。隋志のその記事の前後に並ぶ書名を見ても、南北朝時代後期のものではなく、魏晋時代頃のものである。『劉子』十巻が隋の目録に載っており、編集の過程で誤りが生じて現在のような記載になっていると仮定すれば、劉昼撰述説が認められるものと考える。

『北斉書』儒林伝の劉昼伝によると、劉昼、字は孔昭、渤海阜城の人であった。貧しい家の生まれであったが、学問を好み学習を続けた。同郷の儒者、李宝鼎から三礼を、馬敬徳から春秋を授けられ、後に上京してさらに学んだ。河清年間(562-565)、秀才に挙げられたものの、及第せず、失意のまま過ごした。「六合賦」、『高才不遇伝』などの著作があった。大言壮語を好み、世に容れられることはなかったという。

【テクスト】

上記のように、撰者については唐代以来、長い論争があるものの、本書は早くからよく読まれたらしく、伝本が多く伝えられている。

まず、敦煌から出土した写本がいくつか存在する。フランス国家図書館に蔵する二本(P3562およびP3704)、羅振玉旧蔵で現在、東京国立博物館に蔵する一本がそれである。

次に、木版印刷された本としても、黃丕烈の跋文を有する宋版(上海図書館蔵)や、多数の明版など、複数の善本が存在する。

諸本について、注の有無から考えると、上海図書館本以下、唐の袁孝政の注を有するものと、それを有しないものに分けられ、重刊道蔵輯要本は後者に属する。

また巻頭における撰者の表記に注目すると、劉勰の撰と題するもの、劉昼の撰と題するもの、著者名を明記せずにただ袁孝政の注(註)と題するものなどがあるが、重刊道蔵輯要本は「劉昼著」と題している。

【構成】

重刊道蔵輯要本の本書の巻頭には、まず、撰者を明記しない「劉子序」が冠せられている。この序は、「按『劉子』五巻五十五篇、『北斉書』以為劉昼字孔昭撰」と始まるものであり、その内容は、明の万暦二十年(1592)に刻された、「吉府刻二十家子書」本『劉子』の序、すなわち吉藩潭州道人徳山子「劉子書序」と一致する。重刊道蔵輯要本の序は、吉府刻本からとられたものであろう。

まず、本書の篇目を通行本にしたがって列記する。清神第一、防慾第二、去情第三、韜光第四、崇学第五、専学第六、弁楽第七、履信第八、思順第九、慎独第十、貴農第十一、愛民第十二、従化第十三、法術第十四、賞罰第十五、審名第十六、鄙名第十七、知人第十八、薦賢第十九、因顕第二十、託附第二十一、心隠第二十二、通塞第二十三、遇不遇第二十四、命相第二十五、妄瑕第二十六、適才第二十七、文武第二十八、均任第二十九、慎言第三十、貴言第三十一、傷讒第三十二、慎隟第三十三、誡盈第三十四、明謙第三十五、大質第三十六、弁施第三十七、和性第三十八、殊好第三十九、兵術第四十、閲武第四十一、明權第四十二、貴速第四十三、観量第四十四、随時第四十五、風俗第四十六、利害第四十七、禍福第四十八、貪愛第四十九、類感第五十、正賞第五十一、激通第五十二、惜時第五十三、言苑第五十四、九流第五十五。以上のとおりである。

ところが、重刊道蔵輯要本では、全五十五篇のうち、「清神第一」から「慎独第十」までの十篇のみを載せており、「貴農第十一」以下の本文を欠いている。すなわち、重刊道蔵輯要本『劉子』は完本ではない。

【内容】

以下、篇ごとに本書の内容を紹介する。

  • 清神第一は、生命が形・心・神の三者からなるとし、まず神を修めることにより、養生すべきことを説く。自己の外から起こる欲望により、生を傷つけないようにすべしという。
  • 防慾第二は、人には性と情とがあるが、情は慾によって動く。慾が情を傷つけ、その情が性を傷つけるという構造があるので、慾に目がくらまないよう注意すべきと説く。
  • 去情第三は、是非の判断は情から生まれるとし、情を取り去ることが肝要であると説く。
  • 韜光第四は、自己の美点を誇れば必ず傷つき、それを隠せば生命を全うできるといい、自己の影をくらまし、知恵を隠して生きるべしと説く。
  • 崇学第五は、「人の学ばざれば、すなわち才智、心胸に腐る」といい、学ぶことの必要性を説き、それによって道を得ることができるという。
  • 専学第六は、かたちばかり学ぶのではなく、心を学ぶことに向けてこそ、感覚器官が働くと述べ、「学ぶ者は必ず精勤専心し、もって神に入るべし」という。
  • 弁楽第七は、音楽の長所と短所とを説く。適切に音楽を用いれば、道に至ることもできる一方、そうでなければ生を乱すことになる、という。
  • 履信第八は、信とは行いの基であり、行いは人の本である、と説く。それゆえ、信を重んずべきという。
  • 思順第九は、もって生まれた五性にしたがうならば行いが完成するという。「君子、もしよく忠孝仁義たり、信を履み順を思えば、天よりこれを祐け、吉にして利ならざるなし」と説く。
  • 慎独第十は、『礼記』中庸篇を踏まえ、「善なる者は行いの総、須臾も離るべからざるなり。離るべきは道にあらざるなり」といい、誰も見ていないところにいても、常に正しいことをすべし、と説く。

総じて、第一篇から第四篇までは道家的であり、第五篇から第十篇までは儒家的である。しかし、生を傷つけずによく生きることに主眼があり、論旨は一貫している。

『隋書』経籍志が、『劉子』十巻を子部雑家類に収めて以来、おおむね本書は雑家の書として分類されてきたが、本書は人の修養の重要性を繰り返し説いており、道教徒にもそれなりに重んじられてきたのかもしれない。

また、道蔵輯要本において、なぜ第一篇から第十篇までが抜粋されたのかというと、個人の修養を説くこの十篇が、ひとつのまとまりとしてとらえられ、特に重視されたためとも考えられる。

【参考文献】

  • 王叔岷撰『劉子集証』(中央研究院歴史語言研究所、1961年)。
  • 林其錟・陳鳳金集校『劉子集校』(上海古籍出版社、1985年)。
  • 楊明照校注『劉子校注』(巴蜀書社、1988年)。
  • 傅亞庶撰『劉子校釈』(中華書局、1998年)。
  • 吉川忠夫「読書箚記三題」(『中国思想史研究』23、2000年)
  • 亀田勝見「『劉子』小考」(『宮澤正順博士古稀記念 東洋比較文化論集』青史出版、2004年)。

道蔵輯要本『南華真経注疏』


道蔵輯要プロジェクト(道藏輯要研究計畫、Daozang Jiyao Project)は、『道藏輯要』所収の諸書の解題作成を目指す研究計画です。その求めに応じ、いくつかの書物の解題を書きましたので、一書ごとに分載いたします。解題集が出版された際には、あらためてご案内します。

南華真経注疏 牛1-8(KX9:3515-3989; BR4:1-209)

【書名】

本書は、先秦時代の道家の書、『荘子』の注釈である。西晋の郭象が注した「注」と、唐初の道士、成玄英がそれを再解釈した「疏」の部分からなる。おそらく、郭象の『荘子』注(『荘子』本文に注を付したもの)と、成玄英の『荘子疏』を、後に取り合わせて一書としたものであろう。取り合わせられた時代は、唐代から宋代の間である。北宋の張君房は、郭象注と成玄英疏とをあらためて校訂したという(陳景元『南華真経章句余事』)。

『南華真経』という呼称にも、問題がある。重刊道蔵輯要本の書名は『南華真経注疏』であるが、もともと成玄英の疏は『荘子疏』と名づけられていたが、その後、唐代のうちに現在の書名に改称されたものであろうと考えられる。

唐の玄宗の天宝元年(742)二月、詔勅が発せられ、それにより、荘子は南華真人と呼ばれ、その著『荘子』は『南華真経』と呼ばれることとなった(『旧唐書』礼儀志四)。すなわちそれ以前には、『荘子』が『南華真経』と呼ばれることはなかった。『隋書』経籍志に、梁曠『南華論』二十五巻なる書が見えるから、唐代以前に荘子を南華と呼ぶことがあったと分かるものの、『南華真経』の呼び名は天宝元年以降のものである。成玄英自身も、注釈の中で南華真人および『南華真経』の名を使っていない。

【撰者】

注は晋の郭象(?-312?)の注。疏は唐の道士、成玄英(7世紀前半ころ活躍)の撰。

郭象の伝は、『晋書』に見える。それによると、郭象、字は子玄、若くから才能あふれ、老荘を好み清言に長じていた。太尉の王衍は、「象のことばを聴くと、まるで滝から水が落ちるようで、注がれて尽きることがない」と評した。州郡から召されても、応じなかった。静かに暮らし、文章を楽しみとしていた。後に、司徒の副官として召された、黄門侍郎の官に至った。東海王の司馬越が引き立てて、太傅主簿とし、信任されたが、権勢を振るい、影響を行使するようになり、かねてからの評判は失われた。永嘉年間の末に病死し、『碑論』十二篇を著した。

それ以外に、『晋書』本伝は、郭象の『荘子』注のことを伝えるが、すでに存在した向秀の『荘子』注を剽窃した、とする。しかしこれについて、現存の『荘子』注を郭象のものと認めるべきとする説が、現在では有力である。

疏を書いた成玄英は、正史には伝が立てられていないが、『新唐書』芸文志に、簡略な記事が記されている。すなわち、それによると、成玄英、字は子実、陝州(現在の河南省三門峡市)の人、東海(現在の江蘇省連雲港市)に隠居していたが、貞観五年(631)、召されて長安に至った。永徽年間(650-655)、郁州(現在の江蘇省連雲港市)に流された。『荘子疏』が完成すると、道王の李元慶(高祖の第十六子)は、賈鼎という人物を派遣してその大義を学ばせ、嵩高山の李利渉がこれに序を書いたという。

また成玄英による本書の序に、「唐西華法師成玄英撰」と記されているので、長安にいた頃、彼は西華観という道観に住したことが知られる。さらに、道宣(596-667)の『続高僧伝』に成英、成世英として、同『集古今仏道論衡』には成英として見え、これらの記事から、その時期の成玄英の活動をうかがうことができる。

【テクスト】

早くも『旧唐書』経籍志、丙部子録、道家類に「『荘子疏』十二巻。成玄英撰」と見え、『新唐書』芸文志も同内容である。『宋史』芸文志、子類、道家類では「成玄英『荘子疏』十巻」とし、巻数が異なる。

本書には、『南華真経注疏』と題する南宋時代の版本が存在し、古く日本に伝えられ金澤文庫に収められた。十巻(ただし、欠巻がある)。現在、静嘉堂文庫美術館に蔵し、国の重要文化財に指定されている。この本は、黎庶昌が光緒十年(1884)に出版した『古逸叢書』の一冊として覆刻されており、現在では中国でもよく知られる。郭象注本『荘子』と成玄英の疏とをまとめて編輯したものである。

南宋版を除くと、正統道蔵に収める三十五巻本の『南華真経注疏』(0743 洞神部 27-21639 507-519)が重要である。この本も、郭象注本『荘子』と成玄英の疏とをまとめたものである。道蔵に収められていながら、長い間、学者に知られておらず、四庫全書が編纂された十八世紀後半において、道蔵に本書が含まれることが知られていなかったので、四庫全書に収録されなかった。十九世紀末、郭慶藩(1844-1896)が『荘子集釈』を著した際にも、古逸叢書本のみに基づいており、道蔵本が参照されていない。

そのほかに和刻本一種が存在する。すなわち、万治四年(1661)、中野宗左衛門刊本の『南華真経注疏解経』三十三巻である。 この和刻本は、「和刻本諸子大成」第十一輯(汲古書院、1976年)にも収められている。

【構成】

現行の荘子は、すべて郭象が整理した三十三篇本に由来するものであり、その三十三篇本は内篇・外篇・雑篇に大分されている。本書もそれに従っているので、そのうちわけを記しておく。

内篇は、逍遥遊第一、斉物論第二、養生主第三、人間世第四、徳充符第五、大宗師第六、応帝王第七の諸篇からなる。

外篇は、駢拇第八、馬蹄第九、胠篋第十、在宥第十一、天地第十二、天道第十三、天運第十四、刻意第十五、繕性第十六、秋水第十七、至楽第十八、達生第十九、山水第二十、田子方第二十一、知北遊第二十二の諸篇からなる。

雑篇は、庚桑楚第二十三、徐無鬼第二十四、則陽第二十五、外物第二十六、寓言第二十七、譲王第二十八、盗跖第二十九、説剣第三十、漁父第三十一、列禦寇第三十二、天下第三十三の諸篇からなる。

重刊道蔵輯要本の本書は、まず巻頭に郭象「南華真経注序」および成玄英「南華真経疏序」を冠し、その本文は八巻からなる。本文の構成は以下のとおりである。

  • 第一巻には、内篇の逍遥遊第一から養生主第三までを収める。
  • 第二巻には、内篇の人間世第四から応帝王第七までを収める。
  • 第三巻には、外篇の駢拇第八から天地第十二までを収める。
  • 第四巻には、外篇の天道第十三から刻意第十五までを収める。
  • 第五巻には、外篇の繕性第十六から達生第十九までを収める。
  • 第六巻には、外篇の山水第二十から知北遊第二十二までを収める。
  • 第七巻には、雑篇の庚桑楚第二十三から外物第二十六までを収める。
  • 第八巻には、雑篇の寓言第二十七から天下第三十三までを収める。

重刊道蔵輯要本の篇巻の構成は、以上の通りであるが、さらに、各篇における『荘子』本文、郭象注、成玄英疏の体裁についても触れておく。まず、『荘子』本文を短く示し、次に改行して、行の冒頭に「注」と明記して、『荘子』本文を解釈する郭象注を示し、さらに改行し、行の冒頭に「疏」と明記して、成玄英疏を示している。

【内容】

本書の内容は、『荘子』本文の内容、郭象注の内容、成玄英疏の内容に分かれるが、ここでは、『荘子』本文を解説することはせず、注釈の内容を解説する。郭象注については最小限の記述にとどめ、成玄英疏について紙幅をさきたい。

郭象注は、西晋時代に著された最も有力な『荘子』の注釈である。まず郭象は、当時、五十二篇本であった『荘子』の一部を削除し、三十三篇に改変した。陸徳明『経典釈文』には、「『漢書』芸文志に『莊子』は五十二篇といい、司馬彪や孟氏が注釈した本がそれに当たる。奇矯なことばが多く、『山海経』に似ていたり、『占夢書』に似ていたりするところがあり、注釈者が自分の判断で取捨選択している。内篇に関しては、諸家ともに同じであるが、それ以外は、外篇はあっても雑篇がないものなどが存在した。郭象の注のみが、ひとり荘子の主旨に合致しており、世に重んじられている」という。南朝末期において、『荘子』郭象注が如何に重んじられたかを伝える、貴重な証言である。

郭象のとらえた荘子の主旨とは、聖人による理想的な世の現出を考える、一種の政治思想である。すなわち、聖人が是非の判断を停止し、何物にもとらわれず世に順応することにより、万物の生を妨げず、それにより万物それぞれが自得し、安寧が得られる。それを伝えるために『荘子』という書物は書かれた、とする。郭象によれば、歴史的事実としての王などの事跡は、個別的な足跡である「迹」にすぎず、その背後には、それらさまざまな「迹」を生み出す「所以迹」(それによってさまざまな「迹」が生まれる力)がある。それゆえ、個別の出来事に拘泥して価値判断を働かせることは、人々をさかしらにし、不幸にするものとされ、厳しく批判される。郭象は、『荘子』に見える固有名詞を実在のものとしてとらえたり、その考証を行ったりすることにも批判的である。

では成玄英の場合、如何なる注釈を施したのか。郭象注に基づいて『荘子』を再解釈した成玄英は、基本的には、郭象が作った枠組みの中で『荘子』を説く。すなわち「道を体した聖人」が世に出現して、是非をふくめたあらゆる判断を停止して、「自然」に順応することで世を教化し、「重玄至道の郷」「道徳の郷」などと呼ばれる本源に回帰することを理想とする。枠組み自体も、また個別の『荘子』本文の解釈も、成玄英はほとんど郭象を逸脱しないが、成玄英の独自性も乏しくはないので、以下にそれらを指摘する。

第一に、成玄英は道士であり、道教の観点から『荘子』を解釈している。老子を「老君」と呼んで尊崇して「大聖」と位置づけており、老子に関する記述を寓言と見る郭象を批判している。また、『荘子』が道教経典『西昇経』を引用したと主張するなど、道教の立場から『荘子』を解釈している。この点、道教と無縁の郭象とは大いに異なる。

第二に、当時の道教研究の進展を受けて、三論宗の仏教から大いに術語を取り入れ、それによって『荘子』を解釈している。すなわち、「四句百非」「境智」「空」などの仏教語を駆使して『荘子』を読み解いているのである。

第三に、上記の第一点、第二点とも関わるが、南北朝時代における『老子』研究の深化、および上記の三論宗の教理の受容にともなって生まれた「重玄」という概念を用いて『荘子』を解釈した。「重玄」は、成玄英が洗練して自身の思想の核心とした概念であり、『老子』第一章の「玄のまた玄」を根拠とするが、単に、神秘のさらにある神秘を指すのみならず、あらゆる対立を超えたその先にある道のあり方をも含意する。郭象も二項対立を超克すべきことは説いたが、否定の先をさらに際限なく否定してゆく理論は持たなかった。この点、確かに成玄英の独自性がある。

第四に、聖人による機を見た教化を重視する。「機に逗じて化を行う」などというのがそれである。郭象による聖人論は、聖人の無為がどのように万物にはたらくのか、不明瞭であったが、成玄英の場合には、聖人による教化が強調されている。

第五に、『荘子』に見える固有名詞や具体的な事象について、上述の通り、郭象は意図的に無視したが、成玄英は、司馬彪など他の『荘子』注釈者の成果などをもとに、詳しい考証を行っている。この点は、『経典釈文』と成玄英疏を対比することにより、明らかになる。

以上の通り、『荘子』の強力な解釈であった郭象注を基礎としてはいるものの、成玄英は道士として、唐代という新たな時代にふさわしい『荘子』解釈を作り上げたのである。

【参考文献】

  • 郭慶藩輯、王孝魚整理『荘子集釈』(中華書局、1961年)。
  • 曹礎基、黄蘭発点校『南華真経注疏』(中華書局、1998年)。
  • 砂山稔『隋唐道教思想史研究』(平河出版社、1990年)。
  • 関正郎『荘子の思想とその解釈―郭象・成玄英』(三省堂、1999年)。
  • 周雅清『成玄英思想研究』(新文豐出版、2003年)
  • 羅中枢『重玄之思―成玄英的重玄方法和認識論研究』(巴蜀書社、2010年)。
  • 崔珍皙『成玄英《庄子疏》研究』(巴蜀書社、2010年)。
  • Shiyi Yu, Reading the Chuang-tzu in the T’ang dynasty : the commentary of Chʻeng Hsüan-ying (fl. 631-652),  New York : Peter Lang, 2000.
  • Isabelle Robinet, “Nanhua zhenjing zhushu”, Schipper and Verellen ed., The Taoist Canon, The University of Chicago Press, 2004, 294-296.