鄭灼の伝記


昨日、『礼記子本疏義』という文献が我が国に古くから伝えられていることを申しました。中国では後に滅びてしまった書物ですから、ただ一巻が現存するのみとはいえ、大変に貴重なものです。

同書は『礼記』の義疏であり、梁の皇侃(488-545)の説を主とし、その弟子、鄭灼(514-581)が説を補ったもののようです。『日本国見在書目録』に「『礼記子本疏義』百巻、梁国子助教皇侃撰」と著録されるものと同じ書物のはずですが、いたるところに「灼案」の語が見えるので、鄭灼の撰と考えるのがより妥当であろうと思います。

その鄭灼の伝記が、『陳書』儒林伝、鄭灼伝に見えますので、訳出しておきます。

鄭灼は、あざなは茂昭、東陽信安(今の浙江省)の人であった。祖父の鄭惠は、梁の衡陽太守をつとめた。父の鄭季徽は、通直散騎侍郎、建安令をつとめた。

灼は幼いころから聡明で、儒学を志し,若いころに皇侃の教えを受けた。梁の中大通五年(533)、官途について奉朝請となった。員外散騎侍郎、給事中、安東臨川王府記室参軍を歴任し、平西邵陵王府記室に転じた。簡文帝が皇太子であったころ(531-549)、常日頃、灼の学問を愛し,灼を引き立てて西省義学士とした。承聖年間(552-555)、通直散騎侍郎に任命され、国子博士を兼ねた。しばらくして威戎將軍となり、中書通事舎人を兼ねた。

(陳の)高祖、世祖の時代(557-566)、安東臨川、鎮北鄱陽二王府諮議参軍を経て、中散大夫に遷り、その職を持したまま国 子博士を兼ねた。これを拝する前、太建十三年(581)に亡くなった。年、六十八歳。

灼は学問に打ち込む人であり、とりわけ三礼に明るかった。若いころ、次のような夢を見た。道で皇侃に出会ったところ、侃が灼に「鄭君、口を開けたまえ」という。すると侃は灼の口の中につばを吐いた。この夢を見た後、 礼学の義理の理解がますます進んだという。灼は家が貧しく、義疏を書き写しては日に夜を継ぐほどであり、筆がすり減ってしまうと、削りなおして使った。灼は常日頃、蔬食しており、授業のときにいつも心臓のところが熱くなって苦しんだが、 瓜の季節などには、横になって瓜を心臓に押し当て、また起き上がっては経書の誦読を続けた。かくのごとく熱心であった。

皇侃から直接教えを受けるのみならず、口につばを吐いて入れられる夢を見て、それにより礼の学問が進んだという鄭灼。何とも生々しい話です。その皇侃と鄭灼との合作である『礼記子本疏義』が、わずか一巻ばかりとはいえ、我が日本に伝えられているのも、実に縁の深い話であろうと思うのです。

【原文】『陳書』巻三十三,儒林傳,鄭灼傳

鄭灼字茂昭,東陽信安人也。祖惠,梁衡陽太守。父季徽,通直散騎侍郎、建安令。

灼幼而聰敏,勵志儒學,少受業于皇侃。梁中大通五年,釋褐奉朝請。累遷員外散騎 侍郎、給事中、安東臨川王府記室參軍,轉平西邵陵王府記室。簡文在東宮,雅愛經術,引 灼為西省義學士。承聖中,除通直散騎侍郎,兼國子博士。尋為威戎將軍,兼中書通事舍 人。高祖、世祖之世,歷安東臨川、鎮北鄱陽二王府諮議參軍,累遷中散大夫,以本職兼國 子博士。未拜,太建十三年卒,時年六十八。

灼性精勤,尤明三禮。少時嘗夢與皇侃遇於途,侃謂灼曰:「鄭郎開口」,侃因唾灼口中, 自後義理逾進。灼家貧,抄義疏以日繼夜,筆毫盡,每削用之。灼常蔬食,講授多苦心熱, 若瓜時,輒偃臥以瓜鎮心,起便誦讀,其篤志如此。

“鄭灼の伝記” への 2 件のフィードバック

  1. 古勝 隆一先生
                            2012年9月19日
    前略。
    ◎「瓜を胸に当てて心臓を鎮め」。
    「以瓜鎭心」。これは、「瓜を食べて心を鎮め」ではないでしょうか。『梁書』巻47「孝行」に「滕曇恭、豫章南昌人也。年五歲、母楊氏患熱、思食寒瓜、土俗所不産、曇恭歷訪不能得、銜悲哀切。俄値一桑門問其故、曇恭具以告。桑門曰、『我有兩瓜。分一相遺』。曇恭拜謝、因捧瓜還、以薦其母。擧室驚異。尋訪桑門、莫知所在」とあります。授業中、蔬食のため動悸がしたが、そのたびに横になって瓜を食べ心を鎮めたのでは?
    訳文「経書を誦読を」は「経書の誦読を」の誤打でしょうか。前々回「顔之推小論」の引用「科挙官僚社会への展望が開けていたといううべきであろう」の「う」字は衍字と思います。藤田 吉秋

  2. 藤田さま

    コメントくださいまして、まことにありがとうございます。ご指摘の件、おっしゃる通りと思います。勘違いしておりました。
    誤字も修正させていただきます。心よりお礼申し上げます。

    学退上

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