人焉んぞ能く鬼神に事えんや


法蔵館文庫に入っている、佐藤弘夫『アマテラスの変貌―中世神仏交渉史の視座』(法藏館、2020年)を読みました。もとは、2000年に同社から出版されたものです。

論旨が明快で、興味深い書物です。根幹に関わることではありませんが、同書中に「日本を棄て去る神」(第5章)という章があり、親鸞のことが書いてありました。親鸞が『教行信証』化身土巻のなかで、『論語』の以下の章を引いている、とのことです。

季路問事鬼神。子曰:「未能事人,焉能事鬼?」(先進)

『教行信証』が手元にないので、「真宗大谷派(東本願寺)真宗聖典検索サイト」というウェブサイトを利用して、検索してみました。

『論語』に云わく、季路問わく、「鬼神に事えんか」と。子の曰わく、「事うることあたわず。人いずくんぞ能く鬼神に事えんや」と。(『顕浄土真実教行証文類』化末、398頁)

佐藤氏は、以下のように指摘します。

孔子の返答部分は、一般的には「人に事ふことあたはず、いづくんぞよく鬼神に事へむや」と読まれている。ところが親鸞は、これを「事ふことあたはず、人いづくんぞよく鬼神に事へむや」と読むのである。……

親鸞の読みの場合、「鬼神に仕えることなどできない」という論が二度繰り返されることになり、結果として神祇崇拝の峻拒がクローズアップされるという効果をもつことになった。親鸞はみずからの信念を貫くために、経典にあえて恣意的な読みを施すことすら辞さなかったのである。(法蔵館文庫版『アマテラスの変貌』pp.211-212)

親鸞の読み方は、たしかに普通とは違ったものです。漢語の文章は、一般に、句読点をほどこすことが難しいのが困ったところですが、しかし、「事人」と「事鬼」とが対になっている以上、「人焉んぞ」と親鸞のように読むのは苦しいように思います。

『論語』の文はさらに「敢問死。曰:「未知生,焉知死?」」と続くのですが、これも親鸞は「未だ知らず。生は焉んぞ死を知らん」と読んだのでしょうか。

親鸞の意図は、もちろん私には分かるはずがありませんが、興味をひかれたので、ここにメモしておきます。

コメントを残す