快閣?師石山房?


先日のエントリーで、姚振宗『師石山房叢書』(開明書店、1936年)を紹介した際、その書物に陶存煦「姚海槎先生年譜」が附されていることを言いました。

姚振宗(1842-1906)の人生を綴ったこの短い年譜は、目録学に関心を持つ者にとってはなかなか興味深いのですが、今日は、その中から、姚氏の号、「師石山房」もしくは「快閣師石山房」の由来を語った部分を紹介します。

同治六年(1967)、姚振宗の父親、秋墅公(姚仰雲)は、当時住んでいた揚州で、獅子の形をした奇石を入手しました。「獅石」というわけです。そして、「師石山房」という名の建物を築きました。

ところが、二年後の同治八年四月、父親は揚州の地で亡くなってしまいます。生前、彼は国庫に対して多額の金を献納していたため、八月にはまとまった金が支給されました。そこで姚振宗は父の棺とともに故郷の紹興に帰ることにしました。父が生前、紹興の鑑湖のほとりに建つ名勝、「快閣」に住みたいと言っていたので、姚振宗は父の遺志に従い、「快閣」を購入したのです。翌同治九年の春、ここに移ります。時に姚振宗、二十九歳。

「快閣」は宋の陸游がこの地に建てたもので、その中には桐香書屋・師舟・漱酣亭といったいろいろな名所があり、姚振宗はそのうちの「師舟」を「師石山房」と改名しました。きっと例の獅子型の石も持ってきていたのでしょう。今でも「快閣」の一部は残されているそうで、紹興に行く機会があれば、是非とも立ち寄りたいところです。

文人の号などは、その人の人生の一面を映す鏡であり、それぞれに趣があります。「師石山房」の由来、ようやく疑問が解けました。

師石山房叢書


先日、2009年6月26日のエントリー「輯略のはなし」の中で、『七略』の輯略と『漢書』藝文志との関係について、内藤湖南(1866-1934)が姚振宗(1842-1906)の説に従っていないのは誤りであるむね、申し上げました。その際、私は根拠もなく「湖南は姚振宗の存在を知っていたのだろうな」と思い込んでいたのですが、もう一度、考え直してみる必要がありそうです。少しだけ姚振宗とその著書について調べてみました。

姚振宗は、字は海槎、浙江山陰の人。この人の著書を見るには『師石山房叢書』(開明書店、1936年)を見るのが一番で、いま、私もこれを見ながらこの文章を書いています。その子目を挙げておきます。

  • 『七略別録佚文』一
  • 『七略佚文』一卷
  • 『漢書藝文志條理』八卷
  • 『漢書藝文志拾補』六卷
  • 『隋書經籍志考證』五十二卷
  • 『後漢藝文志』四卷
  • 『三國藝文志』四卷

それ以外に附録として、王式通「師石山房叢書題辭」(宣統3年)、陳訓慈「序」(民国25年)、「姚先生小傳」、陶存煦「姚海槎先生年譜」、「師石山房叢書目録」が備わっています。

姚振宗の著作のうち、本人も得心のできばえであったという『隋書經籍志考證』は、『二十五史補編』(開明書店、1936年)にも収録されており、今でこそ、姚振宗はよく知られていますが、生前はそれほど有名でもなかったらしく、その没後に子孫の努力でようやく著書が知られるようになったとのことです。「年譜」の末尾にその経緯があらまし記してあります。

  • 民国6年(1917)、張鈞が「適園叢書」に『後漢藝文志』『三國藝文志』を収録。
  • その後、数年して楊立誠が「文瀾閣珍本叢刊」に『七略別録佚文』『七略佚文』『漢書藝文志條理』『漢書藝文志拾補』を収録。
  • 民国21年(1932)、陳訓慈が浙江図書館より、「文瀾閣珍本叢刊」から『七略別録佚文』『七略佚文』『漢書藝文志條理』『漢書藝文志拾補』を取り、さらに『隋書經籍志考證』を印行し、『快閣師石山房叢書』として出版。

上記のうち、楊立誠の「文瀾閣珍本叢刊」というものがどうしても確認できないのですが、『快閣師石山房叢書』が1932年に出版されて以降(この叢書の編集経緯は、「文瀾閣珍本叢刊」との関係で、少し複雑であるかも知れませんが、完成したのは1932年らしく思われます。待考)、ようやく姚振宗の学問が広く知られるようになったと考えてよいでしょう。

湖南の目録学講義は、大正十五年(1926)のものでしたから、湖南が姚振宗の説を熟知していなかったとしても、何ら批判するに値しません。「姚振宗は湖南よりも二十数歳も年長なのだから、湖南は姚振宗を知っていただろう」という思い込みは、もろくも崩れた、というわけです。

なお、『七略別録佚文』『七略佚文』については、最近、標点本が出ました。

姚振宗輯録;鄧駿捷校補『七略別録佚文 七略佚文』(上海古籍出版社, 2008)

これについては、未見です。検討し次第、書評してみたいと思っていますが、ご覧になった方のご意見もうかがえると幸せです。

*『快閣師石山房叢書』(浙江図書館)、及び『師石山房叢書』(開明書店、1936年)は、日本の大学図書館では、だいたい漢籍として扱われているようで、Webcatにはほとんど登録されていません。「全国漢籍データベース」を見ると、いくつか収蔵があるようです。

『文検漢文科合格秘訣』


 いつも拝見している、まっつんさんのサイト「積読日記」のリンクに、「文検漢文科合格秘訣」なる書物が紹介されています。まっつんさんの解説を引用させていただきます。

本書は昭和6年に刊行された『文検漢文科合格の秘訣』(笠松彬雄 著)を興味半分に抜粋したものである。文検とは、旧教員採用検定で、現代には全く不要のものである。しかし、本書の中で、著者が熱く合格に向けて叱咤激励している様は非常に興味深い。明治・大正を過ぎ、やや漢文の必要性が薄くなりかけている時代(現代からみれば全くそんなことはないのだが)に、教員資格取得のためとはいえ、まさしく人生を賭して漢文の勉強に向かう姿は凄い。当時の様子も伺われるし、何より当時では著者が本書の中で真面目に語ったであろう言葉のひとつひとつも、平成の現代に生きる我々には冗談としか思えないような記述もある。‥‥。偶然ある古書店にて300円で手にした本書であり、また「実用性」といった面からすれば全く皆無な本書をあえて皆さんの目に触れるような形にしたのは、現代忘れ去られている、いや、忌み嫌われている「努力」だとか「根性」というものを多少なりとも呼び起こしてくれそうな気配があったからである。

 この本、まだ見たことがないのですが、まっつんさんが紹介されている内容を読むと、非常に面白い。上記の解説に書かれているとおり、この本の最大の特色は、読者、すなわち文検漢文科の受験生を鼓舞し、激励する熱いことばです。「現今の人々に欠乏して居る物は熱である!」、何とまあ、平成時代の我々に向けられたことばとしか、思えませんよ。

 さらに面白いことに、記憶術についての記述もあります。

 記憶にはよく了解して秩序的に記憶するのと、無茶苦茶であるが兎に角丸暗記するのとがある。即ち機械的の記憶である。これは何の連絡も無いものを記憶するので忘れ易いものである。この忘れ易いのを防ぐ為に聯想を利用して順序立てて記憶する方法を取るとよい。その方法は、先づ自分の家を出発点として西の方向へなり東の方向へなり、隣家を数えて一二三四五…二十位まで順番を作る。そして八番と言えばその八番に当った家が眼前に浮ぶ様に何回もこれを練習する。十五番はどの家、十番は誰の家と言う練習が出来たら、その家の一二三四回となって居る順序に結びつけて記憶して行くのである。
 今八代集を記憶するとする。
 自分の家―紀伊の国(私の郷里は和歌山)であるから紀貫之を思い出し、その友の紀友則に連絡する。これが古今集。
 一軒隣―大きい梨の木があるので、梨壷の五歌仙を聯想する。古今集より後に撰ばれたから後撰集。
 二軒隣―椿の花の美しく咲く家だ。それで花山院を思い出し、子供等がよくその落椿を拾い集めて遊んで居るから拾遺集と覚える。
 三軒隣―二軒目の直ぐ隣であるから拾遺集とは関係があって即ち後拾遺集である。
 四軒隣―葉鶏頭をよく作る家だから葉が金色に光って居て金葉集だ。この家に老人があるから俊頼(としより)の編だと覚える。
 五軒隣―辨口が伸々上手な内儀だから詞葉集。
 六軒隣―剽軽者(ひょうきんもの)の居る家でよく万歳の真似などして居るから万歳ならぬ千載集と記憶する。
 七軒隣―新古今、恰度自分の家の分家に当るので面白いことには古今集からの分家の新古今となる。
 これは私の記憶して居るほんの一例に過ぎないが、文学史は皆此の方法で秩序立てる。従って年代順に人物を並べることなんかは易々たるものである。 (第五章、「研究法」より)

 先日、このブログで紹介した、「ローマ人の部屋」とほとんど同じ記憶術です。実に興味深く感じられます。

 笠松彬雄『文検漢文科合格秘訣』大同館書店、昭和6年。

 *Webcatの所蔵館は、なんと0館。紛れもない稀覯本です。増上寺の隣にある三康図書館に、大同館が出版した「文検」受験シリーズがまとめて所蔵されているようです。何かのついでに見に行こうと思っています。

戸川芳郎「〈礼統〉と東漢の霊台」


 たまたま借り出した安居香山氏編『讖緯思想の綜合的研究』(国書刊行会, 1984)。科研の報告書であるが、楠山春樹氏・吉川忠夫氏の論文など、非常にレベルが高い。性質上、「これで讖緯思想が網羅される」といったものではないが。

 特に私の目を引いたのが、戸川芳郎氏「〈礼統〉と東漢の霊台」。タイトルのとおり、『礼統』というあまり知られていない礼学文献と、後漢時代の「霊台」と呼ばれる施設を考証した論文。「論文の体をなしていないのではないか」という批判もあるかも知れないが、文献考証が冴えわたり、さすがに考察が緻密。

 類書の用い方に妙味があり、勝村哲也氏の『修文殿御覧』研究(「修文殿御覧天部の復元」、『中国の科学と科学者』京都大学人文科学研究所, 1978)を引用して、類書編纂者たちの心理にせまっている。勝村氏の論文をかつて読んだ時の感動も再現された。

*『讖緯思想の綜合的研究』 Webcat所蔵図書館 62館(本日付)。
*『中国の科学と科学者』 Webcat所蔵図書館 78館(本日付)。

Use Your Perfect Memory


 学問を志すともなると、たくさんのものを読み、そして忘れずにいることが大切です。受験勉強などの比ではありません。

 そういうわけで、私も勉強法、記憶術などには多少の関心があります。お気に入りは、Tony Buzan氏の書かれたものです。脳のはなしなど、素人には説の当否が分かりかねますが、実践的で役に立つことは疑えません。記憶術について書かれた書物をご紹介したいと思います。

Tony Buzan “Use your perfect memory : dramatic new techniques for improving your memory, based on the latest discoveries about the human brain“, New York, Penguin, 1991, 3rd ed.

 この書物は、いろいろな記憶術を駆使して楽しい知的生活を送ろうという趣旨のもので、そのなかに、「ローマ人の部屋」(The Roman Room System)という記憶術が載っています。

 ローマ時代の人の記憶術だそうで、まず架空の部屋を空想し、自分の覚えたいことと、この架空の部屋とを(なかば無理矢理)関連づけて、記憶する、というものです。

 あるローマ人は、たとえば、次のような架空の玄関と部屋とを作ることだろう、ドアの両横に巨大な柱があり、ドアノブにはライオンの頭の彫刻、そして、玄関を入るとすぐ左に、すばらしいギリシアの彫像があるような。その彫像の横には大きなソファがあり、そこにはそのローマ人が狩った動物の毛皮が掛けてあり、ソファの隣には花の咲いた植物、そしてソファの前には、大きな大理石のテーブルがあり、そこにはグラスとワインさし、果物の盆、などが載っていることだろう。 (Tony Buzan “Use your perfect memory” p.65)

 このローマ人が何かを覚えようとする時(買い物、剣の修理、子どもへのプレゼント等々)、この壮麗な空想上の部屋に、それらの物事をいちいち関連づけて、頭にその光景をありありと思い浮かべて記憶する、というものです。

 このような記憶術は、「時代遅れのこじつけ」と軽蔑されてきましたが、ブザン氏は、これこそが脳の仕組みからして最も覚えやすい方法であり、現代人も積極的にこの方法を活用すべきだ、と説いています。

 なお、ブザン氏は同じような内容の書物をたくさん書いているので、ちゃんと比較などはしていないのですが、”Use your memory“というそっくりなタイトルの本が翻訳されています(この本に「ローマ人の部屋」が紹介されているのかどうかは、確認していません)。

トニー・ブザン著 ; 松野武訳『記憶の法則』(東京図書, 1987)(新装版、東京図書, 1991)

 中国においても、古代の人々が素晴らしい記憶力をもっていたことは明らかで、私も常々その道を会得したいものと思っています。五行説だとか、易の八卦だとかいったものも、古代人の発想法・思考法であったのみならず、実は記憶術でもあったのかも知れません。そのうちに、このことも書きたいと思います。

『宋書複音詞研究』


万久富『《宋書》複音詞研究』(鳳凰出版社、2006)を読んで、勉強になりました。487年、沈約という人の書いた、『宋書』という歴史書がありますが、この書物に用いられている熟語に関する研究です。

本書の第五章「《宋書》聯合式同素異序複合詞」の第三節「聯合式同素異序複合詞発展的内在機理」という一節が私の興味を引きました。

漢語では、しばしば同義・類義・反義の2文字を組み合わせて2字の熟語を構成するのですが、その際、第1字目に置かれる文字に関して法則性がある、というおはなしです。「平坦」というときの「平」も「坦」も似たような意味ですが、漢語では「坦平」とはいわない。これは何故か、という問題です。

 張鴻魁「〈世説新語〉并列結構的字序」は、「并列結構の字序は、第一に、そして主には声調により決定される。声調の規則というものが客観的に存在する」といい、「同じ声調に属する字の并列結構においても、字序は自由に置き換えられず、声調の規則の下に、さらにもうひとつの習慣、ないし規則が字順を制約している。字序を制約しているのは、声母の要素であり、我々はこのように声母が字序を制約していることを「声序規則」と呼んでいる」という(『魏晋南北朝漢語研究』281頁、286頁)
張氏は前後の文字の確率統計に基づいて、以下の結論を導き出した、「一般的に「前清後濁」であり、「明」類の字(「明」母、「微」母、「泥」母、「疑」母)は多くの場合、後ろに置かれ、「影」母の字は多くの場合、前に置かれる」など、と。
李思明「中古漢語并列合成詞決定詞素次序諸因素考察」は、「并列合成詞の詞素の配列順序に対して影響をもつのは、まず第一に声調、次に声母で、韻母はいかなる作用も及ぼさない」という(『安慶師範院社会科学学報』1997年、第1期)。 (万久富『《宋書》複音詞研究』より)

本書の著者である、万久富氏は、『宋書』に見えるさまざまな語彙のうち、後世、使用されなくなってしまった語彙を検討しているのですが、その結果、以上の原則から外れるもの(「源淵」「泄漏」など)が、多く淘汰された、という結論を導いています。

漢語の語彙を考えるについて、実に興味深い視点です。同義語・反義語を組み合わせた熟語について、いろいろと考えてみることが出来そうです。

*Webcatによると、所蔵図書館は、7館(本日付)。

輯略のはなし


内藤湖南「支那目録学」は、日本語で読める目録学史概説として、現在でもその価値と輝きを失っていません。このことは、すでに以前の記事で書いたとおりです。

しかし、内容的に同意しかねるところもあります。その一つが、『七略』の「輯略」に関する問題です。

『七略』とは、前漢の末期、劉歆(りゅうきん)という学者がまとめた、中国で初めての本格的な図書目録です。現在は伝わっていませんが、輯略・六芸略・諸子略・詩賦略・兵書略・術数略・方技略という七つの部分から出来ていたそうです。

この『七略』をもとに、現存最古の目録、『漢書』芸文志が出来ているのですが、両者の関係について、湖南は次のようにいっています。

 現存の支那の目録では、漢書の藝文志が最も古いものである。漢書は班固の生前には出來上らないで、その妹の曹大家が完成したものといふが、藝文志は班固自身の手に成つたものであらう。後漢の中葉、西洋紀元一世紀の終り頃に出來たものである。
大體、漢書藝文志は、班固が自分で書いた處は、最初の敍文ぐらゐの僅かばかりで、その全體の大部分は、劉歆の七略によつて書いたのである。七略の中の六略を採つて載せたので、七略の一つである輯略は藝文志には載せられてゐない。

湖南は「七略の一つである輯略は藝文志には載せられてゐない」といっています。また、湖南の敬愛する清朝の目録学者、章学誠も、その『校讐通義』において「班固は輯略を削って、六略だけをのこした」といっています。湖南はこの説を襲っているのでしょう。

しかし、多くの目録学者は、「輯略は、ちゃんと『漢書』芸文志に収まっている」と考えているのです。これについては、早く姚振宗(1842-1906)が『七略佚文』の序で主張しています。その結論は、現在、『漢書』芸文志に見える各分類の解説(「小序」と呼びます)は、「輯略」を分割して載せたものである、というものです。それゆえ、「輯略」は今も伝わっている、といえるのです。

この説が正しいであろうことについて、余嘉錫『目録学発微』巻二、「目録書体制三 小序」が詳しく考証しています。

なお、「班固が自分で書いた處は、最初の敍文ぐらゐ」と湖南がいう「最初の敍文」は、しばしば「大序」と呼ばれますが、この部分も、姚振宗によれば「輯略」を元にして書かれた、ということで、姚氏はそれを『七略』の佚文として『七略佚文』に載せています。

私も姚氏と同様、大序は、大部分、「輯略」の文章を踏襲したのではないかと思いますが、これについては、いずれあらためて考えてみたいと思います。

『七略』は滅んでしまったものの、『漢書』芸文志によって、その大体を知りうる、というお話でした。

湖南による高似孫紹介


内藤湖南「支那目録学」の特色のひとつとして、宋代の目録学に紙幅を割いている点が挙げられるでしょう。

宋代目録学の成果として、『新唐書』藝文志・『崇文総目』・『秘書省続編到四庫闕書目』・『遂初堂書目』・『郡斎読書志』・『直斎書録解題』・『通志』・『史略』・『子略』・『玉海』・『文献通考』が紹介されています。内容豊富と言うべきです(『中興館閣書目』及び『続書目』についての言及がないのは奇異に感じられますが)。

この中でも、特に注目したいのは、高似孫(1158-1231)の『史略』・『子略』についての説明、ならびに高似孫の学風についての考察があることです。

大體彼のやり方は、宋の時の一般のやり方と異り、漢以來の古い學問の仕方を復活せんとした。鄭樵の目録學の影響を受けながら、それより一段内容に立入つて考へ、又鄭樵の目録學は自己の頭で組織立てた理論であつたが、高似孫はすべて昔からあるものについて之を組織しようとした。即ち歴史に關する理論も、昔から多くの人が書いたものを引き拔いて並べると、そこに一種の史學が出來る。目録學より見て史學・諸子の全體を知らしめ、しかも自分の組立てた理論でなくして、人の議論を順序よく並べて、昔の人の議論で自分の説を立てようとする。これは學問の深い人でなければ不可能のことである。

 これは内藤湖南ならではの見方で、高似孫の学問はともすれば、単なる抜き書きとも見なされかねないものです。また、目録書でもないので、一般的に目録学史で触れられることはほとんどありません。

『史略』は中国で早く失われ、日本にのみ伝存した書物なので、湖南がこれを顕彰したかったとの見方も出来ますが、むしろ、高似孫の学問への深い理解を読み取るべきでしょう。なお、『史略』の宋版は現在、重要文化財に指定され、内閣文庫に蔵されており、オンラインでも紹介されています。http://www.archives.go.jp/owning/important.html

宋代は、木版印刷がはじめて本格化した時代で、それゆえにこそ、書物観が大きな変化を遂げた時代です。今日、我々が中国の書物史を考える場合にも、この変化には是非とも目を向ける必要があります。ともすれば、目録学史は分類の変遷にのみ目を奪われがちとなり、この変化に対して鈍感です。湖南による宋代目録学の解説は、この点、バランスがとれているものと感じられます。

湖南の劉向評価


内藤湖南(1866-1934)の全集、第12巻に収められている「支那目録学」は、日本語で読める目録学概説としてはまず第一に読むべきものでしょう。内藤乾吉氏による全集の「あとがき」を引用しておきましょう。

「支那目録学」は、大正十五年の四月から六月まで、京都大学の東洋史学科の特殊講義として、十一回を以て講じたものである。著者はこの年の八月に大学を退いているから、これが大学在職中の最後の講義である。他の講義同様、著者自身の草稿はないので、聴講者のノート数種と、著者が使用したと思われる資料とを参照して整理した。文中の標目はその際に便宜施したものである。整理をしたのは昭和二十四年八月であるが、当時刊行の機を逸し、このたびはじめて印行するものである。

大正十五年といえば、西暦で1926年です。この講義では、劉向から章学誠までの目録学をとりあげており、同時代の孫徳謙(1866-1935)が書いた『漢書芸文志挙例』『劉向校讐学纂微』を参考にしています。当時、中国の学者が目録学に対して持っていた関心にまさに呼応したものです。

「支那目録学」の魅力のうち、最大のものは、司馬遷と「二劉」、すなわち劉向(りゅうきょう)父子の学問についての比較だと思います。

漢代までの支那の學問を總括して考へたものに、二通りの種類がある。一は司馬遷の史記で、一は二劉の學である。

湖南は、春秋戦国時代に成熟した中国文化の総括こそ、司馬遷の学問であり、劉向の学問であると考えます。まず、司馬遷の学問をこう語ります。

あらゆる學問の中で、最も總括的な最大の學問は史學であつて、史學は世の中を經綸する學問であり、史學が古來から漢代までの學問の關係を知る學問であるとし、この根本の古今一貫した學問を知れば、當時世に殘つてゐる書籍はそれによつて總括せられ、色々の本はあつても、その全體に關係があり、世の中の經綸に役立つといふ考へで史記を書いたのである。

一方の劉向の学問はどうか。

二劉はこれと異り、司馬遷が史記に載せないで、そのままにして世間に殘しておいたその方を全體に總括したのである。これは一書毎に解題を作り、その由來・主張・得失を一一の本について書き、之を子目ごとに一纏めにし、更にそれを一纏めにして六略の各部類とし、全體を六略とし、その六略の上に輯略を作つて全體を總論した。即ち各々の本の部分的方面より見て行き、最後に總括されたところで、人間の思想・技術が古來如何に動いたかを見たのである。即ち司馬遷の殘した部分的のものを一つに纏めた。當時の學としては、司馬遷の如く歴史の中心から總括したものと、二劉の如く各部分より總括したものと、この兩方より見て全體の學問が分るのである。

以上のように、司馬遷と劉向とを対比した上で、次のように総括します。

この二書は、漢代の最大の學術的收穫で、これだけで支那の學術は盡きてゐると云つてもよい。その後、書籍も色々出來、分類法も色々變つたが、全體に於てこの二大學問の流れに過ぎぬ。

中国史において、前漢という時代がもっている特別な意味を再考せざるをえません。中国文化の第一の総括がここで徹底的に行われ、後世においても、この枠組みが有力に機能した、というわけです。

それと同時に、中国の伝統学術がもっていた特徴的な傾向、すなわち司馬遷的な史学と、劉向的な文献学とがその根幹になっていることを思い知らせるものです。

この説は、中国の伝統学術をかなり極端なかたちで単純化していますが、見識に満ちた湖南らしい、的を射抜いた考えであると思います。

*Webcatによると、所蔵図書館は、274館。

目録学はそれほど大切なのか?


清朝の学者、王鳴盛は、目録学を評して次のようにいいました。

目録の学は、学中の第一の緊要事なり、必ずこの問塗に従りて、はじめて能くその門を得て入る。(『十七史商榷』)

「目録学は、学問の中でなにより重要なのだ。目録学によらなければ、学問の殿堂に立ち入ることすらできないのだ」ということです。この一文、目録学者にとっては、目録学への愛情をいたく刺激するものらしく、大家の先生から学生さんまで、中国人も日本人もなく、こぞって論文の冒頭に引用します。

どうも、私はこの台詞を好きになれません。この文を目にするたびに、何ともいえない「いらだち」がこみ上げてくるのです。その「いらだち」というのが、自分でもおかしいくらいなので、分析してみました。

  1. 内容があまりにも高圧的。「第一の緊要事」って、みなさん、本当にそう信じているんでしょうか?ほかにもっと大切なことがあると思いますが……。
  2. 陳腐であること。引用を繰り返す方に申し上げたいのですが、いいかげん、聞きあきました。陳腐においては他の追随を許さない中国古典研究の世界に身を置き、かなりの忍耐力はあるつもりですが、この繰り返しには耐えられません。もう勘弁してください。
  3. 王鳴盛が好きでないこと。この業界、大学者を軽々しくそしるのは御法度なのですが、人間、好き嫌いがあるのはやむをえないことです。全世界の王鳴盛ファンのみなさん、ごめんなさい。

別にそんな大げさなことをいわなくても、中国古典に、そして目録学の勉強にいそしめば、よいではないですか。こと目録学への愛着については、私も人後に落ちません。「どれくらい目録学が大切なのか」、じっくり考えてみたいと思います。

中国古典に親しむ

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