The Writing of Official History Under the T’ang


『ケンブリッジ中国史』(“The Cambridge History of China”)の編者として、つとに有名な碩学、トゥウィチェット氏の著書、唐代に編纂された歴史記録を網羅的に研究したものです。

Denis Twitchett, 
The Writing of Official History Under the T’ang,
Cambridge University Press, 1992

トゥウィチェット氏が中国の史書に向ける視線は明確です。

 The modern historian concerned with the earlier periods of Chinese history remains heavily dependent on the material contained in the standard dynastic histories. It is therefore essential for him to subject the texts of these works to the most rigorous critical scrutiny, for they are rarely the simple product of a single author or group of compilers that they appear to be at the first sight. (p.3)

単純な史料理解を排除し、史料の複雑さを厳密に吟味しようとするその姿勢は、目録学の精神にも合致します。

その全体は、第1部「官的組織」、第2部「歴史記録の編纂」、第3部「旧唐書」から構成されています。第1部で史書編纂の制度的な枠組みを明瞭に記し、第2部では種々の歴史記録具体的な編纂過程、いずれ正史へと組み上げられるべき諸資料の成り立ちを示し、第3部では『旧唐書』が形成された過程を遡ります。きわめて安定した構成と言えましょう。

もっとも大きな紙幅が割かれているのは第2部で、ここでは唐が国家として編纂した諸記録、「起居注」(第4章)、「内起居注」(第5章)、「時政記」(第6章)、「日暦」(第7章)、「伝記」(第8章)、「諸機構の歴史、類書、及び文書の蒐集」(第9章)、「実録」(第10章)、「国史」(第11章)、といった記録・歴史書の編纂の過程が詳しく論じられています。網羅的な研究にありがちな、単に正史・会要から該当個所を抜いたようなものとは大きく異なり、周到な考察が加えられ、いちいち、うならずにはおれません。

出色は、第9章でしょう。史館に籍を置く史官、そして起居郎などの専門的に記録を司る担当者以外にも、唐代の官僚機構において、さまざまな職務の人々が歴史記録を編纂したことを逐一追っています。たとえば、類書、後に正史の「志」になる記録、壁記など、見落とされがちな部分を詳しく取り上げています。

粛宗の乾元年間(758-760)、柳芳が完成させた『国史』に「志」の部分が含まれていたこと、その後も「志」相当の書物の編輯がさまざまに続けられたことなど、非常に興味深く読みました。

個別の編纂についての細部がしっかり記述されているのみならず、構成がよく練られているため、その細部を通して「唐の公的な歴史編纂」の全体像が浮かびあがります。細部と全体とに向けられた興味のバランスが絶妙の一冊です。

“The Writing of Official History Under the T’ang” Webcat所蔵図書館 17館(本日付)。
薄いのに高い書物です。このシリーズはすべてそうなのですが。こういうものこそ、所属先の図書館、公共図書館に申請して購入してもらいましょう。

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許?師?


許学叢書 今日はクイズを出させてください。先日来、遊んでいる、姚振宗関係から二題です。

 (一)右の写真は、姚振宗の親友、陶方蒅の著書『許君年表』を収める「許学叢書」の封面(タイトルページ)です。「学」「叢」「書」はよいとして、一番上のおかしな文字は「許」と読めるのでしょうか?

 (二)姚振宗の号は、獅子型の奇石にちなみ、「師石山房」と名付けられました(エントリー「快閣?師石山房?」参照)。なぜ、「獅石山房」とせずに、「けものへん」を省いたのでしょう?

 お答えをコメント欄までお寄せください。このブログの読者は非常に少ないので、すぐにお答えをちょうだいできるとは思いませんが、どなたか、同好の士があれば、お願いします。気長にお待ちします。プロの方は、今回はご遠慮願います。

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姚振宗の親友


昨日のエントリーの続きで、陶存煦「姚海槎先生年譜」に見える、姚振宗(1842-1906)の生活、特にその交友関係をご紹介します。

少なくとも、この簡略な年譜を見る限り、姚振宗には多くの友人がいたようには思われません。頻繁に名が現れるのは、有名な陶方琦(1845-1884)、その従弟の陶濬宣。その他の有名人としては同じ紹興出身の李慈銘(1830-1895)が見えます(光緒二十年の記事に「先生と塗轍を微かに殊にするも、然れども両人交わること亦た極めて相い契う」とある)。

特に仲がよかったのは陶方琦です。一般的に、年譜には親しい友人の経歴もあわせて書きますが、姚振宗が四歳であった道光二十五年(1845)の記事に「知友、会稽の陶方琦、生まる」とあります。姚振宗が「快閣」の主となってからは、「快閣後記」を執筆しています。科挙に成功しなかった姚振宗とは対照的に、陶方琦は光緒二年(1876)に進士となり、翌年、湖南学政となっています。

その後も二人の篤い交友は続きました。光緒十年、陶方琦が一大プロジェクト、『湖北通志』編纂を監修していたのですが、その「芸文志」部分の執筆を姚振宗に任せます。ところが、思わぬ事に、この年の十二月二十四日、その陶方琦が亡くなってしまったのです。享年、四十歳。年譜の記事にこうあります。

 先生、時に方に『湖北芸文志』を撰す。訃を聞きて大いに慟して曰く「黄壚の人、逝けり。吾、此を撰するも、将(まさ)に何れの為にかせんや」と。先生と方琦と、交わること最も契う。因りて結びて児女の親家と為る。方琦 許鄭(許慎・鄭玄)考証の学に精しく、先生は蔵書に富めり、両人は爾汝し(「爾」「汝」と遠慮なく呼び合い)、交わること兄弟の如きなり。

「黄壚」は、一般的には、黄泉の国を指しますが、この場合、当てはまりません。出典は『世説新語』にある王戎のはなしです。王戎がある時、黄さんという居酒屋(壚)の前を馬車で通り過ぎたところ、今は亡き親友、嵇康・阮籍とこの店で酒を飲んだことを思い出し、哀悼の念がこみ上げた、というものです。私も友人と酒を飲むのが好きなのですが、この比喩を用いる以上、姚振宗と陶方琦との間にも酒があったと考えてよいでしょう。もちろん、その酒は紹興酒であるにちがいありません。

以前に姚振宗を紹介したところ、昭夫さんがコメントをお寄せになり(2009年7月3日の記事へのコメントとして)、「許學叢書」というシリーズの第1集に収められている、陶方琦『許君年表攷』(張氏儀許廬, 光緒10年刊本)を指摘して下さいまして、早稲田大学のopacによると、この書物の附録に姚振宗の識語が含まれる旨、教えていただきました。この叢書は珍しいものではないのですが、今ちょっとすぐには確認できません。姚振宗と陶方琦の交友に関心を持つ者として、いつか検討します。

快閣?師石山房?


先日のエントリーで、姚振宗『師石山房叢書』(開明書店、1936年)を紹介した際、その書物に陶存煦「姚海槎先生年譜」が附されていることを言いました。

姚振宗(1842-1906)の人生を綴ったこの短い年譜は、目録学に関心を持つ者にとってはなかなか興味深いのですが、今日は、その中から、姚氏の号、「師石山房」もしくは「快閣師石山房」の由来を語った部分を紹介します。

同治六年(1967)、姚振宗の父親、秋墅公(姚仰雲)は、当時住んでいた揚州で、獅子の形をした奇石を入手しました。「獅石」というわけです。そして、「師石山房」という名の建物を築きました。

ところが、二年後の同治八年四月、父親は揚州の地で亡くなってしまいます。生前、彼は国庫に対して多額の金を献納していたため、八月にはまとまった金が支給されました。そこで姚振宗は父の棺とともに故郷の紹興に帰ることにしました。父が生前、紹興の鑑湖のほとりに建つ名勝、「快閣」に住みたいと言っていたので、姚振宗は父の遺志に従い、「快閣」を購入したのです。翌同治九年の春、ここに移ります。時に姚振宗、二十九歳。

「快閣」は宋の陸游がこの地に建てたもので、その中には桐香書屋・師舟・漱酣亭といったいろいろな名所があり、姚振宗はそのうちの「師舟」を「師石山房」と改名しました。きっと例の獅子型の石も持ってきていたのでしょう。今でも「快閣」の一部は残されているそうで、紹興に行く機会があれば、是非とも立ち寄りたいところです。

文人の号などは、その人の人生の一面を映す鏡であり、それぞれに趣があります。「師石山房」の由来、ようやく疑問が解けました。

師石山房叢書


先日、2009年6月26日のエントリー「輯略のはなし」の中で、『七略』の輯略と『漢書』藝文志との関係について、内藤湖南(1866-1934)が姚振宗(1842-1906)の説に従っていないのは誤りであるむね、申し上げました。その際、私は根拠もなく「湖南は姚振宗の存在を知っていたのだろうな」と思い込んでいたのですが、もう一度、考え直してみる必要がありそうです。少しだけ姚振宗とその著書について調べてみました。

姚振宗は、字は海槎、浙江山陰の人。この人の著書を見るには『師石山房叢書』(開明書店、1936年)を見るのが一番で、いま、私もこれを見ながらこの文章を書いています。その子目を挙げておきます。

  • 『七略別録佚文』一
  • 『七略佚文』一卷
  • 『漢書藝文志條理』八卷
  • 『漢書藝文志拾補』六卷
  • 『隋書經籍志考證』五十二卷
  • 『後漢藝文志』四卷
  • 『三國藝文志』四卷

それ以外に附録として、王式通「師石山房叢書題辭」(宣統3年)、陳訓慈「序」(民国25年)、「姚先生小傳」、陶存煦「姚海槎先生年譜」、「師石山房叢書目録」が備わっています。

姚振宗の著作のうち、本人も得心のできばえであったという『隋書經籍志考證』は、『二十五史補編』(開明書店、1936年)にも収録されており、今でこそ、姚振宗はよく知られていますが、生前はそれほど有名でもなかったらしく、その没後に子孫の努力でようやく著書が知られるようになったとのことです。「年譜」の末尾にその経緯があらまし記してあります。

  • 民国6年(1917)、張鈞が「適園叢書」に『後漢藝文志』『三國藝文志』を収録。
  • その後、数年して楊立誠が「文瀾閣珍本叢刊」に『七略別録佚文』『七略佚文』『漢書藝文志條理』『漢書藝文志拾補』を収録。
  • 民国21年(1932)、陳訓慈が浙江図書館より、「文瀾閣珍本叢刊」から『七略別録佚文』『七略佚文』『漢書藝文志條理』『漢書藝文志拾補』を取り、さらに『隋書經籍志考證』を印行し、『快閣師石山房叢書』として出版。

上記のうち、楊立誠の「文瀾閣珍本叢刊」というものがどうしても確認できないのですが、『快閣師石山房叢書』が1932年に出版されて以降(この叢書の編集経緯は、「文瀾閣珍本叢刊」との関係で、少し複雑であるかも知れませんが、完成したのは1932年らしく思われます。待考)、ようやく姚振宗の学問が広く知られるようになったと考えてよいでしょう。

湖南の目録学講義は、大正十五年(1926)のものでしたから、湖南が姚振宗の説を熟知していなかったとしても、何ら批判するに値しません。「姚振宗は湖南よりも二十数歳も年長なのだから、湖南は姚振宗を知っていただろう」という思い込みは、もろくも崩れた、というわけです。

なお、『七略別録佚文』『七略佚文』については、最近、標点本が出ました。

姚振宗輯録;鄧駿捷校補『七略別録佚文 七略佚文』(上海古籍出版社, 2008)

これについては、未見です。検討し次第、書評してみたいと思っていますが、ご覧になった方のご意見もうかがえると幸せです。

*『快閣師石山房叢書』(浙江図書館)、及び『師石山房叢書』(開明書店、1936年)は、日本の大学図書館では、だいたい漢籍として扱われているようで、Webcatにはほとんど登録されていません。「全国漢籍データベース」を見ると、いくつか収蔵があるようです。

『文検漢文科合格秘訣』


 いつも拝見している、まっつんさんのサイト「積読日記」のリンクに、「文検漢文科合格秘訣」なる書物が紹介されています。まっつんさんの解説を引用させていただきます。

本書は昭和6年に刊行された『文検漢文科合格の秘訣』(笠松彬雄 著)を興味半分に抜粋したものである。文検とは、旧教員採用検定で、現代には全く不要のものである。しかし、本書の中で、著者が熱く合格に向けて叱咤激励している様は非常に興味深い。明治・大正を過ぎ、やや漢文の必要性が薄くなりかけている時代(現代からみれば全くそんなことはないのだが)に、教員資格取得のためとはいえ、まさしく人生を賭して漢文の勉強に向かう姿は凄い。当時の様子も伺われるし、何より当時では著者が本書の中で真面目に語ったであろう言葉のひとつひとつも、平成の現代に生きる我々には冗談としか思えないような記述もある。‥‥。偶然ある古書店にて300円で手にした本書であり、また「実用性」といった面からすれば全く皆無な本書をあえて皆さんの目に触れるような形にしたのは、現代忘れ去られている、いや、忌み嫌われている「努力」だとか「根性」というものを多少なりとも呼び起こしてくれそうな気配があったからである。

 この本、まだ見たことがないのですが、まっつんさんが紹介されている内容を読むと、非常に面白い。上記の解説に書かれているとおり、この本の最大の特色は、読者、すなわち文検漢文科の受験生を鼓舞し、激励する熱いことばです。「現今の人々に欠乏して居る物は熱である!」、何とまあ、平成時代の我々に向けられたことばとしか、思えませんよ。

 さらに面白いことに、記憶術についての記述もあります。

 記憶にはよく了解して秩序的に記憶するのと、無茶苦茶であるが兎に角丸暗記するのとがある。即ち機械的の記憶である。これは何の連絡も無いものを記憶するので忘れ易いものである。この忘れ易いのを防ぐ為に聯想を利用して順序立てて記憶する方法を取るとよい。その方法は、先づ自分の家を出発点として西の方向へなり東の方向へなり、隣家を数えて一二三四五…二十位まで順番を作る。そして八番と言えばその八番に当った家が眼前に浮ぶ様に何回もこれを練習する。十五番はどの家、十番は誰の家と言う練習が出来たら、その家の一二三四回となって居る順序に結びつけて記憶して行くのである。
 今八代集を記憶するとする。
 自分の家―紀伊の国(私の郷里は和歌山)であるから紀貫之を思い出し、その友の紀友則に連絡する。これが古今集。
 一軒隣―大きい梨の木があるので、梨壷の五歌仙を聯想する。古今集より後に撰ばれたから後撰集。
 二軒隣―椿の花の美しく咲く家だ。それで花山院を思い出し、子供等がよくその落椿を拾い集めて遊んで居るから拾遺集と覚える。
 三軒隣―二軒目の直ぐ隣であるから拾遺集とは関係があって即ち後拾遺集である。
 四軒隣―葉鶏頭をよく作る家だから葉が金色に光って居て金葉集だ。この家に老人があるから俊頼(としより)の編だと覚える。
 五軒隣―辨口が伸々上手な内儀だから詞葉集。
 六軒隣―剽軽者(ひょうきんもの)の居る家でよく万歳の真似などして居るから万歳ならぬ千載集と記憶する。
 七軒隣―新古今、恰度自分の家の分家に当るので面白いことには古今集からの分家の新古今となる。
 これは私の記憶して居るほんの一例に過ぎないが、文学史は皆此の方法で秩序立てる。従って年代順に人物を並べることなんかは易々たるものである。 (第五章、「研究法」より)

 先日、このブログで紹介した、「ローマ人の部屋」とほとんど同じ記憶術です。実に興味深く感じられます。

 笠松彬雄『文検漢文科合格秘訣』大同館書店、昭和6年。

 *Webcatの所蔵館は、なんと0館。紛れもない稀覯本です。増上寺の隣にある三康図書館に、大同館が出版した「文検」受験シリーズがまとめて所蔵されているようです。何かのついでに見に行こうと思っています。

戸川芳郎「〈礼統〉と東漢の霊台」


 たまたま借り出した安居香山氏編『讖緯思想の綜合的研究』(国書刊行会, 1984)。科研の報告書であるが、楠山春樹氏・吉川忠夫氏の論文など、非常にレベルが高い。性質上、「これで讖緯思想が網羅される」といったものではないが。

 特に私の目を引いたのが、戸川芳郎氏「〈礼統〉と東漢の霊台」。タイトルのとおり、『礼統』というあまり知られていない礼学文献と、後漢時代の「霊台」と呼ばれる施設を考証した論文。「論文の体をなしていないのではないか」という批判もあるかも知れないが、文献考証が冴えわたり、さすがに考察が緻密。

 類書の用い方に妙味があり、勝村哲也氏の『修文殿御覧』研究(「修文殿御覧天部の復元」、『中国の科学と科学者』京都大学人文科学研究所, 1978)を引用して、類書編纂者たちの心理にせまっている。勝村氏の論文をかつて読んだ時の感動も再現された。

*『讖緯思想の綜合的研究』 Webcat所蔵図書館 62館(本日付)。
*『中国の科学と科学者』 Webcat所蔵図書館 78館(本日付)。

Use Your Perfect Memory


 学問を志すともなると、たくさんのものを読み、そして忘れずにいることが大切です。受験勉強などの比ではありません。

 そういうわけで、私も勉強法、記憶術などには多少の関心があります。お気に入りは、Tony Buzan氏の書かれたものです。脳のはなしなど、素人には説の当否が分かりかねますが、実践的で役に立つことは疑えません。記憶術について書かれた書物をご紹介したいと思います。

Tony Buzan “Use your perfect memory : dramatic new techniques for improving your memory, based on the latest discoveries about the human brain“, New York, Penguin, 1991, 3rd ed.

 この書物は、いろいろな記憶術を駆使して楽しい知的生活を送ろうという趣旨のもので、そのなかに、「ローマ人の部屋」(The Roman Room System)という記憶術が載っています。

 ローマ時代の人の記憶術だそうで、まず架空の部屋を空想し、自分の覚えたいことと、この架空の部屋とを(なかば無理矢理)関連づけて、記憶する、というものです。

 あるローマ人は、たとえば、次のような架空の玄関と部屋とを作ることだろう、ドアの両横に巨大な柱があり、ドアノブにはライオンの頭の彫刻、そして、玄関を入るとすぐ左に、すばらしいギリシアの彫像があるような。その彫像の横には大きなソファがあり、そこにはそのローマ人が狩った動物の毛皮が掛けてあり、ソファの隣には花の咲いた植物、そしてソファの前には、大きな大理石のテーブルがあり、そこにはグラスとワインさし、果物の盆、などが載っていることだろう。 (Tony Buzan “Use your perfect memory” p.65)

 このローマ人が何かを覚えようとする時(買い物、剣の修理、子どもへのプレゼント等々)、この壮麗な空想上の部屋に、それらの物事をいちいち関連づけて、頭にその光景をありありと思い浮かべて記憶する、というものです。

 このような記憶術は、「時代遅れのこじつけ」と軽蔑されてきましたが、ブザン氏は、これこそが脳の仕組みからして最も覚えやすい方法であり、現代人も積極的にこの方法を活用すべきだ、と説いています。

 なお、ブザン氏は同じような内容の書物をたくさん書いているので、ちゃんと比較などはしていないのですが、”Use your memory“というそっくりなタイトルの本が翻訳されています(この本に「ローマ人の部屋」が紹介されているのかどうかは、確認していません)。

トニー・ブザン著 ; 松野武訳『記憶の法則』(東京図書, 1987)(新装版、東京図書, 1991)

 中国においても、古代の人々が素晴らしい記憶力をもっていたことは明らかで、私も常々その道を会得したいものと思っています。五行説だとか、易の八卦だとかいったものも、古代人の発想法・思考法であったのみならず、実は記憶術でもあったのかも知れません。そのうちに、このことも書きたいと思います。

『宋書複音詞研究』


万久富『《宋書》複音詞研究』(鳳凰出版社、2006)を読んで、勉強になりました。487年、沈約という人の書いた、『宋書』という歴史書がありますが、この書物に用いられている熟語に関する研究です。

本書の第五章「《宋書》聯合式同素異序複合詞」の第三節「聯合式同素異序複合詞発展的内在機理」という一節が私の興味を引きました。

漢語では、しばしば同義・類義・反義の2文字を組み合わせて2字の熟語を構成するのですが、その際、第1字目に置かれる文字に関して法則性がある、というおはなしです。「平坦」というときの「平」も「坦」も似たような意味ですが、漢語では「坦平」とはいわない。これは何故か、という問題です。

 張鴻魁「〈世説新語〉并列結構的字序」は、「并列結構の字序は、第一に、そして主には声調により決定される。声調の規則というものが客観的に存在する」といい、「同じ声調に属する字の并列結構においても、字序は自由に置き換えられず、声調の規則の下に、さらにもうひとつの習慣、ないし規則が字順を制約している。字序を制約しているのは、声母の要素であり、我々はこのように声母が字序を制約していることを「声序規則」と呼んでいる」という(『魏晋南北朝漢語研究』281頁、286頁)
張氏は前後の文字の確率統計に基づいて、以下の結論を導き出した、「一般的に「前清後濁」であり、「明」類の字(「明」母、「微」母、「泥」母、「疑」母)は多くの場合、後ろに置かれ、「影」母の字は多くの場合、前に置かれる」など、と。
李思明「中古漢語并列合成詞決定詞素次序諸因素考察」は、「并列合成詞の詞素の配列順序に対して影響をもつのは、まず第一に声調、次に声母で、韻母はいかなる作用も及ぼさない」という(『安慶師範院社会科学学報』1997年、第1期)。 (万久富『《宋書》複音詞研究』より)

本書の著者である、万久富氏は、『宋書』に見えるさまざまな語彙のうち、後世、使用されなくなってしまった語彙を検討しているのですが、その結果、以上の原則から外れるもの(「源淵」「泄漏」など)が、多く淘汰された、という結論を導いています。

漢語の語彙を考えるについて、実に興味深い視点です。同義語・反義語を組み合わせた熟語について、いろいろと考えてみることが出来そうです。

*Webcatによると、所蔵図書館は、7館(本日付)。

輯略のはなし


内藤湖南「支那目録学」は、日本語で読める目録学史概説として、現在でもその価値と輝きを失っていません。このことは、すでに以前の記事で書いたとおりです。

しかし、内容的に同意しかねるところもあります。その一つが、『七略』の「輯略」に関する問題です。

『七略』とは、前漢の末期、劉歆(りゅうきん)という学者がまとめた、中国で初めての本格的な図書目録です。現在は伝わっていませんが、輯略・六芸略・諸子略・詩賦略・兵書略・術数略・方技略という七つの部分から出来ていたそうです。

この『七略』をもとに、現存最古の目録、『漢書』芸文志が出来ているのですが、両者の関係について、湖南は次のようにいっています。

 現存の支那の目録では、漢書の藝文志が最も古いものである。漢書は班固の生前には出來上らないで、その妹の曹大家が完成したものといふが、藝文志は班固自身の手に成つたものであらう。後漢の中葉、西洋紀元一世紀の終り頃に出來たものである。
大體、漢書藝文志は、班固が自分で書いた處は、最初の敍文ぐらゐの僅かばかりで、その全體の大部分は、劉歆の七略によつて書いたのである。七略の中の六略を採つて載せたので、七略の一つである輯略は藝文志には載せられてゐない。

湖南は「七略の一つである輯略は藝文志には載せられてゐない」といっています。また、湖南の敬愛する清朝の目録学者、章学誠も、その『校讐通義』において「班固は輯略を削って、六略だけをのこした」といっています。湖南はこの説を襲っているのでしょう。

しかし、多くの目録学者は、「輯略は、ちゃんと『漢書』芸文志に収まっている」と考えているのです。これについては、早く姚振宗(1842-1906)が『七略佚文』の序で主張しています。その結論は、現在、『漢書』芸文志に見える各分類の解説(「小序」と呼びます)は、「輯略」を分割して載せたものである、というものです。それゆえ、「輯略」は今も伝わっている、といえるのです。

この説が正しいであろうことについて、余嘉錫『目録学発微』巻二、「目録書体制三 小序」が詳しく考証しています。

なお、「班固が自分で書いた處は、最初の敍文ぐらゐ」と湖南がいう「最初の敍文」は、しばしば「大序」と呼ばれますが、この部分も、姚振宗によれば「輯略」を元にして書かれた、ということで、姚氏はそれを『七略』の佚文として『七略佚文』に載せています。

私も姚氏と同様、大序は、大部分、「輯略」の文章を踏襲したのではないかと思いますが、これについては、いずれあらためて考えてみたいと思います。

『七略』は滅んでしまったものの、『漢書』芸文志によって、その大体を知りうる、というお話でした。

中国古典に親しむ

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