僧祐のいわゆる「漢文」をめぐって


今回取り上げたいのは、「漢文」といっても文章の方ではなく、漢字のことです。「文」には字の意味もありますので、漢字のことを「漢文」と表現できるわけなのですが、これは中国ではいつ頃から用いられた語なのでしょうか。

そもそも、朝代が交替を繰り返す中国において、自分たちの文化を「漢」と意識することがいつにはじまるか、という問題にも関わります。

最近、吉川幸次郎「中国人と外国語—「出三蔵記集」と劉勰」(『吉川幸次郎全集』25、1986年)を読んだところ、中国が仏教の受容した時代のことに関わり、次のように書かれていました。

仏典の原語はサンスクリットであり、重訳の場合も、西アジアの諸語である。それを中国語にうつすという作業が、二世紀の後漢あるいは三世紀の三国以後、数百年にわたって大量に行われた。……大量の翻訳は、中国語以外の言語に対する知識と意識とを、著しく高めた。(p. 387)

そのうえで、様々な文字に対する興味深い認識が『出三蔵記集』にあることを次のように指摘します。

六世紀の名僧、釈僧祐の「出三蔵記集」は、そのころまでの仏典漢訳の歴史の記録である。それに次のようなくだりがある。いわく、世界には三種の文字がある。一、梵文、左から右への横書き。二、佉楼、右から左へ横書きする西アジアの文字。そうして第三が蒼頡、すなわち上から下へと縦書きの漢字。(同上)

その文章は、同書巻一の「胡漢譯經音義同異記」に見え、「造書之主(文字を作った人物)」が三人いたと述べる部分なのですが、原文を引用しましょう。

昔造書之主凡有三人:長名曰梵,其書右行;次曰佉樓,其書左行;少者蒼頡,其書下行。梵及佉樓居于天竺,黃史蒼頡在於中夏。(『出三藏記集』、中華書局、中國佛教典籍選刊、1995年、p. 12)

吉川幸次郎の文にはあらわれていませんが、梵が年長、佉楼がそれにつぎ、そして蒼頡が年少であるというように見立てています。

また、僧祐は「梵文」と「漢文」とを対にして用いており、「梵文」の「半字」「満字」を次のように説明しています。

半字為體,如漢文「言」字;滿字為體,如漢文「諸」字。以「者」配「言」方成「諸」字。「諸」字兩合,即滿之例也;「言」字單立,即半之類也。半字雖單,為字根本,緣有半字,得成滿字。譬凡夫始於無明,得成常住,故因字製義,以譬涅槃。梵文義奧,皆此類也。(同上、p. 12)

「半字」「満字」については、知識を欠く私にはよく理解できないのですが、ともかく、「梵文」に対して「漢文」の語が用いられていることには興味をひかれます。

中国の文字しか知らなかった古代の人々は、そもそも、それが多様な文字のうちの一種であるという認識を、当然持っていなかったことでしょう。彼らの文字が、他の文字との関係において相対化された時、はじめて「漢文」の語が生まれたのではないか。そのように考えれば、中国の南北朝時代に「漢文」の語が登場したことの意味は大きいはずです。

 

“僧祐のいわゆる「漢文」をめぐって” への 2 件のフィードバック

  1. ご無沙汰いたしております。花園大学の山田です。

    以前、「「漢字」という熟語はいつ作られたのか(續編)」『漢字學硏究 』(2), 1-17, 2014-07という論文で、そのことについて述べたことがあります。

    「漢文」という用例では、『道行般若經』(T0224)釈道安序に見えるものが最も早期の例です。

    さらに遡る例になると、後漢末~呉の支謙が「漢では○○という」という例が散見されます。また、『法句經』(T0210)序の用例「天竺言語與漢異音」「梵爲秦」などを見ますと、中華の汎称として王朝名を使う呼び方は、「秦」や「漢」があったことがうかがえます(汎称を秦という例は史記にも見え、漢書は同箇所を漢と訓詁しています)。

    おそらくこれは、中華の汎称をどう呼んできたかの歴史と密接に関わるものです。

    おそらく秦が確認できる最も古い汎称です。西晉の竺法護譯『普陽經』に擧げられる六十四種の文字の中に、「秦書」が擧げられています。『普陽經』には、サンスクリット語版『ラリタヴィスタラ』が殘されており、それとの對象で當該個所がCīna-lipi(チーナの文字)であることが確認されています。このチーナとは秦を意味する言葉とされます。

    次いで漢は、長期の統一王朝&仏典漢訳が始まった時期ということで、漢が普及した→三国~南北朝の分裂で中華の汎称が漢しかふさわしい用語がなかった(一時的に晋やら秦やら魏も使われましたが定着せず)→随・唐の時期にはすでに汎称として漢が定着していたと結論づけました(日本のようにこの時期に本格的な交渉を持った地域には、汎称としての唐が受け入れられたと推測されます。また、漢字仏典の需要の中で、漢字という用語も梵字との対応の中で受容されていったと考えています。)。

    上記論文では、仏教を翻訳するときに「仏典・僧侶の言語≒胡語」・「中華の言語=漢語」という関係があり、その上で「胡字・漢字」という用語も生まれてきたのだと結論づけました(その組み合わせの用例の一番古い例は、僧祐録の巻一にあります)。

    漢文という用語が定着したのは、南北朝時代であると私も考えますが、その語が出てきたのは後漢ではないかというのが私の説です。

    だらだらと書いて申し訳ありません。

    1. 山田先生

      いろいろとご教示くださいまして、まことにありがとうございます。ご玉稿、拝読するつもりです。また、竺法護訳『普曜経』の該当部分も面白そうです。確認させていただきます。

      今後ともよろしくお願いいたします。

      学退覆

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