みずから子夏になぞらえること


 梁の時代(502-557)、『華林遍略』六百二十巻をはじめとし、皇帝・皇族たちが多くの大型編纂物を群臣たちに作らせましたが、蕭綱(503-551)の名の下に編纂された『法宝聯璧』(『法宝連璧』)もそのひとつに数えられます。蕭綱は、梁の第二代皇帝となりますが、かれが即位する前に作らせた書物です。『南史』巻四十八、陸罩伝に、以下のようにあります。

初,簡文在雍州,撰《法寶聯璧》,罩與羣賢並抄掇區分者數歲。中大通六年而書成,命湘東王為序。其作者有侍中國子祭酒南蘭陵蕭子顯等三十人,以比王象、劉邵之《皇覽》焉。

話はさかのぼるが、簡文帝が雍州(治所は襄陽)刺史であったころのこと、『法宝聯璧』を編纂し、陸罩は群臣とともに抜粋・整理の仕事を数年かけておこなった。中大通六年(534)にこの書物が完成し、湘東王(蕭綱の弟である蕭繹、のちの元帝、508-555)に命じて序を作らせた。その作成者には、侍中・國子祭酒・南蘭陵のひとの蕭子顕ら、三十人がおり、(三国魏の文帝が命じて作らせた類書)『皇覧』を作った王象、劉邵(劉劭)らに比せられた(、それほどの名誉であった)。

 二百二十巻とも三百巻とも伝えられるこの大型の書物は、その名称からして仏教類書であることに疑問を抱く学者はいませんが、残念ながら失われてしまい、今日では「湘東王」蕭繹の序文をとどめるのみです。

 この蕭繹の「法宝聯璧序」は、『藝文類聚』巻七十七などにも引かれますが、最も完備しているのは、『廣弘明集』卷二十に載せるものです。つい先週のこと、ある研究会でこれを会読したのですが、そこに次の文があり、大いに興味をひかれました。

 繹自伏櫪西河,攝官南國,十迴鳳琯,一奉龍光。筆削未勤,徒榮卜商之序;稽古盛則,文慚安國之製

 繹(わたくし)が、西河で馬にまぐさを与え、南国で官職をあずかっておりましたところ、(この『法宝聯璧』は)十年の時を経て(完成し)、ここに皇太子殿下に奉る運びとなりました。(わたくしは)文章の校正につとめたわけでもないのに、卜商(子夏)が(『詩経』に)序を加えたのと同じ栄誉を幸いにもたまわり、いにしえを手本としてしきたりを盛り立てている本書に対して、(私の序)文は孔安国の作(「尚書序」)に及ばないのをはずかしく思います。

 ここに「卜商之序」「安國之製」の対が見えることが、面白く思われました。『詩経』に加えられた、いわゆる「大序」は、南朝の当時、子夏の作と考えられており、また同様に『尚書』の序も漢の孔安国の作と考えられていました(清朝以降は、孔安国序が偽作であることが常識となりました)。蕭繹は、これらをいにしえの規範として意識しつつ、『法宝聯璧』の序を書いているという点で(「法宝聯璧序」は当時盛んであった駢文で書かれており、文章は詩序・書序を模範とするものでありませんが)、興味深く思われたのでした。

 蕭綱や蕭繹の兄である、蕭統(501-531)が編纂させた名作集『文選』に「序」というジャンルが設けられていますが、その第一、第二を飾ったのは、卜子夏「毛詩序」と孔安国「尚書序」の両者でした。まさに、「法宝聯璧序」の対句と合致します。

 さらに言うと、先の引用文に見える「伏櫪西河」という表現は、陳志平・熊清元『蕭繹集校注』(上海古籍出版社、2018年)によれば、子夏が孔子没後に西河(山西省中部)で教育をした事績を踏まえ、蕭繹はみずからを子夏になぞらえ、自分が荊州刺史として同地に学校を立てたことをいう、とします(p.883)。卓見です。

 ここでも蕭繹は子夏を自分と重ね合わせているわけです。『校注』も指摘する通り、この序に「筆削未勤」というのも、「至於為《春秋》,子夏之徒不能贊一辭。」(『史記』孔子世家)とあるのを踏まえ、子夏の行為を示唆します。蕭繹がこの序文において、なぜそこまで子夏のイメージを強調するのか、その理由は判然としませんが、何らかの思いがあったのでしょう。

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