『魏晉石刻資料選注』


わたくしが勤務する京都大学人文科学研究所には、かなり多くの中国石刻の拓本が蔵されており、かつて、それらを読む研究班がありました。その成果の一端である『魏晉石刻資料選注』が出版されたのは、もう十数年前のこととなってしまいました。

三國時代の出土文字資料班[編].
魏晉石刻資料選注.
京都大學人文科學研究所, 2005, 292p., (京都大學人文科學研究所研究報告).

この研究班の班長は、人文研東方部の井波陵一氏と冨谷至氏の2名で、わたくしも班員として参加しており、この刊行物の出版に当たっては、井波班長のもと、整理をしたことを懐かしく思い出します。昨年度末に冨谷先生が定年退職され、今年度は井波先生が定年退職なさいます。20年にもわたり、お二人から蒙った学恩には感謝してもしきれません。この本を手にすると、つい感傷的な気分になってしまいます。

魏晋時代の碑や墓誌などを読み、注釈と訓読を付したもので、こういった文体を読んでみたいと思っていらっしゃる方のお役には立つかもしれないと思い、ここに紹介いたします。現在、京都大学のレポジトリ、KURENAIで無料公開されているので、ぜひご利用ください。

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『学術書を書く』


最近、京都大学学術出版会の編集者、鈴木哲也氏とお話しする機会があり、2年ほど前に鈴木氏が書かれた『学術書を書く』を読みました。

『学術書を書く』
鈴木哲也・高瀬桃子 著
A5並製・160頁・税込 1,836円
ISBN: 9784876988846
発行年月: 2015/09

京都大学学術出版会では、博士論文をベースにして全面的にリライトした書物を収める叢書、「プリミエ・コレクション」を出版しており、その編集の豊富な経験を基に、本書は書かれています。

博論を書籍化するためばかりでなく、学術的な著作を目指す多くの人の参考になる書物だと感じました。出版点数ばかり増加して、本が読まれなくなっている今の時代、どうやって読者に読ませるか、そのアイディアが満載されている、楽しい一冊です。

同じ領域を研究している数少ない専門家に読ませるためにではなく、「二回り外、三回り外」にいる読者に読ませる。本書の中に繰り返し説かれていることです。著者にとっては難しいことですが、それをしなければ、広く読まれることはないでしょう。大いに感銘を受けました。

コラムや用語集などを充実させ、書名や章節のタイトルにも気を配るように促すなど、思いもしなかったことが指南されており、参考になります。

学術書というわけではありませんが、現在、学術的な内容を含む書物を書こうとしているので、この『学術書を書く』がよい刺戟になりました。

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日本のことは勉強したくない、という考え


齋藤智寛氏「『万葉集』と中国の思想」(『わたしの日本(ニッポン)学び』東北大学出版会、2017年、所収)を読みました。 個人的に、共感する部分が多く、かつての同僚である齋藤氏への敬愛の念が深まりました。

内容も素晴らしかったのですが、「はじめに」のところで特に心をとらえられました。長い引用になりますが、ご紹介させてください。

筆者は日本で生まれ育ち日本の大学に勤務しているのですが、これまでずっと母語や自国の文化に正面から向き合うことを避け続けており、大学で中国思想という専攻を選んだのも一つには日本のことは勉強したくないという思いがあったからです。筆者にとって、前近代の中国知識人がそうしたように儒家や道家の古典をひもとき、今の中国人が子どもの頃にそうしたように中国の児童書……などを読み、そうして習得した中国語で中国やその他海外の研究者らと議論することには、人生をもういちど生き直すような喜びがあります。中国の伝統思想に関心を持つには人それぞれの動機があり、日本人であれば自らの文化の源流を知りたいという欲求から漢文を読むことも大いにあり得るでしょう。でもわたしは、出来ることなら日本人として中国の古典を読みたくはありません。そうでなく、むしろ日本語が読める中国人のような驚きをもって日本の古典を読みたいと願っています。

齋藤氏のごく個人的な思いなのですが、私にも大いに思い当たるところがあります。決して、中国文化に関心を持つ日本人がみなそうあるべきだ、といった話ではありません。ただ、齋藤氏や私はそうだ、というだけです。

そのことは、ごく個人的な思いなので、わざわざ人に言ったり書いたりする必要もないと思って生きてきましたが、齋藤氏がずばり書いてくださったので、こうして、私の思いを代弁するものとして紹介しました。

講演の記録ですが、その内容も立派なものです。文学・宗教・文化といったものへの繊細な目配りがあり、感慨深く読みました。

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『京大東洋学者 小島祐馬の生涯』


岡村敬二氏『京大東洋学者 小島祐馬の生涯』を読みました。

『京大東洋学者 小島祐馬の生涯』
臨川選書29
岡村敬二 著
四六判・並製・紙カバー装・304頁
本体2,000円+税
ISBN978-4-653-04114-6

出版社の簡潔な紹介を転載しておきます。

小島祐馬(おじますけま 1881~1966)は、京都帝大教授を退官後、その学識と手腕を惜しまれつつも早々に故郷高知へ帰り、 晴耕雨読の暮らしのかたわらで地域の人々との交流と文化の振興に尽くした。その生きかたの背景にあったのは 何であったのか。幼少期から晩年に至るまで、高知大学小島文庫に残る草稿やメモ類、また関係者の回想から丹念に綴る。

目次も転載します。

<目次>
はじめに

第一章 小島祐馬の学んだ草創期京都帝国大学文科大学
恩師 狩野直喜のこと/義和団事件と狩野の北京籠城
狩野直喜と内藤虎次郎との出会い/敦煌学の展開
羅振玉の京都在住/懐徳堂を支援/東方文化事業
東方文化学院京都研究所の創設/満洲国の建国と日満文化協会
〈コラム〉府立図書館での敦煌文書の展示敦煌文書の展観
スタイン、ペリオの京都来訪/文科大学・文学部教授の懐徳堂での講義
橋川時雄と狩野直喜/東方文化学院京都研究所の設計

第二章 京都帝国大学文科大学卒業まで
小島祐馬の生涯を語るにあたって/幼年期から五高進学まで
五高から京都帝国大学法科大学へ/文科大学の小島祐馬/河上肇との出会い

第三章 嘱託講師の時代
京都府立一中の講師として/河上肇に論文執筆を促される
困難を打ちて通れば/河上肇の『社会問題研究』刊行事情
抱関撃柝/河上肇『改版社会問題管見』の序文をめぐって
学術雑誌『支那學』創刊/「東洋の道を摂(おさ)めた我が道統」
三高講師の小島と学生の桑原武夫/京都帝国大学文学部助教授に就任
対支文化事業の「趣意書」/弘文堂の労働争議/河上肇の「最初期の弟子」か
〈コラム〉河上肇の妻と母

第四章 教授就任と帝国大学総長任命権問題
京都帝国大学文学部教授/濱田耕作総長の辞職願
帝国大学総長任命権問題の発端/東京・京都両帝大の協議
京都帝国大学案/任命権問題のあいまに/京都帝国大学人文科学研究所所長

第五章 定年を迎えて高知へ帰郷
小島の退官、河上の京都転居/小島の高知帰郷/帰田の願いがかなう
小島邸に書庫/高知での日々の暮らし/正壽夫人の歌と書/抱甕灌圃

第六章 戦後の高知暮らし
小島祐馬の戦後/文部大臣就任の打診/高知県知事・高知大学学長候補
学士院会員になる/晴耕雨読の百姓暮らし/源泉は滾々として昼夜をおかず
櫛田フキの選挙推薦文/高知市夏季大学/向井章、津田穣、安田二郎

終章 小島祐馬の晩年
東洋風の修身と西欧風の治国/郷土史家として/カルピス文化叢書
桑原武夫との対談/小島祐馬の死去

補論 黒谷・法然院に眠る東洋学者たち
狩野直喜 読むことが目的/謹厳実直
内藤虎次郎 三餘堂と恭仁山荘/古書をめぐって暗闘
桑原隲蔵 工房としての書斎/好事家趣味を排して
小川琢治 小如舟書屋/新着の洋書を見ながら講義
濱田耕作 カフェ・アーケオロジー/法然院の青陵塔

参照文献・引用文献一覧/おわりに/索引

小島氏が残した原稿・メモ・手紙などが、その郷土の高知大学図書館に「小島文庫」として残されており、それらは松田清先生が整理されたとのことですが、こういった資料を活用してまとめられた本書では、私的生活の細部なども掘り起こしているだけに、相当な迫力があります。

雑誌『支那学』発刊前後のことなども書かれており、小島氏を軸としつつも、多くの学者たちを登場させ、当時の京都のシナ学を総体として描いているように感じられました。

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『東光』編集者から桑原氏への回答


桑原武夫氏が『東光』編集部に宛てた手紙が、同誌の第3号に載っていることを、昨日紹介いたしましたが、その桑原氏の手紙に対する『東光』側からの回答が、さらに同誌の第4号に掲載されています。平岡武夫氏「桑原武夫氏に答えて、シナ学を語る」(『東光』第4号、昭和23年4月、pp.60-65)という一文です。

この文章の中で平岡氏は、桑原氏の要望に対して、逐一、たいへんに詳しく返答しています。例えば、「漢文には一切よみをつけて下さい」という要望について、それがすでに「『東光』の編集方針の一つ」となっていて、執筆者にお願いしてあるものの、「不注意の過失」であったと弁解しつつ、さらに次のように答えています。

すべて学問は学問する人自身のはたらきの中にあるものだと思います。古典は、読者がそれを自分に即して自分の手で読むべきものです。我々が自分のことばで漢文に訳をつけることは、それこそ我々がシナ学をする上に欠くべからざる基本工作でしょう。単にビュルガリザシオンのためでなく、シナ学の成立のために、このことは必要なのです。しかもこれは非常に困難な仕事です。その困難さの故に、今までは、むしろほおかむりされていた嫌いがあります。この困難さを自覚し、それを克服することによって始めて、シナ学は学として一人前になるでしょう。定本・訳本・索引・字書の整備が切実に念願されます。仮りに百種ほどの基本的な古典を選び、一種に平均十人が十年かかるとして、延べ一万年の仕事を、世界中のシナ学者が三百人余り共同して、三十年ほどで仕上げたら、シナ学の面目も一新することだろうと思います。この一線を突破せずにいては、たとえ個々の学者は何とかお茶をにごして今日をすごし得ても、これからのシナ学は成立し得ないでしょう。

このように桑原氏の批判に答えつつ、平岡氏は、「しかしまた貴兄と見解を異にするのではないかと思われるふしぶしも、ないではありません」といって、いくつか反論を試みています。例えば、「どうか『東光』はシナ学のアクチュアルな雑誌になって下さい」という桑原氏の要望に対して、平岡氏は「アクチュアルなもの」とは何か、と問い、次のように言います。

私たちの学問は中国の現段階のためにのみあるのではありません。……私は辛亥革命以後の中国の歩みに尊敬もし、またこの歩みが中国として必然のものであることもよく分かるのですが、しかしアクチュアルなものとして私の現実感覚に訴えるものは、むしろ古典のシナ、非近代性の故に抹殺されているあのシナの文化なのです。

また「近代性」の理解をめぐっても、平岡氏は議論を展開していますが、ここでは触れずにおきます。平岡氏はさらに、手紙への応答というだけでない中国文化論を展開していますが(すなわち題の中の「シナ学を語る」部分)、そこには「漢字文化は、読書と作詩文と書写と、この三つを頂点とする一つの世界を構成している」と主張しています。

これは平岡氏なりの中国文化の理想像ですが、実はこの理想像は、すでにその前年に亡くなっていた狩野直喜氏(1868-1947)の姿と完全に二重写しになっているのです。『東光』第5号は「狩野直喜先生永逝記念」号ですが、その編集後記に、平岡氏は次のように書いています。

シナ文化を生活する人は、楽しんで漢籍を読み、その読書から詩文を流出させ、そして上手に字を書く、この三拍子のそろった人でなければならない。その一をなし、その二を兼ねる人は、今もあり、これからもあろう。しかしこの三をそろえるひとは、あるいは君山先生をもって終りとするのではあるまいか、シナ文化の光栄はいよいよ発揮するとしても、それを享受する仕方が、これから変わるのである。(『東光』第5号、昭和23年4月、p.99)

君山先生こと狩野氏を、「シナ文化を生活する人」の典型としてとらえており、そこから先ほどの「読書と作詩文と書写」こそが漢字文化における基本的要素だという主張が生まれていることが分かります。

こうしてみると、平岡氏の回答は、狩野直喜をひとつの典型とする新しい中国学を根幹に据えつつ、さらにそこから脱皮して、国際的な学術協力を通じ、中国古典の「定本・訳本・索引・字書の整備」を当面の目標として設定するものであり、そういった旗幟を鮮明にしつつ、桑原氏に対してみずからの立場を答えたものであったと読むことができるように思います。

さて両者のやりとりを通じ、ひるがえって、無記名であった『東光』巻頭言の作者が誰であったのかを考えてみると、そこにおのずと平岡武夫氏の名が浮かびましょう。礪波護先生が先年、編集して刊行なさった『平岡武夫遺文集』(私家版、2002年)には、この「桑原武夫氏に答えて、シナ学を語る」という一文とともに、はたして「『東光』巻頭言」もあわせて収録されているのです。

桑原武夫の『東光』批判


先日、中国学の雑誌、『東光』創刊号を紹介しましたが、当時、その創刊号を読んで手紙を寄せた人物がいました。桑原武夫氏(1904-1988)です。その手紙が、『東光』第3号(昭和23年1月)に、「編集者への手紙」(pp.62-63)として掲載されています。「『東光』第一号をありがとう。御苦労お察しします。御注文により感想を申し上げます」、と書き出されていますので、親しい私信のような雰囲気もあります。献本に際し、編集を担当した人物が、批正をお願いします、などといった一言を添えていたのでしょう。

桑原氏の手紙の内容は相当に辛辣なもので、「日本のシナ学はいままで中々すぐれているが、しかも今やそのよい後継者を得がたくなっているのではないかという不安をまぬがれません」と綴られています。

批判点は多岐にわたっていますが、ここにいくつかかいつまんでみます。

・「巻頭言にうかがわれる近代超克の精神に、私はいささか不安を禁じえません。……私は大戦によって近代が極限に達し、ここに「調和と統一、安分と享受」の時代が始まるとは信じがたいのです」。この批判は、巻頭言の「二度の大戦は近代の極限を示した。古代、中世、近代についで、いまや人間の歴史の第四の時代が始まろうとしている。矛盾と対立、克服と創造の時代に代って、調和と統一、安分と享受の生活を根本義とする時代が始まろうとしている」という言葉に向けられたものです。戦前すでに問題提起がなされていた「近代の超克」論の蒸し返しにも見える巻頭言のことばに、桑原氏が疑義を抱いたのは、当然といえば当然のことかもしれません。

・「『東光』は研究か趣味かビュルガリザションか。……『東光』はよきビュルガリザションのために、ささげられるべきではないか、と私は考えます」。桑原氏がいう「ビュルガリザション」(仏vulgarisation / 英vulgarization)とは、普及活動、専門的な内容を通俗化させることです。この雑誌を通じ、シナ学を広汎な読者層へと普及させること、特に若い読者に伝えることを桑原氏は望んでいるようですが、その方向性が明確でないと批判します。「後記の筆者の署名が子玄・竹庵などとなっていること」にも、若者を遠ざけかねないとして苦言を呈します。

・論説に関して、「ムツカシイ」と評しています。「漢文には一切よみをつけて下さい」、「これが今までのシナ学関係の本の根本的欠点で、ギリシヤ・ラテンはもとより、フランス文学の連中でも必ず原文には訳をつけています」。『東光』第1号に載った、森鹿三氏「竹と中国古代文化」などの文章に、古漢語の原文がそのまま引用してあることを批判したものです。現在の日本語研究論文では、原文に訳や訓読をつけることが一般化していることを考え合わせれば、桑原氏の批判は、言葉遣いの辛辣さはあるものの、妥当なものと思います。

・「問題をなるべく広い見地から扱ってほしいと思います」、「やはりまず読者をとらえ、しかるのちにだんだんこれを仕立てるというテクニックは、研究すべきでないでしょうか」。おそらく、論説が考証に傾きがちで、狭い枠に留まっており、比較の視点が乏しいことを批判したものでしょう。

・「一号に文学についてのものが皆無だったのは残念です。……文学はもっとも普遍性のある、また直接的なものですから、これからは毎号、文学を入れて下さい」。

以上のような、具体的な要望を連ね、「どうか『東光』はシナ学のアクチュアルな雑誌になって下さい」と書かれています。

桑原武夫氏が高名の文学研究者であることは言うまでもありませんが、東洋史家で京都帝国大学教授であった桑原隲蔵氏(1871-1931)の子息でもあったため、当時の京都における中国学の世界では一目置かれた存在であったようです。このような腹蔵ない手紙は、桑原氏とシナ学者たちとの間にあった、厚い信頼関係の産物であったと言えましょう。

この手紙に対して、『東光』の編集者であった平岡武夫氏(1909-1995)が、同誌の第4号で応答しているのですが、そのことについては後日触れたいと思います。

留、劉と通ず


狩野直喜「経史子概要」(『漢文研究法』、みすず書房、1979年、所収)は、経書の簡潔な解説ですが、『詩経』の解釈における、毛伝と朱子集伝との違いを述べています。その例として、王風の「丘中有麻」の詩を挙げているので、ここに引用します(p.112)。

王風「丘中有麻」に、
「丘中有麻、彼留子嗟、彼留子嗟、將其來施施」云々
朱傳に、
「婦人望其所與私者而不來、故疑丘中有麻之處復有與之私而留之者」云々
と解せり。古義によれば、
「丘中有麻、思賢也、莊王不明、賢人放逐、國人思之而作是詩也」云々
曹劉と通ず。漢書地理志、水經注などにあり。

問題は末尾の「曹劉と通ず」であり、校訂者は「原稿にかく見えるが、文意は通じない」と注記しています(同書、p.113)。

確かにこれでは意味が通じません。著者の意図は「留、劉と通ず」であったと、わたくしは推測します。「曹」は「留」の誤りでしょう。

「彼留子嗟」という詩の句を、毛伝は「留、大夫氏。子嗟、字也」と解釈しています。つまり、留という氏の周の大夫(そのアザナは子嗟)を詠んだ詩、と理解するわけです。

その「留」は、文献のなかでは「劉」とも表記されます。例えば、『漢書』地理志、河南郡緱氏県の班固自注に「劉聚、周大夫劉子邑」と見え、また『水經注』洛水の部分に「合水北與劉水合、水出半石東山、西北流于劉聚、三面臨澗、在緱氏西南周畿内劉子國、故謂之劉澗」とあります(いずれも馬瑞辰『毛詩伝箋通釈』に引かれる資料です)。これらから、劉氏(留氏)の領地が河南の地にあったことが分かります。

以上のことが、著者が「漢書地理志、水經注などにあり」と言われたことの意味であろうと思います。

なお、『毛詩正義』が毛伝に沿って理解しているのは当然ですが、正義においてもすでに「下云「彼留之子」與『易』稱「顏氏之子」其文相類、故知劉氏、大夫氏也」といっており、「留」と「劉」との通仮が前提とされています。

毛伝と朱子集伝との比較からいえば、朱子はそもそも「留子嗟」を人名として理解していないので、その差は歴然としています。

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朕の姓は源


清王朝(1644-1912)の皇帝たちは、わが源義経の子孫なのだ。そういう俗説があるそうです。

讃岐の学者、森長見(もり・ながみ、通称は森助右衛門、1742-1794)に、『国学忘貝(こくがくわすれがい)』(天明七年刊本1787)という著作があり、その巻下に、問題の一節があります。

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西土今ノ清編集アリシ『圖書集成』ト號スル書、一萬卷アリ、新渡ニテ、其部ノ内、『圖書輯勘』ト云ヘル百三十卷アリ、清帝自ラ序ヲ製作アリ、其略文トテ「朕姓源、義經之裔、其先出清和、故號國清」トアリ、「清ト號スルハ清和帝ノ清ナリ」ト、或儒、考ヲ加ヘ書ルヲ前年見テ、不審ナリシ。去々丑ノ年、新刻セシ『古文孝經序跋』ノ序二、「『古今圖書集成』一萬卷、寶曆庚辰歲、清客汪繩武齎來其書全套。明和甲申、納之官庫」ノ文アリ。猶亦其書渡リシ實事傳承ノコトアレド、爰二記セズ。サレド右清帝自序アルコトハ、其真偽ヲ不知。kai02

『古今図書集成』に収める『図書輯勘』という書物に、その説が見える、というのですが、上記の文を見れば、長見自身は「清帝自序アルコトハ、其真偽ヲ知ラズ」と、学者らしく態度を保留しています。むしろ、疑っている口吻が感じられます。

これに続く文では、関連する『金史別本列将伝』を引用していますが、それについても長見は「好事虚談」と切って捨てています。そしてこの一節の末に「彌今ノ清ハ、義經ノ後胤ナラバ西土ヲ掌握アリシコト實二快然タル哉」と言います。あくまで「後胤ナラバ」と仮定して言っており、「もしこの説が本当だったら面白い」というにすぎず、長見がこの説を真剣に信じていた形跡はうかがえません。

以上の事を、『国学忘貝』の版本について読んでみたわけですが、種明かしをすれば、狩野直喜『漢文研究法』(みすず書房、1979年、p.61)に、次のような『古今図書集成』へのコメントがあるのを確かめておきたかったのです。

此書は昔は大切なりき。日本にては幕府の紅葉山文庫にありしのみなり。雍正の序に源義経がその祖先なりとありと云ひ、人信じたりき。

ウェブで調べてみると、人気のある俗説らしく、賛成派も反対派もこの『国学忘貝』を盛んに引用していますが、残念ながら転引に転引を重ねているらしく、ほとんどが不正確です(『図書輯勘』の巻数を「三十」とするとか、「清帝」を「乾隆帝」とするとか、森長見がこの説を信じている思っているとか)。一応、原文を引用し、写真もあわせて載せました。考証の一助になれば幸いです。

もとより『古今図書集成』に『図書輯勘』などという書物は引用されておらず、清帝の序も存在しないわけですが、一万巻の大部の書である『古今図書集成』の中にあるのだと、江戸時代の人がでっち上げた法螺話でしょう。

『東光』巻頭言


中国学の論説を掲載する雑誌、『東光』の創刊号は、昭和22年8月30日に発行されました。発行元は京都の弘文堂。この雑誌は、『支那学』の後継誌として、戦後間もなく生み出されたものですが、その「巻頭言」を読み、あまりの清新さ、あまりの熱さに、私は大いに魂を揺さぶられる思いをしました。

流布も多くないもののようなので、ここに全文を転載します(表記は改めてあります)。

不可解なものとしてシナを見ることは近代の常識であった。近代人の眼鏡には焦点が合いかねたのである。近代人はもとより近代的な見方、考え方をする。またそうすることによって、幾多の新しい、すぐれた人生の価値を発見したのである。従って評価の基準を近代ぶりに求めるのも自然なことである。ところが、周王朝以来、三千年のシナのあり方は、この近代の諸形式からおおよそかけ離れた性質のものであった。それは、一般の近代人にとって、ピントが合いにくいだけでなく、骨折って合わせる必要を感じさせないものでもあった。しかし二度の大戦は近代の極限を示した。古代、中世、近代についで、いまや人間の歴史の第四の時代が始まろうとしている。矛盾と対立、克服と創造の時代に代って、調和と統一、安分と享受の生活を根本義とする時代が始まろうとしている。

かつてギリシヤの文化は近代に黎明の光を与えた。第四の時代に光さすものは何であろうか。この時、「文」を至上とし、平和を愛し調和を尊び、分に安んじて生活を楽しむことを本領にするシナ文化のあり方は、我らの深い関心を惹く。謎とされたシナの非近代性は、実は高次の世界の図式を秘めた超近代的性格のものではなかったか。我らはこれまでの眼鏡をはずして、新しい世界を展望する。その目をもって、改めてシナ文化の意味する所を、始めてそれを見る人の如くに、見直そうとするものである。

古き伝統に連るシナ学者が近代の潮流を傍観していたことは、必ずしもシナの客観的把握や、未来への展望を意味しはしない。彼らは余りにも玄人になり通人になりすぎていたので、仲間の慣例や約束に溺れがちであったのである。他方、いわゆる新中国学者は、心がまえは生新であっても、やはり眼鏡をかけた人であり、従って視覚が近代ぶりに偏しがちである。現在の中国が呈示している諸事情、殊にこれらの人たちがとらえる経済・政治・社会の諸事情は、三千年来のシナ文化の歴史から見るならば、近代性に激発された過渡期的現象であって、いわば西洋近代の末梢的現象にすぎない。これにのみ執着することは、巨象のしっぽを撫でていることである。シナ文化の本領を発揮するための途ではあり得ない。

我らのシナ学は、基本的には、中国一国の学問ではなく、世界の歴史の学問である。それは平和にして人文文化を尊ぶ世界の顕現のための学問である。しかも今日の我国はかくの如き世界の顕現を絶対絶命の課題としている。それ故にわれらシナ学徒は、まず第一に、人間の文化一般の学徒であらねばならない。この点に現在のシナ学徒の最も反省し精進すべきものがある。偶然のシナ学者は退転すべきである。ただひとしく平和と文化の行者ではあるが、シナ学徒は、シナ文化が文字その他の事情から他種の文化より余りにも隔絶しているので、それを一般文化の基盤の上にもち来たす所に、その特殊性を持つ。これは、事業・環境のいずれよりいうも、極めて困難な任務である。ほとんど他を顧みる余地がないのは事実である。しかしシナ学徒は、それを更に世界文化の図式にまで高める職責を忘れてはならない。彼は第一に文化の学徒である。しかもこの職責を遂行することが、実はさきの重荷に耐えさせる所以でもあろう。

日本のシナ学はここにまったく新たに始まる。アメリカやソ連のシナ学と同じ新たな心をもって発足する。言い古されたものは何もない。すべてが新しい。正統的・基本的なものに正面きってぶつかってゆくことが、まず要請される。奇をてらい通をひけらかすことは、まったく無用である。

シナ文化のルネッサンスを期待することが架空の論でないことは、彼らの世界観の構造が示唆する所である。しかしそれはなお検討を要するものであり、もとより現在の未熟なシナ学では決定的なことは言えない。それは一つの見込みであり、信頼であり、冒険である。しかし文化の他の分野においても、事情は同じことであろう。すべて文化の学問は文化の行者の実践行為である。それは究極の一線において信念と献身とによって支えられているのである。結果から出発するものではない。

願わくば、われらのシナ学に恩寵のあらんことを。

ここで論評を加えることは控えたいと思います。いずれその機会もありましょう。とにかく、このブログをお読みの皆さんと共享したい一心で転載いたしました。

「盧植とその『礼記解詁』」


池田秀三氏「 盧植とその『礼記解詁』」という論文を久々に読み返しました。

盧植は、後漢末の学者です。大儒として知られた馬融の弟子であり、かの鄭玄を馬融に引き合わせた人物。『後漢書』列伝第五十四に、立伝されています。盧植その人と、彼の盧植の業績である『礼記』の注釈とを論じた長大な論文です。

この論文に登場する主な学者は、後漢の蔡邕・馬融・盧植・鄭玄。そして、魏の王粛です。中国経学史の中でも格別に重要な位置を占めるこの時代の、すべての重要な学者が取り上げられていることになりましょう。単に盧植の学問を分析しただけの論文ではありません。

池田先生がお書きになる漢代経学は、経学的な重要問題を当時の重要性さながら取り上げながら、学問の系統と、それぞれの学者が持つ個性とを見事に関連づけて描写するところに特徴があるように思います。盧植については、鄭玄との比較のもと、次のように説かれています。

盧植は鄭玄ほど自己の礼学体系に忠実ではない。彼は決して体系を全てに優先する至上価値のものとはしていない。その体系性は、礼の現実的意義を喪失しない限りにおいて、また先師の旧説を大きく逸脱破壊しない範囲において許されているのである。彼は理論に走り、自己独自の体系を打ち立てる気などさらさらなかった。願うところは、受けし古学によって俗説を正すことにあったのである。(下、p.6)

こういったメリハリのついた評価は、はっきりとした眺望を読者に与えます。盧植の学問がよく分かるのはもちろん、鄭玄の学問がどのようなものであったかについて関心をお持ちの方にも勧められるように思われます。

中国古典に親しむ

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