「楹聯の趣味」


「楹聯(えいれん)」というのは、中国の建物の、楹柱(入り口の両側の二本の柱)に貼ったり掛けたり、もしくは刻んだりされている、対聯(ついれん)のことです。対聯とは、対句によって作られ、左右一対となっている書です。お正月、門の左右に貼る楹聯は、特に「春聯(しゅんれん)」と呼ばれます。

さて、その「楹聯」について、青木正児(1887-1964)が若い頃に書いた短い文章があります。「楹聯の趣味」(『青木正児全集』第2巻、春秋社、1970年、pp.206-210)です。もと、同氏『支那文藝論藪』(弘文堂書房、1927年)所収。『支那文藝論藪』の自序によれば、「楹聯の趣味」は、大正九年(1920)十一月の作、とのこと。

「楹聯の趣味」に、次のように言います(引用に際し、表記を少し変更しています)。

楹聯、一に楹帖と云う。二枚の板もしくは紙に対語を題して、門と云わず、堂と云わず、いやしくも左右相対する柱の有らん限り、これを掛け列(つら)ね、上は宮殿の貴きより、下は商賈の賤きに至るまで、これを高尚にして風雅の粧飾たり、これを卑俗にしては気のきいた看板となっている。多様多種の品位と意義と用途を有すれど、その間一気の貫通せるものは「雅致」であって、文雅を喜ぶ支那国民性の一端が最も明瞭に画き出されて居る(p.206。現代から見て不適切な表現を含むが、そのまま引用。以下同じ)。

この「楹聯」の起源につき、青木氏は、五代十国の頃、「桃符」(正月用の魔除けのふだ)というものから生まれてきて、宋代以来、発展を遂げたものとの見通しを示し、さらに次のように言います。

楹聯の形造れる美観は右左相称(シンメトリー)の美である。……古来、支那人の有する美的好尚の最も顕著なものは相称の美である、彼らの哲学は陰陽の二元論である。彼らの文学は駢文を以て根柢としている、美術、特に建築は右左相称を原則としている。楹聯の構造は実に文学上の駢体と、建築上の右左相称とが会流して出来上がったもので、そこに彼らの世界に誇るべき書道が加わって完成された小芸術作品である。(pp.207-208)

楹聯について、堂々たる議論が張られています。楹聯には、中国的な美意識が見やすいかたちで表現されたものであるというこの議論には、頷かされます。

「吾々日本人が支那建築を見る時に馬鹿ばかしいほど左右の相称が保たれているに驚く、しかしその大建築の前に立った時、威圧されるような重々しさに驚嘆せざるを得ない」(p.208)とも、青木氏は言います。本邦には、寺院等を除いて楹聯を飾る習慣が少ないので、楹聯というものは、中国風の美意識として我々の目をひきます。そこに貫通する左右相称の意識に着目した青木正児の楹聯論は、百年以上前に書かれたものながら、中国文化を外から観察したものとして、いまも興味深く感じられます。

【補】リンク先は、長崎市の崇福寺第一峰門。日本に伝わった楹聯の例です。門の左右の青い木版に彫られています。

“「楹聯の趣味」” への 1 件のフィードバック

  1. 古勝 隆一先生
                           2023年5月23日
    ◎「崇福寺第一峰門」。
    調べてみました。

    天空 海闊 無雙地  天 空(おほ)きに 海は闊(ひろ)し 無双の地
    虎伏 龍歸 不二門  虎 伏し 龍は帰る 不二の門

    享保辛丑相月穀旦
    住山道本題幷書

    上聯「天空海闊」は崇福寺の風景を描き、下聯「虎伏龍歸」の龍虎は修行僧のことを言ったものと思います。
    「享保辛丑」は、享保6年(1721)。「道本」は、寂伝道本禅師(1664~1731)。享保4年(1719)、来日。第一峰門の建立が1644年とすると、楹聯が掛けられたのは門の建立後78年経ってからとなります。
    藤田吉秋

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