『東光』編集者から桑原氏への回答


桑原武夫氏が『東光』編集部に宛てた手紙が、同誌の第3号に載っていることを、昨日紹介いたしましたが、その桑原氏の手紙に対する『東光』側からの回答が、さらに同誌の第4号に掲載されています。平岡武夫氏「桑原武夫氏に答えて、シナ学を語る」(『東光』第4号、昭和23年4月、pp.60-65)という一文です。

この文章の中で平岡氏は、桑原氏の要望に対して、逐一、たいへんに詳しく返答しています。例えば、「漢文には一切よみをつけて下さい」という要望について、それがすでに「『東光』の編集方針の一つ」となっていて、執筆者にお願いしてあるものの、「不注意の過失」であったと弁解しつつ、さらに次のように答えています。

すべて学問は学問する人自身のはたらきの中にあるものだと思います。古典は、読者がそれを自分に即して自分の手で読むべきものです。我々が自分のことばで漢文に訳をつけることは、それこそ我々がシナ学をする上に欠くべからざる基本工作でしょう。単にビュルガリザシオンのためでなく、シナ学の成立のために、このことは必要なのです。しかもこれは非常に困難な仕事です。その困難さの故に、今までは、むしろほおかむりされていた嫌いがあります。この困難さを自覚し、それを克服することによって始めて、シナ学は学として一人前になるでしょう。定本・訳本・索引・字書の整備が切実に念願されます。仮りに百種ほどの基本的な古典を選び、一種に平均十人が十年かかるとして、延べ一万年の仕事を、世界中のシナ学者が三百人余り共同して、三十年ほどで仕上げたら、シナ学の面目も一新することだろうと思います。この一線を突破せずにいては、たとえ個々の学者は何とかお茶をにごして今日をすごし得ても、これからのシナ学は成立し得ないでしょう。

このように桑原氏の批判に答えつつ、平岡氏は、「しかしまた貴兄と見解を異にするのではないかと思われるふしぶしも、ないではありません」といって、いくつか反論を試みています。例えば、「どうか『東光』はシナ学のアクチュアルな雑誌になって下さい」という桑原氏の要望に対して、平岡氏は「アクチュアルなもの」とは何か、と問い、次のように言います。

私たちの学問は中国の現段階のためにのみあるのではありません。……私は辛亥革命以後の中国の歩みに尊敬もし、またこの歩みが中国として必然のものであることもよく分かるのですが、しかしアクチュアルなものとして私の現実感覚に訴えるものは、むしろ古典のシナ、非近代性の故に抹殺されているあのシナの文化なのです。

また「近代性」の理解をめぐっても、平岡氏は議論を展開していますが、ここでは触れずにおきます。平岡氏はさらに、手紙への応答というだけでない中国文化論を展開していますが(すなわち題の中の「シナ学を語る」部分)、そこには「漢字文化は、読書と作詩文と書写と、この三つを頂点とする一つの世界を構成している」と主張しています。

これは平岡氏なりの中国文化の理想像ですが、実はこの理想像は、すでにその前年に亡くなっていた狩野直喜氏(1868-1947)の姿と完全に二重写しになっているのです。『東光』第5号は「狩野直喜先生永逝記念」号ですが、その編集後記に、平岡氏は次のように書いています。

シナ文化を生活する人は、楽しんで漢籍を読み、その読書から詩文を流出させ、そして上手に字を書く、この三拍子のそろった人でなければならない。その一をなし、その二を兼ねる人は、今もあり、これからもあろう。しかしこの三をそろえるひとは、あるいは君山先生をもって終りとするのではあるまいか、シナ文化の光栄はいよいよ発揮するとしても、それを享受する仕方が、これから変わるのである。(『東光』第5号、昭和23年4月、p.99)

君山先生こと狩野氏を、「シナ文化を生活する人」の典型としてとらえており、そこから先ほどの「読書と作詩文と書写」こそが漢字文化における基本的要素だという主張が生まれていることが分かります。

こうしてみると、平岡氏の回答は、狩野直喜をひとつの典型とする新しい中国学を根幹に据えつつ、さらにそこから脱皮して、国際的な学術協力を通じ、中国古典の「定本・訳本・索引・字書の整備」を当面の目標として設定するものであり、そういった旗幟を鮮明にしつつ、桑原氏に対してみずからの立場を答えたものであったと読むことができるように思います。

さて両者のやりとりを通じ、ひるがえって、無記名であった『東光』巻頭言の作者が誰であったのかを考えてみると、そこにおのずと平岡武夫氏の名が浮かびましょう。礪波護先生が先年、編集して刊行なさった『平岡武夫遺文集』(私家版、2002年)には、この「桑原武夫氏に答えて、シナ学を語る」という一文とともに、はたして「『東光』巻頭言」もあわせて収録されているのです。

“『東光』編集者から桑原氏への回答” への 5 件のフィードバック

  1. 古勝 隆一先生
                           2017年11月28日
    ◎「古き伝統に連るシナ学者」・「新中国学者」。
    「『東光』巻頭言」も平岡先生の文章ですか。文中の「古き伝統に連るシナ学者」・「新中国学者」とはたれを指すとお考えでしょうか。私は、「玄人」・「通人」という言葉から狩野先生を指すものと思いました。「狩野直喜をひとつの典型と」して「さらにそこから脱皮して」ということは、「古き伝統に連るシナ学者」=「狩野直喜」ということですか?藤田吉秋

    1. 藤田様

      コメント下さいまして、まことにありがとうございます。お久しぶりでございます。

      この巻頭言、勢いを主として書かれたもののように感じました。とにかく、新しい学問をするのだ、という勢いです。雑誌『支那学』とどう違ってどう新しいのかというと、意気込みが新しいのであって、執筆陣にも出版社にも学風にも共通性・連続性の方が大きいような気がしております。

      また「古き伝統に連るシナ学者」とか「新中国学者」とかいった批判対象も、当面、あまり具体的に念頭に置く必要がないのかな、とも思っております。当時のことに詳しい先生方にうかがえば、裏話を聞かせてもらえるかもしれませんので、機会がありましたらまたご紹介します。

      通人・玄人についても、京都の先達を批判したものではないように思っております。

      学退覆

  2. 古勝隆一先生

     いつも面白く拝読させていただいております。
     『東光』巻頭言につきまして、先日、個人的に伺いましたが、コメントの方に投じませんでしたため、他の読者の方と質問が交錯してしまったような感がございました。申し訳ございません。
     まず、同巻頭言の著者につきましてお尋ねいたしましたが、平岡氏の遺文集にございましたとのことで、お調べいただき、ありがとうございました。
     また、藤田先生の御質問とも重なるのですが、「古き伝統に連るシナ学者」「いわゆる新中国学者」「現在のシナ学徒」「偶然のシナ学者」への批判が見られましたため、これらは特定の個人や学派を意識し対抗したものだったのか、そして『支那学』から新たな方針により改編した裏事情がありそうである、という質問をさせていただきました。著者がわかれば、手がかりが掴めるかもしれません。
     これと関連するかは不明ですが、かつて明治期に、国家主義に寄る『東亜之光』という雑誌があったことを思い出し、『東光』は、民主主義の立場からこれ(や当時の国家主義的な中国学)を批判的に意識しているのではないか、との感想も述べさせていただきました。封建批判的なことで知られている桑原武夫氏と交流があったとのでしたため、やはりそういった方向性かと早合点してしまいましたが、今回の記事によりますと、必ずしも桑原氏と意見が一致するものでもなかったようです。
     狩野直喜先生につきましては、「先学を語る―狩野直喜博士―」、細川護貞氏「君山先生をしのびて」(『東方学』第42輯、1971年)にも追憶が記録されており、『東光』の前身である『支那学』支那学会当時の写真等も掲載されておりますが、どうやら狩野氏は桑原隲蔵氏とは昵懇であったものの、ご方針が異なっていたという事実も垣間見えます。
     また、「先学を語る」によりますと、書道趣味につきましては内藤湖南氏の影響があったようです。若輩の浅見では、貴学において蘭亭詩会があり、1913年に羅振玉や王国維が招かれております。すると、「読書と作詩文と書写」を漢字文化における基本的要素とするお考えは、狩野先生のみならず、貴学の古き伝統であったのではないでしょうか。貴学では、現在も中国学研究者が書道を重んじる名残りや蘭亭詩会の後身のような催しがあるのでしょうか。
     取り急ぎ、長々と失礼いたしました。 匿名希望
     

  3. 匿名希望様

    コメント下さいまして、まことにありがとうございます。すべてにお答えしきれませんので、後者二つについてのみ、ご返答いたしますことをあらかじめご容赦下さい。

    桑原隲蔵氏の学問については、いつか言及することもあろうかと思いますが、全集の第2巻に収められている「梁啓超氏の『中国歴史研究法』を読む」という書評はご覧になったことがおありでしょうか?中国歴代の歴史研究につき、「修史の目的、方法等は今日の学問から観ると甚だ遺憾の点が多い」と書き、梁啓超の著書についても、「主張の徹底を欠ける点、又事実の誤謬を伝えたる点が甚だ尠くない」と言って、徹底的に批判を加えています。一言で言って、近代主義の色彩が濃厚です。学風として、もちろん狩野直喜氏らとは異なっています(しかしながら、ここで私は桑原武夫氏を同じ枠内において見ようとは思っておりません)。

    現在の京都大学における学風について、申し上げる立場にはないように思いますが、あまり雅な催しなどは行われていないようです。ただ、中国学の範囲内において、他の大学と比べれば、中国文化への愛好は強いようにも思われます。

    そういえば、最近、『京都学派 酔故伝』という本が出版されたようですね。私も読んでみたいと思っていますが、もしお読みになったらご感想をお聞かせ下さい。古い本では、筑摩の編集社であった竹之内静雄氏の書かれた『先知先哲』を楽しく読みました。

    学退覆

    1. 古勝隆一先生

       ご回答いただき、ありがとうございます。
       おっしゃる通り、桑原隲蔵氏と武夫氏は分けて考えなくてはなりません。東洋史学者と仏文学者とでは、近代性の意味や中国学への態度も異なるのであろうと推察されます。(先日、仏文学ご出身の井筒豊子氏著書をご紹介されていらっしゃいましたが、日本文学研究者とはまったく異なる観点や批評の仕方に斬新さを感じました。これと必ずしも同列に論じられるものではございませんが。)
       まずは、ご教示いただきました資料を是非近いうちに拝見したいと存じます。 匿名希望

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