朱起鳳の略伝


先日、ご紹介した、陳玉堂『中国近現代人物名号大辞典』によって、『辞通』を書いた朱起鳳の略伝をメモしておきます。

 朱起鳳(1874-1948)、浙江省海寧の人。アザナは丹九、室名は古歓斎(『古歓斎雑識』の稿本があり、中に章太炎の『菿漢大師聯語』未収の対聯を収める)。光緒十八年の廩生、硤石図書館館長・海寧国学専修館教員などを歴任。
後に、中国同盟会に加入し、武昌革命(1911年)が起こると、鉄道の専門家、徐策は北伐軍に協力して北上し、長江一体に鉄道大隊を組織したが、この時、朱起鳳は秘書に任じられた。民国元年(1912年)、津浦鉄路南局秘書に任じられた。後に、袁世凱討伐運動に参加。
第二次革命(1913年)の失敗後、郷里に退居し、門を閉ざして著述を行った。三十年の年月をかけて巨著『辞通』を完成させた(1982年、重印本の呉文祺「重印前言」に詳しい)。さらに『字類弁証』の著作がある。次男は呉文祺。

大動乱の中で学問・著述を行った、前世紀の学者たちには、本当に頭が下がります。彼らと同じくらいの真剣さで学問に打ち込みたいものです。

呉文祺の「重印前言」は未見ですが、もし有益な記述が有れば、あらためてご紹介します。

*朱起鳳撰『辭通』,續編:呉文祺主編; 呉君恒, 鍾敬華, 呉嘉勳編撰(上海古籍出版社, 1982) Webcat所蔵図書館 77館(本日付)。

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『辞通』の価値が分からない人々


 1934年、開明書店は朱起鳳(1874-1948)の『辞通』を出版しました。この書物の出版に際しては、多くの著名人が序文を寄せました。章炳麟・胡適・銭玄同・劉大白・林語堂・程宗伊の諸人です。まことに多彩な顔ぶれで、序文だけでも、たいへんに読みごたえのあるものです。

 中でも、私がおもしろいと思うのは、銭玄同(1887‐1939)の序文です。1934年1月、『辞通』の見本数巻分を示された銭玄同は、さっそくそれを読みました。

 私はそれを慌ただしく一通り読み、この書物が、一つのことばの様々な変形を集め、「某は某の音近きの仮借なり」、「某は某の義同じきの通用なり」、「某は某の字形の譌舛なり」などと説明したものであることを知った。
 さらに、本来は別々のことばであるのに、音が近く通写されるために混乱して区別しがたいもの、たとえば「君臣」と「群臣」との関係は、意味が異なるのに、「君臣」を「群臣」と書いたり、また「群臣」を「君臣」と書いたりするが、こういった類については、それらを分けて、いちいち説明を加えてある。

 以上のように『辞通』の内容を紹介した後、銭玄同は次のように評価を加えます。

 およそ先人の「文を望みて訓を生ず」る弊害を、この書物では少なからず訂正しており、先人の「知らざるを蓋闕す」ることについても、この書物は少なからず究明している。書物の中に、先人の精確な説についてはもちろん採用してあるが、ただし朱先生みずからの独創が実に多く、すべての条にどれも彼の独得の見解が示されているといってもよいほどである。…。語言文字の学に関する前代の著作のうち、創見が最も多いのは、黄生の『字詁』と『義府』、方以智の『通雅』、王念孫の『広雅疏証』、朱駿声の『説文通訓定声』の数書ほどしかない。朱先生の『辞通』は、創見の多さではそれら諸書に劣っておらず、むしろ凌駕しているとさえいえよう。

 言語に関わる著作として、最高級の評価が与えられていることが分かります。さらに、銭玄同は、『辞通』が、他の巨大字書・巨大辞書とどのように異なるのかを次のように語ります。

 清の聖祖、愛新覚羅玄燁の『康煕字典』と『佩文韻府』の両「劣書」にいたっては、でたらめに編纂されたもので、欠点ばかりであり、抜き書きすら不十分で、精通していないというレベルをも、はるかに下回るほどなのに、学のない連中は、それらの巨大さに驚き、大切な書物として奉じており、ひどいのになると西洋人の吐き捨てた余りものを有り難がり、この二つの「劣書」を中国のことばの宝庫であると見なし、今後、辞典を編纂するには必ずこれら二つの「劣書」を主要な資料とすべし、とまで考えているのである。
 このような連中は、決して『辞通』の価値を理解できぬに違いない。彼らは朱先生の創見について「武断である」と退け、『辞通』の案語の簡潔さについても「固陋である」と退けるやも知れないのだ!

 銭玄同の『辞通』評価が完全に正しいか否かの判断は、我々読者の一人一人の検討にゆだねられるとしても、私は、銭氏の怒りにかなり共感することができます。辞典の質ではなく、その厚さでしか価値をはかれぬ輩は、いつの世にも多いものです。そして、そういう輩の発言力の方が圧倒的に強いこと、これもいつの世にも変わらぬことでしょう。

首施とは何ぞや?『辞通』編纂始末


朱起鳳(1874-1948)が、30年の時を費やして作った『辞通』。朱氏の「自序」から、彼がこの書の編纂に傾けた熱い思いを知ることができます。

中国には「字典」有りて「辞典」無し。即(も)しこれ有るも、六書の仮借の例に於いて、槩(すべ)て未だこれに及ぶこと有らず。『玉篇』は形を類するも声を類せず、『広韻』は声を類するも形を類せず。乃ち進みてこれを古に求むれば、則ち(司馬)相如の『凡将』のごとき有り、則ち(楊)子雲の『訓纂』のごとき有り、孔鮒に『小爾雅』有り、史游に『急就章』有るも、僅かに大凡を挙ぐるのみにして、未だ能く賅備せず。略せるには非ず、時代の然らしむるなり。

その後、秦の焚書以降、中国の書物の表記が悪くいえば混乱し、よくいえば多様となった様子を描き、要するに、その理解に多大な困難を伴うようになったと説き、さらに、朱氏は『辞通』撰述の直接の動機を語ります。

 前清の光緒季年、秣陵より帰り、靦(は)ずらくも講席を主(つかさ)どり、月ごとに策論を以て士に課す。巻中に「首施両端」を徴用する者有り、以て筆の誤りと為し、これを輒代更正するに、院を合して大いに譁し、書を貽りて嫚罵し、乃ち事の范史(范曄『後漢書』)に出づることを知り、并びにこれより前の読書の太(はなは)だ疎略なることを知るなり。

 是に嗣いで古人の札記の法を用い、目に見る所有らば、輒ち手に従いて写録し、時を閲すること既に久しく、帙を積むこと遂に多し、初め『読書通』と名づけ、今命じて『辞通』という。

朱起鳳が間違えた「首施」は、「首鼠」「首尾」などとも表記し、「どっちつかず、宙ぶらりん」の意味を持つ連語なのですが、朱氏はそれを知らなかったがために、恥をかいたのです。彼の非凡さは、この苦い経験を糧として、超人的な努力を積んだことにあります。

ただ、「時を閲すること既に久しく、帙を積むこと遂に多し」というのは、一種の謙辞であり、単に機械的なnote takingの作業を重ねて『辞通』ができたわけではありません。辞書の内容に反映されている、その見識の高さこそ、賞賛されるべきものでしょう。それについては機会を改めて述べたいと思います。

*朱起鳳撰『辭通』(上, 下. 開明書店, 1934) Webcat所蔵図書館 37館(本日付)。
*朱起鳳撰『辭通』(長春古籍書店, 1982) Webcat所蔵図書館 13館(本日付)。私はこれを使っています。

音に因りて義を求む


 「望文生義」ということばがあります。「文を望みて義を生ず」と訓じます。漢字の字面をながめて、ありもしない意味をひねり出す、という意味です。むろん、そんなことをしてはならないという戒めのことばで、中国古典を読むに際しては、しばしば注意されることです。

 しかし、この戒めを守ることは、実はなかなか難しいことです。多くの文字で表記された他の言語が、「表音的」に表記されているのに対し、漢字は「表音的」でないからです(なお、私は漢字が「表意的」だとも思いません。「表音/表意」のdichotomyが有用とは思えません)。それゆえ、文字の字形を手がかりにした研究に傾かざるを得ない面が、確かにあります。

 清朝の考証学者たちは、この漢字の難点を克服するために「古音学」を発展させました。古代の中国語の音韻を研究することにより、字義・字形のみに頼る研究を乗り越えよう、というものです。王念孫『広雅疏証』、段玉裁『説文解字注』といった考証学の金字塔は、こうして誕生しました。

 古音研究の過程で、次第に注目を集めたのが、「古代漢語では、字の原義を離れて字を用いることがしばしばあった」という問題です。この現象は、「仮借(かしゃ)」と呼ばれます。漢字が産み落とされた時の意図とは別に、後世においては、その本義を離れて、漢語は音に従ってさまざまに表記されるようになりました。「原義」と「用法」との乖離は、漢字の成立後、かなり早い段階ではじまったようです。

 その中でも、漢語の熟語(「連語」などと呼ばれた)が、さまざまに表記される現象が調べられていくようになります。『論語』に「文質彬彬」ということばがありますが、「彬彬」は、「份份」「斌斌」「分分」「斑斑」などとも表記され、どう書いても同じ意味を表した、ということが明らかになりました。この場合、「份」「斌」「分」「斑」などの字義を調べ、「望文生義」しても、正解には絶対にたどり着かないわけです。逆に「音に因りて義を求む」方法こそが求められます。

 この「音に因りて義を求むる」考え方に基づき、熟語を網羅的に集めた学者がいました。朱起鳳(1874-1948)です。30年の時を費やし、300万字から成る巨冊、『辞通』なる「辞書」を彼は完成させたのです。

姚名達、第三の目録学研究書


姚名達(1905-1942)の目録学研究をこれまでも何度か取り上げており、『目録學』と『中國目録學史』についてはすでにお話ししました。

『目録學』と『中國目録學史』の両書を書いた後、姚名達はもう一冊、目録学研究を編集しています。姚名達『中國目録學年表』(商務印書館,國學小叢書,1940)が、それです。

時系列に沿って並べると次のようになります。

  • 1932年 上海事変で商務印書館が被災。姚名達の原稿がすべて焼失。
  • 1933年 姚名達『目録學』(商務印書館,萬有文庫)。
  • 1938年 姚名達『中國目録學史』(商務印書館,中國文化史叢書)。
  • 1940年 姚名達『中國目録學年表』(商務印書館,國學小叢書) 。

姚名達は、学術史を年表のかたちで示すことはきわめて効果的であると信じていました。『中國目録學年表』の序文には、次のようにあります。

 年表の用は、学術史中に在りて尤も顕たり! 蓋し時を同じくして並存すれば、則ち彼と此との交光互影は、一望にして知るべく、先後順序すれば、則ち古今の淵源流派は、参考すること得べし。……。著作の成毀、学者の生平を挙凡せば、学術と関有るの時事は、年月を按じて之を序列すべからざる莫し。之を小にせば則ち一人一書の出没を考すべく、之を大にせば則ち一時一代の大勢を悟るべし。学術の年表有るは、其れ猶お簿記の日記帳有るがごときか。

姚名達自身は年表の起源を『史記』の「十二諸侯年表」に求めていますが、政治ならぬ学術を年表に仕立てようとは、創意工夫にあふれた姚名達らしい発想です。その内容については、あらためて書いてみたいと思います。

*姚名達『中國目録學年表』(商務印書館,國學小叢書,1940) Webcat所蔵図書館 8館(本日付)。
*姚名達『中國目録學年表』(臺灣商務印書館, 人人文庫,1967. 臺1版) Webcat所蔵図書館 7館(本日付)。
*姚名達『中國目録學年表』(臺灣商務印書館, 人人文庫,1971. 臺2版) Webcat所蔵図書館 4館(本日付)。 私の使っているのは、この版です。

筆名大王のこと


 近代中国の人物について調べようとするとき、私が真っ先に見るのは、陳玉堂『中国近現代人物名号大辞典』(浙江古籍出版社、1993年)です。

 中国の伝統的な文人は、自称・他称を含め、さまざまな呼称を持っています。なかでも号などというのは、なかなか調べにくいものです。

 清朝の人物については、楊廷福・楊同甫編『清人室名別称字号索引』(上海古籍出版社、1988年)がよく使われます。しかしこの書物は、単にそれぞれの個人の本籍・アザナ・号・別称・室名などを表にしているに過ぎません。使いようはありますが、限られています。

 一方の『中国近現代人物名号大辞典』は、本籍・アザナ・号・別称・室名以外に、生卒年・幼名・略歴・著書・親族などを網羅的に挙げています。しかも、号などがいつどこで使用されたのか、周到に根拠を挙げてあります。

 たとえば黄侃(1886,一作1887-1935)に異名が多いのは有名ですが、『中国近現代人物名号大辞典』によると、次のように列挙できます(根拠は省略します)。

 幼名:緒琳
 譜名:喬馨
 学名:喬鼐
 字:季剛
 早字:梅君
 又字:禾子・季子・季康
 号:運甓・運甓生
 別署・筆名:曠処士・病蝉・病禅・剛翁・不侫・鼎苹・鼎革・鼎莘・奇恣・奇談・信川・静婉・盛唐山民・黄十公子・亦陶・量守居士・寄勤閑室主人
 室名:六祝齋・雲悲海思廬・仰山堂・橋秀庵・寄勤閑室・量守廬・感鞠廬・楚秀庵・?秋室・?秋華・?華室・?秋華室

 まあ、この調子で一万人以上の人を調べ上げているわけです。「作者簡介」によると、「陳玉堂、アザナは書石、別号は紫琅山民・百盂齋主。1924年生まれ。江蘇南通の人。上海社会科学院文学研究所副研究員、九三学社社員。長きにわたり中国近現代の人物伝記資料及び別名・筆名の蒐集と研究に従事し、「筆名大王」の誉れを有する」云々とあります(より詳しくは、こちらから)。すごい執念を感じます。

 この書物はたいへんに便利なものなので、私は「大王、大王」と敬愛して止みません。増訂版が出ていますが、旧版を愛するあまり、なかなか新版に乗り換えられません。

*『中國近現代人物名號大辭典』(浙江古籍出版社、1993) Webcat所蔵図書館 65館(本日付)。

*『中國近現代人物名號大辭典』(浙江古籍出版社、全編増訂本、2005) Webcat所蔵図書館 28館(本日付)。

人名辞書


長らく休んでおりました。今日からまた再開いたしますので、よろしくお付き合いのほど、お願いいたします。

さて、その間、ある出版社から人名辞典の項目執筆を依頼されました。計11項目。

  • 彭元瑞(ほうげんずい/Peng Yuanrui)(1731-1803)
  • 呉騫(ごけん/Wu Qian)(1733-1813)
  • 陳鱣(ちんせん/Chen Zhan)(1753-1817)
  • 銭泰吉(せんたいきつ/Qian Taiji)(1791-1863)
  • 章鈺(しょうぎょく/Zhang Yu)(1865-1937)
  • 傅増湘(ふぞうしょう/Fu Zengxiang)(1872-1950)
  • 余嘉錫(よかしゃく/Yu Jiaxi)(1884-1955)
  • 陳乃乾(ちんだいけん/Chen Naiqian)(1896-1971)
  • 王重民(おうじゅうみん/Wang Zhongmin)(1903-1975)
  • 趙万里(ちょうばんり/Zhao Wanli)(1905-1980)
  • 張秀民(ちょうしゅうみん/Zhang Xiumin)(1908-2006)

清朝から民国時代・現代にかけての文献学者が多くて嬉しいのですが、ずいぶんマニアックな名簿となりました。文献学者としては一流から一流半といったところの人々でありながら、現在の日本で名を知られている人は、多くない、といった印象です。

彼らのために気を吐き、文献学を盛り立てる意味もこめて、よい記事を書きたいものです。このブログ「学退筆談」の内容ともよく合いますので、ブログのエントリーにも積極的に取りあげていきたいと思っています。

休暇


大西洋 勝手ながら、しばらくの間、更新をお休みさせてください。
 今月末には平常に復しますので、またその時はお願いします。
 まっつんさんのブログ「積読(つんどく)日記」にコメントして、次のように書かせてもらいました

 ブログ「学退筆談」を始めたのも、ひとつには「目録学の楽しみを知ってもらいたい!」と思ってのことでした。
 目録学は古い学問なので、どうしてもお経を唱えるみたいになってしまうんですよね。何とか、「退屈しない」目録学、しかも「役に立つ」目録学を構築したいものです。

 一月ほど、目録学に思いをめぐらせてみようと考えています。

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姚名達の新鮮さ


姚名達(1905-1942)が、その著、『中國目録學史』(商務印書館,中國文化史叢書,1938)を「是の書は絶えて成熟の作には非らず」(自序)と認めたことは、以前のエントリーで紹介しました。

ところが姚名達は、この書物が未熟であることを認めつつも、同じその自序に、続けて自己の書物の独自の見解があると述べ、それらを次のように例示しています。

  1. 『別録』に「輯略」はなかったこと。
  2. 『詩』『書』は、いずれも叢書であること。
  3. 『隋書』経籍志の四部は、『七略』『七録』の嫡流であり、荀勗や李充の四部分類の後身ではないこと。
  4. 仏経を分類した『旧録』及び『別録』とは、支敏度の『経論都録』及び『別録』であること。
  5. 馬懐素が『七志』の続編を作ろうとしたのは、褚無量が「四部を整比」したのとは異なる仕事であること。

なるほど、目録学史上の、おもしろい論点ばかりです。今なお、学術史的な関心を喚起します。

ただ、こう列挙すると、姚名達が専門的に伝統的な目録学を治めたようにみえるかも知れませんが、そうではありません。姚氏は、積極的に西洋の学問(当時、「西学」と呼ばれた)を取り入れているのです。

たとえば、「分類篇」には「新分類法創造之嘗試」「西洋近代分類法之進歩」「杜威(Melvil Dewey)十進法之接受與修正」の3節を設け、また「専科目録篇」には、西学の諸分野に対応すべく「訳書目録」「哲理目録」「教育目録」「社会科学目録」「自然科学目録」「応用技術目録」などの創成を提案し、その具体的な方策を説いています。

さらに、「結論篇」は、「古代の目録学についての著者の感想」「現代の目録学についての著者の感想」「将来の目録学についての著者の感想」と3節に分かち、それぞれに対して自分の見解を披露しています。簡単な総括ではありますが、姚氏のバランスの良さをうかがわせます。

目録学の研究においては、得てして古代に対する視線が圧倒的なものとなりがちですが、姚氏のそれは、現状、そして未来への態度が極めて明確な学風です。

抗日目録学者、姚名達


姚名達目録学自序 近代は、魔物です。誰にもコントロールできない、巨大な波のように時代のうねり。日本と中国との関係も、近代の到来により、それ以前とはまったく異なるものとなりました。

 増幅される憎悪は、今なお、東アジア諸国民の間で渦巻いています。及ばずながら、各国・各民族の動きに気を配っていますが、すぐに効くよい薬もありそうに思えません。この一年、私はいつもより多く、中国人・台湾人・韓国人・ベトナム人の声に耳を傾ける機会がありましたが、人文学に打ち込む我が友人たちでさえ、この「国際政治」に戸惑っているように思われました。

まずナショナリズムありきの議論に、ここで付き合うつもりはありません。「日本人として、どう考えるんだ!」という議論の立て方は、物事の一面だけしか、明らかにしないでしょう。私は、同じ学者として、姚名達(1905-1942)の思いを追うことにします。

『目録學』が書かれたのは、1933年、姚名達は数えで言うと29歳の時でした。上海事変(一二八事変)の勃発は、その前年、1932年の1月28日。この事変で商務印書館は大きな被害を受け、その付属図書館であり、全国一の蔵書を誇ったという東方図書館も灰燼に帰してしまいました。商務印書館の被害は、それと深い関係にあった姚名達の人生にも、影響を及ぼさずにはおかなかったのです。『目録學』の自序の冒頭部分を訳出します。

 この小冊子は、「一二八」で商務印書館が焼かれた後に、あらためて書かれたものである。作者は、これと時を同じくし、地を同じくし、事情を同じくして、「国難の為に犠牲となり、文化の為に努力する」一人の人間である。

 商務印書館は、倭寇の火ひとつで業務を辞めて店をたたんだりはしないし、作者もまた倭寇の火ひとつでくさって意気消沈したりはしない。我が家は焼けたとしても、我が身はなお存しているのだ、敵が強かったとしても、我々があらためて爐とかまどを作るのを禁止できるはずがあろうか?

 ただ、親愛なる読者よ!全国でも蔵書が最も多かった東方図書館も、時を同じくし、地を同じくし、事情を同じくして、「化して焦土と為り」、作者がただただこの小冊子を書くために蒐集した二百種あまりの参考書も、それとともに「悉く劫灰に付され」、この小冊子のすでに完成していた原稿も「片楮も存せざる」こととなってしまい、描き終えた肖像画を思い出してみたところで、たいして似てもおらず、描き直した絵をなでてみたところで、結局あまり美しくもないものだ!

 読者よ!彼らは我らの文化を壊滅させようとしているが、我らはどのようにして我らの文化を発揚し、彼らに見せてやり、我々は打倒することも消滅させることもできない、ということを彼らに知らせることができるのか?!

姚名達が上海事変で失ったのは、『目録學』の原稿とその参考書ばかりではなく、その他の大量の原稿も同時に焼失したそうです。彼はことに若くしてなくなったので、この喪失を回復することはかないませんでした。

しかし、この序文に見える彼の強さは、当時の中国人読者を鼓舞したのみならず、数十年の年月を隔て、「倭寇」の子孫たる私にも、訴えかけるものが確かにあるのです。

中国古典に親しむ

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