「則」と「而」


接続詞の「則」に、ものごとの因果関係を示す機能があることは、高校の国語の授業でも習います。たとえば、『論語』泰伯篇に、次のようにある「則」がそれです。

子曰:「恭而無禮勞,慎而無禮葸,勇而無禮亂,直而無禮絞」。
(先生がいわれた。「うやうやしくしても礼によらなければ骨が折れる。慎重にしても礼によらなければいじける。勇ましくしても礼によらなければ乱暴になる。真っ直ぐであっても礼によらなければ窮屈になる。」岩波文庫、金谷治訳。)

「恭而無禮」という条件があれば、「勞」という結果になる、という、原因と結果の関係を、「則」がつないでいるわけです。

さて、この「則」と同じ機能を有する「而」の用法があることに気づいたのは、王念孫(1744-1832)・王引之(1766-1834)親子であったようです。『荀子』の「生民寬而安」について、王念孫は「而猶則也」と言っており(「人々は、寛大な世であれば安らかに暮らす」の意。『読書雑志』荀子五)、また王引之『経伝釈詞』巻七にも、その例が挙げられています。重要な発見といえましょう。

さて近頃、湯浅廉孫『漢文解釋における連文の利用』(朋友書店、1980年)を読んでいたところ、この「而」の用法に関連し、湯浅氏が以下のように言うのを目にしました。

例えば『荘子』〔斉物論〕の「天下莫大於秋豪之末、大山為小、莫壽乎殤子、彭祖為夭、天地與我並生、萬物與我為一」の「而」、又は『墨子』〔明鬼下〕の「曰先生者先死、若是、則先死者非父則母、非兄姒也」の「而」、『韓子』〔内儲説上〕の「豎牛曰:壬固已數見於君矣、君賜之玉環、壬已佩之矣、叔孫召壬見之、果佩之」の「而」の如き、皆亦「則」の仮借であって、固より人々の習見する所であるが、……。(p.81)

「習見」かどうかはさておいて、この一段を読み、私ははじめて、この「而」が「則」の仮借―すなわち音の近さを利用した通用―の可能性があることに気づいた、という次第なのです。

湯浅氏のこの書物は、もともと『初學漢文解釋ニ於ケル連文ノ利用』と題して1941年に出版されたもので、王念孫・王引之流の訓詁学をベースにしているように感じられました。内容はかなり高度で、とても「初學」向けとは言えませんが、漢語に関心を持つものとして面白く読みました。

『漢文解釋における連文の利用』
湯淺廉孫著
朋友書店 1980 朋友學術叢書

初版は、以下の文求堂書店版。
『初學漢文解釋ニ於ケル連文ノ利用』
湯淺廉孫遺箸 ; 湯淺幸孫[編]
文求堂書店 1941.11

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