羅振玉「扶桑両月記」を読む


昨年、刊行された『羅振玉自伝』(深澤一幸氏訳注、平凡社、東洋文庫、2022年)を読みました。昨年、深澤先生から頂戴していたのに、機会を逃していましたが、ようやく読むことができました。

自伝である「集蓼編」のほか、旅の記録である「扶桑両月記」、「扶桑再遊記」、「五十日夢痕録」を収録し、訳注を施したものです。非常に楽しい読書となりました。

そのなかでも、私がことに興味をひかれたのは、清朝の末期に羅氏が日本に派遣され、制度の視察をおこなった二つの記録です。すなわち、光緒二十七年十一月(1901年12月。明治三十四年)から翌年正月までの出張を記録した「扶桑両月記」と、宣統元年五月(1909年6月。明治四十二年)から七月にかけての出張を記録した「扶桑再遊記」です。

羅氏は、張之洞らの命を受けて、一度目の視察旅行をおこなったのですが、専門とする教育行政のみならず、観察は日本の文明開花のいたるところに及んでいます。「日本文明の原動力として最も顕著なものが三つある。いわく、鉄道である、郵政である、電信電話である。この三事は交通の最大原動力であり、そして文明はこれによって始まるのである」(p136.)というように、交通や通信に目が向いています。それ以外にも、法制度、鉱山経営、輸出品の生産、税制などにも関心が及んでおり、あたかも明治維新の成果をともに眺めるように感じられました。

明治の社会を目睹する羅氏は、おりにふれて古代中国に思いを寄せています。

(十一月)二十八日 日本の書籍を読み、かの国の制度を知る。地方参事会会員・市町村役場役員など地方の事に従事するものは、あるいは俸給をもらわず、名誉職でもって遇される。むかし『周礼』を読んだが、先人の意見は、官職があまりにも多く、かれらを養うには禄が不十分ということだった。いま日本の制度を参考にすれば、『周官』で設置された官は、きっと日本今日の制度のごとく、いわゆる名誉役員で、俸給をもらわない者がいたに違いない。これを記して再考を待つ。(『羅振玉自伝』、pp.142-143)

『周礼』は周代の官職を理念的に描いた書物ですが、羅氏の世代の人々は、「これほど大きな官制を維持するのに、人件費がどれほどかかるのか」と疑っていたようです。日本に来て観察してみると、無給の公務員がいる。きっと周の時代もそうであったに違いない、というのが羅氏の洞察です。面白いことを言うものです。

 さらには、日本赤十字の視察もしています。

(十二月)二十六日 日本赤十字社は規模がとても広大で、近年、社員はすでに五十七万に達し、これはその国家が開明であることの一大証明である。案ずるに、中国古代には、すでにこの制度があったようで、『司馬法』に「敵なる者はこれを傷つくれば、医薬してこれを帰す」とあり、また宋の襄公は「君子は重ねて傷つけず、二毛を擒(とら)えず、列を成さざるに鼓せず」といった。これはすべて古代にも軍人救護・一視同仁の証拠があるということである。かの俘虜を捕らえ首を献上する制度は、だいたい三代の末期に出現したのである。これを記して歴史家に質す。(同書、p169)

 日本赤十字社の前身たる博愛社は、西南戦争を契機として設立されたそうですが、敵味方を問わず軍人を救護する精神の発祥を、『司馬法』という中国古代の書物に求めているところが、いかにも古典教養を持った人物らしいところです。

 羅振玉は、明治日本のさまざまな制度を、清国を建て直すべく参考にしようということで、この報告書をまとめています。重要なデータなども備えており(島根県の場合、就学年齢に達した児童のうち、就学者が85%いる、など)、真摯な態度がうかがえる記録でした。

 その一方で、古物古書を愛好する羅氏が、公務のいとまをぬっては、日本の文化人と交流する様子もうかがうことができ、そちらも興味深く読めました。

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