中国古代の生物観


『列子』説符篇に、次のような話があります。

斉のくにの田氏が朝廷で先祖の供養をしたところ、食客千人が参列した。そのなかに、魚やガチョウを献上する者がいた。田氏はそれを目にして、感嘆してこういった、「天は人間を厚く恵みを与えてくれた。五種の穀物を繁殖させ、魚や鳥を生み出して、人間の役に立ててくれているのだ」。客たちは、音に響きが応ずるかのように賛成した。が、十二歳になる鮑氏の子どもが、席に連なっており、進み出てこういった、「殿のお言葉は違うと思います。天地万物は、我々人間と同じく生きており、同類なのです。この同類に貴賤はなく、大きさや知恵や力の違いで強さが決まり、食らいあっているだけで、何かのために生み出されているわけではありません。人間も、自分たちが食用とできる動物を食らっているだけであって、天が人間のために何かを生み出すなどということがありましょうか?蚊やブヨは人間の肌を刺し、虎や狼は肉を食らいますが、蚊やブヨのため、天が人間を生み出したり、虎や狼のために天が肉を生み出したりしたわけではありますまい。」

齊田氏祖於庭,食客千人。中坐有獻魚鴈者。田氏視之,乃歎曰:「天之於民厚矣!殖五穀,生魚鳥,以為之用。眾客和之如響。鮑氏之子年十二,預於次,進曰:「不如君言。天地萬物與我並生,類也。類無貴賤,徒以小大智力而相制,迭相食;非相為而生之。人取可食者而食之,豈天本為人生之?且蚊蚋噆膚,虎狼食肉,非天本為蚊蚋生人、虎狠生肉者哉?」(楊伯峻『列子集釈』、中華書局、1979年、pp.269-270)

『列子』という書物は、しばしば一風変わった説―ほかの中国の古書にはあまり見えない説―を載せていますが、この生物観も独特なものです。我々現代人の科学知識からすると違和感ないようですが、人類以外の動物と人類を同じ地平に並べて同一視するこの見方は、当時としては特異なものであったように思います。人間中心主義を脱しています。

『論語』郷党篇のなかに、「厩焚。子退朝曰:「傷人乎?」不問馬。」という一章があります。岩波文庫『論語』の訳では、「厩が焼けた。先生は朝廷からさがってくると、『人にけがはなかったか。』といわれて、馬のことは問われなかった。」(p.194)となっています。

この厩舎の火事の一件について、朱子は次のように注釈しています。

「馬を大切にしないわけではないが、ただ、人に被害がなかったかどうか心配する気持ちのほうが上回ったから、それを聞く余裕がなかったのだ。思うに、人間を重んじ、動物を軽んずるわけであるから、理としてこのようでなければならない。」

非不愛馬,然恐傷人之意多,故未暇問。蓋貴人賤畜,理當如此。

この朱子の注には「人間を重んじ、動物を軽んずる(畜)」とあり、それが「理としてこのようでなければならない(理當如此)」、つまり、孔子は当然、そのように発言せねばならなかった、とまで言います。十二歳の鮑君が、「生物たる同類に貴賤はない(類無貴賤)」と言ったのとは、大いに隔たりがあります。私にとっては、やはり列子に見える生物観のほうが、ずっと面白く思われるのです。

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