カテゴリー別アーカイブ: 金石

『呉大澂和他的拓工』


tagong.jpg勤務先に少なからず蔵せられていることもあって、石刻資料を紙に転写した「拓本」を目にしたり手に取ったりする機会はこれまでにもありました。紙と墨が作るモノクロの世界に親しみを持っています。

以前は研究会の都合で毎週2時間づつ拓本を観察していたのすが、最近はその世界からやや遠ざかってしまい、残念に思っていたところ、中国の書店にて白謙慎『呉大澂和他的拓工』という薄い本を見つけたので、さっそく一本を求めて読んでみました。

白谦慎《吴大澂和他的拓工》

海豚出版社(海豚书馆),2013年6月

呉大澂(1835-1902)、あざなは清卿、号は恒軒、愙斎、蘇州呉県の人。同治7年(1868)の進士で、清末の著名な政治家、文人です。この人が金石学に詳しいことはさすがに認識していましたが、その呉氏と関わった「拓工」と聞くと、物珍しく聞こえたので関心を持ったわけです。

呉氏が黄易(1844-1882、あざなは小松)という金石学の先達に大いに憧れていたこと、陳介祺、潘祖蔭などといった金石コレクターの仲間たちとの交友、そして呉氏のために拓本をとった「拓工」たちとの関係まで、豊富な手紙や日記を駆使して丁寧に考察した書物です。読み物としてのみならず、研究としてみても有意義でした。

しかしコレクターの世界というのは、なかなか生々しいものです。たとえば友人の陳介祺が1884年に亡くなった時、多忙の呉大澂は弔問に赴けなかったとのことですが、翌年、陳氏の跡取りに手紙を書いてコレクションの整理に言及し、陳氏が収蔵した「毛公鼎」の拓本をとらせてくれるよう頼んでいます。ものへの執着を感じました。

彼が拓本作成を依頼した拓工たちについてもよく理解できました。拓工には職人も文人もおり、呉氏の著作『説文古籒補』を熟知していた黄士陵なども呉氏のために職業的に拓をとったとのこと。篆刻に巧みな人を信頼して拓をとらせていた、などという指摘には、なるほどと思わせられました。

イルカをシンボルにした海豚出版社の本は今回はじめて読みましたが、安くて軽く、好感が持てました。横組み簡体字です。

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魏晋南北朝時代の石刻に見える漢字


数年前から、井波陵一教授をリーダーとして、京都大学人文科学研究所に蔵する拓本を読んでいます。私もその末席に連なっており、魏晋南北朝時代の石刻の拓本に親しむ機会を得てきました。

それら石刻に刻まれた漢字は、基本的に現在我々が読み書きするそれと大きく違いはしませんが、後世のように強い規範意識がはたらいていたわけでもないらしく、同じ文字についても、実にさまざまに書かれています。今では、筆画の微小な違いを味わうのも、楽しみのひとつとなっています。

南北朝時代の石刻に見える異体字を調べる工具書としては『碑別字新編』(秦公輯、文物出版社、1985年)があり、私も重宝しています。またネット上には、「拓本文字データベース」という便利な道具もあります。ボックスに文字を入れるだけで、さまざまな異体字が調べられます。

しかし同じ字であるのに、形がばらばらで、決まった「正しい」書き方がないというのは、後世の基準で律すれば、かなり無秩序で、いい加減なことにも見えます。「魏晋南北朝の石刻に見える字はいい加減だ」という見方が、研究者にもあります。

毛遠明氏「魏晉南北朝漢字的特徵及規律」(《山西大學學報(哲學社會科學版)》35-6, 2012年11月)は、そのような見方に対するひとつの反論です。この時代の石刻資料に見える漢字には、理性的に書かれた字と、非理性的に書かれた字があるが、理性的な字、まともな根拠のある字の方が多い、というのが、毛氏の考え方です。

魏晋南北朝時代は、漢代の隷書から規範的な唐代の楷書に向けて漢字が変化・定着してゆく過渡期に当たり、その展開が複雑であるのですが、複雑ではあるが、必ずしも無秩序とはいえない、というわけです。

石刻に見える「表」字の例
石刻に見える「表」字の例

たとえば、楷書で書かれている石刻の中に、たまに篆書の要素が現れていたりすることにも指摘がありました。決してでたらめに書かれたものではありません、先祖返りのようなものでしょうか。「表」の篆文は「衣」の間に「毛」を書く形ですが、まさにそのような形が石刻に見えます。この形の「表」は、先日の研究班で見かけたばかりでしたので、面白く感じられました。

上部を「山」に作る「歳」
上部を「山」に作る「歳」

また「止」の要素を「山」と書く例、反対に「山」の要素を「止」と書く例、「口」の要素を「ム」と書く例、「ム」の要素を「口」と書く例なども挙げられています。これらは、帰納的にもっとたくさん用例を引き出せると思います。時間があれば、『碑別字新編』を用いて挙例してみたいものです。

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松は棟梁にふさわしいのか


劉懿墓誌銘
劉懿墓誌銘

このところ、研究会にて北朝金石文の拓本を会読しています。今週は、劉懿(?-539)という将軍の墓誌銘を読みました。

「魏故使持節侍中驃騎大將軍太保太尉公録尚書事都督冀定瀛殷并涼汾晉建郟肆十一州諸軍事冀州刺史郟肆二州大中正第一酋長敷城縣開國公劉君墓誌銘」

ずいぶん長ったらしいタイトルですが、この人物は、『北齊書』卷19に「劉貴」としてその伝が見えます。

劉貴,秀容陽曲人也。父乾,世贈前將軍、肆州刺史。貴剛格有氣斷,歷爾朱榮府騎兵參軍。……。興和元年十一月卒。贈冀定并殷瀛五州軍事、太保、太尉公、錄尚書事、冀州刺史,諡曰忠武。齊受禪,詔祭告其墓。皇建中,配享高祖廟庭。

さて、その墓誌銘の中に、劉懿の性質を述べて、次のように言います。

君自解巾入仕,撫劔從戎,威略有聞,强毅著稱。其猶高松,有棟梁之質;類如金石,懷堅剛之性。
劉君は民間人のかぶる頭巾を脱いで出仕して以来、剣を手に取り従軍し、その威風は聞こえわたり、その強さは人々に称せられた。高い松の木のように、梁や棟になる素質を備え、金石のように、堅固な性質を持っていたのである。

「高くそびえる松の木のごとく、建築の梁や棟になれるような素質があった」、というのですが、この表現の典故が分かりません。この時期に書かれた墓誌銘は、たいていすべての語に典故があるものですから、調べて分かることも多いのですが、これについては、残念ながら究明できませんでした。

それどころか反対に、『世説新語』言語篇には「松は、梁や棟にならない」という意味のエピソードが見えています。

孫綽賦「遂初」,築室畎川,自言見止足之分。齋前種一株松,恒自手壅治之。高世遠時亦鄰居,語孫曰:「松樹子非不楚楚可憐,但永無棟梁用耳!」孫曰:「楓柳雖合抱,亦何所施?」
孫綽は「遂初賦」という作品を作り、畎川の地に居を構え、(老子の言う)「足るを知る弁え」を得たとみずから言っていた。書斎の前に一株の松を植え、いつも手ずから世話をしていた。当時、高柔(あざな世遠)もその隣に住んでおり、孫綽に向かって「松の木というのは楚々として愛すべきものでないこともないが、しかし結局は梁や棟には用いられないな」といった。孫綽は「楓や柳だって、両手で抱きかかえるほどの巨木になったって、何の役にも立たないじゃないか」といった。

これだけでは何が面白いのやら分かりませんが、余嘉錫『世説新語箋疏』の説明によると、孫綽(314-371)の祖父の名は、孫楚といいました。この時代、他人に向かってその人の親や祖先の実名を口にすることは、たいへんな失礼に当たるとされ、重く憚られていました。それを友人の気安さから、高柔は「楚楚可憐」と、わざと孫綽に冗談を言ったのです。

もちろん、孫綽の返答、「楓柳雖合抱」には、かならずや高柔の父祖の実名が含まれているはずです。そうでなければ、機知に富んだ会話を集める「言語」篇にこの逸話が収められるはずがありません。しかし残念ながら、高柔の父祖の名は知られていないので、余嘉錫も判断を保留しています。

話しをもとにもどしましょう。高柔の発言からすると、松の木は「棟梁」に用いられないとのこと。しかるに劉懿の墓誌銘では、反対のことを言っています。いったい、どういうことなのか、首をかしげたくなります。

ここからは私の想像なのですが、松材はヤニが出るうえに、節目も多いので、建物の梁などには向かないのではないでしょうか。劉懿墓誌銘は、他の部分についても、典故がよく分からないところがあり、どうにも釈然としません。「我々の学力が低すぎて分からないのか、それとも作者がいい加減に書いたのか」……。駢文を読む時には、いつも、典故の問題から離れられません。

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