日本漢文のなかの固有名詞


『論語義疏』の標点本はいくつかあるようですが、私が最近読んだのは、高尚榘氏のものです。『論語義疏』高尚榘校點,中華書局,2013年。

武内義雄が整理した懐徳堂本に依拠した本であり、かなりよく懐徳堂本の本文を伝えています。附録として、大正十二年(1923)五月に西村天囚(1865-1924)が漢文で書いた序まで載せてあるのもありがたいことです。

その序のなかに、「暨應神朝,百濟獻《論語》,孔子之書,始入我國」とあります。もちろん、応神というのは我が国の天皇の名ですが、標点を見ると、整理者はそれに気づいていないようです。

また、「謹按先皇教育勅語示法後世,炳如日月,其所謂忠、孝、友、和、信,與智能、德器、恭儉、博愛、義勇等條目,皆符於孔子之教」ともありますが、どうも「教育勅語」が固有名詞であることを知らなかった様子です。

標点者はほぼ正確に著者の意図をくみ取っているものの、ちょっとした知識のギャップもうかがわれて、何となく面白く思われました。

慊堂先生の誕生日


明和八年九月二十七日(西暦で言えば1771年11月3日)、甲子の日、松崎慊堂は熊本に生まれました。『慊堂日暦』文政六年五月の記事に、「慊堂が所歴の甲子」として次のようにあります。

明和八(辛卯)年九月二十七日甲子、慊堂生まる。文政六(癸未)年四月二十五日甲子にいたるまで凡そ五十三歳、総て三百十四甲子。一万八千八百五十七日。(『慊堂日暦』1、平凡社東洋文庫、p.16)

甲子という特別な日(1から60まである干支の第1ですから)に出生したことは、慊堂にとって大切なことであり、甲子の日にはしばしばそのむね言及があります。感慨を持って、二ヶ月に一度の甲子を迎えたようです。たとえば、文政十年十一月二十三日の甲子には、「余が生まれし歳の九月二十七日は甲子、ここに於て三百三十八甲子なり」(『慊堂日暦』2、平凡社東洋文庫、pp.131-132)と書いています。

文政十一年九月二十七日、この日、慊堂の「誕辰」が行なわれました。前日には隣居の老人にわざわざ蕎麦を挽いてもらって準備した、と日記にあります。当日の日記を引きます。

晴、寒。甲子、五十八の初度たり。輪翁は晁上人・崋山外史と来り、芳洲・儀之助・牛之丞の三公来り臨まる。三管合奏し、輪翁は郢曲を歌う。集まる者は、井筒君、浅山哲蔵、渡辺奎輔、陰山・熊谷二生、古梁夫婦・女孫・上田雪坡。席上にて数十紙を漫書す。(『慊堂日暦』2、平凡社東洋文庫、p.212)

輪翁こと屋代弘賢(1758-1841)や崋山外史つまり渡辺崋山(1793-1841)も出席した、華やかな会合です。慊堂は「三百四十七甲子、二万八百二旬九。五十八年かくの如く過ぐ、富貴浮雲三杯の酒」というような詩も詠みました。

毎年九月二十七日になると誕生会を催したというわけではなく、この日は折よく九月二十七日と甲子とが重なったために、盛大な会を開いたのでしょう。誕生会の楽しさが想像されます。

文に和習あって始めてこれ真の文


松崎慊堂(1771-1844)の『慊堂日暦』が面白いというのは、以前から聞いていたのですが、大部のものでもあり、なかなか手をつけずにおいてありました。最近、必要あって読み始めたところ、すっかり魅了されてしまいました。まだ読了していませんが、いたるところに興味をひかれる記事があります。

「和習」といえば、日本人の書く漢文の癖のようなもので、中国文を手本とする立場からすればあまりありがたいものではないようです。慊堂はその和習について、面白いことを言っています。文政十年十二月八日の日記から。

 「助字・作文」。古今各々異なる。先ず『史記』と六経とを比視すべし。漢は周の助字を用いず。後漢と前漢と異なる。作文もまた然り。唐の元結は六代の比儷を厭い、ここに於て始めて復古の事あり。然れども唐の文は自らこれ唐、宋の文は自らこれ宋。韓(愈)を学ぶ欧(陽脩)は、却って韓に似ず、自らこれ欧の文なり。南宋また北宋に非ず。この論は甚だ長ず、暇時にまさに説破すべし。文に和習あって始めてこれ真の文。漢に漢習あり、唐宋に唐宋の習あり。和に和習なければ、和人の文となさず。(『慊堂日暦』第2冊、平凡社、東洋文庫、1972年、p.137)

「漢に漢習あり、唐宋に唐宋の習あり」、中国のそれぞれの時代の文にも、他の時代とは異なる「習」があるのだから、日本人の書く文にも和習がなければ本当の文とは呼べない。なるほどと思いました。理想の文、などというのは、言われてみれば幻想です。

同日の日記には別のこともあわせて書かれているのですが、「右、九日夜の酔語、陰生と語る約略なり。筆かなわねば、急に思う通りに書付かれぬる。他日の心覚えにす」とメモがあります。九日、というのは八日の誤りか、とも思いますが、さて。

ともかく、陰生こと、陰山量平(1789-1833、あざな仲海)と酒を飲みながら話したことを書き付けたようです。陰山量平は、陰山豊洲(1750-1809)の養子で、私はこの陰山豊洲にも少し関心を抱いているところでしたので、ますます楽しくなりました。

柳賛?柳贇?


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柳の下の一文字は?

右の画像をご覧ください。版本(の影印本)の一部です。

その上で、クイズを出題します。最終行に見える、「柳」の下、「謹」の上の一字は何でしょうか?お考えください。

ヒントを申し上げると、「賛」「贇」などと読んだ例がありますが、いずれも誤りだそうです。

正解は明日にでも、ここに書きます。

なお恥を承知で申し上げると、わたくしは読めませんでした。

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医書の誤字、経典の誤字


医学書に誤字があると、どうなりましょうか?誤った情報に基づいて処方や治療が行われるならば、この上なく危険なことに思われます。では、儒教の経典に誤字があった場合はどうでしょう?むろんどんな本にも誤字はない方がよいのですが、医学書と比べると如何でしょうか。

昨日取り上げた、江辛眉(1922-1986)「校讎蒙拾」の中に、次の一節があります。

齊召南謂:“書有版本,讀書稱便;自有版本,校者轉難。”其故何哉?蓋舊本之訛,或出無心;新刻之失,每因怠忽。乃曰:“誤而思之,更是一適。”又曰:“非關壽夭,未有所傷。”其謬如此,固當騰笑眾口,而支離失讀矣。(「辨訛第四」p.49)

木版印刷が始まり、書写して本を作っていた時代よりも便利になったものの、どうも文字の正確さがおろそかになったのは、困ったものだ。それなのに、この問題の重大さを認識していない者がいる。大意はそういうことでしょう。

「非關壽夭,未有所傷」に対しては、次のような著者の自注がついています。

(劉跂《趙氏金石錄序》)又曰:“昔人欲刋定經典及醫方。或謂:‘經典同異,未有所傷;非若醫方能致壽夭。’ 陶弘景亟稱之,以為名言,彼哉卑陋,亦至於此

ある人が、「経典に違いがあっても、大問題ではない。医学書の場合には人命に関わるが、経典の誤字などそれほど重大ではない」と言ったところ、陶弘景(456-536)という医学にも造詣の深かった道士は、その考えに同意して「それは名言だ」とほめた。この陶氏の発言に対して、宋代の劉跂がとんでもないこと、と批判した部分です。

儒教経典を重んずる立場からすれば、人命に関わらないからといって、経典の文字に無頓着な姿勢は看過できないことなのでしょう。

中国の伝統的な価値観のもとでは、儒教経典の存在こそがこの世の秩序を成り立たせており、経典の真義を明らかにすることが最重要課題であるとされてきたからです。近代人である江辛眉も、どうやら劉跂に同調しているようです(本書全体の趣旨を踏まえると、江氏が儒教経典を絶対視していたとは思えないのですが、この部分の文字面はそのように読めるということです)。

儒家経典の誤字は、医書の誤字よりも深刻でないのかどうか?そのような問いに人々が熱くなった時代があったことを知りました。

『校讎蒙拾 読韓蠡解』


江辛眉(1922-1986)の『校讎蒙拾 読韓蠡解』という本を読みました。

江辛眉 『校雠蒙拾 读韩蠡解』

海豚出版社(海豚书馆),2014年11月

著者の江辛眉は、上海師範学院(現、上海師範大学)にて教鞭をとった方だと、本書に冠せられたご子息の序文に書いてあります。「校讎蒙拾」は校勘学の入門書、「読韓蠡解」は韓愈の詩の注釈。江氏が校勘学にも韓愈にも詳しかったことが本書から見て取れます。

「校讎蒙拾」、漢籍の校勘学に関する、とてもよい入門書でした。本文を駢文で書き、それに詳しい自注を加える形式です。入門書といってもなかなか高度で、校勘学に少しなじんだ人に向くのかもしれません。白状すると、私の学力では、本文だけを読んで内容を理解することは困難でした。

銭大昕『十駕斎養新録』、王念孫『読書雑志』、王引之『経義述聞』、俞樾『古書疑義挙例』、楊樹達『古書句読釈例』といった校勘の名著から豊富な例が引用されており、それらの著作への手引きともなっていますが、それのみならず、この本なりの体系が備わっており、読んで楽しむことができました。

「瓊」という字については、『説文解字』が「瓊,赤玉也」というのに基づき、赤い玉(ギョク)だとする説がありますが、韓愈の詩が雪を表現してこの字を用いるからにはそれはおかしいと江氏は言い、「瓊,亦玉也」が正しく、「赤」は「亦」の誤り、とする段玉裁説を肯定しており、痛快でした。

なお注に引かれた文などに不審なところがありました(句読など)。時間をみつけて確認しておきます。

この本も海豚出版社の一冊。16.80元と安価であったために手にしたのですが、買ってよかったと思いました。

『呉大澂和他的拓工』


tagong.jpg勤務先に少なからず蔵せられていることもあって、石刻資料を紙に転写した「拓本」を目にしたり手に取ったりする機会はこれまでにもありました。紙と墨が作るモノクロの世界に親しみを持っています。

以前は研究会の都合で毎週2時間づつ拓本を観察していたのすが、最近はその世界からやや遠ざかってしまい、残念に思っていたところ、中国の書店にて白謙慎『呉大澂和他的拓工』という薄い本を見つけたので、さっそく一本を求めて読んでみました。

白谦慎《吴大澂和他的拓工》

海豚出版社(海豚书馆),2013年6月

呉大澂(1835-1902)、あざなは清卿、号は恒軒、愙斎、蘇州呉県の人。同治7年(1868)の進士で、清末の著名な政治家、文人です。この人が金石学に詳しいことはさすがに認識していましたが、その呉氏と関わった「拓工」と聞くと、物珍しく聞こえたので関心を持ったわけです。

呉氏が黄易(1844-1882、あざなは小松)という金石学の先達に大いに憧れていたこと、陳介祺、潘祖蔭などといった金石コレクターの仲間たちとの交友、そして呉氏のために拓本をとった「拓工」たちとの関係まで、豊富な手紙や日記を駆使して丁寧に考察した書物です。読み物としてのみならず、研究としてみても有意義でした。

しかしコレクターの世界というのは、なかなか生々しいものです。たとえば友人の陳介祺が1884年に亡くなった時、多忙の呉大澂は弔問に赴けなかったとのことですが、翌年、陳氏の跡取りに手紙を書いてコレクションの整理に言及し、陳氏が収蔵した「毛公鼎」の拓本をとらせてくれるよう頼んでいます。ものへの執着を感じました。

彼が拓本作成を依頼した拓工たちについてもよく理解できました。拓工には職人も文人もおり、呉氏の著作『説文古籒補』を熟知していた黄士陵なども呉氏のために職業的に拓をとったとのこと。篆刻に巧みな人を信頼して拓をとらせていた、などという指摘には、なるほどと思わせられました。

イルカをシンボルにした海豚出版社の本は今回はじめて読みましたが、安くて軽く、好感が持てました。横組み簡体字です。

一画の差


名高い泰山の北に済南という町がありますが、後漢から隋にかけての時代、このあたりは山茌県という地名だったそうです。『後漢書』郡国志に「山茌,侯國」(『後漢書』郡國志三、兗州、泰山郡)と見えるのがその早い例。

ところで、さまざまな書物やそのさまざまな伝本において、この「山茌」を「山荏」と誤るものが相当数あり、たとえばちかごろたまたま眼にした『続高僧伝』読誦篇の一文もそうでした。

高麗再雕本『続高僧伝』より
高麗再雕本『続高僧伝』より

釋志湛,齊州山人,是朗公曾孫之弟子也。(『續高僧傳』卷二十八、讀誦篇、魏泰岳人頭山銜草寺釋志湛傳。T50-686a)

『大正新修大蔵経』では、この部分に校勘記がありませんが、しかし「山荏」が「山茌」の誤りであることは確かです。たとえば、CBETASATKANRIPOといったデータベースで、「山荏」と検索してみてください。他にも例を見いだせます。

近年、『続高僧伝』の点校本が出ました(郭紹林點校『續高僧傳』、中華書局、2014年、中國佛教典籍選刊)。この本を見たところ、誤りなく「山茌」となっていたのは好印象でした。底本は磧砂版とのこと、いずれ確認しておきたいと思います。

絵にかいた餅


漢語に「畫餅充饑」という成語があります。『三国志』に基づくものということ。

時舉中書郎,詔曰:「得其人與否,在盧生耳。選舉莫取有名,名如畫地作餅,不可啖也。」(『三國志』魏書二十二,盧毓傳) 

名声などというものは、地面に「餅」の絵をかいたのと同じで、食えるものではない、空虚なものだ、と。

この「畫餅」、日本語のことわざにもなり、「絵に描いた餅」「画餅」などといいます。しかしながら問題は「餅」で、日本人が思い浮かべる「モチ」と、『三国志』でいう「餅」とは、どうも異なるものらしいのです。

ここで私が日本人の思い浮かべるモチ、というのは、餅米を蒸してついて粘りを出した食品です(現代漢語では「黏糕」といいます)。一方、『三国志』にいう「餅」は、どうも穀物(小麦やうるち米など)を挽いて粉にし、それを水と合わせてこね、それをさらに加熱して食品にしたもののようです。

盧毓が生きていた二世紀から三世紀にかけて、どのような「餅」が食されていたかは考証し難いのですが、六世紀に書かれた『斉民要術』巻九「餅法」(繆啓愉校釋『齊民要術校釋』中國農業出版社,1998年,pp.632-640)を見ると、実にさまざまな種類の「餅」が並べられています。田中静一・小島麗逸・太田泰弘訳『斉民要術—現存する最古の料理書』(雄山閣出版社、1997年。pp.197-205)にも説明があります。

『斉民要術』を見ると、小麦粉を練って焼いた「燒餅」という食品や、「水引、餺飩」と呼ばれる麺料理まで、いろいろなものが紹介されています。当時の「餅」は多様であり、現代中国の「餅bǐng」とも異なります。繆啓愉氏が「現代で言うところの餅とはまったく異なる」(p.633)という通り、概念の範囲に違いがあります。

そういうわけですから、『三国志』にいう「畫地作餅」をどう訳すのか、これはなかなか厄介な問題だといえましょう。「地面に餅を描く」と訳して大過はないはずですが、少し厳密に訳そうとすると、日本語でいうモチでもなく、さりとて現代漢語でいう「餅bǐng」でもなく、何とも訳しづらいのです。「練り餅」という日本語もありそれでもよさそうですが、さすがにそこに麺類は含まれないと思います。

なお余談ながら、田中慶太郎『支那文を讀む爲の漢字典』は、「餅」を次のように説明しています。「食品。麪を溲(ひた)して平圓形に製し、火を用て之を焙りて食ふなり」。(p.621)主に、現代中国の「餅」の説明ですが、「モチ」であるとは決していわないのが、この字典の面白いところでもあります。

 

索引の功罪


倉田淳之助氏「四部分類の伝統」(『東洋史研究』第8巻4号、1943年11月)を読みました。倉田氏が責任の一端を担って編纂した『東方文化研究所漢籍分類目録』が1943年3月に完成したことにちなみ、日比野丈夫氏から「解題をかねて何か目録に関すること」(p.39)を書いて欲しいという依頼を受けたもの、とのこと。

中国における図書目録の分類は、「『七略』の創定より四部分類への転化はあるものの、其の根柢に於ては餘り動揺してゐない」(p.40)という認識のもと、前漢末における劉向・劉歆父子の図書整理事業についてかなり綿密な考察を加え、また四部分類の成立過程についても説明し、その上で『東方文化研究所漢籍分類目録』の特徴を語っています。

倉田氏の見るところ、この東方文化研究所の漢籍目録の特色は、所蔵する漢籍の質的な確かさに裏付けられているのはもちろん、さらに「書名人名通検」、すなわち書名索引・人名索引が附属する点にあります。確かに、利用者にとって索引はありがたいものです。前近代において、この種の工夫は十分とは言えないものでした。

索引をつけたことに関して、倉田氏が本稿の冒頭近くに書かれたことは、まるでその後の将来を見通すようで深みがあります。

目録書を読むといふことは学術の背景を要し、難しいことのやうに思はれる。殊に近頃のやうに引得索引類が完全になればなるほど、読む機会は愈少くなり、各の目録が持つ特徴も忘れられ勝になる。私共の「分類目録」にも通検があるので便利だといはれる。かくては後世より私共を毀つて、学術の衰ここに始まるといふかも知れない。(p.39)

索引がつけば、目録の内容が注意深く読まれなくなる。倉田氏のこの危惧は当たっていると思います。目当ての記述を探し出すことだけが目的であれば、索引を使って素早く検出し、それで目的は果たせるわけです。日頃からじっくりと目録を読み、どのような構成、どのような特徴をもった目録なのか、などと習熟しておく必要は薄いと言えましょう。

さらにはその後、インターネットの時代が到来して以降、「検索」が飛躍的に便利なものとなった結果、目録のみならず、書物一般についても、注意深く読まれることがまれになってしまいました。「検索」すればすぐに欲しい知識が見つかるのですから。

この目録に索引がつけられたことは何ら倉田氏の罪ではなく、それを批判しようとも思いません。時代に合わせた工夫です。しかし21世紀になって過去を回顧し未来を展望してみると、「学術の衰」という言葉がかなり重くのしかかるような印象を持ちました。「便利」な道具に毒され、我々がしっかり読む時間をどれだけ失ってしまったことか。

わたくしとしては、このように「検索」一辺倒の時代であるからこそ、知の世界に分け入るための地図である目録が、あらためて重要なものとなっていると感じています。

なお倉田氏はこの1943年、「東方文化研究所漢籍分類目録解説」(『東方学報 京都』第14冊、1943年)という一文も執筆されています。『東方文化研究所漢籍分類目録』の分類に関する詳細が述べられており、目録を「読む」手引としてよいもののようです。

中国古典に親しむ

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