カテゴリー別アーカイブ: 雑談・雑感

『孝経』を買う人


阿部隆一・大沼晴暉「江戸時代刊行成立孝経類簡明目録」(『斯道文庫論集』14、1977年)は、江戸時代に多数出版された『孝経』の目録として今なお有用なものですが、その緒言に面白いことが書かれています。

『孝経』はたいへんに広く蔵されていて、図書を蔵する機関のみならず、「個人の蔵書家の中にも孝経の蒐集家はかなり見うけられる」として、次のように言います。

その蒐集の動機は必ずしも孝経研究を目的として発しているとは限らない。書物好きは古本屋を廻っては本の山をいじり、店の主人と話し込む、さて引き上げる段になって何も買うものがないと気がひけるので、少し前までは店にごろごろして値の安かった孝経を御愛想に買って帰る。それが幾部かたまると一体孝経にはどの位の版本があるかと蒐集慾が刺戟されて積極的に集め出すわけである。

これはなかなか穿った見方ではないかと思いました。江戸時代から明治時代にかけて、各種各様の『孝経』が出版され、その多くが一冊の薄い本で、手に取りやすく、買いやすい本です。しかもすでに持っている本と同版かと思って買って帰って比べると、版が違う、というようなこともしばしばです。こうしていつの間にか『孝経』のコレクターとなってしまう。あり得ない話でもないようです。

最初は数百円の『孝経』から買いはじめた人も、自分でも気づかぬうちに、古活字版を欲しがるような、そんなコレクターに変貌している。そういうものかもしれません。

日本漢文のなかの固有名詞


『論語義疏』の標点本はいくつかあるようですが、私が最近読んだのは、高尚榘氏のものです。『論語義疏』高尚榘校點,中華書局,2013年。

武内義雄が整理した懐徳堂本に依拠した本であり、かなりよく懐徳堂本の本文を伝えています。附録として、大正十二年(1923)五月に西村天囚(1865-1924)が漢文で書いた序まで載せてあるのもありがたいことです。

その序のなかに、「暨應神朝,百濟獻《論語》,孔子之書,始入我國」とあります。もちろん、応神というのは我が国の天皇の名ですが、標点を見ると、整理者はそれに気づいていないようです。

また、「謹按先皇教育勅語示法後世,炳如日月,其所謂忠、孝、友、和、信,與智能、德器、恭儉、博愛、義勇等條目,皆符於孔子之教」ともありますが、どうも「教育勅語」が固有名詞であることを知らなかった様子です。

標点者はほぼ正確に著者の意図をくみ取っているものの、ちょっとした知識のギャップもうかがわれて、何となく面白く思われました。

さてこそ


前漢の劉安が人を集めて編纂させた『淮南子』(紀元前139年に成書)には、幾つかの邦訳がありますが、その中に、恩師、戸川芳郎先生が、木山英雄氏・沢谷昭次氏とともに訳されたものがあり、平凡社の「中国古典文学大系」に収められています(『淮南子・説苑(抄)』、平凡社、1974)。

この翻訳、文章が個性的で、読む楽しみがあります。虚詞の訳出に工夫があり、たとえば、「是故」を「さてこそ」と訳しています。

泰古二皇,得道之柄,立於中央。神與化遊,以撫四方。是故能天運地滯,轉輪而無廢,水流而不止,與萬物終始。(『淮南子』原道訓)

太古の二皇(伏羲・神農)は、道の急所を把(と)って中央に君臨し、精神を造化とともに游ばせつつ四方を安んじた。さてこそ、あたかも天と運(めぐ)り地と静まり、休みなく流転しつつ万物と消長をともにした。

この「さてこそ」という訳語、前文を受けて、強い語気でもって後文を導く接続の言葉であり、「このゆえに」や「だから」のように、純粋な論理関係を示すものではありません。

日本語の表現としては、古語としてはともかく、現代語であまり見かける表現ではありませんが、古漢語「是故」の一面をうまく伝える訳語だと思い、学生時代、膝を打ったものです。

最近、気晴らしに円城塔氏の小説『道化師の蝶』(講談社文庫、2015。単行本は、講談社、2012)を読んでいると、思いもかけず、その「さてこそ」に出会ったのです。

 「さてこそ以上、さてこそ。まさしくそう思ったとおりに。果たしてやはり。まさしくそう思ったとおりに以上。果たしてやはり以上。さてこそ、の響きがなければ、私はこう書いたりはしなかった。さてこそは何故ここにある。何故こんな機能をもった響きがある。そんな要素が何故許されて、わたしの邪魔をし思考を繋ぎ留め、考えてもいないことを書かせるのか」

これは、本書に登場する友幸友幸という人物の「日記帳の文章からの抜粋」として引用された一節。この部分以外にも、「さてこそ」が繰り返し文中に現れていたので、私は驚きました。それこそ、「さてこそは何故ここにある」と、こちらが言いたいくらいです。「さてこそ」と、こうして再会を果たしたのでした。

友幸友幸のテクストを発見して整理研究し、翻訳する話が、この『道化師の蝶』に見えるのですが、これは私のような文献学の徒には馴染みのある内容です。たとえば次の一節。

これから先も研究が進展するたびごとに新たな発見が行われ、また忘れ去られていくのだろう。友幸友幸の作品群とは、発見されることにより駆動を続ける性質を備えた巨大な装置なのではと考えたくなる。

まるで、中国出土文献の研究状況についての記述かと疑うほどです。

随所にさまざまな洞察も盛り込まれており、久しぶりに楽しい小説を読んだものだと満足しました。

「創造性」を超えて


斯波六郎・花房英樹訳『文選』(筑摩書房、「世界文学大系」、1963年)の月報を眺めていると、高橋和巳「詞華集の意味」という短文に目がとまりました。

私たちは普通、文学という場合、創作を第一義的なものと考えて、古典の注釈やその集大成、詞華集の編纂や民歌採集、あるいは翻訳などを、創作に比肩する重大な表現行為とは考えない。それは文学を表現者の側から、しかもその創造性に重点をおいて考察するヨーロッパ・ローマン主義以後の一つの習性であって、それ自体、近代の精神的特徴の一つとして充分意味をもっているけれども、大きな文化の流れの中に位置する人間のいとなみとして文学を理解する立場からみれば、それはいささか偏狭であるといわざるをえない。

作者の独創性にばかり着目する狭い文学的な価値観に異を唱え、古典の注釈、古典の集大成、詞華集の編纂、民歌の採集、翻訳などの意義に光をあてるものです。高橋氏は、中国文化における「創作以外の表現」につき、漢代にその源流を求めています。

私の考えでは中国文学にあっては漢代においてすでに表現者のありうべき態度はほぼ出揃ったと思う。その一つは、自らの主張を『列女伝』をはじめ、既存の故事逸話の類を再編成することによって主張しようとした劉向の態度、その二は、古典に擬しつつ自らの時代には自らの作りなせる『論語』や『老子』があるべきだと考えそれを実践した揚雄の態度、第三には述べて作らざる志向の極限としての古典注釈およびその体系の中に自己の思念をひそめさせた鄭玄の態度。そしてこれらは、みずからの感受性と才能によって詩文を創作した司馬相如ら文人たちの文学活動と同等に尊い表現行為と見なすべきなのである。

読者論とか受容史とか、小難しいことをいうまでもなく、確かに中国文化の伝統にあっては、古典に新たな力を与えて生き返らせることは、はっきりとした意義を認められてきたものです。その源を漢代に求めたとしても、誤りではないでしょう。ただこれはひとり文学に限った話ではなく、文化全体に及ぶものといえます。

文化の伝統とは要するに、一般読者にとって極端な困難さなく理解しうる精神的遺産と、それぞれの時代における新たな創造の幅であって、古典をそれぞれの時代に蘇らせ、新しい解釈をほどこし、あるいは特定の人にしか見られない厖大な資料を、一つの基本的教養たるべき詞華集にあむことも、ともに秀れた表現行為なのである。

「古典をそれぞれの時代に蘇らせ」ること、これこそ自らの仕事、と、大いに膝を打ちました。

郁達夫の采石磯


田中慶太郎(1880-1951)『羽陵餘蟫』に、郁達夫(1896-1945)の小説が紹介されていました。

郁達夫作の短篇小説『采石磯』は、安徽提督學政朱竹君の幕客として、黄仲則・洪稚存の兩人が竹君の知遇を得て居つた時に、當時考據の大家として盛名隆隆たる戴東原先生が京師から紀曉嵐等諸要人の推薦狀を携へて、長江南岸太平府の學政衙門に朱竹君を訪ね、竹君が大に戴氏を厚遇したのはよかつたが、戴氏が黄仲則の詩を「華而不實」と言つたとか言はぬとかで、黄仲則が大大的犯脾氣して、滿腹の牢騒は發して一篇の名詩となり、それが大江の南北に風誦されるといふ一寸風變りな小説である。

邦文譯もあるから考證考證で肩の凝つた時には讀んで見るのも一興であらう。

但し此小説は戴氏に取つては御迷惑千萬なことであつて、おそらく戴東原先生を胡適博士にたとへ、黄仲則を郁氏自身にたとへたものの樣にも思はれる。 (『羽陵餘蟫』甲部、「禮記正義六十三卷」p.48)

年末から一月いっぱい、苦しんで論文を書いており、先日やっと解放されました。考証、考証で、かなり肩が凝ってしまったので、この『采石磯』を読んでみました。田中氏のいうとおり、まことに「風變りな小説」であり、無理に登場させられた「戴氏に取つては御迷惑千萬なこと」に違いありません。

朱竹君は朱筠(1729-1781)、黄仲則は黄景仁(1749-1783)、洪稚存は洪亮吉(1746-1809)、戴東原は戴震(1724-1777)です。一読して、歴史事実に即したものとはとても思えませんし、戴震が登場するといっても、主人公の黄仲則は戴震に会いもせず、戴氏の言を又聞きして憤っている始末です。何か腑に落ちません。

田中慶太郎と郁達夫。田中氏の方が十数歳、年長ですが、同時代人と言えます。「おそらく戴東原先生を胡適博士にたとへ、黄仲則を郁氏自身にたとへたものの樣にも思はれる」というのも、我々には想像もつかぬことですが、それこそ、おそらく何らかの根拠があることなのでしょう。

なお、小説中で戴震に言わせた「華而不實」という成語は、見ばえはしても中身がない、という意で、『春秋左氏伝』文公五年に基づくもの。甯嬴という人物が陽処父を評して「華而不實,怨之所聚也」と言ったそうです。『国語』晋語五にも似た話が見えています。

古書は古画のごとし


日ごろ愛読している「續積讀日記」に、田中慶太郎(1880-1951)『羽陵餘蟫』(文求堂書店、1938年)についての読書記が載せられました。私も読んでみようかという気になり、いま読み進めているところです。

『羽陵餘蟫』は、書物としての中国古典に関心のある方におすすめできる著作であり、日本語で書かれた漢籍解題として、これほど生き生きとしたものも珍しいのではないでしょうか。ひとつ面白いと思ったのが、偽書について述べられた以下のくだりです。

『左傳』の成立については古來種々の見方があり、殊に清の劉逢祿の『左氏春秋考證』の著述以後、康有爲の『新學僞經考』を始め、或は天文の方面より、或は思想の方面より、或は文法語法の方面より、幾多内外人の研究が發表せられている。

筆者程度の常識だけで本を讀んでゐる者には、どれを讀んでも、讀んでゐる間はいづれも道理が有ると思はれるだけで、判定をする能力が無く見當がつかぬ。

假令ばここに閻立本の繪いた肖像畫が有るとする、古畫のことであるから當然補筆が澤山ある。袖の部分はたしかに元人の筆であると見える。裳から靴のあたりは宋人の筆らしい、しかし顔面はたしかに唐人の筆で、且つ閻立本に非ずともそれに近い年代の人の筆に相違無い。古畫にはこんなものはいくらもある。顔面だけを取あげて唐畫とするのも誤りであらうが、袖だけを取あげて元畫とするのも亦誤りであらう。(甲部、「春秋經傳集解三十卷」、pp.53-54)

『春秋左氏伝』という書物の成立については、さまざまな議論があるが、そんなに簡単に決められるのか、というのが、田中慶太郎の疑問です。

前漢時代以前には、そもそも一つの書物を一人の人物が書くという習慣がありませんでしたから、その成立の過程は入り組んでいます。この点、後世の著作とまったく事情が異なります。書物がいったん成立した後の伝承の経緯はさらにさまざまで、削られたり、書き足されたり、整理されたりということが、しばしば行われました。このような過程をもつ中国の「古書」はかならず慎重にあつかうべきものであり、我々が先般、翻訳した余嘉錫『古書通例』(平凡社、東洋文庫、2008年)には、この事情が詳しく多角的に説明されています。

田中氏が唐の画家、閻立本の絵をたとえ話に出して語るのも、まさしく「古書の複雑さ」です。これは実にうまいたとえだと思いました。古書の成書問題に限らず、単純化された議論にはそれなりの爽快さがあるものですが、本来複雑なものを単純明快にスパッと切ると、そのもの自体が持つよさは損なわれてしまいます。そのような単純化に、田中氏はさりげなく注意を促したわけでしょう。

この一点をもってしても、田中氏の見識の高さをうかがうことができるのです。田中氏のいう「常識」は、当時にあってもまた今日にあっても、得難いものであるように思われます。

侯景は冗談を言えたか


陳寅恪「書魏書蕭衍伝後」(『金明館叢稿初編』上海古籍出版,1980年)という短文を読みました。

『魏書』巻98,島夷蕭衍伝の次の一段が問題とされています。

衍每募人出戰,素無號令,初或暫勝,後必奔背。景宣言曰「城中非無菜,但無醬耳」,以戲侮之。
蕭衍は何度も兵を募ってたたかいを挑んだものの、そもそも号令をかける者がなく、少し勝利したこともあるが、後にはきまって敗走する結果となった。侯景は大きな声で「城中には野菜がないわけではないが、調味料がないのだな」といって、侮辱した。

梁の武帝(在位502-549)が、逆賊の侯景(503- 552)に取り囲まれている場面で、侯景が武帝を挑発して「城中非無菜,但無醬耳」と言ったのですが、これは陳寅恪によると、「城中には”菜”(卒、すなわち兵卒)はあるが、”醤”(将、すなわち将軍)はない」という意味のからかいです。

陳寅恪は、この冗談を思いついた人を探り、侯景の参謀、王偉という人物がそれに当たるのではないか、と推測しています。「侯景は「清流」ではないのだから、こんな「雅な冗談(「雅謔」)を作って梁武帝をからかうことなど、できるはずがない」と陳氏は言うのですが、果たしてそうでしょうか?私は侯景にも言えたのではないかと思うのですが。伝統中国では「冗談は教養」と見なされていたのかも知れません。

陳氏の主眼は「菜と卒との発音が通じる方言を探ること」にあるのですが、私はむしろ、侯景には「雅謔」は言えない、と考える陳氏の思考法に興味を覚えました。

本好きの五類型


本が好きという人は少なくありませんが、どのように書物とつきあっているのかを観察すると、五種の人がいます。

  • 信仰家。自分の信仰する宗教の経典類を重んずる人。彼にとっては経典の内容も重要ですが、ものとしての書物自体もきわめて大切です。読書の根本的な姿を象徴しているようです。
  • 読書家。書物に書かれた内容を読む人。読書の普通の姿です。主に内容の把握に主眼があり、借りて読んでも買って読んでもかまわない、という人。低俗な層から高級な層まで、幅があるので、一概には言えません。
  • 愛好家。好きだから読む、という人。誰それファンといった、著者ごとの愛好家のほかにも、ジャンルごとのファンもいます。読むこと自体を楽しみ、愛する傾向があり、他の趣味に通じます。
  • 確認家。確認の道具として書物に接する人。辞書などは、大多数の人が確認の道具として用いますが、確認家は念が入っており、すべての書物を確認、考証の道具と考えており、書物の内容を味わったり、楽しんだりすることはまれです。
  • 蒐集家。書物を所有し、蒐集しようとする人。蒐集は物に向かいますから、物質的な要素のない電子書籍などは、蒐集家の興味を引かないでしょう。

ほとんどの人は、以上の五類型のうちの一つを主とし、他の要素をまじえているようです。しかし、上に見たようにそれぞれの傾向が異なりますから、同じく「本が好き」といっても、それで即座に意気投合とはなりません。ビジネス書をたくさん読んで実践知識を身につけようという人と、稀覯本のコレクターとでは話が合いません。

一人の人のうちにも、変遷があります。たとえば、ある人文系の研究者の変遷を戯画的に描いてみましょう。はじめは読書家として本に親しみ、のめりこんで愛好家となり、学生になって蒐集に没頭し、それが終わると確認家となり考証をはじめる、といった具合です。

また、ここに述べたのはすべて個人として書物に接する際の私的な態度をいうものであり、国家的な書籍蒐集計画や図書館の収書など、公的なものはまた別の話です。

以上、まっつん氏のブログの記事、「図書館に行ったのに…」に興味をひかれ、つれづれに書いてみました。図書館に行くと本を買いたくなる、というお話でしたが、なるほど、図書館は本の見本市でもあるのか、と興味をもった次第です。

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逆説の書


三島由紀夫(1925-1970)は『葉隠』という書物に、傾倒、依存しました。その理由を率直に語った、『葉隠入門』を久々に読みました。以前、これを読んだのは高校生のころであり、当時、その情熱にこそ圧倒されはしたものの、十分には理解できなかったように思います。近頃読み返してみると、彼の知性に驚きました。書物の読み方など、並の学者以上だと思います。

「葉隠」は前にもいったように、あくまでも逆説的な本である。「葉隠」が黒といっているときには、かならずそのうしろに白があるのだ。「葉隠」が「花が赤い。」というときには、「花は白い。」という世論があるのだ。「葉隠」が「こうしてはならない。」というときには、あえてそうしている世相があるのだ。(『葉隠入門』一「現代に生きる「葉隠」」)

世の読者は、あらゆる書物を「額面通り」に受け取りがちです。もちろん、そのように素直に読むべき書物が多いのですが、しかし、素直に読んでは理解できない書物もまた存在します。たとえば『荘子』がそれです。敬首和尚が「『莊子』の書は、諸事をさかさまに云なり。…。文のままには其義通ぜず」というとおりでしょう。

『荘子』の場合、まず世相や人間そのものに対する強烈な違和感があり、そして世相や人間に対する批判が形成されています。しかし、その批判をそのままぶつけるのではなく、「寓言十九、重言十七、巵言日出、和以天倪」(寓言篇)というように、一見、親しみやすいような文章として表現するのです。

読者は、その親しみやすい文章を親しみつつ読むわけです。そうすると、あるとき、「おや?」と疑問を持つ瞬間が訪れる。その疑問は、すなわち「逆説」「さかさま」が引き起こすものでしょう。それをかみ砕いていくと、まず、どうやら「文のまま」に受け取ってはならないのだな、と気づき、さらに進んで、「『荘子』による批判」の正体、そして「『荘子』の抱いていた違和感」へと行き着く、という算段です。

『荘子』がすべてそのように書かれているわけではありませんが、『荘子』という書物を貫く基本的なトーンはそのようなものであろうと思います。

それを応用したのが、私の敬愛する韓愈であり、これまた敬首和尚が「韓文は源(みなも)と『莊子』を祖として悟入す」と言ったのは、炯眼を具備した人ならでは、というところです。多くの人がこのような韓愈の読み方を知らないようなので、以前、「韓愈の排仏論と師道論」(麥谷邦夫編『三教交渉論叢』京都大学人文科学研究所、二〇〇五年)という論文を書いたこともあります。

三島が紹介した『葉隠』は、対談の記録という性質もあり、もちろん、『荘子』や韓文のように練りに練られた表現とは異質です。しかし、同様に世相や人間に対する強い批判の眼が存在しており、「常識やそれに基づく推論と、『葉隠』が説くことが矛盾する」「それに対する気づきを読者に促している」という点において、確かに『葉隠』は逆説の書と言えそうです。

これ以外にも、三島の読書力、すなわち書物を通じた洞察力には驚くことが多々ありました。いずれ、ご紹介したいものです。

藩札の学問


對嵐山房雅會記念寫眞
對嵐山房雅會記念寫眞

筑摩叢書に収められている神田喜一郎『敦煌學五十年』(筑摩書房、1970)に、「大谷瑩誠先生と東洋學」の一文があります(p.171-182)。

浄土真宗大谷派連枝、大谷大学学長でもあった大谷瑩誠師(1887-1948)の十七回忌法要に際しての記念講演ということで、神田氏は、大谷師の東洋學を概観した上で、次のように述べています。

大谷先生が御興味をお持ちになりました學問は、大體、以上お話いたしましたような諸方面にわたるように窺うのでありますが、それは、明治の末期から大正の初にかけて、とくに京都の地を中心として勃興いたしました新しい中國學の傾向と一致しているのであります。

その時代の中國學の指導者でありました内藤湖南先生とか狩野君山先生とかは、學問は世界的のものでなければならないということを、よく申されました。とくに狩野先生は、私どもに對して藩札の學問であってはならないと教えられたものであります。昔、江戸時代、日本全國が澤山の藩に分かれておりましたとき、各藩ではそれぞれ紙幣を發行いたしました。それが藩札であります。藩札は、その藩内では金銀同樣に通用いたしますが、藩外へ一步出ますと全くただの紙切れにすぎない、そういう性質のものであります。これに對して、金銀ならば、どこの藩でも同じように通用いたします。

狩野先生は、學問はすべからく金銀のように世界中どこへ出しても通用するものでなければならないということを仰言ったのであります。

いったい日本では、昔から漢學という長い傳統のある學問がありまして、これは、非常に尊いものであり、價値のあるものでありますが、しかしながら、この漢學は、長い鎖國時代に發達いたしましたもので、これをそのまま中國へ出しては通用いたしません。

内藤湖生や狩野先生は、それではいけないと考えられたのでありまして、京都に新しく勃興しました中國學は、こういう大きな理念のもとに發達したものであります。大谷先生は全くこれに御共鳴になったのであります。(p.177-178)

いまこそ、「新しい中國學」草創の理念を想起すべき秋ではないのでしょうか。

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