『孝経』を買う人


阿部隆一・大沼晴暉「江戸時代刊行成立孝経類簡明目録」(『斯道文庫論集』14、1977年)は、江戸時代に多数出版された『孝経』の目録として今なお有用なものですが、その緒言に面白いことが書かれています。

『孝経』はたいへんに広く蔵されていて、図書を蔵する機関のみならず、「個人の蔵書家の中にも孝経の蒐集家はかなり見うけられる」として、次のように言います。

その蒐集の動機は必ずしも孝経研究を目的として発しているとは限らない。書物好きは古本屋を廻っては本の山をいじり、店の主人と話し込む、さて引き上げる段になって何も買うものがないと気がひけるので、少し前までは店にごろごろして値の安かった孝経を御愛想に買って帰る。それが幾部かたまると一体孝経にはどの位の版本があるかと蒐集慾が刺戟されて積極的に集め出すわけである。

これはなかなか穿った見方ではないかと思いました。江戸時代から明治時代にかけて、各種各様の『孝経』が出版され、その多くが一冊の薄い本で、手に取りやすく、買いやすい本です。しかもすでに持っている本と同版かと思って買って帰って比べると、版が違う、というようなこともしばしばです。こうしていつの間にか『孝経』のコレクターとなってしまう。あり得ない話でもないようです。

最初は数百円の『孝経』から買いはじめた人も、自分でも気づかぬうちに、古活字版を欲しがるような、そんなコレクターに変貌している。そういうものかもしれません。

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ごく小さな発見


『詩経』邶風「谷風」の詩に、次の一章があります。海音寺潮五郎の訳(『詩経』中公文庫、1989年)とともに示しましょう。

涇以渭濁  涇は渭を以て濁る

湜湜其沚  湜湜たる其の沚

宴爾新昏  爾の新昏に宴(やす)んじて

不我屑以  我を屑(いさぎよ)しとし以(もち)ゐず

毋逝我梁  我が梁に逝く毋れ

毋發我笱  我が笱を發する毋れ

我躬不閱  我が躬すら閱(い)れられず

遑恤我後  我が後を恤(うれふ)るに遑(いとま)あらんや

世間の人はみんな言ふ

涇は濁つて渭は澄んでゐると

流れが合うたところで見れば

それはさうかも知れないけれど

離してみればそれほどでもない

後妻(うはなり)と二人ならべて見ればこそ

あたしの器量の衰へが

はつきり見えてくるのです

器量は悪うなつたけど

操正しい心があるに

くやしや、それは見てくれず

惜しげもなく捨てられた。

後妻よ、

あたしが苦心して定めたことを かき乱さないで頂戴

苦労して貯へたものを 勝手に費(つか)はないで頂戴

とはいふものの

あたしは捨てられた妻

言つたとて

どうならう!

さて、その第一句「涇以渭濁」に見える「涇」「渭」とは、濁った涇水と清らかな渭水という二つの河川です。涇水と渭水とを比べると、前者がどうしても濁って見える。それが「涇は渭を以て濁る」ということです。

この一句につけられた鄭箋は、通行本(嘉慶二十年江西府学刊本)によると「涇水以有渭,故見渭濁」。しかし、その二句目には、古くから異文があったようです。

  • 「故見渭濁」(『經典釋文』に引く旧本、そして、通行の注疏本を含む多くの版本)
  • 「故見謂濁」(『經典釋文』に引く一本)
  • 「故見其濁」(『毛詩正義』に引く「定本」)
  • 「見其清濁」(『七經孟子考文』に引く一本)

段玉裁の意見(『經韵樓集』卷十二「與諸同志論校書之難」に見えます)によると、「謂濁」と作るものが正しく、他は誤り、との判定です。なお、この考え方は、阮元の『十三經注疏校勘記』にも、ほぼそのまま受け継がれています。

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4行目の下方に「故見其濁」と見える

ところで確認のために、足利学校遺蹟図書館に蔵する南宋刊十行本『毛詩註疏』(汲古書院、1973年、影印本)を見たところ、とても妙なことに気がつきました。影印本なので、確実なことは言いにくいのですが、問題の部分について、擦って文字を消した上で、「其」と手写しているようです。いつか原本を拝見したいものです。

日本の伝えられた写本の『毛詩鄭箋』には、「其」に作るものがあったのも確かで、そういったものによって改めたのか、あるいは『毛詩正義』に引く「定本」によって改めたものか。私は後者ではないか、という気がします。そして、もとの版の字は、おそらく「渭」ではないかと推測します。

最後に、この足利学校本を実見して『七經孟子考文』を書いた、山井鼎のメモ(京都大学人文科学研究所蔵、嘉靖版『十三經注疏』)をお示しします。「足利「渭」作「其」。又一本作「見其清濁」」という書き入れが、そこに見えます。

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日本漢文のなかの固有名詞


『論語義疏』の標点本はいくつかあるようですが、私が最近読んだのは、高尚榘氏のものです。『論語義疏』高尚榘校點,中華書局,2013年。

武内義雄が整理した懐徳堂本に依拠した本であり、かなりよく懐徳堂本の本文を伝えています。附録として、大正十二年(1923)五月に西村天囚(1865-1924)が漢文で書いた序まで載せてあるのもありがたいことです。

その序のなかに、「暨應神朝,百濟獻《論語》,孔子之書,始入我國」とあります。もちろん、応神というのは我が国の天皇の名ですが、標点を見ると、整理者はそれに気づいていないようです。

また、「謹按先皇教育勅語示法後世,炳如日月,其所謂忠、孝、友、和、信,與智能、德器、恭儉、博愛、義勇等條目,皆符於孔子之教」ともありますが、どうも「教育勅語」が固有名詞であることを知らなかった様子です。

標点者はほぼ正確に著者の意図をくみ取っているものの、ちょっとした知識のギャップもうかがわれて、何となく面白く思われました。

慊堂先生の誕生日


明和八年九月二十七日(西暦で言えば1771年11月3日)、甲子の日、松崎慊堂は熊本に生まれました。『慊堂日暦』文政六年五月の記事に、「慊堂が所歴の甲子」として次のようにあります。

明和八(辛卯)年九月二十七日甲子、慊堂生まる。文政六(癸未)年四月二十五日甲子にいたるまで凡そ五十三歳、総て三百十四甲子。一万八千八百五十七日。(『慊堂日暦』1、平凡社東洋文庫、p.16)

甲子という特別な日(1から60まである干支の第1ですから)に出生したことは、慊堂にとって大切なことであり、甲子の日にはしばしばそのむね言及があります。感慨を持って、二ヶ月に一度の甲子を迎えたようです。たとえば、文政十年十一月二十三日の甲子には、「余が生まれし歳の九月二十七日は甲子、ここに於て三百三十八甲子なり」(『慊堂日暦』2、平凡社東洋文庫、pp.131-132)と書いています。

文政十一年九月二十七日、この日、慊堂の「誕辰」が行なわれました。前日には隣居の老人にわざわざ蕎麦を挽いてもらって準備した、と日記にあります。当日の日記を引きます。

晴、寒。甲子、五十八の初度たり。輪翁は晁上人・崋山外史と来り、芳洲・儀之助・牛之丞の三公来り臨まる。三管合奏し、輪翁は郢曲を歌う。集まる者は、井筒君、浅山哲蔵、渡辺奎輔、陰山・熊谷二生、古梁夫婦・女孫・上田雪坡。席上にて数十紙を漫書す。(『慊堂日暦』2、平凡社東洋文庫、p.212)

輪翁こと屋代弘賢(1758-1841)や崋山外史つまり渡辺崋山(1793-1841)も出席した、華やかな会合です。慊堂は「三百四十七甲子、二万八百二旬九。五十八年かくの如く過ぐ、富貴浮雲三杯の酒」というような詩も詠みました。

毎年九月二十七日になると誕生会を催したというわけではなく、この日は折よく九月二十七日と甲子とが重なったために、盛大な会を開いたのでしょう。誕生会の楽しさが想像されます。

文に和習あって始めてこれ真の文


松崎慊堂(1771-1844)の『慊堂日暦』が面白いというのは、以前から聞いていたのですが、大部のものでもあり、なかなか手をつけずにおいてありました。最近、必要あって読み始めたところ、すっかり魅了されてしまいました。まだ読了していませんが、いたるところに興味をひかれる記事があります。

「和習」といえば、日本人の書く漢文の癖のようなもので、中国文を手本とする立場からすればあまりありがたいものではないようです。慊堂はその和習について、面白いことを言っています。文政十年十二月八日の日記から。

 「助字・作文」。古今各々異なる。先ず『史記』と六経とを比視すべし。漢は周の助字を用いず。後漢と前漢と異なる。作文もまた然り。唐の元結は六代の比儷を厭い、ここに於て始めて復古の事あり。然れども唐の文は自らこれ唐、宋の文は自らこれ宋。韓(愈)を学ぶ欧(陽脩)は、却って韓に似ず、自らこれ欧の文なり。南宋また北宋に非ず。この論は甚だ長ず、暇時にまさに説破すべし。文に和習あって始めてこれ真の文。漢に漢習あり、唐宋に唐宋の習あり。和に和習なければ、和人の文となさず。(『慊堂日暦』第2冊、平凡社、東洋文庫、1972年、p.137)

「漢に漢習あり、唐宋に唐宋の習あり」、中国のそれぞれの時代の文にも、他の時代とは異なる「習」があるのだから、日本人の書く文にも和習がなければ本当の文とは呼べない。なるほどと思いました。理想の文、などというのは、言われてみれば幻想です。

同日の日記には別のこともあわせて書かれているのですが、「右、九日夜の酔語、陰生と語る約略なり。筆かなわねば、急に思う通りに書付かれぬる。他日の心覚えにす」とメモがあります。九日、というのは八日の誤りか、とも思いますが、さて。

ともかく、陰生こと、陰山量平(1789-1833、あざな仲海)と酒を飲みながら話したことを書き付けたようです。陰山量平は、陰山豊洲(1750-1809)の養子で、私はこの陰山豊洲にも少し関心を抱いているところでしたので、ますます楽しくなりました。

柳賛?柳贇?


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柳の下の一文字は?

右の画像をご覧ください。版本(の影印本)の一部です。

その上で、クイズを出題します。最終行に見える、「柳」の下、「謹」の上の一字は何でしょうか?お考えください。

ヒントを申し上げると、「賛」「贇」などと読んだ例がありますが、いずれも誤りだそうです。

正解は明日にでも、ここに書きます。

なお恥を承知で申し上げると、わたくしは読めませんでした。

柳賛?柳贇? の続きを読む

医書の誤字、経典の誤字


医学書に誤字があると、どうなりましょうか?誤った情報に基づいて処方や治療が行われるならば、この上なく危険なことに思われます。では、儒教の経典に誤字があった場合はどうでしょう?むろんどんな本にも誤字はない方がよいのですが、医学書と比べると如何でしょうか。

昨日取り上げた、江辛眉(1922-1986)「校讎蒙拾」の中に、次の一節があります。

齊召南謂:“書有版本,讀書稱便;自有版本,校者轉難。”其故何哉?蓋舊本之訛,或出無心;新刻之失,每因怠忽。乃曰:“誤而思之,更是一適。”又曰:“非關壽夭,未有所傷。”其謬如此,固當騰笑眾口,而支離失讀矣。(「辨訛第四」p.49)

木版印刷が始まり、書写して本を作っていた時代よりも便利になったものの、どうも文字の正確さがおろそかになったのは、困ったものだ。それなのに、この問題の重大さを認識していない者がいる。大意はそういうことでしょう。

「非關壽夭,未有所傷」に対しては、次のような著者の自注がついています。

(劉跂《趙氏金石錄序》)又曰:“昔人欲刋定經典及醫方。或謂:‘經典同異,未有所傷;非若醫方能致壽夭。’ 陶弘景亟稱之,以為名言,彼哉卑陋,亦至於此

ある人が、「経典に違いがあっても、大問題ではない。医学書の場合には人命に関わるが、経典の誤字などそれほど重大ではない」と言ったところ、陶弘景(456-536)という医学にも造詣の深かった道士は、その考えに同意して「それは名言だ」とほめた。この陶氏の発言に対して、宋代の劉跂がとんでもないこと、と批判した部分です。

儒教経典を重んずる立場からすれば、人命に関わらないからといって、経典の文字に無頓着な姿勢は看過できないことなのでしょう。

中国の伝統的な価値観のもとでは、儒教経典の存在こそがこの世の秩序を成り立たせており、経典の真義を明らかにすることが最重要課題であるとされてきたからです。近代人である江辛眉も、どうやら劉跂に同調しているようです(本書全体の趣旨を踏まえると、江氏が儒教経典を絶対視していたとは思えないのですが、この部分の文字面はそのように読めるということです)。

儒家経典の誤字は、医書の誤字よりも深刻でないのかどうか?そのような問いに人々が熱くなった時代があったことを知りました。

『校讎蒙拾 読韓蠡解』


江辛眉(1922-1986)の『校讎蒙拾 読韓蠡解』という本を読みました。

江辛眉 『校雠蒙拾 读韩蠡解』

海豚出版社(海豚书馆),2014年11月

著者の江辛眉は、上海師範学院(現、上海師範大学)にて教鞭をとった方だと、本書に冠せられたご子息の序文に書いてあります。「校讎蒙拾」は校勘学の入門書、「読韓蠡解」は韓愈の詩の注釈。江氏が校勘学にも韓愈にも詳しかったことが本書から見て取れます。

「校讎蒙拾」、漢籍の校勘学に関する、とてもよい入門書でした。本文を駢文で書き、それに詳しい自注を加える形式です。入門書といってもなかなか高度で、校勘学に少しなじんだ人に向くのかもしれません。白状すると、私の学力では、本文だけを読んで内容を理解することは困難でした。

銭大昕『十駕斎養新録』、王念孫『読書雑志』、王引之『経義述聞』、俞樾『古書疑義挙例』、楊樹達『古書句読釈例』といった校勘の名著から豊富な例が引用されており、それらの著作への手引きともなっていますが、それのみならず、この本なりの体系が備わっており、読んで楽しむことができました。

「瓊」という字については、『説文解字』が「瓊,赤玉也」というのに基づき、赤い玉(ギョク)だとする説がありますが、韓愈の詩が雪を表現してこの字を用いるからにはそれはおかしいと江氏は言い、「瓊,亦玉也」が正しく、「赤」は「亦」の誤り、とする段玉裁説を肯定しており、痛快でした。

なお注に引かれた文などに不審なところがありました(句読など)。時間をみつけて確認しておきます。

この本も海豚出版社の一冊。16.80元と安価であったために手にしたのですが、買ってよかったと思いました。

『呉大澂和他的拓工』


tagong.jpg勤務先に少なからず蔵せられていることもあって、石刻資料を紙に転写した「拓本」を目にしたり手に取ったりする機会はこれまでにもありました。紙と墨が作るモノクロの世界に親しみを持っています。

以前は研究会の都合で毎週2時間づつ拓本を観察していたのすが、最近はその世界からやや遠ざかってしまい、残念に思っていたところ、中国の書店にて白謙慎『呉大澂和他的拓工』という薄い本を見つけたので、さっそく一本を求めて読んでみました。

白谦慎《吴大澂和他的拓工》

海豚出版社(海豚书馆),2013年6月

呉大澂(1835-1902)、あざなは清卿、号は恒軒、愙斎、蘇州呉県の人。同治7年(1868)の進士で、清末の著名な政治家、文人です。この人が金石学に詳しいことはさすがに認識していましたが、その呉氏と関わった「拓工」と聞くと、物珍しく聞こえたので関心を持ったわけです。

呉氏が黄易(1844-1882、あざなは小松)という金石学の先達に大いに憧れていたこと、陳介祺、潘祖蔭などといった金石コレクターの仲間たちとの交友、そして呉氏のために拓本をとった「拓工」たちとの関係まで、豊富な手紙や日記を駆使して丁寧に考察した書物です。読み物としてのみならず、研究としてみても有意義でした。

しかしコレクターの世界というのは、なかなか生々しいものです。たとえば友人の陳介祺が1884年に亡くなった時、多忙の呉大澂は弔問に赴けなかったとのことですが、翌年、陳氏の跡取りに手紙を書いてコレクションの整理に言及し、陳氏が収蔵した「毛公鼎」の拓本をとらせてくれるよう頼んでいます。ものへの執着を感じました。

彼が拓本作成を依頼した拓工たちについてもよく理解できました。拓工には職人も文人もおり、呉氏の著作『説文古籒補』を熟知していた黄士陵なども呉氏のために職業的に拓をとったとのこと。篆刻に巧みな人を信頼して拓をとらせていた、などという指摘には、なるほどと思わせられました。

イルカをシンボルにした海豚出版社の本は今回はじめて読みましたが、安くて軽く、好感が持てました。横組み簡体字です。

一画の差


名高い泰山の北に済南という町がありますが、後漢から隋にかけての時代、このあたりは山茌県という地名だったそうです。『後漢書』郡国志に「山茌,侯國」(『後漢書』郡國志三、兗州、泰山郡)と見えるのがその早い例。

ところで、さまざまな書物やそのさまざまな伝本において、この「山茌」を「山荏」と誤るものが相当数あり、たとえばちかごろたまたま眼にした『続高僧伝』読誦篇の一文もそうでした。

高麗再雕本『続高僧伝』より
高麗再雕本『続高僧伝』より

釋志湛,齊州山人,是朗公曾孫之弟子也。(『續高僧傳』卷二十八、讀誦篇、魏泰岳人頭山銜草寺釋志湛傳。T50-686a)

『大正新修大蔵経』では、この部分に校勘記がありませんが、しかし「山荏」が「山茌」の誤りであることは確かです。たとえば、CBETASATKANRIPOといったデータベースで、「山荏」と検索してみてください。他にも例を見いだせます。

近年、『続高僧伝』の点校本が出ました(郭紹林點校『續高僧傳』、中華書局、2014年、中國佛教典籍選刊)。この本を見たところ、誤りなく「山茌」となっていたのは好印象でした。底本は磧砂版とのこと、いずれ確認しておきたいと思います。

中国古典に親しむ

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