嬉しかったこと


思い返すと、2022年は、私にとってつらいこと、苦しいことの多い一年でしたが、そのなかで嬉しいこともありました。この夏、山口智弘さん(駒澤大学文学部、国文学科講師)が、『駒澤大学教育後援会会報』183号(2022年7月15日発行)に寄せた文章を送ってくれました。文学部、国文学科の「教員ピックアップ」という欄です。

www.komazawa-k.org/wp-content/uploads/culture/kaiho/kaiho_183.pdf

引用としては長くなりますが、以下、いくつかの段落を引かせてもらいます。

 高校卒業後、私が最初に進学したのは某大学の理学部でした。数学や化学の成績が他の科目に比べて良かったから、というだけの理由で。強い学習意欲のなかった私は、高校と大学の学びの差についていけず、2年後には気持ちが切れて退学に至りました。
 このままでは駄目だと思い、別の大学を受験して2度目の大学生活を始めるものの、心がどうにも定まらない。そうしたときに出会ったのが、中国古典学をご専門とする恩師でした。中国古典の一つである『列子』を東晋の張湛という学者の注釈に沿って読む、という先生の授業を履修したのがきっかけで、振り返ってみると、学部の2年生を相手に随分と高尚な(無謀な?)ことをなさっていたなと思います。内容が全く頭に入らない私は、2度目の脱落を避けたい 一 心で、あるとき、先生の研究室へおずおずと質問に伺ったのです。その場のやり取りはもう思い出せないのですが、ただ、先生との漢文の対読がその日から始まったことはよく覚えています。
 段玉裁『説文解字注』から朱熹『大学章句』、仇兆鰲『杜詩詳注』、そして、のちの私の研究につながる荻生徂徠『論語徴』など。先生が他大学へ転出されるまでの2年半、実に多彩な漢文を一緒に読んでくださいました。週1回、昼下がりから始まる対読は、いつも夜遅くまで続くのですが、漆黒の闇にも思えた古典世界の姿形を注釈に誘われて確かに触らせてもらえるのは、時間を忘れて楽しかったのです。

 ここで山口さんが「恩師」と言われるのが私のことであり、そのころから注釈というものにこだわり、古典を読んでいたことを、このように言語として書き留めてくださった山口さんに、心から感謝しています。

 さらに山口さんの記事は続きます。

駒澤大学文学部に着任して今年が3年目、今度は私が教員の立場となって、学生との漢文の会読を自分の研究室で行っています。昔の習いのせいか、遅い時間まで本読みに付き合わせてしまいますが、ある会読の終わりに、学生が「社会に出てからも漢文をずっと学び続けたい」と呟いたときには、長らく忘れていた、自分が恩師に似たようなことを言った日のことが鮮やかに思い出されました。漢学の底知れぬ暗みの向こうに魅入られ、自分が向き合えるものが見つかったときのことが。

この駒澤大学の学生さんが、ふと口にしてくれたことは、我々、古典と向き合うことを仕事とするものにとっては、大いなる慰めです。幼稚園には幼稚園の「本の読み方」があり、大学の文学部には大学の文学部なりの「本の読み方」というものがあると思うのです。それを学生に体験を通して伝えることは大切です。記事に添えられた山口さんの会読の風景も、好もしいものでした。

こうして、「本の読み方」が世代を超えて伝えられてゆく、その営みが積み重ねられている。それが、私にとって、今年、最も嬉しいことでした。年末にあたり、そのことを申し述べました。

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