柳賛?柳贇?


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柳の下の一文字は?

右の画像をご覧ください。版本(の影印本)の一部です。

その上で、クイズを出題します。最終行に見える、「柳」の下、「謹」の上の一字は何でしょうか?お考えください。

ヒントを申し上げると、「賛」「贇」などと読んだ例がありますが、いずれも誤りだそうです。

正解は明日にでも、ここに書きます。

なお恥を承知で申し上げると、わたくしは読めませんでした。

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医書の誤字、経典の誤字


医学書に誤字があると、どうなりましょうか?誤った情報に基づいて処方や治療が行われるならば、この上なく危険なことに思われます。では、儒教の経典に誤字があった場合はどうでしょう?むろんどんな本にも誤字はない方がよいのですが、医学書と比べると如何でしょうか。

昨日取り上げた、江辛眉(1922-1986)「校讎蒙拾」の中に、次の一節があります。

齊召南謂:“書有版本,讀書稱便;自有版本,校者轉難。”其故何哉?蓋舊本之訛,或出無心;新刻之失,每因怠忽。乃曰:“誤而思之,更是一適。”又曰:“非關壽夭,未有所傷。”其謬如此,固當騰笑眾口,而支離失讀矣。(「辨訛第四」p.49)

木版印刷が始まり、書写して本を作っていた時代よりも便利になったものの、どうも文字の正確さがおろそかになったのは、困ったものだ。それなのに、この問題の重大さを認識していない者がいる。大意はそういうことでしょう。

「非關壽夭,未有所傷」に対しては、次のような著者の自注がついています。

(劉跂《趙氏金石錄序》)又曰:“昔人欲刋定經典及醫方。或謂:‘經典同異,未有所傷;非若醫方能致壽夭。’ 陶弘景亟稱之,以為名言,彼哉卑陋,亦至於此

ある人が、「経典に違いがあっても、大問題ではない。医学書の場合には人命に関わるが、経典の誤字などそれほど重大ではない」と言ったところ、陶弘景(456-536)という医学にも造詣の深かった道士は、その考えに同意して「それは名言だ」とほめた。この陶氏の発言に対して、宋代の劉跂がとんでもないこと、と批判した部分です。

儒教経典を重んずる立場からすれば、人命に関わらないからといって、経典の文字に無頓着な姿勢は看過できないことなのでしょう。

中国の伝統的な価値観のもとでは、儒教経典の存在こそがこの世の秩序を成り立たせており、経典の真義を明らかにすることが最重要課題であるとされてきたからです。近代人である江辛眉も、どうやら劉跂に同調しているようです(本書全体の趣旨を踏まえると、江氏が儒教経典を絶対視していたとは思えないのですが、この部分の文字面はそのように読めるということです)。

儒家経典の誤字は、医書の誤字よりも深刻でないのかどうか?そのような問いに人々が熱くなった時代があったことを知りました。

『校讎蒙拾 読韓蠡解』


江辛眉(1922-1986)の『校讎蒙拾 読韓蠡解』という本を読みました。

江辛眉 『校雠蒙拾 读韩蠡解』

海豚出版社(海豚书馆),2014年11月

著者の江辛眉は、上海師範学院(現、上海師範大学)にて教鞭をとった方だと、本書に冠せられたご子息の序文に書いてあります。「校讎蒙拾」は校勘学の入門書、「読韓蠡解」は韓愈の詩の注釈。江氏が校勘学にも韓愈にも詳しかったことが本書から見て取れます。

「校讎蒙拾」、漢籍の校勘学に関する、とてもよい入門書でした。本文を駢文で書き、それに詳しい自注を加える形式です。入門書といってもなかなか高度で、校勘学に少しなじんだ人に向くのかもしれません。白状すると、私の学力では、本文だけを読んで内容を理解することは困難でした。

銭大昕『十駕斎養新録』、王念孫『読書雑志』、王引之『経義述聞』、俞樾『古書疑義挙例』、楊樹達『古書句読釈例』といった校勘の名著から豊富な例が引用されており、それらの著作への手引きともなっていますが、それのみならず、この本なりの体系が備わっており、読んで楽しむことができました。

「瓊」という字については、『説文解字』が「瓊,赤玉也」というのに基づき、赤い玉(ギョク)だとする説がありますが、韓愈の詩が雪を表現してこの字を用いるからにはそれはおかしいと江氏は言い、「瓊,亦玉也」が正しく、「赤」は「亦」の誤り、とする段玉裁説を肯定しており、痛快でした。

なお注に引かれた文などに不審なところがありました(句読など)。時間をみつけて確認しておきます。

この本も海豚出版社の一冊。16.80元と安価であったために手にしたのですが、買ってよかったと思いました。

『呉大澂和他的拓工』


tagong.jpg勤務先に少なからず蔵せられていることもあって、石刻資料を紙に転写した「拓本」を目にしたり手に取ったりする機会はこれまでにもありました。紙と墨が作るモノクロの世界に親しみを持っています。

以前は研究会の都合で毎週2時間づつ拓本を観察していたのすが、最近はその世界からやや遠ざかってしまい、残念に思っていたところ、中国の書店にて白謙慎『呉大澂和他的拓工』という薄い本を見つけたので、さっそく一本を求めて読んでみました。

白谦慎《吴大澂和他的拓工》

海豚出版社(海豚书馆),2013年6月

呉大澂(1835-1902)、あざなは清卿、号は恒軒、愙斎、蘇州呉県の人。同治7年(1868)の進士で、清末の著名な政治家、文人です。この人が金石学に詳しいことはさすがに認識していましたが、その呉氏と関わった「拓工」と聞くと、物珍しく聞こえたので関心を持ったわけです。

呉氏が黄易(1844-1882、あざなは小松)という金石学の先達に大いに憧れていたこと、陳介祺、潘祖蔭などといった金石コレクターの仲間たちとの交友、そして呉氏のために拓本をとった「拓工」たちとの関係まで、豊富な手紙や日記を駆使して丁寧に考察した書物です。読み物としてのみならず、研究としてみても有意義でした。

しかしコレクターの世界というのは、なかなか生々しいものです。たとえば友人の陳介祺が1884年に亡くなった時、多忙の呉大澂は弔問に赴けなかったとのことですが、翌年、陳氏の跡取りに手紙を書いてコレクションの整理に言及し、陳氏が収蔵した「毛公鼎」の拓本をとらせてくれるよう頼んでいます。ものへの執着を感じました。

彼が拓本作成を依頼した拓工たちについてもよく理解できました。拓工には職人も文人もおり、呉氏の著作『説文古籒補』を熟知していた黄士陵なども呉氏のために職業的に拓をとったとのこと。篆刻に巧みな人を信頼して拓をとらせていた、などという指摘には、なるほどと思わせられました。

イルカをシンボルにした海豚出版社の本は今回はじめて読みましたが、安くて軽く、好感が持てました。横組み簡体字です。

一画の差


名高い泰山の北に済南という町がありますが、後漢から隋にかけての時代、このあたりは山茌県という地名だったそうです。『後漢書』郡国志に「山茌,侯國」(『後漢書』郡國志三、兗州、泰山郡)と見えるのがその早い例。

ところで、さまざまな書物やそのさまざまな伝本において、この「山茌」を「山荏」と誤るものが相当数あり、たとえばちかごろたまたま眼にした『続高僧伝』読誦篇の一文もそうでした。

高麗再雕本『続高僧伝』より
高麗再雕本『続高僧伝』より

釋志湛,齊州山人,是朗公曾孫之弟子也。(『續高僧傳』卷二十八、讀誦篇、魏泰岳人頭山銜草寺釋志湛傳。T50-686a)

『大正新修大蔵経』では、この部分に校勘記がありませんが、しかし「山荏」が「山茌」の誤りであることは確かです。たとえば、CBETASATKANRIPOといったデータベースで、「山荏」と検索してみてください。他にも例を見いだせます。

近年、『続高僧伝』の点校本が出ました(郭紹林點校『續高僧傳』、中華書局、2014年、中國佛教典籍選刊)。この本を見たところ、誤りなく「山茌」となっていたのは好印象でした。底本は磧砂版とのこと、いずれ確認しておきたいと思います。

絵にかいた餅


漢語に「畫餅充饑」という成語があります。『三国志』に基づくものということ。

時舉中書郎,詔曰:「得其人與否,在盧生耳。選舉莫取有名,名如畫地作餅,不可啖也。」(『三國志』魏書二十二,盧毓傳) 

名声などというものは、地面に「餅」の絵をかいたのと同じで、食えるものではない、空虚なものだ、と。

この「畫餅」、日本語のことわざにもなり、「絵に描いた餅」「画餅」などといいます。しかしながら問題は「餅」で、日本人が思い浮かべる「モチ」と、『三国志』でいう「餅」とは、どうも異なるものらしいのです。

ここで私が日本人の思い浮かべるモチ、というのは、餅米を蒸してついて粘りを出した食品です(現代漢語では「黏糕」といいます)。一方、『三国志』にいう「餅」は、どうも穀物(小麦やうるち米など)を挽いて粉にし、それを水と合わせてこね、それをさらに加熱して食品にしたもののようです。

盧毓が生きていた二世紀から三世紀にかけて、どのような「餅」が食されていたかは考証し難いのですが、六世紀に書かれた『斉民要術』巻九「餅法」(繆啓愉校釋『齊民要術校釋』中國農業出版社,1998年,pp.632-640)を見ると、実にさまざまな種類の「餅」が並べられています。田中静一・小島麗逸・太田泰弘訳『斉民要術—現存する最古の料理書』(雄山閣出版社、1997年。pp.197-205)にも説明があります。

『斉民要術』を見ると、小麦粉を練って焼いた「燒餅」という食品や、「水引、餺飩」と呼ばれる麺料理まで、いろいろなものが紹介されています。当時の「餅」は多様であり、現代中国の「餅bǐng」とも異なります。繆啓愉氏が「現代で言うところの餅とはまったく異なる」(p.633)という通り、概念の範囲に違いがあります。

そういうわけですから、『三国志』にいう「畫地作餅」をどう訳すのか、これはなかなか厄介な問題だといえましょう。「地面に餅を描く」と訳して大過はないはずですが、少し厳密に訳そうとすると、日本語でいうモチでもなく、さりとて現代漢語でいう「餅bǐng」でもなく、何とも訳しづらいのです。「練り餅」という日本語もありそれでもよさそうですが、さすがにそこに麺類は含まれないと思います。

なお余談ながら、田中慶太郎『支那文を讀む爲の漢字典』は、「餅」を次のように説明しています。「食品。麪を溲(ひた)して平圓形に製し、火を用て之を焙りて食ふなり」。(p.621)主に、現代中国の「餅」の説明ですが、「モチ」であるとは決していわないのが、この字典の面白いところでもあります。

 

索引の功罪


倉田淳之助氏「四部分類の伝統」(『東洋史研究』第8巻4号、1943年11月)を読みました。倉田氏が責任の一端を担って編纂した『東方文化研究所漢籍分類目録』が1943年3月に完成したことにちなみ、日比野丈夫氏から「解題をかねて何か目録に関すること」(p.39)を書いて欲しいという依頼を受けたもの、とのこと。

中国における図書目録の分類は、「『七略』の創定より四部分類への転化はあるものの、其の根柢に於ては餘り動揺してゐない」(p.40)という認識のもと、前漢末における劉向・劉歆父子の図書整理事業についてかなり綿密な考察を加え、また四部分類の成立過程についても説明し、その上で『東方文化研究所漢籍分類目録』の特徴を語っています。

倉田氏の見るところ、この東方文化研究所の漢籍目録の特色は、所蔵する漢籍の質的な確かさに裏付けられているのはもちろん、さらに「書名人名通検」、すなわち書名索引・人名索引が附属する点にあります。確かに、利用者にとって索引はありがたいものです。前近代において、この種の工夫は十分とは言えないものでした。

索引をつけたことに関して、倉田氏が本稿の冒頭近くに書かれたことは、まるでその後の将来を見通すようで深みがあります。

目録書を読むといふことは学術の背景を要し、難しいことのやうに思はれる。殊に近頃のやうに引得索引類が完全になればなるほど、読む機会は愈少くなり、各の目録が持つ特徴も忘れられ勝になる。私共の「分類目録」にも通検があるので便利だといはれる。かくては後世より私共を毀つて、学術の衰ここに始まるといふかも知れない。(p.39)

索引がつけば、目録の内容が注意深く読まれなくなる。倉田氏のこの危惧は当たっていると思います。目当ての記述を探し出すことだけが目的であれば、索引を使って素早く検出し、それで目的は果たせるわけです。日頃からじっくりと目録を読み、どのような構成、どのような特徴をもった目録なのか、などと習熟しておく必要は薄いと言えましょう。

さらにはその後、インターネットの時代が到来して以降、「検索」が飛躍的に便利なものとなった結果、目録のみならず、書物一般についても、注意深く読まれることがまれになってしまいました。「検索」すればすぐに欲しい知識が見つかるのですから。

この目録に索引がつけられたことは何ら倉田氏の罪ではなく、それを批判しようとも思いません。時代に合わせた工夫です。しかし21世紀になって過去を回顧し未来を展望してみると、「学術の衰」という言葉がかなり重くのしかかるような印象を持ちました。「便利」な道具に毒され、我々がしっかり読む時間をどれだけ失ってしまったことか。

わたくしとしては、このように「検索」一辺倒の時代であるからこそ、知の世界に分け入るための地図である目録が、あらためて重要なものとなっていると感じています。

なお倉田氏はこの1943年、「東方文化研究所漢籍分類目録解説」(『東方学報 京都』第14冊、1943年)という一文も執筆されています。『東方文化研究所漢籍分類目録』の分類に関する詳細が述べられており、目録を「読む」手引としてよいもののようです。

史学史的ということ


川勝義雄氏『史学論集』(朝日新聞社、1973年、中国文明選12)は、司馬遷の「太史公自序」から章学誠の『文史通義』原道篇にいたる中国史学の古典数篇を訳出して詳しく説き、中国史学のエッセンスを伝える名著です。本書にさしはさまれた「月報」に、鈴木成高氏「西洋史家の中国史妄語」という一文があり、興味深く読みました。

素人の気楽さであえて不遠慮にいわせてもらうなら、由来、シナ学という学問のなかに「史学史的」な関心というものが、欠けていたのではないだろうか。文献学的な関心だけで、史学史固有の関心というものが、欠けていたのではなかったか。そういう関心が生きておれば、文献学的にいかに厖大なジャングルであろうとも、そして自分の文献的能力がいかに未熟であろうとも、それほど恐れることはない筈である。とっくの昔、状況はそういうところまできている筈である。(p.2)

西洋史家の鈴木成高氏(1907-1988)から、「シナ学という学問がもつ体質」に向けて放たれた、鋭い指摘です。

内藤湖南の『支那史学史』は、たいへん貴重な本だが、私には奇妙にわかり難い本である。きわめて平易且つ平明に、読み易く、常識的に書かれているにもかかわらず、である。外国語で、しかも難かしい理論的用語で鹿爪らしく書かれている西洋の史学史の本の方が、はるかに私にはわかり易い。(p.2)

内藤湖南『支那史学史』が、「きわめて平易且つ平明に、読み易く、常識的に書かれているにもかかわらず」、「私には奇妙にわかり難い」と鈴木氏が言われる意味は、あまり詳しく説明されていない以上、私にはよく分かりません。鈴木氏が分かりやすいという「西洋の史学史の本」も読んでみたいのですが、書名までは挙げられていません(あるいはランケの著作などでしょうか?)。可能であれば、ぜひ対照してみたい気がします。

ともかく、鈴木氏が「シナ学という学問のなかに「史学史的」な関心というものが、欠けていたのではないだろうか」と言われる場合、鈴木氏の用いる「史学史的」の意味が十分には汲み取れないものの、それでも半分くらいは理解できるような気がします。史学史という歴史学の一派は、中国史研究の領域では(少なくとも日本では)門戸を確立していないように思えます。

「文献学的な関心だけで、史学史固有の関心というものが、欠けていたのではなかったか」という鈴木氏の指摘は貴重だと思いました。文献学というものが、史学文献に限らずすべての文献を包括する方法論であったからこそ、中国学においては文献学的関心からなされる研究が高度な発展を遂げたのではないかと私は考えます。

鄭樵『通志』にせよ章学誠『文史通義』によせ、「史学史」的見地からして中国を代表する著作であることは間違いないところですが、『通志』に「校讐略」が含まれ、『文史通義』の姉妹篇に『校讐通義』があることからしても、この両書とも、文献学的方法論と不可分の関係にあることは明白です。むしろ、文献学の方法こそが鄭樵や章学誠の史学を基礎づけていると言えそうです。

西洋史学において史学史的関心が重要であるのと同様、伝統的な中国学においては文献学的関心が重視されたということは認めてもよいのではないでしょうか。確かに、中国学には史学史的関心が欠けているというのは鈴木の指摘通りで、それが中国学の特徴の一つであるとも評しえましょう。

しかし、史学史的関心とは別に、文献学的関心ーこれを目録学的関心と言ってもよいのですがーが中国学において十全に機能していさえすれば、それほどジャングルの中で迷うのを恐れる事態に陥らずにすむのではないかと、私は思っています。

もちろんそれとは別に、今後、西洋史学の方法を鏡として中国学独自の史学史が登場し一定の地位を占めるとすればそれは素晴らしいことですが、その際にも、史学史的関心が従来の文献学的関心とどのような関係を取り結ぶのか、それをめぐって考えるべきことは多いように思います。

「鄭樵の史論に就て」


内藤戊申(1908-1989)「鄭樵の史論に就て」(『東洋史研究』第2巻1号、1936年)を読みました。戦前に書かれたものでありながら、鄭樵(1104-1162)に関する日本の研究としては、今なお重要だと考えます。内藤戊申は内藤湖南の息で、父と同じく中国史を研究した学者。

民国以前の支那の歴史家中、歴史学の理論的方面即ち史論に於て特に異色ある学者に唐の劉知幾、宋の鄭樵、清の章学誠の三人がある。……鄭樵は、彼の学問が全くの独学であつた為もあらうが、先人の説に少しも拘泥することなく全然独自の立場から従来の史書を批評し、更に己の主義によつて一つの史書、『通志』を著はした。(p.1)

このような認識のもと、宋の学者、鄭樵の史学論を『通志』に即して考究しています。同書は中国史学史において、たいへん重要な地位を占める著作です。

特に目をひいたのは、やや論旨からはずれはするものの、次の一節でした。

私の父は章学誠をよく理解し且之を批評しているが、大体に於て章氏の立場を是認してゐるものの如く、特に新しい立場を強調してはゐない。……吾々はそれをよく理解してゐるかゐないかは別問題として西洋の歴史哲学なるものを知つてゐる。吾々の探してゐる新しい立場は結局東洋の思想家にその暗示を見出すことになるのかも知れないとしてもこの西洋の智識を一応考慮に入れないわけにはいかない環境に我々は置かれてゐる。実際上からしても西洋の智識を持つてゐる方が昔の支那人の思想の特徴を明にするのに便利であろう。(p.11)

この論文自体、研究関心といい議論といい、内藤戊申氏の父である湖南を大きく引き継いでいるものであることは明白ですが、にもかかわらず、父とは異なる西洋への視線を明確に書いているわけです。

西洋的な観点から鄭樵を見るとどのように評価できるのか、残念ながら論旨はそこまで展開されていません。しかし、これを書いた内藤戊申氏の思考の底流に、西洋の「歴史哲学」への意識が消しがたいほどはっきりと存在していたことは明らかなのです。

「目録の書と史学との関係」


狩野直喜(1868−1947)の「日本国見在書目録に就いて」(『支那学文藪』、みすず書房、1973年。初出は『藝文』1-1、1910年)の冒頭部分に、目録学の重要性を説いて次のように言います。

清儒王鳴盛が目録之學。學中第一緊要事。必從此問塗。方能得其門而入。と云ひ又我國にて松崎慊堂が門人に先づ漢書藝文志を讀ませたと云ふも同じ事である。(『支那学文藪』p.87)

ここに自注がつけてあり、「史學雜誌三十九卷、先師島田博士の『史學と目録學との關係』と題する論文を見よ」と。この機会に、島田重礼(1838-1898)の論文「目録の書と史学との関係」(『史学雑誌』第39号、1893年)を読みました。なお狩野氏の引用では論文のタイトルが違っています。

本誌に「二十五年十二月十日講演」と記されているので、明治25年(1892年)の講演記録であることが分かります。

王鳴盛の言や松崎慊堂の逸話のみならず、狩野氏は目録学に関して相当多くの内容を島田氏から継承していることを知りました。たとえば、島田氏が唐代の儒教を述べた次の部分。

貞観中孔穎達等に命じて五経正義を作り、永徽中更に賈公彦をして修補を加へしめ之を天下に頒ちて学術の標準となし、礼部士を取る此を以し、学校人を教るも亦此を以てす。然るに繁を厭ひ簡を楽むは人情の常ゆへ天下靡然として甲令の定むる所に従ひ、学者の習ふ所は一部の正義に過ぎず、古来の旧書は之を高閣に束ねて蠧魚の腹を飽かしむるに至れり。(『史学雑誌』第4編、p.91。表記は改めてあります)

狩野氏は「日本国見在書目録に就いて」で、次のように言っています。

一體唐は詩賦文章の時代で、經學の如き肩の凝るものは嫌ひであつた。つまり經書を讀むも試驗に及第して官途に出るのが目的であるから、分り易くなつて居る正義を通じて一通り心得てさへ居ればよいので、其以外のものは餘程世間と遠ざかつた變りものでなくては研究せなかつた。(『支那学文藪』p.91)

ここでは一例を挙げたのみですが、師弟の文章はよく似ています。

狩野直喜・内藤湖南が目録学を説いたことはよく知られていますが、それに先行して島田重礼がまず目録学の価値を認識し、それを狩野氏が引き継いだものであることは明らかです。「目録の書と史学との関係」という島田氏の論文、近代漢学において重要な位置を占めるものであると、認識を新たにしました。

 

中国古典に親しむ

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