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「盧植とその『礼記解詁』」


池田秀三氏「 盧植とその『礼記解詁』」という論文を久々に読み返しました。

盧植は、後漢末の学者です。大儒として知られた馬融の弟子であり、かの鄭玄を馬融に引き合わせた人物。『後漢書』列伝第五十四に、立伝されています。盧植その人と、彼の盧植の業績である『礼記』の注釈とを論じた長大な論文です。

この論文に登場する主な学者は、後漢の蔡邕・馬融・盧植・鄭玄。そして、魏の王粛です。中国経学史の中でも格別に重要な位置を占めるこの時代の、すべての重要な学者が取り上げられていることになりましょう。単に盧植の学問を分析しただけの論文ではありません。

池田先生がお書きになる漢代経学は、経学的な重要問題を当時の重要性さながら取り上げながら、学問の系統と、それぞれの学者が持つ個性とを見事に関連づけて描写するところに特徴があるように思います。盧植については、鄭玄との比較のもと、次のように説かれています。

盧植は鄭玄ほど自己の礼学体系に忠実ではない。彼は決して体系を全てに優先する至上価値のものとはしていない。その体系性は、礼の現実的意義を喪失しない限りにおいて、また先師の旧説を大きく逸脱破壊しない範囲において許されているのである。彼は理論に走り、自己独自の体系を打ち立てる気などさらさらなかった。願うところは、受けし古学によって俗説を正すことにあったのである。(下、p.6)

こういったメリハリのついた評価は、はっきりとした眺望を読者に与えます。盧植の学問がよく分かるのはもちろん、鄭玄の学問がどのようなものであったかについて関心をお持ちの方にも勧められるように思われます。

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『井筒俊彦の学問遍路:同行二人半』


井筒俊彦氏(1914-1993)のお仕事の背後に、夫人である井筒豊子氏の尽力があったことは知っておりましたが、たいへん残念なことに、夫人は今年の4月25日に亡くなられたとのことです。

その井筒豊子氏の著書、『井筒俊彦の学問遍路ー同行二人半』(慶應義塾大学出版会、2017年)が、この9月に刊行されました。出版社のサイトから、紹介を引用します。

昭和34(1959)年、ロックフェラー基金で海外研究生活をはじめた井筒俊彦。
それ以降20年に及ぶ海外渡航生活のなかでの研究者との出会い、マギル大学、エラノス学会、イラン王立哲学アカデミー等での研究と生活を豊子夫人が語る。
▼豊子夫人、追悼企画。

昭和34(1959)年、ロックフェラー基金で海外研究生活をはじめた井筒俊彦。
それ以降20年に及ぶ海外渡航生活のなかでの研究者との出会い、マギル大学、エラノス学会、イラン王立哲学アカデミー等での研究と生活を豊子夫人が語るインタビュー、エッセイ、論文を通して、鮮やかに蘇らせる。

目次

井筒俊彦の学問遍路――同行二人半


カイロの月
ウェーキ島
モントリオール
乳と蜜の流れる国
モロッコ国際シンポジウム傍観記


言語フィールドとしての和歌
意識フィールドとしての和歌

  豊子夫人が語る井筒俊彦先生 澤井義次
  井筒豊子 略年譜

第1のセクションはインタビューの記録、第2部はエッセイ、第3部は論考となっています。私はまずインタビューから読み、井筒俊彦氏の学問生活について知ることができたことを感謝しました。偉大な人は、その人が偉大であるだけでなく、素晴らしい人たちとの縁で繋がれていることを知りました。夫人の口から直接に語られたものであるだけに貴重です。

第2、第3のセクションは、夫人ご自身の文章で、優美な文体と深い洞察を兼ね備えているように感じられました。言葉の選択や文化を見つめる目など、井筒俊彦氏に似ている部分がある一方、特にエッセイなどの文章表現は夫人独特の感触をそなえたものと思われました。インタビューで語られた平明な言葉とはかなり異質な、文学性の高いものを感じました。

井筒俊彦氏に関心をお持ちの方には、是非ともお読みいただきたい一冊です。

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『経典釈文』の一字が読めました


高橋均先生の『経典釈文論語音義の研究』(創文社、2017)を読んでいたところ、版本の『経典釈文』と正和本『論語集解』(東洋文庫蔵、重要文化財)に書き入れられた『経典釈文』との間には差異があるという話がありました(同書、p.53)。微子篇「身中清,廢中權」の釈文です。

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  • (廢,)方肺反。馬云:棄也。鄭作發,動貌。(通志堂本『経典釈文』巻24、第21葉表)
  • (廢,)方肺反。馬云:棄也。鄭作癈,江熙同,謂:癈,。(正和本『論語集解』の書き入れ)

高橋先生の議論の重点は、『論語』注釈者の江熙が基づく本文が鄭注と一致する、というところにあり、それももちろん重要なのですが、私はどうも「馬云棄」の下にもう一字あるのが気になりました。

「旦」を上下に二つ重ねるような字です。いま、かりにという記号で表した部分ですが、高橋先生はこれを読んでおられません。

ふと、「置」字の異体字ではないかと思い当たりました。つまり、正和本の書き入れに引かれた『経典釈文』によると、馬融の訓詁は「廢,棄置也」となります。「棄置」とは、人材が用いられずにいることなので(たとえば曹植「贈白馬王彪」の詩に「心悲動我神,棄置莫復陳」とあります )、この文脈によりよく合います。『経典釈文』通行本の「棄也」というのよりも、由緒正しい本文であろうと思います。

「置」をこのように書く例については、史料編纂所の「電子くずし字字典」から、似たものをいくつか見出すことができます。

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『春秋説題辞』は「春秋説」の題辞にあらず


『春秋説題辭』は、『春秋』という経書に付会された「緯書」のひとつで、前漢末ごろにできたもののようです。

有名な緯書として、『易(緯)乾鑿度』などの「易緯」、『尚書(緯)考靈曜』などの「書緯」、『詩(緯)推度災』などの「詩緯」、『禮(緯)含文嘉』などの「禮緯」や「樂緯」、『春秋(緯)元命包』などの「春秋緯」、『孝經(緯)援神契』などの「孝經緯」、そして「論語緯」などがあります。緯書の題は、普通の書物と少し異なり、経書の名称を除くと、「推度災」「援神契」など、三文字でつけられるのが一般的です。

shuoticiそういうわけで、『春秋説題辭』も、もちろん春秋緯である『説題辭』という書物だと理解していたのですが、中国から出版されたある点校本に「《春秋說・題辭》」となっていたものですから、驚いてしまいました。虚をつかれたという感じでしょうか。

網羅的に緯書の佚文を集めた安居香山・中村璋八編『緯書集成』(明徳出版社、1971-1992)などを見ると、確かに、『春秋説題辭』などの「春秋緯」を「春秋説」として引用した例は少なからず存在します。

しかし、たとえば『春秋公羊傳疏』(序の疏)に「故《說題辭》云:傳我書者公羊高也」とあるように、「春秋」を冠せずにただ「説題辭」に云う、として引用した例もまた少なくないことを考えれば、「《春秋說・題辭》」の標点は誤りであることが分かりましょう。

「説題辭」も、「推度災」「元命包」「援神契」などと同様、三文字の書名であるはずなので、「《春秋說・題辭》」はいただけません(写真下段の「𣏟」字の段注に見えます)。

蘭子とは


『列子』説符篇に「宋有蘭子者,以技干宋元」とあり、「蘭子」という語が見えています。何のことでしょうか。

小林勝人氏は、この一文、次のように訳しています。

 宋の国に蘭子と呼ばれる流れ者の曲芸師がいて、その曲芸を宋の元君に売り込みに行った(『列子』下冊、岩波文庫、1987年、p.188)。 

また、『漢語大詞典』では「蘭子」の一語を「技を以て妄りに游ぶ者なり。即ち江湖を走る人を指す。蘭は「闌」に通じ、妄なり」と説明しています。小林氏の解釈と似た方向です。殷敬順が『列子釋文』を書いて「『史記』無符傳出入謂之闌。此蘭子,謂以技妄遊(『史記』に符傳無くして出入するを之(これ)闌と謂う。此の蘭子、技を以て妄りに遊ぶを謂う)」といいましたが、小林説、『漢語大詞典』説とも、これに影響されたものでしょうか。

一方、『説文解字』十二篇上、門部に、「𨷻,妄入宮掖也。从門䜌聲。讀若闌。(𨷻、妄りに宮掖に入る也。門に从(したが)い䜌の聲。讀みて闌の若(ごと)し)」とあります(なお段玉裁注本は「掖」を「亦」に作る)。そして段玉裁は次のように言います。

『漢書』以“闌”爲“𨷻”字之叚借。成帝紀:「闌入尚方掖門」。應劭曰:「無符籍妄入宮曰闌」。又或作“蘭”。『列子』:「宋有蘭子」。張湛注曰:「凡物不知生之主曰蘭」。殷敬順曰:「『史記』無符傳出入謂之闌。此蘭子,謂以技妄遊」。

『列子』に出てくる「蘭」子は、「𨷻」子の假借字だ、ということでしょう。なお張湛注の本文は、世徳堂本に基づき「凡人物不知生出者謂之蘭也」とするのが正しいというのが、王叔珉の説です(『列子補正』台聯國風出版社、1975年、p.390)。

「𨷻」(ひとまず『説文』に依拠して、「𨷻」を本字、「闌」「蘭」を假借字とみなして話を先に進めます)の字義は、「(宮門や関所などを)許可なく通過する」、ということにな

lanwangりそうです。そうだとすると、『列子』にいう「宋有蘭子者」とは、おそらく、「外国から勝手に亡命して宋に来ている人」、ということでしょう。芸人がどうのということは関係ありません。張湛が「凡そ人物の生出を知らざる者、之を蘭と謂う也」とするのは、正解に近いと思います(その土地の出身者でないから、出生地が分からないということ)。

ただし、『史記』や『漢書』には「闌入」「闌出」などの語彙が見えていますが、「𨷻」を用いた例はないようです。また、睡虎地秦簡『法律答問』48に「告人曰邦亡,未出徼闌亡,告不審,論可殹」とあるように、秦代の簡牘に書かれた法制史料には「闌亡」の語がよく見えていますが(右側の写真は『嶽麓書院藏秦簡』4から)、こちらも「𨷻」を用いてはいません。「𨷻」がその本字であるというのが、『説文』以外の資料によって裏付けられないのは残念です。

中国古代のヨイトマケ


「邪許」という漢語を辞書で引くと、「労働時に多くの人が一斉に力を出す時に発するかけ声。現代中国語でいう「號子聲」」とあります(『漢語大詞典』)。古書の用例として、『大詞典』には以下の文を挙げます。

『淮南子』道應訓:「今夫舉大木者,前呼邪許,後亦應之,此舉重勸力之歌也」。

『呂氏春秋』淫辭:「前乎輿謣」高誘注:「輿謣或作邪謣。前人倡,後人和,舉重勸力之歌聲也」。

重いものを大勢の人で持ちあげる時、リーダーが「邪許!」(もしくは「輿謣!」「邪謣!」)と発声すると、他の作業者も同じく声を合わせたようです。なお『文子』微明篇には、上記の『呂氏春秋』『淮南子』と似た話を載せます。

老子曰:「今夫挽車者,前呼邪軤,後亦應之,此挽車勸力之歌也」。

上古音でいうと、邪・許・輿・謣・軤、すべて魚部に属する音で、主母音*aを推定する学者が多いようです。

これに関連するらしいのが、『莊子』齊物論に見える風の音の描写、「前者唱而隨者唱」であり、「于」「喁」が「邪許」に相当しているようで、『經典釋文』に引く李頤の説に「于、喁,聲之相和」と見えています(この「聲之相和」という表現は、『老子』第二章の「音聲相和」をもじった表現です)。王叔岷『莊子校詮』(pp.46-47)もこれに同意して、「于喁」をヨイトマケと考え、上記『呂氏春秋』等の例を挙げています。

問題は、「于」「喁」の上古音で、「于」は魚部に属するものの、他方の「喁」は侯部(主母音*uか*oを推定する学者が多い)という別の部に属していることです。互いに同部に属していれば、かけ声として理解しやすいのですが、少し引っかかるところです。

前漢時代の押韻例を見ると、魚部と侯部はしばしば押韻しており、羅常培・周祖謨『漢魏晉南北朝韻部演變研究』第一分冊では、前漢時代、魚部と侯部が合流していたと考えているようです。この羅常培・周祖謨説については、邵榮芬「古韻魚侯兩部在前漢時期的分合」(『邵榮芬音韻學論集』首都師範大學出版社、1997年)などに批判が見えますが、前漢時代においては魚部と侯部とが韻文の押韻に確かに見えるという事実は動かないようです。

また『春秋左氏傳』宣公十五年に見える諺、「高下在心,川澤納。山藪藏疾,瑾瑜匿。國君含,天之道也」というのが、「汙」(魚部)、「瑕」(魚部)、「垢」(侯部)で押韻しているとすれば、先秦時代から魚部と侯部が近いと感じられていた証拠になります。

そうであれば、『莊子』にいう「前者唱于而隨者唱喁」の「于」と「喁」も、おそらく「于喁!」という疊韻語のかけ声、ヨイトマケだと考えてもよいように思いますが、如何でしょうか。

訓読すれば「前者は于と唱え隨者は喁と唱う」という表現ですが、前者も後者も「于喁!」と発声したわけで、擬人法を用いて風の音をそう表現したのでしょう。

こういう庶民のかけ声のようなものが残っているのが、道家文献ーおよび道家の影響を受けた『淮南子』などの文献ーの楽しいところです。それが道家者流のユーモアを伝えているのです。

李楨という学者


郭慶藩『莊子集釋』(光緒二十年1894序刊)と王先謙『莊子集解』(宣統元年1909刊)の二書は、今なお『莊子』研究の基礎とされていますが、この二種の注釈には、李楨という人の学説がしばしば引用されます。

はて、どんな人だろうかと思っても、あまり手がかりがなく、兪樾(1821-1907)の説を踏まえているところがあるので、そこから彼が生きた時代がおおよそ分かるという程度でした。

そこで調べてみると、王先謙『漢書補注』の編輯作業に関わった学者のリスト、「同時參訂姓氏」の中に、その李楨の名が見えていました。郭嵩燾、朱一新、李慈銘、繆荃孫、沈曾植、王闓運、葉德輝、皮錫瑞、蘇輿といった名人に並び、「李楨,字佐周,湖南善化人。附貢生」とあるのです。

王先謙(1842-1917)は郭慶藩(1844-1896)『莊子集釋』のために序文を書いていて、また郭慶藩は郭嵩燾(1818-1891)の甥に当たるという関係で、みな湖南省の出身者です。『漢書補注』「同時參訂姓氏」に列記される諸氏は、一見して湖南出身者が多く、そこに同じく湖南善化出身の李楨がいるわけですから、一応、王先謙と地縁的つながりのある人物と想像することができましょう。

その李楨には、『畹蘭齋文集』四巻という著作があり、『清代詩文集彙編』(上海古籍出版社)というシリーズに収録されています。その書物に、王先謙の序文(光緒十八年1892)が冠されているので、その一部を引用します。

李君佐周,長余一歲,自幼同學,相愛好,稍長,各以飢驅出走,十數年不相聞,而特聞其古文之學冠絕時輩。壬午歲,余歸相見長沙,各出所業相質,情誼視疇昔逾密。再歸,又加密焉。……甫三十,絕意進取,竟以歲貢生老,人咸惜之,而佐周夷然不屑。讀其文,可以知其自命矣。光緒壬辰秋八月,長沙愚弟王先謙謹敘。

李楨と王先謙との交友関係がよく分かりますし、「長余一歲」と言っているので、李楨の生年が道光二十一年(1841)であることも確認できます。

setsumonitsubunbenshoまた李楨は、『説文解字』に詳しかったらしく、『說文逸字辨證』二巻(光緒十一年自序 畹蘭室 刊本)の著もあります。

調べものをしているうちに、李楨という学者について少しずつ分かってきました。

井筒俊彦の『老子道徳経』理解


井筒俊彦(1914-1993)は、1970年代、テヘランにおいて『老子』のペルシア語訳ならびに英訳を行いました。

井筒の没後、その英訳版は2001年に慶應義塾大学出版会から出版されました。

Lao‐tzŭ : the way and its virtue
translated and annotated by Toshihiko Izutsu
Keio University Press 2001 1st ed
The Izutsu library series on Oriental philosophy, v. 1

さらにその後、同じく慶應義塾大学出版会が、「井筒俊彦英文著作翻訳コレクション」と題して、井筒の英文著作を日本語訳することを計画しました。

そして今春、「井筒俊彦英文著作翻訳コレクション」の一冊として、『老子道徳経』が刊行されるに至りました。

井筒俊彦著、古勝 隆一訳『老子道徳経』、慶應義塾大学出版会、2017年4月

laozidaodejing2001年の英語版を編輯されたのは、天理大学の澤井義次先生ですが、私もその時に少しばかりお手伝いさせていただき、今回もそのご縁で、日本語版への翻訳を担当いたしました。

私にとってこの訳出作業は、井筒の『老子』理解を知るよい機会となりました。その概要は、本書の「訳者解説」に書いておきました。

縁あって、この連休中に、福岡県朝倉郡の信覚寺(浄土真宗本願寺派)というお寺で、少しばかり井筒の『老子』理解についてお話しさせてもらうつもりです。

『老子』という中国古典が、現代においてどのような意味を持ちうるのか、皆さんと語り合うことができれば、と期待しております。

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出典と用例の間


中国語の文言で書かれたテクストを精読する場合、私が日常的に行っている注釈について、いささか紹介いたします。

テクストに注釈をつけるという行為は、その注釈によって、テクストについての読者の理解が深まることを目指すべきだというのが私の信条です。そのためには、(1)「言葉に関する注釈」、そして(2)「内容に関する注釈」、この両者が必要でしょう。

(1)「言葉に関する注釈」というのは、注釈の対象となるテクストの言葉を解釈するもので、(a)「典故」、(b)「テクストの作者が踏まえたらしい例」、そして(c)「用例」に分けて考えています。

(a)「典故」(「出典」)というのは、テクストの作者が、読者にも通じせる意図をもって古典の断片を引用することで、たとえば読んでいるテクストに「知命」という語があれば、おそらく『論語』為政篇の「知天命」が出典であろうと一応、想像できます。

(b)「テクストの作者が踏まえたらしい例」というのは、そのテクストに先行する著作をテクストの作者が読んで、その先行著作の語を取って自分のテクストに利用したとみなせるものです。作者が典故とまでは意識していないものを想定しています(典故の場合は、作者のはっきりした意識が存在します)。典故と紛らわしいことがありますが、作者の意図として、わざわざそれを踏まえて、そのことを読者に分からせようとしているとは感じられない場合、出典とは考えず、「踏まえたらしい」程度にとどめた方がよいようです。

これはどうしても作者の意図や想定する読者層を慮る必要がありますので、厳密には(a)(b)の区別がつかないことはたしかにありますし、これについて研究者間で意見が異なることがしばしばあります。その際、(b)と判定するのが良心的だと私は考えます。

(c)「用例」というのは、作者が読んだかどうかを問わず、(i)テクスト撰述よりも前に書かれた著作に見える語、(ii)テクスト撰述と同時代に書かれたと推定される著作に見える語、補助的には(iii)テクスト撰述の後に書かれた著作に見える語です。それらを拾い集め、対象とするテクストの意味に近いものを注釈にしています。(i)は必要なものすべて、(ii)は必要に応じて、という感じで挙げます。虚詞の用法なども、用例を検討することで明らかにできましょう。ただし付け加えると、これについても(b)と(c)の区別がつきづらい場合もあります(作者が読んでしかも踏まえている可能性がある場合は、単なる用例でなく、(b)ということになります)。

(2)「内容に関する注釈」は、制度、地理、背景となる観念など、言葉の表面に直接には現れないことがらについての注釈ですが、ここでは詳しくは述べません。

大体、以上のような区別を念頭に置きつつ注釈をつける時、辞書が力を発揮するのは、(1)の(a)で、部分的には(b)(c)もそうです。おそらく中国語著作と日本語著作とでは違いがあるのですが、中国語の文言文の場合、典故となる語は有限であり、基本的に『漢語大詞典』を見れば分かりますし、『大漢和』でも『辞源』でも分かります。こういった辞書で、(b)が拾えること(あるいは、拾うヒントを得ること)もしばしばです。うるさいことを言えば、かなり変則的な用典(典故を用いる方法のことです)の場合、辞書のみでは解決しないことも附言しておきます。

(b)と(c)とについては、網羅的に例を蒐集する必要がある場合も多く、その時は、以前は索引類、近年では電子的なデータベースが利用されているようです。もちろん後者の方が網羅的に例を拾うことができます。

そもそも、(a)の典故については、辞書を見ずに、あらかじめ知っていることが理想でしょう。そういう意味において、辞書を使うのは便法と言えますが、基本的な古典を語単位ですべて記憶していて、その場で言える人は現在では少ないので(私の知る中では、台湾の陳鴻森先生は稀有なお一人です)、辞書を利用するしかありません。

以上、述べたのは、私が文言文テクストに注釈をつける時の心得ですが、これはある程度、私の読書一般にも通じるものです。どこを自分の頭で考え、どこで辞書を引き、どこでデータベースを使うか。私はこのようにしているのですが、これが他の方に通用するものであるかどうか、これは分かりません。

あえて言いますが、「単なる用例調べ」(つまり(c)のみを調べること)では、言葉を調べる意味は乏しいと個人的に考えています。最近は、データベースを検索して、例を並べて注釈に代えるというような悪習もはびこっているようですが、これは「出典調べ」(つまり(a)のみを調べること)以下です。作者の教養やその背景、そしてその意図を常に意識しつつ読まなければ、書物を読む意味も乏しいと思うのです。

辞書、引くか引かぬか


吉川幸次郎が狩野直喜から教わったという興味深い辞書の引き方があります。

京都大学の一回生として中国語を学びかけたばかりのころ、私は先生に向かって、中国語の辞書の不備をうったえた。先生は、そのうったえに対しては、ただ、そうだろうね、と簡単に答えられるだけで、別の話をされた。先生が第一高等学校の生徒であったころ、ある外国人の教師—先生はその名をいわれたが、私は忘れた—がいった、はじめての英語の単語に出くわしても、すぐ字引を引くんじゃない。前後の関係からこういう意味だろうと、自分で考えてみる。そのうち別のところで、その単語がまた出て来たら、前に考えた意味を代入してみる。まだ字引は引かない。三度目に出て来たとき、そこにもうまくアプライすれば、もう大丈夫だ。そこでオックスフォードを引くんだと教えてくれた。僕もそうして勉強したよ。(吉川幸次郎「私の信条」、『吉川幸次郎全集』20、筑摩書房、1970。p.60)

辞書を使わずに語義を考えるというのは、一種の自己内対話であろうと思います。「こういう意味だろうか?いや、どうだろうか?」と。それを三度まで繰り返すというのは、面白い勉強法ではありませんか。

たしかに、私もこれまで、そのようにして読んできたような気もします。手もとに辞書がない時などは、いつも意味を想像してきました。その推測がたまたま当たっていれば、これは、実に気分のよいものです。

一方で、辞書を引くのも手堅い方法でしょう。しかし手堅いものであると同時に、先人の智慧を拝借した手軽な便法だという面もあります。また、辞書に依存すると、その言葉にとらわれてしまうこともありましょう。

辞書を引くのか引かないのか。少し立ち止まる習慣をつけたいものです。