『南海寄帰内法伝』古徳不為


『南海寄帰内法伝』は、唐の義浄が東南アジアを経由してインドに留学した際、それらの地で仏教の戒律の実践を目の当たりにし、それを中国にいる僧侶たちに向けて書き送った書物で、食事や歯の磨き方、衣服の着用など、広範囲に及ぶ僧侶のあるべき生活規範が記されています。

近ごろ、この『南海寄帰内法伝』が法蔵館文庫に収められました。宮林昭彦・加藤栄司訳『現代語訳 南海寄帰内法伝』(法藏館、2022年)です。2004年に同じ法藏館から出版された同書を、文庫化したものです。

この文庫本をさっそく購入して読んでみました。非常に興味深く、これまで断片的にしか読んでいなかったことを後悔しました。義浄は非常に深く唐代の僧侶の戒律違反を憂慮しており、それを是正するために同書を書いたようです。その情熱が心をうちます。

宮林氏・加藤氏によるこの翻訳も素晴らしく、やや独特な翻訳スタイルではありますが、文脈を詳しく補いながら訳出なさっているので、曖昧さがありません。補いが多いため少し読みにくくはありますが、かえって理解はしやすいと思います。

『南海寄帰内法伝』の末尾の章は「古徳不為」というもので、直訳的には「昔の偉い僧侶は〜しなかった」という意味でしょうが、内容は、義浄の若い頃の師匠、善遇と慧智の二人について述べ、さらに自伝に及ぶもので、非常に面白い読み物です。

宮林氏・加藤氏の翻訳は、たいへんありがたいものですが、この「古徳不為」章につき、2点ほど修正を試みます。

第一の点。

(善遇)法師亡日,淨年十二矣。大象既去,無所依投。遂棄外書,欽情内典。十四得霑緇侶,十八擬向西天,至三十七,方遂所願。淨來日,就墓辭禮。于時已霜林半拱,宿草填塋。(T54-232b-c/王邦維校注『南海寄帰内法伝校注』、中華書局、1995年、p.233)

最後の二句について、「現代語訳」は次のように訳しています。

時、已(すで)に霜のおりた林が半ば(法師の墓を)拱(とりま)き、宿草(ねぶかいくさ)は瑩(かがや)きを填(み)たしていた。(現代語訳、p.597)

私見。「填塋」の「塋」は墓地の意なので、「かがやき」ではないと思います。また、「霜林半拱」は、「何年も経って霜にさらされた墓地の木々が半かかえほどの太さに育っており」の意ではないかと思います(善遇が亡くなってから25年も経っているので、墓地に植えた若木が生長している、というのでしょう)。『春秋左氏伝』僖公三十二年の「中壽,爾墓之木拱矣」を踏まえた表現です。

第二点。

乃虔心潔淨,寫《法華經》。極銓名手,盡其上施。含香吐氣,清淨洗浴。忽於經上,爰感舍利。經成,乃帖以金字,共銀鉤而合彩,盛之寶函,與玉軸而交映。駕幸太山,天皇知委,請將入内供養。(T54-232/王邦維校注本、p.233-234)

末尾の一文を、「現代語訳」は次のように訳しています。

(このようにして成った禅師の写経、)太山(=泰山)に賀幸(みゆき)された(斉国の)天皇(おう)が委(細)(くさぐさ)を知られ、(結果、この禅師書写の法華経を斉国の宮)内に入れられ、供養されることを(禅師に)請われたのであった。(現代語訳、p.599)

私見。「天皇」について、「斉国の」という補いがありますが、そうではなく、時の皇帝、唐の高宗であることは、王邦維氏の校注が指摘するとおりでしょう。また、最後の一句を訳すとすれば、「宮中に収めて供養したいとお望みになった」というほどでしょうか。なお、「駕幸」の「駕」は天子の乗り物ですから、訳注の「賀」は不審です(訳すならば、「皇帝が泰山に御幸された際」)。

こまごまとしたことを申しましたが、いずれにせよ、非常にありがたい訳業・出版であることに何のかわりもありません。この日本語訳がなければ、通読する機会もなかったことでしょう。感謝したいと思います。

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